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●被爆体験の継承 74

被爆者がやっと話せるあの事を

本庄美保子さん

2019年5月14日(火)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

本庄美保子さん

■広島市牛田

 私は昭和15年(1940年)4月14日の生まれで、広島市の牛田(うした)というところで大きくなりました。原爆が落とされた時は5歳です。家族は父と母と姉、兄、私の5人でした。父親はその頃兵隊に徴収されていて関西にいたらしいのですが詳しいことは知りませんでした。6歳年上の姉は学童疎開していて家にはいませんでした。ですからその時の家には母と3歳年上の兄と私の3人がいたわけです。私の家の周りには親戚の人たちもたくさんいて、同じ地域で一緒に住んでいました。

■8月6日の朝

 8月6日の朝、私は母から「猫を捨ててきなさい」と言われて、従妹と一緒に饒津(にぎつ)神社の方に向かって歩いていました。地図で見ると爆心地から2`bぐらいの距離のあたりになります。突然の閃光と轟音と爆風に襲われて、気が付いた時には、歩いていた道路の傍の魚屋さんの軒が倒れてきてその下敷きになっていました。叔父さん(父親の弟)が駆け付けて来てくれて、軒の下から助け出してくれました。辛うじて一命は取りとめることができたのです。でも身体中怪我をしていて、頭から足先までいろんなところから血が出ていました。目の前が見えなくなるほどでした。その時はとりあえずタオルでしばりあげてもらって出血を止めるぐらいしかできませんでした。

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 母は家の中にいたのですが、B29が飛んできたので半身を外に乗り出して空を見上げていました。そこに閃光と爆風が襲って、倒れた家の下敷きになってしまいました。隣がお米屋さんで、そこにおじさんがいたのですが、そのおじさんが一生懸命這って外に出ようとしていたので、そのおじさんの足に?まって一緒に外に出たのだそうです。おじさんは「足を放せ、放せ」と言ったらしいのですが、母は絶対に放さなかったそうです。母の体は、家の陰の中になっていた部分は大丈夫でしたが、外に出ていた右手の指先から肩まで大火傷して、全部の皮がズルっとむけてしまっていました。

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 兄はその日の朝は従弟と一緒に二葉の山の上にある臨時の学校に行く途中でした。B29を見てすぐ山から駆け下りて家に逃げ帰り、どこも怪我などせずに済みました。もっと早い時間から山の上の学校に行っていた人は亡くなった人も多かったと聞いています。

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 私の家の周りにはたくさんの親戚がありましたので、原爆が落とされてからはみんな一緒になって近くの畑の上にずらっーと板を敷き並べて、その上で生活していました。畑の中にはたくさんの親戚が入れるようにと入口が二つもある大きな防空壕が掘ってあって、雨が降ってきたらその中に入っていました。防空壕の中が暑いと言うと、私を助け出してくれた叔父が川からバケツで水を汲んできて防空壕にかけてくれたりしていました。家の裏には川が流れていて、私たちは「太田川、太田川」と言っていましたが、地図を見ると太田川から分かれた京橋川ですね。川岸には石段がつけられていて、その石段を昇り降りして川に向かっていたのです。

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 原爆が落とされた時、たくさんの人が山のようになって川まで下りてきて、水を飲んだり、川に浸かったりしていました。近くの鉄橋を渡っていた汽車からは人がバタバタと川に落ちていました。何年か後になって叔母から、あれは人ではなくジャガイモとか農作物だったと聞かされました。私はまだ小さかったので人間が川の中に落ちていたのだと長く思っていました。

饒津(にぎつ)神社参道の被爆樹木マツ。原爆投下後も2003年まで生き延びた参道のマツ。原爆鎮魂の証として保存されている切株。
饒津(にぎつ)神社参道の被爆樹木マツ
原爆投下後も2003年まで生き延びた参道のマツ。
原爆鎮魂の証として保存されている切株。
■大阪へ、そして京都へ

 私は原爆に遭った時の打ち所が悪かったのか、しばらくするとお腹がパンパンに腫れあがってきました。叔父がリヤカーに乗せて医者のいる所まで連れて行ってくれたのですが、重症なので手術が必要と言われてしまいました。8月15日終戦になって、父は内地にいたので除隊になってすぐに帰って来ました。そしてすぐに大阪の病院に行って手術をしようと決めてくれたのです。はっきりとした日は憶えていないのですが8月18日頃にはもう大阪に向かったように思います。大阪へは汽車で向かいました。私は父親に背負われ、汽車の中はいっぱいの人で押しつぶされそうになるので母親が一生懸命ガードしてくれました。この時の大阪行きは姉も兄も一緒で、一家総出でした。大阪に着いて、私は横っ腹を大きく切って膿を出す手術を受けました。毎日毎日ガーゼを入れ替えて治療を続けました。

 あの時は家族全員が病院に泊めてもらえて、みんな一緒に病院で生活していたようなものでした。私の体は快方に向かっていきましたが、父が「広島に帰っても焼野原で、草木も生えない」と言って、京都に移り住むことになったのです。三条大宮のあたり、三条商店街の一角に住まいを見つけて、一家5人がみんな揃ってそこで暮らし始めることになりました。昭和20年の秋だったと思います。

