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●被爆体験の継承 66

原爆で母を失い、戦争で父を奪われた孤児たち

小島義治さん

2018年4月26日(木)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

小島義治さん

■草津の街と私の生い立ち

 私は昭和11年(1936年)2月23日の生まれで、今年82歳になりました。原爆が落とされた時は9歳、広島市西部の郊外になる草津本町に住んでいて、草津小学校(当時は広島市立草津国民学校)の4年生でした。

 草津の街は海に近い所で、家から10分か15分ほど歩くと漁港や魚市場がありました。今は埋め立てが進んで、その辺り一帯はマンションや住宅が立ち並ぶ街になっていますけど。

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 私の家は元々祖父の代から草津にありました。これは私の父から聞かされた話ですが、私の祖父は草津で米屋をやっていました。ところが米相場に手を出して失敗し、根こそぎ持っていかれることになりました。畳まで持っていかれて土間に寝起きしていたそうです。それほど貧窮のどん底に落ちたわけです。父たち兄弟は毎朝学校に行く前に山の中に入って薪を採ってきて、それを売って家計の助けにしたりしていたそうです。

 上の学校にも行けなくて、それでも比較的いい給料がもらえるのは船乗りだ、ということで父は船員になりました。船員といっても中学校などは出ていないので高級船員などではなく下働きの船員です。仕事は相当きついものだったようです。

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 私は、父が大阪で母と結婚したため大阪の借家で生まれています。その頃父はかってあった関西汽船のような船会社の乗組員になっていて、大阪と別府の間を結ぶ瀬戸内海航路の船に乗っていました。ところが、父の兄が早くに亡くなったために父が家督を継がなければならなくなり、昭和14年(1939年)私が3歳の時、私たち一家は父の実家の広島の草津に居を移すことになりました。父は草津にいても船会社の乗組員を続けていました。草津には私の祖父一人が居ましたので、私たちが草津に帰ってからは私の両親と姉と私との5人で過ごすことになりました。姉は17歳で大阪の女学校を卒業した頃でした。

 やがて太平洋戦争が始まり、戦争が激しくなっていき、瀬戸内海の船も機雷で沈められたり、軍の徴用船になって米軍に撃沈されたりして、乗る船も少なくなっていく時代を迎えます。父も何度か機雷で沈められて海を漂ったことがあったと言っていました。その内に船会社の船もいよいよなくなり、当時尼崎にあった船会社の本社も最後はどうなったか分からない状態になっていきました。そのため父は船を降りることになり、退職して草津に帰ることになりました。

 姉は20歳過ぎに結婚しています。2年間ほど新婚生活を過ごした後、夫となった人は召集されて戦地に赴きました。一人になった姉は夫が帰って来るまでの間私たちと一緒に暮らすことになり、生活のためもあって広島市内中心部にあった帝国銀行に勤めるようになっていました。

■原爆が投下された時

 原爆が落とされた朝、私たちは学校代わりになっていた近くのお寺に集まっていました。その頃は空襲があった際に学校が狙われたら子どもたちが危ないということで、お寺とかお宮とかを学校代わりにして分散させていたのです。原爆が落とされるまで広島にはまったく空襲はなかったのですが、全国各地の都市の多くがやられていましたから広島もその内にやられるだろうと予測されていました。学校は危ないので児童の多くは疎開させたり、残った子どもたちのためにお寺やお宮を学校代わりにしていました。8月は夏休みだったのですけど、6日のこの日は登校日になっていたと思います。

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 原爆が落とされた時は、ピカッと光って、ドーンと大きな音がして、そして物凄い爆風に襲われました。何が起こったか分からず、とにかく大変なことが起こったようだということで大騒ぎになりました。そして、そのまま家に帰らされました。

 広島市の西方向に己斐(こい・現在の西広島)という駅があり、そこから宮島行きの電車で草津に向かいます。己斐から最初の駅の高須というところあたりは当時としては比較的瀟洒な家の建ち並ぶ高級住宅地でした。でも駅と駅の間はまだ田圃や畑ばかりが広がっているような所でした。草津まで来ると人家の集まった街並みになっていました。

 草津は広島の爆心地から5キロメートルは離れていますから原爆で焼けてしまうようなことはありませんでした。家が傾いてしまうとか、その程度だったと思います。己斐あたりまでは焼けましたけど、草津は焼けませんでした。それでも爆風は凄まじいもので、例えば家の中にあったミシンが次の部屋まで吹き飛ばされたりしました。

現在の広島電鉄西広島駅(旧己斐駅)
現在の広島電鉄西広島駅(旧己斐駅)

