ロゴ4 ロゴ ロゴ2
ロゴ00

●被爆体験の継承 69

原爆によって奪われた父と母の幸福

古田京子(被爆2世)

父:古田?啓(ふるたさかひろ)の手記
母:古田ツタエの手記
2018年9月20日 古田京子

 私の両親、父・古田?啓(ふるたさかひろ)、母・古田ツタエ(旧姓古屋ツタエ)は共に広島での被爆者です。既に父は2010年(平成22年)84歳で、母は2004年(平成16年)72歳で他界しています。父と母、それぞれが書き遺したものを紹介し、被爆によって苦難を余儀なくされた二人の人生を辿ってみたいと思います。そしてその両親から私が受け継いだものを記してみることにいたします。

父・古田?啓(ふるたさかひろ)の被爆体験
  2006年(平成18年)原爆症認定申請における被爆状況証言
(本人記述)

■原子爆弾投下される

 昭和20年8月6日、原子爆弾が投下された日、私は広島に向かう車中にいました。旧制弘前高等学校理科甲類2年生の私は当時19歳、日立製作所多賀工場に勤務動員で行っていましたが、B29の爆弾攻撃、艦載機による地上掃射で壊滅的打撃を受け、8月初め大湊海軍工廠に動員先が変更されることになり、2週間強の休暇が与えられたのです。当時私の家族は父、母、弟、姉の4名が、父の仕事(日立製作所仁川工場勤務)の関係で朝鮮に、兄は仕事の関係で九州に、私は入学した学校の所在地である弘前にと3ヵ所に分かれていました。死が間近に迫っていると感じていた私は、広島市に隣接している府中町の本家にある先祖の仏壇と墓にお参りしておきたかったのです。水戸線を経由、東京を南にして関東平野の北側を通って京都に抜ける経路を選びました。

 途中、弘前の同窓生の郷里の家に2箇所立ち寄り、岡山に着いたのが8月6日の午後7時〜8時でした。そこで旧制第六高校の生徒に会いました。彼は、「今朝広島にアトム・バンが投下された。広島は一発で壊滅したようだ」と言いました。私の乗っていた列車は駅ごとに長時間停車し、向洋(むかいなだ)に着いたのは7日の夕方薄暗くなってからです。ここで下車して徒歩で本家に向かいました。約50分で本家到着。本家の家族構成は、父(陸軍少将マレー半島で戦死)、長男(早稲田大学学生でマレー半島で戦死)、次男、三男、長女(府中町役場勤務)、次女(学徒動員)、三女という軍国主義時代のありふれたものでした。

■8月8日、広島に入る

 8日、早起きして祖先の霊に合掌しました。昨夜遅くまで歓談していた家族の方々も起床、激励されて昨夜話題になった樅田さん(広島市銀山町で旅館を経営)、私の母方の祖母である田中ナカさん(広島市稲荷町で一人暮らしをしている)の消息を先ず掴むこととしました。本家→広島駅、徒歩約50分、矢賀駅近くの路上で韓国または北朝鮮と思われる人2名に行方を阻まれ、煙草を請求されました。何もない旨を話して通してもらいました。広島駅から猿猴橋を渡り的場町に出ました。稲荷さんの境内の前で電車が1台横倒しになり、中は貪欲にカスメられたようでガラガラでした。ここからすぐの所に田中ナカさんの住所があります。焼野原のガラクタばかりの風景の中に田中ナカさんの住所があるはずでした。尋ねるにも人がいませんでした。焼け跡に座り込んでいる人に尋ねたら、剥げた皮膚をだらりとたらし、苦しそうな表情をしながら返事を返してくれました。尋ねるにも注意が必要でした。石垣に「〇〇部隊××に集合」の貼紙がしてありました。稲荷町から西に向かいました。川がありました。京橋川です。太田川は広島市の北部で7つの川に分かれています。その一つが京橋川です。川下の方で2人の男が話し合っていました。何か情報が掴まれるかもと思い近づきました。しかし、私と同じ遠方からの部外者で何も知りませんでした。川を渡り川上に向かいました。左側が銀山町(かなやまちょう)のはずです。人家はありません。元の道に出て、再び西に向かいました。福屋百貨店があります。外壁は残っていましたが中は焼かれ破壊されている模様でした。再び西に向かいます。紙屋町です。右が基町、左が革屋町です。少数だが人が動いていました。片付けをしていました。

