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●被爆体験の継承 65

嵯峨の地に眠る父と母と妹と

米澤 暉子(てるこ)さん

2018年4月9日(月)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

米澤 暉子(てるこ)さん

■広島市舟入川口町

 私は昭和12年(1937年)6月、広島市舟入川口町に生まれました。原子爆弾が落とされた時は8歳、舟入国民学校(今の舟入小学校)の2年生でした。2年生になってすぐの頃、母の実家のある山口県の柳井に疎開したこともありました。だけどあの頃は学校に行っても勉強なんかほとんどなくて、お医者さんに行くのも1時間ほどかかるような田舎で、とても便利が悪いということですぐにまた広島の舟入川口町に帰ってきました。

 私の家族は、父、母、兄、私、そして4歳下の妹の5人家族でした。私の父は父の一番上のお兄さん(私の伯父さん)と一緒にお菓子の製造、販売をしていました。羊羹や生菓子などを舟入川口町で製造して、西九軒町にあった「米澤」というお店で販売していました。西九軒町という町名は今はなく、十日市町の一部になっています。

 戦争が激しくなってくると軍隊用のかりんとうやビスケットなども作っていました。兵隊さんが材料となる砂糖やメリケン粉などを運び込んできていました。ですから材料に不自由はなかったようです。砂糖やメリケン粉は畳の下や縁の下にも隠されていて、お百姓さんがよくお米などを持ってきて交換などしていたのも憶えています。終戦の年もギリギリまで商売をしていましたが、その内に鉄製のものはみんな没収されて、お菓子を作る道具も供出されてしまいました。そのため原爆が落とされた頃には、父は江波に新しくできた三菱造船所に動員されていました。

 私の兄は私より2つ年上の国民学校4年生でした。もうすぐ学童疎開に行くことになっていて、その準備をしている頃でした。

■8月6日の朝

 8月6日の朝は学校の運動場で朝礼が行われていました。この頃は学童疎開に行ってしまった子が多くて、学校に残っている児童も少なくなっていました。校長先生が「暑いから校舎の陰に入りなさい」と言って、みんな並んで陰の方に寄ろうとした時でした。私は空を眺めていて、「B29が飛んでいるなあ」とはっきり見ていました。その時突然パアッと光りました。びっくりして校舎の方に逃げようとしたのですが、校舎の方から私たちの方に倒れ掛かってきたのです。

 私より2〜3人前にいた人たちはみんな校舎の下敷きになってしまいました。私は間一髪で下敷きを免れました。そして校舎の反対方向に逃げようとしました。モンペを履いていたのですが、その時倒れた誰かにパッと掴まれて、それでももう逃げるのに必死で、モンペがビーっと破れてしまいました。でもそのまま走り出しました。もう逃げるのに必死で、後の方を振り返る余裕も全然ありませんでした。

* * * * *

 私は学校の中庭の方を回って大通りに出ました。そうするとバスはひっくり返っている、電車もひっくり返っていて、大勢の人がみんなパニックになっていました。私も何が何だか分からないまま、とにかく家の方に向かいました。

 途中で私の家の隣に住んでいる伯母さん(私の父のお姉さん)と伯母さんの娘(私の従姉妹)に出会いました。伯母さんは一緒に逃げよう、逃げようと言って私を畑の方にどんどん引っ張っていきました。逃げている途中は気付きませんでしたが、落ち着いてみると、どこかで怪我をしたみたいで、とても痛いなあと感じ、手がネバネバしていました。頭のあたりから血がバァーと出ていました。

舟入小学校の被爆ヤナギの記念碑
舟入小学校の被爆ヤナギの記念碑
 昭和20年8月6日の朝8時15分、舟入国民学校の生徒たちは
校庭のヤナギの木の周りに集まって朝礼をしていました。
 ヤナギは今はなくなっていますが、記念碑が建立されています。
■家族の安否と行方不明になった妹

 とにかく家とは反対方向の畑が広がっている方へ逃げて、しばらくはそのままじーっとしていました。畑の中に避難していると、たくさんの人が逃げてきました。みんな体がズルズルで、皮膚がだらーんと垂れていて、子どもを抱いたり、おんぶしたりはできないような格好になっていました。座ることもできないような。そんな人たちがぞろぞろ歩いて、火から逃れるように畑の方に来ました。