 私の家は幸いにも倒壊したりすることもなく無事でした。私の父も母もその日は家にいましたが大きな怪我を負ったりすることもありませんでした。

 姉は毎日電車で草津から己斐まで出て、そこから路面電車に乗り換えて市内の帝国銀行に通っていました。原爆投下の朝、己斐の駅にいて市内方面行の路面電車を待っていて被爆しました。吹き飛ばされてどこかに強烈にぶつけられたようで全身血まみれになって、這うようにして我が家まで帰ってきました。

 姉が帰り着いた頃から草津にはたくさんの人が、焼け爛れて、皮膚を垂れ下げて、血まみれになって、着ているものも焼け焦げた状態で、ぞろぞろと歩いて来るようになりました。宮島線の沿線から市内に通勤していた人達が辛うじて逃げ帰ってきたのだろうと思いますし、市内からとにかく逃げて来た人達も多かったのだろうと思います。

■臨時救護収容所

 大怪我をして帰ってきた姉を家族ではどうすることもできませんでした。当時草津の街には病院が一つだけありましたが怪我をして避難してきた人たちですぐにいっぱいになっていました。他には町医が一つか二つあるだけで手の施しようもありません。やがてその日のうちだったか翌日になってからだったか、草津の国民学校の講堂と東側の校舎の一部が臨時の広島日赤病院とされて、救護収容所になっていました。

 半死半生の人たちがたくさん収容されてきました。救護収容所といっても何の手当てもできなかったと思います。薬も全然ありませんから。ヨードチンキのようなものを塗って包帯をあてるぐらいのことしかできません。包帯も満足にあったかどうか。私たち一般の人間にはまだ放射能とかなんとか何も分からない時でしたからね。軍部は知っていたのかもしれませんが。

 草津の国民学校の救護収容所でよく憶えているのは、学校の校庭に穴を掘って、次々と亡くなっていく人をそこに放り込んで、木端などと一緒に燃やしていたことです。火葬場なんて当時ありませんでしたから。あれは生涯記憶から消えることのない悲惨な光景でしたね。

現在の広島市立草津小学校
現在の広島市立草津小学校

 その内に、広島市内にいたたくさんの親戚の人たちが、死んだ人もいますけど、焼け出された人たちが私の家にぞくぞくと避難して来るようになりました。7〜8人はいましたね。みんな大変な時ですから我が家も受け入れざるを得なかったのです。その頃草津では父が3〜4軒家作(貸家)を持つようになっていたので、その空いていた所にみんなを住まわすようにしたわけです。みんな家財道具一切合財を失って、着の身着のままで辿り着いたような人達でしたから苦労したと思いますよ。

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 戦争が終わって、学校が再開されたのはおそらく9月に入ってからだったと思います。それでもまだ校舎の一部や講堂は救護収容所になったままで負傷した人たちが収容されていました。ですから、私たちは校庭に出て青空教室で授業をやることもありました。あの頃は教科書はほとんど上級生からの譲り受けで新しいものが作られるようなことはありませんでした。

 戦争が終わって、特に歴史の見方や修身などはさし障りのある箇所は先生の指図で自ら黒塗りをした教科書で勉強することになりました。まだ新しい教科書が作られるような状況ではありませんでしたから。先生が本を読んで聞かせる、そんなことも多かったと思います。先生に読んでもらった本の中で、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』、『黄粱夢』などは今でも不思議なほどはっきりと憶えていますね。

 原爆が落とされて一ヶ月ぐらいしてから、何かの用事で広島市内に行ったことを憶えています。己斐のあたりから市内を見ると一面が瓦礫の山と化していて、広島の街の端から端まで全部が見渡せるようになっていました。さすがに死体はもう片付けられていましたけど。

■原爆孤児たち

 京都の街もそうでしたが、広島でも空襲による延焼を防ぐため防火帯を作るということで、強制立ち退き、建物疎開が進められていました。その作業のために8月6日はたくさんの人が動員されていました。男の人は戦地に引っ張られていていないので作業に動員されたのはお母さん、女の人が多かったのですね。草津からもたくさんのお母さんたちが動員されて行っていたようです。

 そういう人たちが原爆に遭って、直接被爆してたくさん亡くなりました。そのためたくさんの子どもが孤児になってしまいました。集団疎開していた子が帰ってみると親が亡くなっていたとか、家はあるけど親がいないとか。草津でもそういう子が多かったのです。私の同級生でもそんな子がたくさんいました。母親が原爆で死んだとか、父親は戦地から帰ってこなかったとか。

