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●被爆体験の継承 73

呉で大空襲に襲われ広島で原爆に遭う

三谷祐幸さん

2019年3月21日(木)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

三谷祐幸さん

■戦前の広島の思い出の一コマ−猿猴橋

 昔の広島駅というのは駅前もほんの一握りの広場みたいなもので、まわりに旅籠と言ってもいいぐらいの日本旅館がいくつかありました。私が子どもの頃には猿猴橋(えんこうばし)のたもとに人力車がいましたね。

 猿猴橋のたもとから東の方向にJRの山陽線を越えていくと権現様、日光東照宮の分社があります。これは猿猴橋のたもとから一直線の方向になるのですね。昔は、殿様の時代ですが、そのたもとに「下馬」という高札があったのです。広島の殿様が毎月権現様にお参りしなければならなかった。これは幕府に対する忠誠なのですね。馬で来て、馬から降りるところが猿猴橋のたもとだったのです。そこから権現様まで1`ぐらいはあります。一直線に東照宮まで道が続いていたわけです。今は広島駅ができたり、鉄道ができたりして分断されていますけど。昔はああして、殿様が猿猴橋のたもとまで来て馬を下りて、1`ほど歩いてお参りしていたわけです。 私らが子どもの頃は猿猴橋の橋柱や欄干の上に、立派な金属製の飾り物が据え付けられていました。とてもいい作りで強く印象に残っています。

現在の猿猴橋(飾り物は2016年に復元)
現在の猿猴橋(飾り物は2016年に復元)
■一人ひとりに鉄砲が与えられた中学の軍事教練

 私は昭和2年(1927年)9月26日生まれですから、原爆が落とされた時は17歳。もう少しで18歳になろうかという時でした。広島高校の2年生でした。当時広島には高等学校があって“広高”と呼ばれていましたね。

 広島高校に入る前は当時の広島一中(今の国泰寺高校)に、住居のあった広島市の牛田から通っていました。風呂敷包みを横に抱えて、歩いて40分ぐらいはかかりました。あの頃は質実剛健が唱えられていて、子どもはバスや電車には乗せなかった。子どもはみんな歩け歩けですから。中学生は映画館に行ってもいけない、喫茶店に入ってもいけないと。

 それと中学生の授業で一番長かったのは軍事教練でした。中学生になると全員にそれぞれ鉄砲が与えられるのです。軍隊でもう使えなくなった鉄砲が山ほどあるのですね。それが全国の中学生以下の生徒に与えられるわけです。入学したら自分の鉄砲というものをもらえるのです。1〜2年生の時は村田銃でした。村田銃というのは日本の明治時代の最初の銃ですからね。三八式歩兵銃より少し原始的な感じでした。それを一人ひとりがもらって、学校内の兵器庫に預けておくわけです。3年生になったら村田銃から三八式歩兵銃に変わりました。三八銃は村田銃より一回り大きかったですね。ただ実弾を込めて実際に撃つ訓練をしたことは一度もありませんでした。とにかく教連の時間というのはたっぷりとありました。中学生はいつでも兵隊になれるように訓練されていたわけですね。現役の将校が各学校の配属将校になっていました。

 当時の中学校は5年生なのですけど、4年から上級学校に進める制度もありました。それで私も4年から広島高校に進学したわけです。まあ、制度がそういうものであったというだけで、中にはもちろん秀才もいますけど、私は秀才なんてものじゃなかったのです。運よく入れたという感じでした。

■呉海軍工廠と大空襲

 広島高校には入れたけれど、昭和20年(1945年)になって、私が2年生になった頃は学校の授業なんかもうないのですよ。授業する時間があったら工場に行って働けという具合で。昭和19年頃は近くの海田(かいた)の工場に行ったりしていました。昭和20年に入ると呉の海軍工廠に行くことになりました。みんな呉の海軍工廠に送られて、私は工廠で旋盤を削っていたわけです。

 広島市の皆実町にあった広島高校は全寮制でしたが、呉の工廠も寄宿舎住まいの集団生活でした。呉工廠というのは巨大な工場ですから、宿舎も大きな寄宿舎がたくさんありました。その頃の寄宿舎というのは学校の教室を寝台車のような作りにして3段ベッドで何人もの人が狭い所に寝泊まりすることができるようにしたものでした。

 それまで呉でも時々空襲はありました。最初の頃はアメリカの空母の艦載機が来ていました。だからもう近くにアメリカの航空母艦が来ているわけですね。アメリカはもうやりたい放題になっていたのだと思いますよ。艦載機は機銃掃射をバリバリバリバリーとやってくる。あれは遊びのような感じでやっていたと思いますけど、そういう時はみんな防空壕に入っておれば艦載機ならやり過ごせたわけですよ。

 そして遂にB29の大編隊による空襲が来ました。呉の場合本格的に大爆撃される時期は遅かったのです。6月22日だったと憶えていますけど、この日、B29の編隊が呉に向かっているというので、さすがに恐怖を感じて、みんなで横穴に逃げ込みました。そして、ズィーン、ズィーンという爆弾の音が一時間ぐらいはありました。さすがにB29の大編隊による空襲の時には防空壕も木端微塵です。横穴に逃げ込んだお陰でやっとこさ命拾いしたようなものでした。

