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●被爆体験の継承 67

自然食・自然療法との出遭いに救われて

安井富子さん

2018年6月1日(金)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

安井富子さん

■広島市己斐町

 私は昭和15年11月18日、広島市の西部、己斐(こい)町で生まれ育ちました。母は私が2歳の時に亡くなっており、私は母の顔を憶えることができないまま大きくなりました。私には15歳年上の兄と、10歳年上の兄と、7歳年上の姉がいて、私が一番下の4人兄弟でした。父はその頃保険の外交のような仕事をしていました。父の仕事は時間の融通が比較的つけ易くて子どもたちを育てるには都合が良かったようです。それでも男手一つで4人の子を育てるのは大変なことだったろうと思います。とても真面目で、温かい父でした。

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 原子爆弾が落とされた時、私は4歳。たまたまその日は父も自宅にいて一緒に閃光を浴びたらしいのですが、幼かった私にはその時の記憶はほとんど残っていないのです。わずかなことだけ断片的に憶えているだけです。私の家は爆心地から2.5`ほどの距離でした。大きな通りには面していなくて少し山手の方に、ちょっと石段を上がったようなところにありました。原爆が落ちた時私はその石段の上に座っていたと聞いています。

 この頃一番上の兄は山口県の経済専門学校(現在の山口大学)に行っていて広島にはいませんでした。二番目の兄は観音あたりにあった中学校に登校していたと思います。姉も自宅から歩いて10分ほどの己斐国民学校に行っていたはずです。

 原爆で家の雨戸が全部吹っ飛んでしまったことは憶えています。それからは雨戸が無くなって障子だけの生活になってしまいました。貧しくてお金もないので修理もできなかったのですね。それから1階も2階も部屋の中がぐちゃぐちゃになっていました。玄関なども長い間ぐちゃぐちゃのままでした。食事や寝る所だけ何とか片付けて毎日を過ごしていたように思います。母親がいなくて、父親も忙しかったのでなかなか手がつけられなかったのだと思います。私が10歳の頃その家を引っ越しました。

現在の己斐小学校
現在の己斐小学校
■語ってこなかった原爆のこと

 原爆投下直後父は兄や姉を探しに出歩きました。その時父は広島の街と人々との惨状を目の当たりにしています。道路に火傷した人がいっぱい倒れていたこと、皮膚の焼けただれた人がいっぱいいたこと、「水ちょうだーい」「水ちょうだーい」とせがまれたこと等々です。兄や姉を探しに行った後の数日間、父は真っ黒い下痢便が続いたと聞いています。父は、そうした体験を少しは私にも話してくれましたが、それ以外のことはほとんど何もしゃべりませんでした。私の兄も姉もほとんど原爆のことを話すことはありませんでした。後年になって、私も広島出身の人間ですから「原爆と関係あるの?」と尋ねられることがあります。そうした時少しは話しましたけど、私の方からしゃべることはほとんどありませんでした。原爆のことは思い出したくない、思い出したくなかった、そんな思いが家族みんなの中に強くあったのだと思います。

■兄の援助で音楽短大で学ぶ

 その後私は己斐小学校を卒業し、市外電車の宮島線沿線にあった鈴峰中学・高校を卒業し、そして戦後創立された広島市内のエリザベト音楽大学(当時は3年制の短大)に進学しました。私の家は貧しかったのですが、長兄の強い勧めと学資の援助で進学することができました。実は長兄も、満州で仕事をしていた伯母夫婦から学資を出してもらって山口の経済専門学校を卒業していたのです。貧しくても、しっかりとした教育を受けて、就職もしていけば、家は少しずつでも豊かになっていく。兄はそのことを身をもって体験し、確信していた人でした。家は貧しくても機会があれば人はやっぱり勉強しておいた方がいいということで、私に「学資を出してあげるから、進学できるなら行きなさい」と言って背中を押してくれたのです。兄は家族兄弟みんなのことを本当によく面倒見てくれていました。

 音楽短大を卒業してから私は幼稚園での音楽教室で子どもたちに教えたり、自宅でピアノを教えたりしていました。27歳の時、昭和43年(1968年)5月に縁があって結婚し、その時から京都で暮らすことになりました。今年が丁度結婚して50年、金婚式を迎える年になりました。