福屋百貨店の原爆碑と(向い側)現在の福屋
福屋百貨店の原爆碑と(向い側)現在の福屋

 8月8日から8月13日まで連日、朝早くから夕暮れ時まで、東は比治山下から南は宇品まで、西は己斐(こい)から北は横川まで、徒歩で焼け跡を訪ねてまわりました。人捜しもしました。私の尋ね人の成果の一つは、「田中ナカ」さんの消息が分かり接触ができたことです。田中ナカさんは縁者「太田トキ」さんを訪ねて寄宿していました。その太田トキさん宅は比治山東麓であったため被害を被らなかったのです。もう一つの成果とも言いにくい成果は、「樅田さん」についての消息でした。樅田さんが経営する旅館には江田島出身の女中さんが1人いて、その人は原爆投下後、家人、同僚と離れ離れになり、ひとりぼっちになって里に帰っていました。しかし、広島が心配でまた様子を見に来たと言って、私が広島市内に行っている留守中に本家に来られたそうなのです。その時は異常でなかった頭髪も12月になって会った時は綺麗に抜けていたそうです。

■昭和20年秋、肋膜炎の発症

 人捜しも済みました。8月17日には大湊海軍工廠に出頭しなければなりません。当時大阪→弘前間は鈍行で36時間、1昼夜+1昼の旅だったと記憶しています。8月14日早朝に広島を立ちました。14日、弘前高校の1年先輩の京大学生T氏の下宿に泊まりました。翌朝未明米軍機がチラシを撒きに来ました。日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏したと書いてありました。正午、玉音放送を聴きました。

 緊急事態発生です。どうすればよいかと思い、まず弘前高校に行くことにしました。大湊に行く途中に弘前があります。高校は固く門を閉じていました。窓のカーテンは端から端までいっぱいに閉まっていました。面食らいました。はやる心が空を切っている感じがしました。この日から掲示板を時々見に行きました。その内にやっと登校日の掲示が出て、平和な日常を取り戻した感じがしました。

 これとともに身体の疲労が時々現れてきました。9月中頃から胸が痛くなりました。10月になると身体を左右に廻すと痛みが強く感じられるようになりました。無理がきかなくなりました。体の踏ん張りがきかなくなりました。11月になり、心配した下宿の小母さんが町医者に往診を頼んでくれました。肋膜炎とのことで、20ccの大きな注射器に半分以上の水を抜きました。医者は安静が第一ですと言って帰っていきました。

 年が明け、父、母、姉、弟の4人が仁川から広島へ引き揚げてきたと連絡が入りました。下宿の小母さんにこれ以上迷惑はかけられません。故郷に帰って療養しようかと考えるほど病状は悪くなっていました。帰るにしても40時間に近い旅ができるかが気掛かりではありましたが、なんとか広島に帰り着くことができました。引き揚げてきた我が家は本家に10分位の所でした。早速、府中町きっての内科医Y先生の診察を受けました。結果は同じく肋膜炎でした。また水を抜かれましたが、前回の分の7〜8割見当でした。母親の手厚い看病を受けましたが、病状は一進一退。昭和22年の夏、国立西条療養所へ入院しました。その後順調に健康は回復し、昭和23年夏退院しました。3年近く弘前高校を休学していたので復学は諦め、私学の専科に入学しました。その後異常はありません。正確には陳旧性肋膜炎という病気だと教えていただきました。