 日本全国の爆撃の中では呉の工廠が一番遅かったのです。それはどうしてなのか疑問でしたけど、その翌日の6月23日に沖縄の総攻撃がありました。呉は一番最後まで残しておいたのでしょうね。呉海軍工廠といったら、呉の海岸が全部工場ですから、巨大な工場なのですけれど、その一時間の攻撃で完全に破壊されてしまいました。もうまったく使い物にならないように。

 そういうことで呉の工廠での働き場所がなくなって、みんな一旦広島へ帰ることになりました。その後また呉に送られて、広島高校のみんなは空襲の後片付けにとりかかっていました。私は、たまたまB29の呉大空襲の一週間か10日前に、旋盤を削っていて、スイッチを入れる時の電気の故障でスパークして、右手を火傷していたのです。それもあって養生していてもいいということになり、広島に残って養生していたのです。ですから大空襲の後の呉のことは知らないのです。

■曳火(えいか)高性能爆弾

 8月6日、原爆が落とされた時、私は牛田の自宅にいました。牛田というのは爆心地から北東に2.5`ぐらいの距離で、丁度二葉山という山の裏側で陰になっています。牛田辺りで建物の中に居た人は火傷もしていないと思います。でも路上に居て直接原爆の光を見た人は牛田でも火傷をしていました。私は幸いその朝家の中にいたので怪我も火傷もしませんでした。でも家の中の建具や襖などは吹っ飛んでいましたから、物凄い爆風、爆撃だったのですね。西側の壁も崩れていました。

 私の母親は自宅の縁側の方で掃除をしていましたから、ピカドンを実際に見ています。ただ怪我の方はガラスの破片でちょっと傷ついたぐらいで済みました。父親も家から出かけようとしたところでしたが怪我はしていません。運が良かったのでしょう。私の弟と妹は広島にいましたが、妹の方は女学校の2年生で郊外に疎開していました。弟も広島市内の工場に動員されて働いていました。江波のあたりでしたから爆心地からは距離がありました。母親がちょっとかすり傷をした程度で、私の家族はあっちこっちに散らばっていたり、安全なところにいたりしたので幸いにも全員が助かりました。もう一人私には兄がいますが、彼はこの頃大阪の医者の学校に通っていました。

 当時の常識では近所のどっかに大きな爆弾が落ちたとみんなが思いました。だけど、どこにも爆弾が落ちた形跡はない。不思議だなーと思っていました。この爆弾が何だったのか新聞などによる報道もすぐにはありませんでした。やがて2〜3日してから新聞を見たら“曳火(えいか)高性能爆弾”というふうに書かれていました。それを見て新しい爆弾だというのは分かりました。

 呉工廠から帰っていた私は広島の病院に通って治療していました。その病院というのが爆心地、原爆投下直下にあった島病院でした。当時の公式記録によると「原爆は島病院南東側の上空約500bで炸裂した」とあります。私は朝の8時過ぎに通院することはなかったのですが、それでもヒヤッとするような体験でした。島病院の院長は丁度その日は郊外の方に往診に行っていて命拾いしたのだそうです。反対に郊外に疎開していてたまたまその日に広島に帰ってきていて原爆に遭った人もいる。そのあたりは運命ですね。

■親戚の人たちを捜して焼け跡の街を歩く

 私たちの家族は牛田にいて助かったのですけど、私のところにはたくさんの親戚が広島にあったものですから、それぞれの親戚の家の誰かが被害に遭っていました。怪我で亡くなった人もあるし、大火傷で苦しんだ人もいて、どこの親戚を見ても、誰かが亡くなっているか、誰かが大怪我を負っているかでしたね。私も原爆が落とされてから最初の2〜3日は、親戚の人を捜しに市内の中心地まで行って歩き回りました。師団司令部に勤めている従兄がいたのでなんとか見つけようとしてあちこち捜しました。

 怪我をした人たちのために百貨店の福屋の1階が収容所になっていて、傷ついた人たちがいっぱいよりかたまっていました。私も福屋のあたりには何度も行きました。8月の7日とか8日はあのあたりをウロウロしていたのです。そこで従兄に出逢ったことを憶えていますよ。彼も間もなく亡くなりましたが。

現在の福屋百貨店と原爆被爆説明版(中区八丁堀)
現在の福屋百貨店と原爆被爆説明版(中区八丁堀)

 それから親戚の人たちは、温品(ぬくしな)という広島の東の方にある村があって、そこを頼って避難した人たちもありました。火傷して、怪我をして、広島に居たのでは助からないものだから、知人のいる近郊の農家を頼ってみんな避難したわけです。

 一番見るのも辛かったのは顔を火傷したおばさんたちでした。当時、広島では建物疎開が盛んに行われていました。家を倒して道を広くしていく、その作業をやるのに主婦が駆り出されていたわけです。比治山の西側のあたりの家は全部主婦が倒したものでした。家にロープを引っかけて、数十人の主婦、奥さんたちが引っ張るわけです。そういうのが当時の勤労奉仕のやり方だったのです。朝早くからそれをやっていた。

