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●被爆体験の継承 72

3人の息子を奪われた父の悲しみ

土肥(どひ)恵美子さん

2019年1月28日(月)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

土肥(どひ)恵美子さん

■私たちの家族と村松村戸根への疎開

 私の家族は父と母と3人の兄と姉と、そして一番下の私と7人の家族でした。父が三菱造船の技師をしていましたので、元々は造船所に近い水の浦町に住んでいました。ところが、造船所はアメリカ軍から空襲されるので危ない、ということで、長崎市街地の北の方になる松山町に引っ越しをしていました。松山町ですから爆心地です。運が悪いと言いますか、安全のためと思って引っ越したのに、後から思うと一番被害の大きいところに住むようにしていたわけです。

 私は昭和11年(1936年)8月2日生まれです。原爆が落とされた時9歳で、国民学校2年生でした。姉は私より一つ年上の10歳、兄たちは上から長男が17歳、二男が16歳、三番目の兄が15歳という年子の連続でした。昭和20年(1945年)の年に、母と二番目の兄と私の3人が腸チフスに罹ってしまい3人とも入院しました。母はその腸チブスのために亡くなってしまいました。私がまだ入院している間のことでした。

 二番目の兄と私の二人が退院してから、長崎の街全体も危ないということで、私と姉だけは亡くなった母の実家のある田舎に疎開することになりました。母の実家というのは当時の長崎県西彼杵(そのぎ)郡村松村の戸根というところです。今は市町村合併が繰り返されて長崎市琴海戸根町という地名に変わっているようです。長崎の中心地から30`ぐらいはあるのではないでしょうか。私たち姉妹は父に連れられて母の実家の田舎に向かいました。長崎に原爆が落とされる2日前のことですから8月7日ということになります。汽車に揺られて、船にも乗って、そして歩いてたどり着いたような記憶があります。大浦湾に面した海端の村でした。

 父が私たち姉妹を連れて長崎の街を離れている時、松山町の自宅には3人の兄たちが残っていました。そして、母が亡くなってまだ日も浅かったので、自宅には女中さんに来てもらって、食事のことなど毎日のお世話をしてもらっていました。

■消えた3人の兄

 8月9日、原爆が落とされた時、戸根の村にいても物凄い音がしたことをよく憶えています。強い光も浴びました。私たちも慌てて飯台の下に潜り込みました。長崎の街方向に黒い異様な雲が昇っていったのも憶えています。

大浦湾付近の地図


 それからすぐに、父は松山町に残してきた兄たちのことが心配になって、急いで長崎に向かいました。歩き通して向かったと思います。しかし、長崎の市街地に入ろうとすると、大勢の逃げてくる人たちに遭遇しました。みんなから「街中には入れない、行けない」と言われて、行く手を阻まれてしまいました。街中にはまだ火の手があり、逃げてくる人、倒れている人、もう亡くなった人の死体がいっぱいに入り乱れており、一体何がどうなっているのかさっぱり分からない状態でした。父はその日は市街地に足を踏み入れることを諦めて、一旦は私たちの待つ母の実家に帰ってきました。

 それから2日後、今度は父は私たちの従兄弟にあたる人を連れて再び長崎の街に向かいました。松山町一帯を中心に探し回りましたが、みんな燃え尽きていて何も分からない状態でした。それでも父は、「我が家は角から1軒目か2軒目だったからだいたいこの辺りだろう」と見当をつけて、何かないかと必死になって探しました。すると、父が兄たちに買ってあげた時計が一つ見つかりました。それから自転車のハンドルのような物も出てきました。見つかった物は結局たったのそれだけでした。兄たちの遺骨も何も分からないままになってしまいました。

松山町踏切付近(石田 壽氏撮影:長崎原爆資料館所蔵)
松山町踏切付近
(石田 壽氏撮影:長崎原爆資料館所蔵)

 その後すぐに、私たちも長崎に行き、街の様子や自宅のあった跡の場所などを見てまわりました。とにかく一面の焼け野原で何もなくなっていました。焼けたものがそのまま転がっているような状態で、まだ所々煙が上がっていたような記憶も残っています。そんな状態ですから、長くは居れずにすぐに田舎にとんぼ返りしたように思います。私の被爆者健康手帳は2号被爆、つまり入市被爆となっていますが、入市日は8月12日と書かれています。ですから割と早い時期に一度は自宅跡に行っていたのだと思います。