■被爆者健康手帳のこと

 結婚して京都に来る前に、広島で被爆者健康手帳は取得していたと思います。私と姉は同時に取得していました。兄はそれから随分後になってとっていたようです。

 最初の頃私は、手帳は持っていても、お医者さんかにかかることがあっても、手帳を使うことはありませんでしたね。こんなもの持っていても何になるのかな、などと思っていました。京都に来た頃は、お医者さんの方でも被爆者手帳のことを知らない人も多くて、「これは何や?」と尋ねられたりしていました。それからあの頃は手帳が使える病院や診療所も限られていたのではないかと思います。その後になって少しずつ手帳の使える範囲が広がってきたと思います。今では歯医者さんも含めてどこでも使うことができますけど。今は手帳のお陰でとても有り難く思っています。

 一昨年、宮島で小学校の時の同窓会がありました。その時「みんな被爆者健康手帳持っている?」と尋ねたら、全員が持っていて、考えたら当たり前なのですけど、でもなんだか異様な感じがしてしまいました。

■東城百合子先生の自然療法に救われる

 私は被爆した影響だと思うのですが、子どもの頃からいつも病弱で、顔色が悪く、陰気な子でした。しょっちゅうお医者さんにかかったり、熱を出したりしていました。いつも元気のつく血管注射をしてもらい、その時は体がふぅーっと温かくなっていたのを憶えています。そして健康とはほど遠い、病気ばかりをしてきました。肝臓を悪くして、甲状腺も悪くなり、がんにもなって、一通りのことをみんな体験してきたような気がします。

 39歳の時肝臓が悪くなりました。とにかく体がだるくてだるくて、顔色が土色のようになって、黄疸も出て、毎日くたくたに疲れていました。主人に「どうしてこんなに疲れるのかねぇ」と言ったことをよく憶えています。お医者さんかにかかったら、肝臓がものすごく腫れていると言われて、肝臓肥大だと診断されました。その時、内科のお医者さんとは別に鍼灸の先生にも診てもらったのですが、鍼灸の先生からは「これはやはり原爆から来ている肝臓だ」と言われました。「普通の肝臓ではない、原爆の影響を受けた肝臓だ」と。

 内科のお医者さんの方では、それから投薬治療が始まりました。しかし、薬を飲んでも飲んでも、注射を打っても打っても、全然良くなりません。こんなことをしていたら一生涯薬を飲んで注射を続けないといけない、なんとか薬や注射を使わないで治す方法はないものかと、いろいろ探しまわったり、勉強したりすることになりました。

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 そして、東城百合子さんの自然療法というものに行き当たったのです。これは薬とかを使わずに、食べ物とかお手当とかでいろいろな病気を治していくものです。私は以前からずーっと体が悪かったので、食事は自然食、自然の野菜とか、自然のものを食べるように心がけていました。ある時新聞に「自然食の料理教室」という記事が載っていて、それを見て、その料理教室に行ってみたのです。そこに東城百合子先生の本が置いてありました。その本を購入して読んだのが東城百合子先生と出遭うきっかけでした。それ以来東城百合子先生の教えに共鳴し、吸い込まれるように勉強していきました。毎年健康学園というのが開催されているのですが、そこにも参加するようなりました。

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 自然療法とは、例えば、生姜湿布とか、こんにゃく湿布とか、里芋湿布とか、自然なものを使って色々なお手当をします。基本は血液の汚れをとり、血液の循環をよくするのですね。それから食べ物も玄米食とか自然食とかに変えます。それで少しずつ少しずつ良くなっていったのです。長い時間がかかりました。効果が現れて、顔色も普通の顔色になるのに10年以上はかかりました。今では肝臓も気にならないほどまでになっています。

「家庭でできる自然療法」の表紙 雑誌「あなたと健康」5月号の表紙

 東城先生との出遭いは私にとって本当に大きなできごとでした。私は東城先生に救われたと思っています。もし、東城先生に出遭わず、以前のように薬ばかり飲んでいたら今の私のこんな体はなかっただろうと思っています。先生は現在92歳。お元気で毎月『あなたと健康』を出しておられます。

 もう一人甲田光雄先生という方もおられて、その先生はどんな難病も薬を使わないで、食事療法だけで治されてきた方です。この先生からもたくさんのことを勉強させていただきました。鍼灸の方も私が39歳の時から先生が亡くなられるまで30年以上続けてきました。今も他の先生で鍼灸にもかかっています。