 そこに飛行機(B29)が一機来ました。それまではB29と言えば編隊で来てドカーンドカーンとやられていたわけです。ところが8月6日のその朝は一機だけすーっとやってきた。それを奥さんたちは手を休めて見上げた。そういう人たちが顔を火傷したわけです。見上げなかった人は幸いにして耳のあたりを火傷したぐらいで済んでいる。

 B29をずーっと見ていた人は顔全面に火傷しているわけです。光と陰なのですね。光だから白いワイシャツ一つで助かった場合もある。そこは陰になって光が当たっていないわけですね。それぐらいの光なのに熱が高熱なのか不思議ですね。光を受けた者はそこが焼けただれるわけですから。

 作業の手を休めてB29を見た人は顔一面を火傷しました。その火傷は、火傷したその日は顔が赤くなるだけで済んでいますけど、その後だんだんと化膿してくるわけです。これが見ていてとても気の毒でした。顔全体が化膿して膿んでしまっている。特に女性は気の毒でした。当時は薬がないのですから。それが一ヶ月ぐらいしたら薬がなくても何とか傷は固まっていくのです。広島では傷跡のことを“きっぽ”と言っていました。それがミミズがはっているようになるのです。ツルツルのケロイドですね。顔全面ケロイドになった人を見ていると物凄く辛かったですね。一生そういう状態で苦しんだはずなのですから。

 西白島あたりからいつも広島城は眺めていました。あの広島城がローソクの灯を消すように吹っ飛んでしまったのも強烈な印象として残っています。広島は焼けただれた人がいっぱいいる、瓦礫の街になっていました。

■昭和26年、絵の勉強めざして京都へ

 原爆が落とされてから、広島高校の皆実町校舎は使えなくなっていたため、山口県境に近い大竹に校舎は移されました。卒業まで大竹まで通学することになり、私の広島高校時代は大竹に通った時期の方が長いのです。

 私は昭和25年(1950年)まで広島にいて、昭和26年(1951年)に京都に来ました。今私が住んでいるこの家は画家の国盛義篤という当時芸大の先生だった人の家だったのです。この国盛義篤という人は私の父親の竹馬の友で、いつも行き来していた人でした。国盛さんが広島に来た時は我が家に泊まり、父親が京都に行く時にはこの家に泊まるなどしていました。私の父親は大野石油というガソリンスタンドの会社を経営していた人です。当時割とよく知られた会社で、その頃はガソリンまだ貴重なものでもありました。

 私は広島高校に通っている頃から絵の勉強をしていました。というのも身近に国盛先生という人がいたわけですから。もう一人京都の有名な絵描きで坪井一男という人がいまして、その人とも親しかったのです。今でも坪井美術館というのが残されていますけど。その二人を頼って昭和26年に京都に出てきたわけです。その時からこの家に住み込むような形で絵の勉強を始めました。内弟子というほどの関係ではなかったのですけど、親戚のおじさんのような感じでしたね。広島高校を卒業して、絵の勉強をするのに丁度いいというので出てきたわけですよ。

 最初の絵の勉強は独学で個人的にみてもらっていましたが、昭和28年(1953年)に関西美術院に行ってから、そこから本格的に絵の勉強を始めることになりました。

* * * * *

 若い頃はお寺の僧堂で暮らした時期もありました。最初は天龍寺に行って、次に大徳寺に行って、昭和34年(1959年)から5年間ぐらい僧堂に住んでいました。それまでは座禅のために通っていたのですが、それでは間に合わないからというので住むようにしたわけです。僧堂では食事係をしたこともあります。僧堂というところはとても能率のいいところで、ぼやぼやしていることができないのです。僧堂は座って座禅を組んでいるだけでなく、行動の能率を最高度に要求するところなのです。15人ぐらいの雲水の食事の支度をする場合など、広い台所で、食べる所と流しの場所がかなり離れていますから、一度にやれば済む用事を3度やったら叱られる。まとめて行動しろ、時間を節約しろと。そういうことを強制するところでした。時間を無駄にしないというか。僧堂ほど行動の能率が高いところはないです。そういう生活を雲水と一緒にやっていました。夏は3時に起きて、冬は4時に起きてと。私も若い頃はよく働きました。

* * * * *

 若い頃から幸いにも健康上の問題が起きたことはありませんでした。今はもう90歳ですからあちこち体にガタがきていて、あっちもこっちも悪いから体が動かないのですけど。最近は特に足腰が悪くて。

 広島も私が最後に居た昭和25年頃というとまだ瓦礫の山でしたね。町の名前は今でも残っていますけど、その後かなり整備されて変わっているから、今広島に帰っても分からないですよ。どこがどこやら。綺麗になりすぎていて。

* * * * *

 これまで原爆の体験を手記にしたことなど一度もありませんでした。人に話したことも一度もありませんでした。今日が初めてですよ。私が広島で見たこと、体験したこと、憶えていることを他人に話すのは。
                       (了)

三谷祐幸さんの肖像画 (増田正昭さん制作)
三谷祐幸さんの肖像画 (増田正昭さん制作)



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