■私の闘病歴

 被爆後61年、私は数多くの病気をしてきました。被爆が体力の低下、抵抗力の低下を招いた結果だと思います。被爆後侵された病名と概要を次に記します。

* * * * *

(白血球減少症)
 1976年の原爆ドッグで発見されました。3300でした。その後特別な処置はせず見守って生活してきました。その日から70歳になるまで受けたドッグ検診の結果も大体3200から3400でした。他人に比べて切り傷、擦り傷の直りが遅いと思われること、病気にかかることが多いと思われること、それは白血球が少ないためではないかと思っています。

(白内障)
 2002年2月14日国立京都病院眼科外来の診察を受けて判明しました。両眼とも視力が相当低下し、このまま放置していては自動車運転免許証の更新がしてもらえないのではないかと恐れたためです。両眼視力で0.7以上が必要です。同年2月22日入院、日を置いて片目ずつ2回に分けて手術を受けました。手術後眼底に異物が飛行するようになりました。また物体が二重に見えるようになりました。手術後4年を経過し、異物の飛行、二重に見えることはなくなりました。視力は手術直後は0.7見えていましたが、1ヵ月経過する頃から悪化し、とても免許更新を申請できる状態ではなくなりました。

(肋膜炎)
 肋膜炎については上記詳述の通りなので、ここでは要旨のみ記述します。

1、 1945年9月中旬発病
2、 安静が唯一の治療手段
3、 昭和22年夏、国立西条療養所入院
4、 昭和23年夏、同所退院

その後異常はない。陳旧性肋膜炎である。

(腎臓系疾患と腎臓大動脈瘤、頻尿)
 頻尿を訴え検査を受けたところ、関西医大男山病院から「左腎臓に大動脈瘤がある。今にも破裂しそうだ、一刻も早く左腎臓の摘出手術をしなさい。頻尿もこの影響と思われる」との診断を受けました。1999年1月11日から4日間と2月10日からの21日間入院して手術を受けました。手術は成功したと聞きました。ただ頻尿は相変わらず続きました。

 2000年3月16日エコーの検査を受けました。「膀胱に腫瘍がある、手術する必要かある」と言われました。国立京都病院に転院し、早速膀胱鏡検査をしたところ「腫瘍がある、癌の恐れもある」と診断され、焼き取る手術をすることにしました。2000年5月2日に入院して5月25日退院しました。その後再発しました。さらに再々発もしました。本手術と、再発、再々発の手術関係は次の通りです。

本手術 入院 2000年5月2日
    退院 5月25日

再手術 入院 2001年5月20日
    退院 6月19日

再々手術 入院 2002年10月16日
     退院 11月20日

 再々手術後4年になりますが、その後変化はありません。頻尿は同じような状態で続いています。

(尿管結石)
 1960年に厳しい腹痛で目が覚めました。秋口のことだったと思います。大阪逓信病院で診察を受けた結果、尿管の途中に結石がある、取り除かなければならない、ということになりました。

 早速入院して検査や自動排泄のための階段昇降運動をしましたが効果はありませんでした。待つこと20日前後、フランス製の尿管結石掴み取り出し器具が入荷しました。バスケットの網型です。病院長、泌尿器関係医師等多数が見守る中で成功しました。引き出した結石を目隠しを外して見せてもらいました。緑色の金平糖のようなものでした。

 1989年再発しました。今回は京都逓信病院に入院し、蘇生会病院の結石破砕器具で結石を粉砕することになりました。機具の精度が悪く、12回目の破砕機能実行でやっと成功しました。結石は半分に2分され、一つは尿路を通って外部に排泄され、残り半分は砂状になって排泄されたと言われました。医師の指導をよく守り、再々発しないよう水分の補給に気を付けたいと思います。