 戦争が終わって3ヶ月ぐらいしてから、やや落ち着いた頃になって、草津には母子寮とか、孤児の収容所などができました。私の学級にも戦災孤児となった子が10人ぐらいはいました。施設は学校の近くに作られていて、孤児になった子はそこから学校に通って来ていたのです。

 戦災孤児たちのことで印象に残っているのは、何もかも失って教科書もノートも何もなかったことですね。それで消しゴムや使い古して短くなった鉛筆などを分けてあげていました。

 私が中学の1年生になっていたある日、広島市の皆実町で、雨のひどく降る街中で、自転車の荷台に乗せられた孤児だった子にバッタリ顔を合わせたことがあります。自転車をこいでいたのはお父さんらしい人でした。お互いに思わずにっこりほほ笑んで、何も言わずにただ手を振って去っていきましたけど、「ああ、お父さんが戦地から帰って来て見つけ出されたんだなあ、良かったなあ」と感動したことを憶えています。戦災孤児も後に父親が戦地から帰ってきてうまく巡り合えた人もいた、その一例だと思いますね。

 私の父親は明治29年生まれであの頃50歳前後、年がいっていたので兵隊にはとられませんでした。命拾いしたわけです。

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 姉の夫からは出征してしばらくは検閲済み軍事郵便が来ていましたが、その内に一切音沙汰がなくなりました。軍隊というところはすべて秘密ですから、どこでどうしているのか、生きているのか死んでいるのかさえまったく分かりませんでした。戦争が終わってから戦死公報が届きました。何も残されず、何も届けられず、ニューギニアで亡くなっていたことだけの知らせが届けられたのです。

■戦後の営み

 私の父親は働き者で、戦後すぐに物の売り買いを始めました。当時の言葉で言うと闇商売ということになります。統制経済の下、配給以外はすべて闇ですから。例えば瀬戸内海の島のミカンを船一艘ほども仕入れて、家の半分をミカン倉庫にして、幹線道路の路傍まで運んで積み上げて、一貫目いくらだ、というように露店で商売をしていました。物資の何もない時ですからミカンも飛ぶように売れていました。戦後はものすごいハイパーインフレですから、お金を持っていてもどんどんただの紙切れになってしまうというので、どんどん物に換えて、売って、またそれで仕入れて、と回転させていました。

 そんな父親のお陰で私も学校に行くことができました。

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 原爆が落ちてから数年は私の家の貸家にいた親戚の人たちもだんだんと自立して出ていき、私が中学に入る頃にはまた元の家族だけになっていました。

 姉はその後、同じ帝国銀行に勤めていた人と再婚しました。姉の再婚相手―私の義兄になる人ですが、この人は広島市内の天満町にいた人で、妻子を原爆で失っていました。本人は兵隊で中国戦線に行っていて命拾いをして帰って来たのですが、帰ってみると妻も子どももみんな亡くなっていた、そういう境遇の人です。自分の家のあった跡のバラックに疎開先から帰ってきた父母や兄弟たちと一緒に住んでいました。姉の再婚相手は婿養子の形となって私たちと一緒に暮らすことになりました。

 それからは、父と姉と、私たち家族の一員になった義兄も銀行を辞めて3人で一緒に商売をするようになっていきました。やがて姉夫婦にも子どもができ、家族が増えていきました。

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 大変な被爆の体験をした姉は後年子宮がんになっています。最後は脳梗塞で83歳の生涯を閉じました。アルツハイマーになった義兄も今は亡くなっています。もちろん父母はもっと前に亡くなっています。私の育った草津の家はもうありませんが、お墓は今も草津にあって、姉の子(私の甥)が守ってくれています。

■草津を離れて、また草津の人と

 私は草津小学校を卒業した後、中学、高校は市内の私立学校に通いました。高校を卒業して、18歳で神戸大学に進学し、広島を離れることになりました。神戸大学ではボート部で活動したり、趣味で宝塚出身の先生に声楽を習ったりもしていました。

 神戸大学卒業後は趣味でやっていた声楽の経験を生かしてレコードで有名だった日本コロムビアという会社に就職し13年間勤めました。日本コロムビアで私のやっていたのはレコードや音響製品などの営業第一線で、西日本を中心に各地を転勤して回りました。九州は福岡、長崎、鹿児島と回り、そして広島、結婚してからは四国の高松にも赴任しました。

