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●被爆体験の継承 68

被爆した日、被爆者だと自覚した日、そして認められた日

奥田継義さん

2018年7月13日(金)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

2018年6月21日 国民平和大行進で被爆者を代表してあいさつする奥田さん(山科ラクト公園)
2018年6月21日 国民平和大行進で被爆者を代表して
あいさつする奥田さん
■長崎県長与村

 私は1945年(昭和20年)2月20日の生まれです。長崎に原爆が投下された時は生後まだ5ヵ月、当然何の記憶もありません。ですから私や私の家族が体験したことの話は、私が大きくなるにつれて家族や周りの人たちから聞かされてきたことばかりです。また、父や母や、姉や兄たちも原爆のことについては多くは語ってきませんでした。家族だけでなく、学校でも地域でも話す人はほとんどいなかったように思います。ですから、私が語り継ぐことのできる体験もかなり限られたものになってしまいます。

 私が生まれて育ったのは長崎県西彼杵(そのき)郡長与村(現在は長与町)の本川内郷(ほんがわちごう)という所です。爆心地からの距離は7.5`になります。家族は父(当時36歳)、母(30歳)、長姉(9歳)、長兄(7歳)、次兄(4歳)、次姉(2歳)、そして末っ子の私という7人家族でした。ちなみに戦後、私の下にさらに弟と妹が生まれています。弟と妹は被爆二世ということになります。家はささやかな規模の農家でしたが、父は長崎市内の三菱造船幸町工場に勤めに出ていました。

■父の被爆

 1945年(昭和20年)8月9日、父は三菱造船幸町工場で仕事をしていて被爆しました。父の記憶では、警戒警報が鳴って、「警戒警報やからまだ逃げんでもいいやろ」と思ってそのまま工場に止まっていたのが幸いし、一命を取り留めたとのことでした。あれが空襲警報やったら、急いで飛び出して、屋外にいてたぶん直爆を受けて、どうなっていたか分からん、というところでした。工場のすぐ近くの崖のところに防空壕があって、いざという時にはみんなそこまで走って逃げ込むことになっていました。

 父は、一命は取り留めましたが、全身にガラスの破片が突き刺さり、全身傷だらけとなっていました。大怪我を負ったままの体でしたが、なんとか国鉄の道の駅方向まで一人で歩いて行き、道の駅から少し浦上駅方向にまで来ていた救援列車に辿り着きました。そして辛うじてその列車に乗り込むことができたのです。原爆が投下されたその日の内から、道の駅付近までは国鉄の救援列車が動かされていたようです。救援列車の第一陣は諫早の陸軍病院に向かいました。そして諫早の陸軍病院はすぐ満杯になったので救援列車の第二陣からは大村の海軍病院に向かいました。父が乗ることができたのは救援列車の第二陣でした。列車に乗り込んだ父の姿を、偶然にも母の母(私の祖母)が目にしていて、そのお陰で私たち家族には父の行き先もすぐに分かっていました。

 母は大村海軍病院にまで父の見舞いに駆け付け、看病しました。父は大怪我をしていた上に、全身が脱毛し、全身が化膿する状態にもなっていました。医者からは母に向かって、父には見えないようにして、「この人はもうダメですよ」という仕草で合図が送られていました。

 そういう状態であったにも関わらず、しかし父は奇跡的に回復し、その年の秋には退院、我が家に帰ってくることができました。

 ずーっと後年になってからのことですが、父の耳からガラスの破片が出てきたことがあります。それから亡くなる5年ほど前にも、肩からガラスの破片を摘出してもらったことがあります。2センチほどの三角形のガラス片でした。

 父は2008年(平成20年)に亡くなっています。99歳でしたから長寿でしたが、しかしその人生は病気ばかりの生涯でした。私の父についての思い出も、長崎の原爆病院への入退院を繰り返していたことばかりのような気がします。

■母と家族の被爆

 原爆が投下された日、母は動員されて地域の人たちと一緒に、近くの山に松根油(しょうこんゆ)を採りに行っていました。山の斜面の何も遮蔽物のないような所で、ピカっときて、瞬間頬っぺたが熱くなったことを憶えていると言っていました。「狙われたー、さあ逃げろ!」ということで、一目散に家まで逃げ帰りました。障害となるようなものは何もない所で転んだりもしていますので、爆風に煽られたりもしたのだと思います。頬っぺたが熱くなったことと関係があるかどうか分かりませんが、母は後年死ぬ直前に頬っぺたの皮膚がんを発症しています。

 同じ時、長兄は近くの川で魚を獲って遊んでいました。次兄や二人の姉はみんな一緒に家に居て、5ヵ月の私は長姉に背負われていました。原爆が落とされた時、2歳だった次姉がびっくりして泣き出したので、それを長姉が「大丈夫や、あれはカミナリや」といって慰めたという話が私たち兄弟の間では記憶されています。父は長崎市内の幸町工場で被爆しましたけど、他の家族6人はみんな揃って長与村にいて、閃光を見、爆風を受け、放射線を浴びていました。