(パーキンソン)
 2000年3月17日、近所の医院でパーキンソンと病名を告げられました。左足が震える、涎が出る、1週間分の薬を飲んだ結果の状態を見て判断されたようです。同年5月31日国立京都病院神経科に入院しました。同一症状のある他の疾患の可能性はないかを診て、パーキンソン完治薬は未開発だが、現在使用中の治療薬の最も効果的服用方法、リハビリ方法等を診察、検査するためでした。なお、国立宇多野病院のパーキンソン専門医の診察も入院中ありましたが、外科手術は年齢的体力低下のため不可能とのことでした。発病後6年、当初に比べて随分歩きにくくなりました。重心の移動がうまくいかなくなりました。完治薬が一日も早く開発されることを心から願っています。

(変形性脊椎症)
 背中が丸くなったのは何時の日からか。直したいと思ったのは何時のことか。年度末の定年退職を申し出るか悩んでいる時でした。この時56歳でした。現仕事に対する適応性も衰えが出てきました。慎重に考える必要がありました。希望している次の仕事も健康でなければ採用してくれません。その日から腕を前から横に広げる運動と天井に向いて寝ることの2つを始めました。徐々に姿勢は戻りつつありました。2000年3月パーキンソン病の影響を受けたのか、改善のスピードが落ちただけでなく、悪化の状態が出ることもあります。なお、上述の次の職場は希望通り入社できました。

 父・古田?啓は、2006年(平成18年)9月5日、パーキンソン病、腎臓機能障害、白血球減少症の病気について原爆症認定申請をしました。その内腎臓機能障害について、原爆症認定を受けています。



母・古田ツタエの被爆体験
広島県立第二高女創立50周年記念誌『しらうめ』(1995年)への寄稿(本人記述)

■広島県立第二高女の学徒動員作業中に被爆

 第二県女の入学発表の掲示を見に行った時の喜び、風格のある静かな女専の玄関、良い雰囲気の学生生活が懐かしく思い出されます。お掃除の時の西口先生の棒でかたかた廊下をたたきながらの号令の声、きれいな床の足の感触がよみがえります。

 私は一・二年生とも東組で、何時も前の席でした。電車通学も作業の日だけで、後は徒歩でした。横川から太田川沿いに寺町の裏を通り、相生橋から今の平和公園を横断し、大手町小学校の前を通り、鷹の橋、御幸橋とよく歩いたものと思います。結婚して広島を離れましたが、被爆前の、通った町名や建物が懐かしく思い出されます。

 8月5日、雑魚場町の家屋疎開の作業で、炎天下もくもくと瓦を運び、休憩時間はどんな話をしていたのか思い出せませんが、きっと宿題とか授業の話くらいで真面目な話題だったように思います。

 最後に、級長さんのジャンケンで二年東組が翌6日は練兵場の草取りに決まって、どちらがよかったかしらと思った事が、鮮明に思い出されます。

 翌8月6日、東練兵場で作業を終え、一年生と交代して、北西の隅にあった石碑の上の木陰で休憩中で、すぐそばの山の上で竹下さんと武井さんが手旗で交信をし、下でそれを読み取っていました。

 一瞬のことで分かりませんが、石碑の上から下に飛ばされ、大木が根こそぎ倒され、砂煙が立ち込めていたように思います。

 一年生がシャツに火がついたまま逃げ回っている人、倒れた家から這い出してこられた人等、時間が経つにつれ被害の大きいのに驚くばかりでした。

 林先生にしたがって行きましたが、二葉の里の鶴羽根神社の辺りで先生の姿を見失ってしまいました。人の流れに身をまかせ、饒津神社(にぎつじんじゃ)の前まで来ましたが、神社が炎上中で、牛田方面に行く道も閉ざされ茫然としていたところへ、軍属と思われる方が後について来るように言われ、常盤橋の鉄橋に上がりました。上で貨物列車が横転し、人がやっと通れるくらいの狭い枕木の上を渡りました。枕木の端に火がついてくすぶっていたのが印象に残っています。久永さんと、下級生が数人いらっしゃったように思います。

 白島(はくしま)を通り、神田橋の下の河原に避難し、夕方周囲の火勢が衰えてから、牛田の堤防を上流に向かい、水源地の辺りで太田川に入り、丁度干潮時だったのでしょうか胸のあたりまで水につかって川を渡り、大芝の堤防に上がり、帰宅しました。