 畑に避難している時、サァーと雨が降ってきました。ずぶ濡れになるほどではなくすぐに止みましたけど。子どもなりに「夕立やーっ」と思いました。それが黒い雨だったかどうかは憶えていません。

 夕方になって、家の方の様子を見に行くと、なんとか家の方にたどりつける道筋のあることが分かって、やっと家まで帰り着くことができました。帰ってみると私の家は全壊で、まったく潰れてしまっていました。隣の伯母さんの家も半分以上が潰れてひどいものでしたが、辛うじて家らしいものはまだ残っていました。

 一緒に舟入国民学校に登校していた兄は私を助けようと探したらしいのですが、もう校舎が潰れてしまってどうしようもなくなり、仕方なく一人で家に向かい、無事家のあった所で会うことができました。

 私の父は江波の三菱造船所に動員されていて原爆に遭いました。父が座っていた真後ろに大きな柱が落ちてきたそうです。急いで家まで逃げかえってみるともう家は潰れてしまっていました。

 母はこの日、朝から勤労奉仕に出ていました。4歳の妹を連れて行ったのですが、子どもは作業する場所の近くに預ける所があったようで、そこに預けていました。さあ、これから作業を始めようとした時に原爆が落ちました。母はすぐに子どもを預けている場所に行こうとしましたが、もうすでに火の海になっていて、とても助けることなどできませんでした。母は火に追われるようにして満潮の川に入り、水につかっていました。首から上だけを水の上に出していたのですが、顔は熱と炎でずる剥けになり、歯も舌も真っ黒になっていました。母はその日の夜になって、ヨロヨロと杖をついて、辛うじて私たち家族の所まで帰ってきました。

 母が帰りついてから、父は兄を連れて私の妹を探しに出かけて行きました。でも火の海となっていてその日はどうしようもありませんでした。

* * * * *

 広島の街はものすごい火災に襲われましたが、私の家から少し離れたところに公園があって、火はそこで食い止められていました。近所の人たちはみんなバケツに水をくんで、火が燃え移らないよう、その日は夜通し火の勢いを見張っていました。あの公園がなかったら私たちの家の方まで完全に燃え移っていたのではないかと思います。 その日の夜は広島の空は火で真っ赤になっていて、とても怖くて眠ることができませんでした。

* * * * *

 翌日の朝、まだ暗いうちから父と兄はもう一度妹を探しに出かけていきました。まだ暗いのでそこら中でけつまずきました。けつまずいたのはみんな死体で、その死体はみんな炭のようになっていました。妹が預けられていたはずの場所まではたどり着きましたが、結局妹と分かるものは何もありませんでした。母は一体どこら辺りで勤労奉仕していたのか、私も子どもでしたのでよくは分かりませんでした。妹もどうなったのかまったく分からずじまいでした。遺体も不明、遺骨もどうなったのかさえ分からないままになってしまいました。

■救護所で荼毘に付される母

 原爆が落とされたすぐ後、舟入の市内電車の通りにはレールに沿ってたくさんの怪我人が並べて寝かされていました。その人たちに兵隊さんが薬を塗って回っていました。薬と言ってもバケツのようなものを持って、刷毛でペンキのような白い薬を塗って回るだけです。私の母もそこに並んで薬を塗ってもらいました。母のそばに亡くなった赤ちゃんが並べられていて、母が「お花をもってきてあげて」と言うので野の花を摘んでもっていってあげました。でももう赤ちゃんはどこかに運び去られていました。

 電車道で並べられているだけではいつまで経っても治らないからと言って、母はまた家に連れて帰られました。家と言っても全部潰れていますから野宿です。母は顔の火傷がとてもひどくて、放っておくとウジ虫が湧きます。ハエが来ないように私が一生懸命団扇であおいでいたことを憶えています。母は何を食べても味が分からないといって水ばっかり飲んでいました。

* * * * *

 原爆が落とされてから12日目(8月18日)頃だったと思いますが、近所の人から何とかいう小学校が救護所になっていて、そこなら治療してもらえると教えてもらい、ある日の夕方母はそこに連れて行かれました。私たちもその時は一緒について行きました。救護所となっているその小学校は怪我をした人や火傷した人がいっぱいに並べられていました。