■自分も被爆者なのかと自覚した日

 私は地元長与村の小学校、中学校を卒業し、高校は長崎県立工業高校定時制で学びました。この高校は浦上の大橋町にあって、三菱兵器大橋工場の跡地に作られたのではないかと思います。学校に通っていた頃のことですが、同級生たちの間で原爆のことについてしゃべることは、小学校でも中学校でも高校でも一切ありませんでした。特に工業高校生になってからは同窓生の中に被爆している人、家族に被爆者のいる人は何人もいたはずなのですが、誰も話さない、先生もしゃべりませんでした。今から思えば不思議なほど原爆について、話が遠ざけられていたように思います。

 中学生だった頃、同じ学年の何人かの生徒が午後から、定期健康診断だとか何とか言って授業を抜け出ていくことがありました。ずーっと後日になって、彼らはABCCの健診に連れて行かれていたのだということを知りました。当時の私はそんな事情のあることなどまったく知りませんでした。

 私の家のすぐ近所に、私の長兄と同級生で私より7歳年上の人が住んでいました。この人は原爆が落とされた時には、庭の柿の木に登ってセミを捕ろうとしていた人です。その人が、1958年(昭和33年)、突然亡くなりました。私が中学2年生の時です。「なんで死んだん?」と尋ねると、「原爆と関係あるんや」と聞かされました。たぶん白血病か何かだったのだと思います。13歳だった私はこの時、「あっ、俺も被爆者なんかな!」と思い、初めて「自分も原爆と関係しているんだな」と自覚することになりました。

 高校を卒業した後、1964年(昭和39年)、19歳で国鉄の大阪鉄道管理局に採用され、以降は関西で国鉄マンとして働くことになりました。1973年(昭和48年)に結婚しています。

* * * * *

 私の母が亡くなったのは5年前の2013年(平成25年)で、丁度父が亡くなったのと同じ99歳、母も長寿でした。戦後に生まれた私の弟が2006年(平成18年)に亡くなり、長兄が今年亡くなりました。胃がんでした。それ以外の兄弟姉妹はみんな今も健在で、中にはまだ現職で仕事を続けている人もいます。

 ただ、私の従兄弟の中には、被爆二世になる人ですが、手の指が少指で生まれた人がいます。その人の親は爆心地から4.0`か5.0`で被爆しています。ところがこの親は「被爆者」ではなく、被爆者と区別するための「被爆体験者」という扱いになっているのです。複雑で、問題を多く残したままになっているのが長崎の被爆者援護制度の実態です。

■私が「被爆者」になった日

 1957年(昭和32年)、日本の国に初めての被爆者援護制度、原爆医療法ができました。この時、長崎の原爆被爆地域というのは長崎市内と周辺の一部の地域と定められました。その結果、同じ長与村でも長崎市に近い高田郷と吉無田郷だけは被爆地域とされたのですが、私たちの住む本川内郷を含むそれ以外の地域は被爆地域とされなかったのです。多くの人が閃光を浴び、爆風も受け、そしてすでに放射線の影響とみられる障害や犠牲も発生していたはずなのですが、私たちは被爆者とは見なされなかったのです。

 それから17年経った1974年(昭和49年)、単純に被爆地域が広げられたわけではないのですが、「健康診断特例区域」という特別な制度が作られました。「健康診断特例区域」というのは、被爆地域の周辺地域にいた者にも健康診断だけは無料で受けられるようにしようという制度です。この時私の生まれ育った本川内郷も含めて長与村全体がその対象地域に加えられました。その頃私はもう京都に住んでいて、結婚した翌年でした。

 母から「そのような制度ができたから、お前も京都で手続きをするように」と言われて、私は京都市南区の保健所に「健康診断受給者証」というものの申請に行きました。ところが保健所の担当者はまったくチンプンカンプンで何も知らない有様でした。「私は長崎県の長与の出身の者だから、長与の役場に問い合わせて確認しておくように」と言ってその日は帰りました。しばらくして再訪すると「健康診断受給者証」はちゃんと用意されていました。

 この時、私だけでなく、母も、兄も姉も全員が同じように「健康診断受給者証」を受け取りました。

 それからさらに18年経って、1992年(平成4年)、たまたま私が郷里に帰っていた時、その頃腰痛があまりにひどかったので民医連の大浦診療所で診てもらったことがあります。その時、お医者さんに「この腰痛は原爆と関係あるのでしょうか?」と尋ねると、そのお医者さんはその場ですぐに診察室から京都府庁に電話してくれたのです。「今、これこれこういう人が来て診察しているが、この人はこういうことに該当するから・・・・・」と。それからそのお医者さん自ら必要な手続きもしてくれました。それが被爆者健康手帳の交付でした。