 その夜は、大芝町の自宅で過ごしました。

 自宅は壊れましたが焼失しませんでしたので、以後外出することもなく過ごしました。

 8月20日頃と思います。秦さんと一緒に初めて登校しました。焼野原を徒歩で学校に着いてほっとしたことが思い出されます。

現在の饒津神社
現在の饒津神社

大芝公園の慰霊碑
大芝公園の慰霊碑
■私の“学生時代”を歩いてくれた娘

 家族全員無事で、近所の人に申し訳ないような気持ちだと母が言っていたのが思い出されます。

 被爆50年、半世紀が過ぎようとしています。主人も被爆者手帳を持っていますので、そんなに深く考えた事はありませんでしたが、結婚し、京都に住み、地域の人々の意識の中に被爆者への偏見を強く感じます。私も度々の手術で足に障害が残り、病院のお世話になる機会が多いのですが、子どもの結婚問題で悩まれる方が多いようです。

 私も、子どもにあまり多く被爆の体験は話していませんでしたが、娘が関千枝子さんの本『広島第二県女・二年西組〜原爆で死んだ級友たち』を読み、昭和60年原爆の日に広島を訪れ、慰霊祭にお参りした後、日赤原爆病院を訪れ、専売局を通り、広島第二県女(女子大)まで、徒歩で訪ねてきたことを聞きまして、私たちの苦難多き学生時代を理解してくれたことを嬉しく思っております。

 これからの人生、心豊かに過ごしていきたいと思っております。



父の思い出、母の思い出、そして私・古田京子が受け継いだもの

■父と母の結婚

 私の父は弘前高校への復学を断念した後、京都の同志社大学法学部政治学科に進学しています。同志社を卒業した後、京都で当時の電気通信管理所(後の電電公社)に就職し、定年まで勤めました。

 私の母は4男4女の8人兄弟姉妹で、母が一番上となる長女でした。県立第二高女を卒業後は、家事に専念して家族と両親を助けていました。1954年(昭和29年)、京都で就職していた父と広島に住む母が縁あってお見合いをし結婚することになりました。父が28歳、母が22歳の時でした。母にとっては初めての京都の地で新婚生活は始められました。長女の私が1955年(昭和30年)、弟が1960年(昭和35年)に生まれました。一家の生活は最初はアパート暮らし、その後電電公社の社宅に移り、そして京都府八幡市の住宅へと居を変えていき、私たちもそういう環境の移り変わりの中で育っていきました。

 父の闘病歴、闘病生活の様子は上記「原爆症認定申請における被爆状況証言」で紹介しました。そして実は母も大変な病気、健康障害を経験することになります。母は元々若い頃からリュウマチに悩まされてきた人ですが、特に午前中は手の関節が動かない、手に力が入らない症状は年を追ってひどくなっていきました。私がまだ幼い子どもの頃、母が水道の蛇口を自分の力では回せないので、私が椅子の上に上がって手を伸ばして代わりに蛇口をひねるようなことまでしていたほどでした。

■母の闘病

 母は40代初めの頃から腰が痛い、足が痛む自覚症状を訴えるようになりました。お医者さんにかかってもなかなか原因が分からない、腰の牽引などの処置をいくらしてもよくならない状況が続いていました。私が大学を卒業して中学校の教員になったのが1978年(昭和53年)ですが、その2年後の1980年(昭和55年)に、やっと母の病気が脊髄の神経腫瘍だと診断されました。腫瘍は良性なのですが、放置するとそれが原因で脊髄機能に様々な障害が発生します。そのため脊髄の神経腫瘍を取り除く手術をすることになりました。母が48歳の時です。しかし、その手術は1回では終わらずその後何回も繰り返すことになりました。最初の手術から3〜4年は辛うじて歩行できていたのですけど、次第に装具がなければ歩けなくなり、最後はまったく立てない、歩けない、完全な車椅子生活を余儀なくされることになりました。1989年(平成元年)、自宅を大改造して完全バリアフリーの住居に作り変えたことを覚えています。