 その後で横浜、それから本社の貿易、経理、人事などを経験しました。日本コロムビアは30歳代半ばで退職しましたが、それを機会にかねてから念願にしていた京都に住むことにしました。京都に住むことになってから、呉服問屋、出版社と勤めてきました。今思えば私が勤めていた会社はもうみんな無くなっていますね。

 結婚したのは昭和37年(1962年)、私が26歳の時です。私が日本コロムビアの広島支店に勤めている時で、父親同士が小学校の同級生ということで同じ草津の人とのお見合い結婚でした。妻は4歳年下ですが、同じ草津で、小学校に上がる前の年齢で、私と同じような体験をした被爆者でした。私が日本コロムビアに勤めている頃、被爆者健康手帳の交付を受けました。私が30歳になった頃で、比較的早い時期だったと思います。親がすべて手続きをしてくれました。

■夫婦そろって病気に向き合いながら

 私は40歳頃から心臓の調子がおかしくなり、以来ずっと心臓病の治療を続けています。不整脈と心房細動という診断を受け、定期的な通院診察と投薬治療を余儀なくされています。

 妻の方もかなり以前から甲状腺機能低下症と診断され、こちらも投薬治療を続けています。妻は、これは原爆とは関係ありませんが、ヒストプラズマ症という、ミシシッピィやアマゾンの湿地帯に多い真菌に感染して大変な苦労をしてきました。

 6年前のことですが体が重い、だるい、頭が重いという症状が出て、医者に診てもらっても原因が分かりませんでした。京大病院でもすぐには分からず、がんではないかということで肥大している副腎を切除して、病理室で調べた結果初めて副腎にヒストプラズマ菌が巣食っていることが判明しました。日本ではほとんど症例のない病気でした。

 ヒストプラズマ菌のある副腎を切除するために5時間もかかる手術をして、菌を殺す投薬を1年間続けました。一旦はよくなりましたが、しかしもう一方の副腎にも同じ症状が発症したためそちらも切除しました。今も月2回の通院で血液検査を行い、その結果に基づいたホルモン補充を続けています。日本にはほとんど症例がありませんので、尿と血液をアメリカのメイヨー医科大学に送って調べることになりました。その結果副腎以外への広がりのないことが判明しました。

 そうしたことも含めて治療に関わる費用は大変なものになるところでした。私の心房細動もそうですが、妻の甲状腺機能低下症も、そしてヒストプラズマ菌感染も、被爆者健康手帳がなかったらどうなっていたことか。手帳のお陰で大変助けられてきた思いがあります。

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 今私は自分の健康を管理しながら、掃除、洗濯、ゴミ出し、夕食の後片付けなどを毎日続けています。私たちの子どもは一男一女でした。そして息子に女の子が一人、娘に男の子が二人、あわせて三人の孫がいます。今は夫婦揃って病気に向き合いながらも、孫たちの成長をとても楽しみにして日々を過ごしています。

■韓国の同級生

 草津の国民学校で一緒に勉強していた卞(べん)蓮玉さん(当時の日本名杉本蓮子さん)という朝鮮人の同級生がいました。家も私の近所でした。彼女の家はお父さんと4人の子どもたちの5人家族でお母さんはいませんでした。お父さんも体の不自由な人で整体師をして暮らしていました。家の近くの橋の欄干で卞さんのお父さんが白い朝鮮服姿でよく煙管でタバコを吸っていた光景を憶えています。卞さん一家は狭い狭い4畳半ぐらいの一間に5人が一緒に住んでいました。

 その卞さん一家は戦争が終わった翌年の1946年、韓国に帰って行きました。いくつもの家族がお金を出し合って草津の港で小さな漁船をチャーターして、玄界灘と対馬海峡の荒波を乗り越えて、機雷の浮遊する危険極まりない海を越えて帰国していったのだと後年になって聞かされました。

 ずーっと後年になってからのことですが、その彼女が50歳を超えてから、韓国に居ながらにして被爆者健康手帳を取得することができました。そのために日本のある国会議員の人が随分と尽力され、私たち同級生たちも被爆の証人になりました。その結果韓国の人で被爆者手帳を取得する第一号になったと聞きました。

 今から7〜8年前、小学校の同窓会に彼女を招待し、私はその時初めて彼女と再会を果たすことができました。その後彼女を訪ねてソウルに行き、ソウル市内を歩きながら昔話にふけりました。今も毎年年賀状の交換を続けています。

 こういう時代に生きて来たわけですから、戦争は絶対にしちゃいかん、その思いは強いですね。自分で言うのもなんですが、私は徹底した平和主義者です。私はあらゆる戦争に反対します。
                       (了)




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