■使い捨て時代を考える会

 40歳代に肝臓を悪くして自然食、自然なものを食べるよう心がけている頃、私が住んでいる同じ地域に「使い捨て時代を考える会」に勤めて、配達などもされている方がありました。その人とのつながりで「使い捨て時代を考える会」に入り、もう30年近くもこの会の活動を続けています。「使い捨て時代を考える会」とは、有機野菜や米や環境にやさしい日用品を、共同購入であつかい、支え合って共同で暮らしの地域を作っていく会です。私が入会した当時は八幡市でも会員の方がとても多くて、活動も活発でした。食べ物の取り扱いだけでなく、いろいろなバザーが行われたり、試食会、試飲会も行われていました。最近は会員数も減ってきましたが、活動は今も地道に続けられています。よく物事を考えて生活したり、勉強し合える人も多くて、私にとって今も大切な会です。

 私は今、「使い捨て時代を考える会」の中で“食について考える”グループに参加していて、「野菜は友だち委員会」と「伝統食委員会」の二つの委員会で活動をしています。「野菜は友だち委員会」は「野菜をしっかり食べましょう」という活動で、あちこちに出向いたり、「会」の事務所で野菜の料理教室を開いたりしています。「伝統食委員会」では、味噌づくり、ぬか床教室、たくあんや野菜の漬け方、おせち料理、お赤飯など、様々な伝統食の継承と普及に努めています。

「使い捨て時代を考える会」のみなさん持ち寄りの自然のお弁当でお花見(五条あたりの河原で)

お弁当
「使い捨て時代を考える会」のみなさん持ち寄りの自然のお弁当でお花見(五条あたりの河原で)
「使い捨て時代を考える会」の月ヶ瀬の畑で援農作業
「使い捨て時代を考える会」の月ヶ瀬の畑で援農作業

 東城百合子先生の自然療法や、「使い捨て時代を考える会」などに出遭え、それを続けてくることができたお陰で、何とか今日まで元気に生きることができたのだと思っています。今は薬というものはまったく飲んでいません。私は子どもの頃よりは今の自分の方が比べものにならないぐらい元気なのではないかと思っています。

■子宮がんと原爆症認定

 甲状腺は50歳の時に健康診断で甲状腺肥大と診断されました。それから63歳の時に子宮がんが見つかり、平成16年(2004年)に京都医療センターで手術をしました。実はある年に京都府原爆被災者の会(京友会)の総会に参加していた時、「原爆症の認定をする基準が緩くなったから、もし認定申請してみようと思われる人がいたら申請してみて下さい」と説明されたのです。それを聞いて私は、手術をしていた子宮がんについて申請してみようと思ったのです。ダメで元々のつもりでした。和田クリニックの先生にとても丁寧にアドバイスしてもらい、助けてもらっていろいろな必要書類を揃えて申請しました。そうしたら認定されたのです。私は認定被爆者ということになりました。認定されたのは平成21年(2009年)4月22日付でしたが、あの時、京都で申請して認定されたのは私だけだったようです。

 認定された子宮がんも今はすっかり完治して12年間の経過観察も無事終了し、昨年認定被爆者の方も終えることができました。

 今は頭の痛みに悩んでいます。頭にぐーっと抑えつけられるような痛みがあって近くの脳外科で診てもらっているところです。1年前と、さらにもう2年前にも、これまで2回MRI検査をしてもらっているのですが、どこも異常ないと言われていて、今度3回目の検査を受けることになります。頭の痛みですから不安でしようがないのですが、先生からは頚椎から来る痛みではないかと言われていて、少しホッとしているところです。

 自然療法などでなんとか健康を回復し維持することはできてきましたが、それでも私の体は本当のところは元気な体ではない、健康体ではないのではないかなあ、と思い続けてきました。

■京都原水爆被災者懇談会と永原誠先生

 京都原水爆被災者懇談会は、ある年何かのきっかけで一度総会に出席してみようと思って参加しました。その時、世話人代表の永原誠先生のお人柄にすっかり惹かれてしまったのです。とても温かいものを持っておられて、人間味のある方で、私はすっかり尊敬することになりました。それ以来、懇談会の総会には毎年出席するようにしてきました。平成25年(2013年)に先生が亡くなられた時、最初は新聞記事で知りました。肝臓が悪いとは言っておられましたが、こんなに早く亡くなられるとは・・・・。とても悲しく思いました。9月に永原先生を偲ぶ会が催されましたが、私も出席させていただきました。先生が最後に遺された著書『消えた広島 ある一家の体験』は今も大切にさせていただいています。
                       (了)




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