 リュウマチと車椅子生活の母、闘病を続けている父と、大変な状況となり、私も教員を辞めて両親のケアに専念しなければならないかと思わざるを得ない時期でした。それでも父も母もお互いを支えあいながら懸命に生きてくれました。また、幸いにも1997年(平成9年)日本でも介護保険制度ができて、家族以外からの援助も得ることができるようになりました。保険でカバーされる以上の介護サービスも利用して、当時の私たち家族の大変な事態をなんとか乗り越えていくことができました。

 母は社交的で明るい性格の人でした。体が不自由なため自分では出かけられなくても、お友だちなどをよく自宅に招いて元気に振る舞っていました。自由にならない体は、本当はとても辛く苦しいことだったはずですが、人前ではそうした素振りは一切見せず、決して落ち込んだりした様子も見せずに過ごしてくれました。そのことが私たちにとって救いでもありました。

■奪われたささやかな幸福

 私には娘が4人います。私の弟には子どもが2人いて、合わせて私の親たちの孫は6人になります。しかし、私の母がその手に孫を抱き上げることができたのは私の長女一人だけ、それも生まれてすぐの頃の一度だけでした。脊髄の神経腫瘍の手術をした母は、間もなく孫を抱き抱えることすらできない体になっていきました。まだ48歳という若さなのに、孫の世話をすることもできない、孫と一緒にお風呂に入ることもできない、孫と遊ぶこともできない、孫を抱き抱えて体いっぱいに柔らかい体と体温を感じることもできない、お婆ちゃんとしての楽しみを奪われてしまったのです。とても辛かっただろうなあと思います。親として娘たちの出産や育児を助けたくても助けることが一切できなかった、それも苦しく、悲しいことだったろうと。

 母の脊髄の神経腫瘍は原爆による被爆が原因だと私は思っています。脊髄の手術から亡くなるまでの25年間、孫をその手に抱くという母のささやかな、だけどとても凄い幸福が、原爆によって奪われたのだと私は思っています。

2001年(平成13年)頃の父と母
2001年(平成13年)頃の父と母

 母は2004年(平成16年)7月6日に亡くなりました。72歳でした。母が亡くなるまでは父もそれなりに元気を保っていたのですが、母が亡くなってからは急速に体調を崩すようになっていきました。几帳面に日記なども書き遺していますが、最後の頃はもう何が書いてあるのか文字も読めない状態でした。2010年(平成22年)、7月に母の七回忌を終え、その後の10月17日に父は亡くなりました。84歳でした。父も原爆によって体を蝕まれ、原爆症と闘いながらの生涯でした。それでも「妻の七回忌だけは済ませてから」と、父は考えていたのではないかと思えるような最期でした。

■中学教員になって両親の体験を話す

 父も母も、私や弟に原爆のこと、被爆のことはごく普通に話してくれていました。ただ、母は私たちに話す時には決まって「この話は人に言うたらいけんよ、外では言いなさんなよ」と言っていました。京都は広島とは違う、原爆に対する無理解、被爆者に対する偏見・差別があるから、という思いが強かったのだと思います。

 私たちも原爆、被爆のことについて子どもの頃から強い関心を持っていたり、積極的に関わっていたわけではありません。しかし、私が中学校の教員となり、学校で子どもたちに戦争のこと、平和のことを語らなければならない、何より子どもたちの平和な将来のことを一緒に考えていかなければならないことになりました。私がまだ若手の教員の頃は、夏休み中でも登校日があり、学校全体でも平和教育が取り組まれていました。広島に修学旅行に行くこともあり、そのための事前学習も行われていました。そんな時『はだしのゲン』を観賞するようなこともありましたが、私は私の父や母の体験も話してきました。