■父の悲しみ

 戦争が終わって、その後1年間ぐらいはそのまま村松村の戸根にある母の実家に住み続けました。その間は学校も地元の小学校にお世話になりました。それから後に、父が長崎市内に借家を見つけ、長崎に帰ってそこで暮らすことになりました。元住んでいた松山町ではなく別の町でした。小学校は伊良林小学校、中学は桜馬場中学校、高校は長崎県立東高校に通いました。姉の方は長崎商業高校に行っています。

 私がまだ小学校3年生の時、母が亡くなってからそれほど年月の経っていない時でしたが、父は再婚し、私たちは2度目の母を迎えることになりました。私たちがまだ小さかったので、子育ては大変なんだからと言って、田舎の人たちがよってたかって世話をして、あっと言う間に父に再婚させたような感じでした。ずーっと後年になって父は、「どうでもよかったのに」と言っていましたけど。

* * * * *

 それからは、父と二度目の母とそして私たち姉妹の4人での暮らしが始まりました。

 原爆によって一瞬にして3人の息子の命を奪われたことは、父にとってとても大きな衝撃となっていました。そして、やり場のない憤り悲しみが何時までも何時までも父の心の中に残されていきました。父は元は三菱造船の中でも優秀な技師で、有名な人でもあったらしいのですが、息子たちを失ってからの生活は見るに耐えられないほど荒れていきました。酒びたりの毎日になっていきました。「天皇陛下の所へ行って腹切って死んでやる!」などと喚き散らしたり、3人の息子をなくして「何の役にもたたん娘たちだけが残ってしまった」と呻いたり、そういうことを何度も何度も繰り返していました。「実の母親が生きていたら、3人の息子を奪われてきっと気が狂っていただろう」などとも言っていました。

 そういう父のいる家に帰るのが私は嫌で嫌でしようがありませんでした。父が酔いつぶれていると、私は夜中に眠ることもできず、こっそりと家の外の軒下に出て泣きながら一夜を過ごすこともしばしばでした。

 父は、最後まで原爆で殺された息子たちのことを嘆き続けながら逝った生涯でした。高血圧がひどくて65歳で亡くなりました。父のことは最後まで姉が見てくれました。

■大村病院看護学校、そして京都へ

 荒れた父のこと、それから2度目の母にもどうしてもなじめなくて、そんな家族の中で、私はもう家を出たくて出たくてしようがなく、一日も早く家とは切り離されたところで暮らしたいと思うようになっていました。

 高校卒業と同時に、最初は修道院に入ろうかと思いました。ところがあの頃修道院に入るのには最初に50万円必要だと言われてしまい、そんなお金はとてもないので諦めざるを得ませんでした。しようがないので、今度は一番お金のかからない所をと思って、看護学校に行こうと思いました。もうほとんどの学校が受験申し込みを締め切っていましたが、国立大村病院の看護学校だけがまだぎりぎり間に合う事が分かり、大急ぎで申し込みをしました。もう郵便では間に合わないので、その日が願書の締切日だという日に長崎から汽車に乗って1時間ほどかけて直接提出しに行きました。試験の結果、合格者は30人だけでしたが、運よく私もその中に入っていて、まぐれで入ることができたのではないかと思いました。何故だかその時の318番という受験番号だけは今でも忘れずに正確に憶えているのです。よほど嬉しい出来事だったのだろうなと思います。

 大村病院は国立ですから、当時教材代は要らない、全寮制で寮費もかかりませんでした。寮生活を始めるにあたっても、親には何一つ買って欲しいとは言えませんでした。布団も家からは送ってもらえないので、宿舎の寮長さんに借りて過ごすことから始めました。この時から私の本当に自立した生活が始まったのだと思っています。

大村病院看護学校の頃(前列右端が私)
大村病院看護学校の頃(前列右端が私)

 国立大村病院の看護学校は修業年限3年でした。私は卒業と同時に思い切って、長崎を離れて京都で就職しようと思いました。この時初めて父親から親身になった心配してもらったような気がしました。京都は盆地なので冬は冷え込んで大変だし、そうでなくてもお前はか細い子なのに、と物凄く心配してくれたのです。実際その頃までの私は細い細い子で、虚弱体質みたいな子だったのです。