 18年前に「健康診断受給者証」の交付を受けていたのは上記の通りですが、その時、この「健康診断受給者証」を持っている人で定められた障害があると診断された場合には、第三号被爆者として「被爆者健康手帳」への切り替えができることになっていたのです。第三号被爆者とは被爆者援護法で「原子爆弾が投下された際又はその後において、身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」と定められた被爆者のことです。大浦診療所での診断により私の病気は定められた障害に該当すると認定され、私の持っていた「健康診断受給者証」は「被爆者健康手帳」に切り替えられることになったわけです。1992年(平成4年)になって初めて私も国の認める(制度上の)被爆者となることができました。実際に被爆したあの日から47年、私が47歳の時のことでした。

■国鉄労働者として

 国鉄には1964年(昭和39年)に就職して、2005年(平成17年)にJR西日本を60歳で定年退職するまで41年間勤めました。

 最初の仕事は蒸気機関車の清掃で、吹田の操車場で10ヵ月働きました。次が向日市の操車場でここではディーゼルカーの整備をしていました。それから電車の乗務員(運転手)となり、定年までずーっとそれを続けました。

 当時は就職するとすぐにみんな労働組合にも入っており、私も早速国労(国鉄労働組合)の一員になりました。昔は労働組合でストライキもよくやりました。そのために処分をくらったこともしばしばです。国鉄の職員は公務員に準じた者という扱いで、公労法違反に問われた減給処分でした。

 1987年(昭和42年)、国鉄が今のJRに変わる、分割民営化された時は大反対運動をとりくみました。その結果、私たちは見せしめの処分を受け、滋賀県の草津にあるJRのパン屋さん勤めをさせられたこともあります。パン屋さん勤めは3年間続きましたが、その後また電車の乗務員に復帰しました。

■私の身体のこと

 私は幼い頃から、奇形とか障害とまではいかなくても、特異ともいえる身体をもってきました。具体的には眼球が他人より小さい、肛門が小さい、心臓の僧帽弁逸脱症、胆のうに別室がある、です。心臓の僧帽弁逸脱症とは、血液を送り出した後の弁が閉まり切らず血液が逆流する可能性のある疾患です。まだエコー検査のない時代、鉄道病院での毎回の職場健診で原因不明の異常心音が指摘されていました。このまま国鉄の運転士を勤めても大丈夫なのかどうかも検討されていました。エコーが導入されてから初めて僧帽弁逸脱症だと診断されることになりました。

 私のこうした身体の状態は、元々生まれつきのものだったのか、生後5ヶ月で被爆したことが影響しているのかは不明です。原爆との関係は今は不明ですが、事実は事実として書き残しておくことが、被爆者としては後世の人々のためにも大切なことではないかと思っています。

■これからも体の続く限り核廃絶めざして

 JRを退職してからのある時、私が住んでいる京都市南区吉祥院の、吉祥院健康友の会で何らかのインタビューを受けたことがあります。その時私が被爆者であることをちょっとだけお話ししました。それを読んで私のことを知った中野士乃武さん(京都原水爆被災者懇談会の前の世話人代表)から声をかけていただいて、京都原水爆被災者懇談会の活動に参加するようになり、懇談会の役員も務めさせていただくようになったのです。

 国労のとりくみの一つとして平和運動には若い頃から多少は関わっていましたが、本格的にとりくむようになったのはこの京都原水爆被災者懇談会に参加するようになってからです。3.11ビキニデーにも数回参加してきました。広島や長崎での原水爆禁止世界大会にも京都の代表として参加してきました。国民平和大行進では、京都の被爆者を代表して何度もあいさつをさせていただいてきました。平和行進では京都府内の通し行進者として歩き通したこともあります。

清水寺で「ヒバクシャ国際署名」行動
清水寺で「ヒバクシャ国際署名」行動

 2011年(平成23年)の東日本大震災、福島第一原発事故発生を契機にして、原子力発電所を日本からこの世からなくしていくとりくみがとても重要な課題になりました。核兵器も原発も同じ核エネルギーがもたらす災いであり、根は同じです。あの日以来原発廃止を求める運動にもできるだけ参加するようにしてきました。毎週金曜日の夕方、関西電力京都支店前で行われている“原発廃止を訴えるスタンディング・アピール”(通称キンカン行動)にはこの6年間、ほとんど欠かさず参加してきました。私の片言の英語で通り掛かりの外国人と原発についてコミュニケーションするのもなかなか楽しいものです。

毎週金曜日夕方のキンカン行動に参加
毎週金曜日夕方のキンカン行動に参加

 これからも体の続く限り、平和のため、この世からの核廃絶のために頑張っていきたいと思っています。
                       (了)




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