■関千枝子さんとの出遭い

 母は13歳で、県立第二高女の二年生の時に被爆しました。二年生は東組と西組の二組に分かれていて、母は東組でした。8月6日のこの日、東組の生徒たちは爆心地から東方2.5`の東練兵場で作業をしていました。そして西組は爆心地からほぼ1キロメートルの雑魚場町で建物疎開作業に従事していました。ほとんど爆心直下です。当日作業に動員されていた生徒39人中38人が爆死し、辛うじて生き残られた一人も若くして他界されました。この日たまたま病気などで作業を欠席し、原爆死を免れることになった生徒が7人にありました。その内の一人が関千枝子さんでした。関さんは、40年の後、亡くなった級友たちの遺族や関係者を訪ね歩き、クラス全員の姿を書き著されました。それが『広島第二県女二年西組〜原爆で死んだ級友たち〜』(関千枝子著・1985年・筑摩書房)です。

 母も事情が一つ異なっておれば西組の生徒たちと同じ運命に遭っていたのかもしれない。私は衝撃に近い思いでこの本を読みました。そしてそのこともあって、1985年(昭和60年)の8月、原爆投下の日に、母が毎日自宅から学校まで通った道程を同じように歩いてみたくなったのです。そうすることで一歩でも一つでも40年前(当時)の母たちに近づけるのではないかとの思いで、母の自宅の大芝町から県立第二高女のあった宇品方面までを歩き通しました。

 それからずーっと後年になってのことですが、2014年(平成26年)、私と私の弟とそして私の長女の3人で東京に住まわれている関千枝子さんを訪問し、直接会ってお話しする機会を持つことができました。『第二県女』の著書を著された時の思い、今の時代や日本をめぐる状況などについて、本当に貴重な、たくさんのお話しを聞かせていただくことになりました。

■孫たちが大人になった時平和であることを願って

 私は中学の教員でしたから、修学旅行で生徒たちを連れて何度も広島に行きました。でも広島の平和記念資料館の中にはどうしても入ることができなかったのです。引率教員ですから本当は中に入って、それなりの対応をしなければならないのにできませんでした。中に入ってしまうと、父の体験、母の体験が自分の体の中に重なってきて、半分当事者になってしまう、言いようのない怖さに襲われてしまうからでした。8月6日の日のことだけでなく、母がずーっと病気で苦しんできたこととかもかぶってしまうのです。

 広島でも、長崎でも、そして沖縄でも、語り部をされている人は凄いなあと思ってきました。何度も何度もあの辛い体験を思い起こしながら語れることの凄さです。私は、まだなかなか自分の中で整理できないものがあるのですが、いつかは普通に資料館にも入れるようになりたいと思っています。

 私の4人の子どもたちももうみんな結婚して家を出ていきました。この時に、あらためてこの後をどのように生きていこうかと考えて、かねてから関心のあった京都「被爆2世・3世の会」に加わらせていただくことにいたしました。それは、自分の子どもたちのためというより、孫のためという思いが強かったからです。孫たちが大人になった時に世の中が本当に平和であって欲しい。そのことをすごく強く思うようになっているからです。自分に何が、どれだけできるのかは分かりませんけど、そういう思いで「2世・3世の会」の仲間に入れてもらいました。

 今、会員のみなさんの活動の様子などをメールや会報で知らせていただき、なんとなく背筋が伸びるような気持ちでいます。
                       (了)

写真は『広島第二県女二年西組〜原爆で死んだ級友たち〜』より上段が一年西組、下段が一年東組、東組の最前列左から4人目が母の古屋ツタエ
写真は『広島第二県女二年西組〜原爆で死んだ級友たち〜』より
上段が一年西組、下段が一年東組、
東組の最前列左から4人目が母の古屋ツタエ


※右クリックで、「新しいタブで画像を開く」か
  「画像を保存」してから開くかで、大きく見ることができます。

爆心地と広島市の地図

■バックナンバー

Copyright (c) 京都被爆2世3世の会 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system