 その翌日の朝早く父が母の様子を見に行ったら、母はもう亡くなっていました。私たちが呼ばれて急いで駆け付けた時には母はもう焼かれているところでした。それもまったく知らない人と二人一緒に、材木などをいっぱい積まれて、そんなものと一緒に焼かれていたのです。私たちは母の死に目にも会うことができませんでした。次の日、私たちは母の遺骨を拾いに行きました。

* * * * *

 あの頃は、私たちが外で遊んでいると、大人の人が「あっ、またあそこで焼いているなあ」というぐらいアチコチで亡くなった人が燃やされていました。

* * * * *

 私たちの家族は、妹を失い、母も亡くなって、父と兄と私の3人だけが残されてしまいました。潰れてしまった家の後には家が建てられなくて、その裏がかなり広い空き地になっていましたので、そこにバラックを建てました。私たちはその後しばらくの間そこに住んでいました。昭和20年の11月頃まではそこに居たと思います。

■京都に移り住む

 私の父は5人か6人兄弟姉妹でした。その頃、父のすぐ下の弟さん(私の叔父さん)が京都に住んでいました。その叔父さんから京都に来ないかと誘われて、私たち家族は京都に移ることになりました。それが原爆の落ちた年、昭和20年の11月か12月頃のことでした。私は小学校2年生で京都に引っ越したのです。

 京都に来た頃は言葉が違うのでものすごくいじめられたのを憶えています。最初はみんなと一緒に遊んでいても、途中から「やんぺ、やんぺ」と言ってみんないなくなってしまうのです。そんなことがよくありました。

 京都に来て数年後にもう一度広島に帰ろうかという話もありましたけど、結局それも難しいということになり、以来今日まで京都で暮らし続けることになりました。

* * * * *

 私の父の一番上のお菓子屋さんを一緒にやっていたお兄さん(私の伯父さん)はお店のあった西九軒町で被爆しました。広島市から西方向の廿日市まで逃げましたが、その後で激しい脱毛などを経験して、やがて亡くなりました。その伯父さんの奥さんも原爆で亡くなっています。京都にはもう一人父の一番下の弟さん(私の叔父さん)もいました。この人はたまたま所用で広島まで来て、その翌日に原爆に遭いました。広島のどこに居たかまでは分かっているのですが、まったく行方不明となり、遺骨も分からないままになってしまいました。

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 私の父はろうあでした。まったく耳が聞こえない、言葉も話せませんでした。そのため毎日の生活も苦しいものでした。私が通訳みたいになっていました。でも私の手話はきちんと勉強したものではなく、見覚えでしたから意思があまり通じないこともよくありました。昔、京都府庁前の第二日赤に手話を教える学校があって、父はそこに行って勉強もしていました。

 今は手話も世界共通になっていて、世界的に通じる手話になっていますね。

■父と母と妹と、三人一緒に嵯峨に眠る

 私も父も兄も原爆による急性症状のようなものは経験していません。下痢とか発熱とか、脱毛とかはありませんでした。父は京都に来てから、病気になって一カ月ほど起き上がれない時がありました。お医者さんに「広島で被爆している」と言っても、話が全然通じなかったようです。原爆症なんてまだ誰も知らない頃でした。

 被爆者健康手帳の制度ができて、手続きは全部父がしてくれました。私が結婚する前ですから、かなり早い時期に手帳の交付を受けたのだと思います。でも私はずーっと手帳は使わずにいました。手帳を使うのがどうしても嫌で、なんか軽蔑されているような気がしてしようがなかったのです。今は遠慮なく使っていますけど。私は昭和60年(1985年)、48歳の時に心臓弁膜症の手術をしました。今は高血圧と診断されて通院と治療を続けています。

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 私の父は昭和47年(1972年)に亡くなりました。最後は脳血栓でした。私が35歳の時です。その時に兄と相談して、京都にお墓を建てて、父と母と妹とを一緒に埋葬してあげようということになりました。母の遺骨は京都に越して来た時に大谷さんに預けてあったのですが、遺骨は返してもらえないことが分かりました。それでどうしようかということになり、ある人から、その人の生まれた土地の砂を埋葬すればいいと教えられました。そこで、父の遺骨と、母の生まれた柳井の砂と、妹は、広島の平和公園の中にある原爆供養塔の砂をいただいて、一緒に埋葬しました。お墓は嵯峨にあります。三人が一緒に仲良く静かに眠っています。
                       (了)




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