 父と母はそこでいろんな商売をやってきました。元々父は広島で薪炭商をやっていたので、京都でも最初は炭屋さんから始めました。それからは製粉精米業、金魚屋、冬は太鼓饅頭屋さん、夏は冷やし飴等々いろんなことをやってきました。私が小学生の頃、先生から「親の職業は何ですか?」と聞かれると、「季節によって違います」などと答えていました。

 京都に来てから3年目の昭和23年(1948年)、私に8歳年下の弟ができました。弟は被爆二世ということになります。

■父の早世、苦労した暮らしの日々

 昭和29年(1954年)頃から父親の体調がおかしくなり府立病院に入院しました。そして翌年の昭和30年(1955年)に亡くなりました。肺がんでした。私が15歳、中学2年の時です。父は直接には原爆に遭っていないのですが、原爆が落とされた2日後ぐらいには家族の様子を見に広島の市街地に入っていたのです。亡くなったのが昭和30年ですから、まだ被爆者手帳の制度などもできる前のことでした。

 父親が亡くなってからは母親が女手一つで私たち4人の子どもと生活を支えてくれました。母親の寝ているところを見たことがないほどに、母は働き詰めの毎日でした。

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 私は中学卒業した後、父親が亡くなっていたので高校は夜間高校に行きました。昼間は企業組合に勤め、夜は堀川専修高校に通う生活を4年間続けました。自分で学校の費用も出し、ちょっとしかもらえない給料でも家にも入れていました。

 京都では被爆者の人が少なかったせいか、何事にも差別があったように思います。広島の出身と聞いただけで何件も結婚話が断られたりしたと聞いています。本当にいろいろありました。

 私の場合は主人となる人がいい人で、私が被爆していることを話すと、そんなこと関係ないと言って何も恐れずに受け容れてくれたのです。主人のお兄さんの方が心配して「どうもないか?」などと言っていましたけど。それでも広島で被爆していることは外ではあまりしゃべりたくはなかったです。結婚は昭和38年(1963年)5月7日、23歳の時でした。

■たくさんの病気に見舞われてきた人生

 被爆者健康手帳は高校を卒業してすぐの頃に交付してもらっています。母も姉も兄も一緒に手帳の交付を受けました。最初の頃から被爆者健診を受けに行っていたことも憶えています。18歳か19歳の頃、府立医大病院で精密検査のために白血球の検査をされたことがありました。胸から血を抜かれる検査でした。検査を受ける時目隠しされるので何も見えないのですが、医大の学生さんの足音やノートをめくる音が耳に入ってきて、たくさんの学生さんに囲まれて見られている中で検査されているのだということが分かりました。とても情けなくて、涙を流しながら検査を受けたことを今でも忘れることができません。

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 私は若い頃からたくさんの病気に見舞われ、治療を繰り返してきました。体はもう無茶苦茶と言ってもいいほどです。主なものだけでも、30歳の頃から高血圧の治療を始め、32歳の時に右卵巣脳腫手術、41歳の時には子宮筋腫手術、それから胆のうポリープ手術、56歳で顔面神経麻痺で治療、60歳代には足首や足の指の骨折をして治療、69歳の時には背骨の狭窄症と診断されました。70歳を超えてから胃のポリープ手術(後でがんだったと分かりました)、不整脈だとも診断され、耳は左右両方とも聞こえにくくなりました。病気ではありませんが一昨年にはまた足首骨折の怪我をし、手術を余儀なくされてきました。

 よくここまでやってこれたものだと自分自身で思います。

 広島にいる従姉妹から教えられて原爆症の認定も申請しました。70歳の時の胃がんの手術が申請理由です。おかげで原爆症と認定され、2年間だけですが手当を受けることができました。

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 私の兄は平成13年(2001年)に多臓がんで亡くなっています。62歳でした。私には戦後に生まれた弟がいます。被爆二世ということになるのですが、彼も胃がんとすい臓がんを発症しています。

 私は、女、男、男の3人の子どもに恵まれました。幸いにも今はみんな元気でやっていますが、幼い頃は貧血やなんやかやで、どの子にも一人ずつ心配し苦労したものです。

■川柳に込めた思い

 私の主人は22歳〜23歳の若い頃から、父親の背中を追って川柳をやっていました。そのおかげで私や子どもたちまで影響を受けてしまって家族全員で川柳をやっていました。主人は50歳の頃にリウマチを発症して、60歳の定年までだましだまししながら仕事に行っていました。やっと定年になってその2年後に、それまで蓄えていた川柳の作品をまとめて、念願の川柳句集を自費出版をしたのです。本の題名は『かたつむり』です。その中で私と原爆のことを詠んでくれた句が8首ありました。

川柳句集『かたつむり』
川柳句集『かたつむり』


   被爆者手帳を妻よ卑下する事はない


   8月6日妻の日記は白いまま


   オカッパの記憶あの日の蝉しぐれ


   被爆時をしずかに語るまなじりよ


   平和とは何かを子らと原爆忌


   子らも粛然と8月6日朝


   ふる里をヒロシマと書くこみあげる


   忘れてはならぬ忘れてしまいたい


 主人は26年間もリウマチで苦しみ、入退院を繰り返して、平成23年(2011年)7月17日に亡くなりました。祇園祭の日でした。76歳でした。

 主人に教わってきた川柳を私も少しずつ続けています。私の参加している京都番傘川柳会の会報にいつも作品を投稿しているのですが、最近次の2首が採用され掲載されましたので紹介いたします。


   語り部が少なくなって原爆忌


   被爆者がやっと話せるあの事を





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広島市被爆地域図

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