 それでも父親の心配を振り切るようにして私は京都に向かいました。昭和33年(1958年)でした。京都では当時の国立宇多野療養所(現在の国立宇多野病院)に就職することが決まっていました。そしてその年看護師の国家試験も合格することができました。

■西陣で暮らしてきた半世紀

 京都で働き始めて5年後の昭和38年(1963年)、27歳の時に決婚しました。最初は夫と2人でのアパート暮らしでした。結婚して2年ほど経ってから最初の子ども(長男)ができました。この時、出産のために5日間ほど入院したのですが、さあ退院という時に、アパートに帰るのではなく、いきなり夫の実家に連れて行かれた、夫の実家の方に帰らされたのです。私には何の相談もなく、アパートから実家の方に全部の家財道具の引っ越しも済まされていたのです。夫の実家は京都市内の上京区、今の住まいです。

 この時から私にとっては凄まじい日常生活が始まることになりました。夫の実家には、夫の両親だけでなく、私の小姑にあたる夫の2人の弟と妹も一緒にいて、私たち夫婦と我が子も加えると全部で8人の所帯となりました。この所帯の主婦をいきなり私が担うことになり、三度三度の食事はもちろん、あらゆる雑用をこなしていくことになりました。

 夫の仕事は西陣織の紋意匠の仕事でした。今はコンピューター化されてしまいましたが。まだ昔の織機がそのまま残されていているような自宅で、西陣織に関わる様々な仕事の人たちが出入りする中で、西陣織のはたおとを聞きながらの暮らしでした。家事一切をとりしきり、夫の仕事を手伝い、子育てもしながら、夫と一緒に懸命に生きてきました。53年に及ぶ歳月でしたが、夫は平成28年(2016年)に亡くなりました。76歳でした。

花園大学保健室に定年までの10年間勤めました。毎年大学の行事の座禅にも参加していました。
花園大学保健室に定年までの10年間勤めました。
毎年大学の行事の座禅にも参加していました。
■被爆者健康手帳、姉、子や孫たちのこと

 比較的若い頃の私は腎盂炎とか腎臓病とかの診断をされて、お医者さんに掛かることもよくありました。切迫流産も経験しています。40度からの熱を発症することなどもありましたが、今は落ち着いた状態です。

 被爆者手帳は、長崎で決婚していた姉が先に取得していました。後になって姉から「あんたも手帳とっておいた方がいいよ」と言われて、私は京都で手帳の申請をすることになりました。まだ親戚の従兄弟たちも元気でいて、私の被爆を証明してくる人もたくさんありました。そのお陰で手帳はとてもスムーズに取得することができたと思っています。手帳の交付年月日が何時だったのかはっきりとは覚えていないのですが、私が京都に来てかなりの年月が経ってからのことです。以前の被爆者健康手帳は年限が来ると新しいものに更新して切り替えていましたから、今持っている手帳には最初の交付年月日が書いてないんですね。初めて京都市の市バス・地下鉄の運賃割引票をもらった日付と、福祉乗車証をもらった時の日付だけは残っているのですけど。

* * * * *

 私には長男と長女の二人の子があってどちらも元気にやっています。そして孫は息子の方に1人、娘の方に2人いて合わせて3人、孫たちも元気に育っています。

 ずっと長崎で暮らしていた姉ですが、姉の夫は40歳の若さで亡くなりました。その時姉は34歳、まだ5歳と3歳の小さな子どもを残したままでした。すでに父親も亡くなり、継母も他界していましたので、京都に来て、私たちと近いところで暮らしてはと誘ったのです。その3年後に姉も京都に来ることになり、今は同じ京都市内でデイサービスにお世話になりながら暮らしています。

姉(左)と二人で
姉(左)と二人で

私たち二人の姉妹を残して生まれ育った家も家族もみんななくなってしまいました。私の旧姓である熊代家のお墓だけが長崎の水の浦町に残されていて、今も継母の子たちが大切にお世話をしてくれています。私も時折りは父や母、兄たちのために手を合わせに長崎に帰ることがあります。たいていは京都からの日帰りですけど。
                       (了)




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