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●被爆体験の継承 75

原爆の閃光と私の家族たち

關 桂子さん

2019年5月21日(火)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

關 桂子さん

■東山手洋風住宅群

 私は小学校6年生の時に、今は長崎の観光スポットにもなっている、大浦の東山手洋風住宅群の中の一つの住宅に引っ越してきました。結婚するまでそこで家族と一緒に過ごしたのです。付近にオランダ坂などがあり、今は修学旅行の子どもたちがたくさん見学に来ている一帯です。当時は人々の住む一般の住宅でした。今は国の重要建造文化財として観光施設にされています。

 私の家族は、お祖母ちゃん(父の母)、両親、私と妹の5人家族でした。父はこの頃、香焼島にあった川南造船所の艤装工場の工場長をしていました。母は専業主婦で家に居ました。

■三菱造船所女子挺身隊で働いていて被爆

 私は長崎市立高等女学校を卒業したのですが、在学中から勤労奉仕で三菱重工の長崎造船所に行っていました。15歳で卒業して、それから福岡にある薬学部に行きたかったのですが、戦争がひどくなり父親から反対されて、女子専門学校の活水女学校なら行ってもいいと言われて英文科に入りました。ところが、戦争中ですから英語を教える外国の先生がみんな帰国してしまって、英文科はなくなってしまいました。敵国語は話してはいけないという頃でした。

 それで、これからどうしようかという時に、だんだんと戦争がひどくなってきて、そのまま家に居たら徴用で工場にひっぱられてしまう、自分の好きな所には行けない、というような状況になってきました。

 その頃、私の友だちの同級生や女学校の卒業生たちはみんな学校の先生になっていました。その頃の学校の先生の給料が1ヵ月33円でした。市役所や官公庁も33円でした。でも三菱の造船所は37円だったのです。それに毎日朝出して、夜2時間ほど残業すると給料が90円ほどにもなります。それに夜食としてパンの配給もあると聞いて、三菱の挺身隊に入ったのです。私が勤めたのは三菱造船の立神(たてかみ)造船所でした。直接大波止から立神まで船が出ていてそれに乗って通っていました。

 挺身隊に入って2年目、私が17歳の時に原爆に遭いました。

 この日、私は建物の2階の検査課の事務にいました。11時にブーンと飛行機の音がして、隣にいた友人と窓を開けて空を見上げたら2機飛んでいました。空襲警報は鳴っていなかったので、「あれ友軍機だよね」と言って席に戻った途端、ピカーっと光ったのです。視界が全部オレンジ色になりました。2分ほどしたら、ドカーンと、聞いたこともない、何かが割れるような音がして、それがウワーッときて、それと同時に机やら椅子やらひっくり返って、窓ガラスが割れました。

 防空訓練の隊長さんが「退避ーっ」と叫んで、私たちは防空頭巾被って、救急袋持って、防空壕になっているトンネルの方に向かいました。トンネルの防空壕に行くまでに5分くらいかかります。屋外にいた人はみんな血だらけになっていて、地獄みたいな感じです。顔がプルンとピンク色になっていて、皮膚の皮がぶら下がっている。そういう人たちがウァーウァーと大きな声を出して逃げてきます。動けない人はその辺にころがっていました。

 何が一体どうなったのか分からない、自分自身の身体もどうなっているのか分からない、とにかく防空壕に入らないとだめと思って駆け込み、そして4時間ぐらいは防空壕に入っていました。防空壕に入ってから気が付きましたけど、口の中はガラスの破片がいっぱいでした。小さな、砂みたいなガラス片です。でもどこも大きな怪我はしていませんでした。

 4時30分頃になって、「船が出るからみんな帰れー」と言われて、怪我している人でも動ける人はみんな船に乗って大波止まで渡りました。大波止から私の家までは普通なら歩いて30分ほどなのですが、この時は3時間もかかりました。帰る途中何度も空襲警報が鳴って、その度に防空壕に入りました。防空壕に入ってみると血だらけの人がいっぱいでした。

 家に帰り着いたのは夜7時を過ぎていました。それからまた「避難!」と言われて、「防空壕では駄目や、山に逃げろ!」と言われて、とにかく山に逃げようということで、海星中学というのがあるのですが、そのもっと上に山があって、そこまで逃げました。山の上には3時間ぐらいいました。山の上から見ると、ガスタンクなどがグワーッと倒れたり、ビルが壊れている光景などが目に入ってきました。

 その後また家に帰って、防空壕に入って、15日頃までそこで生活していました。終戦は防空壕の中で迎えました。

■私の家族たち

 私の妹は3歳年下で当時女学校の2年生でした。その頃は三菱兵器の工場が浦上にあってそこに勤労奉仕で行っていたのですが、その日はたまたま同級生たちと工場をさぼろうと相談して途中から自宅に戻っていました。原爆が落ちた瞬間は家の中のトイレに入っていました。三菱兵器に行っていた人たちはみんな亡くなっていて、妹たちだけが命拾いをしていました。

 原爆が落とされた時、家は瓦が飛んでガラス窓が割れたりしましたが、それ以上の被害はありませんでした。母とお祖母ちゃんもすぐに自宅の防空壕に入って、怪我などを負うことはありませんでした。お祖母ちゃんが玄関の石段の所で「鈴子さーん(母の名前)!頭の上から爆弾が落ちてきたー!」と叫びながら防空壕に転がり込むように入ってきた、とか、トイレに入っていた妹もモンペをよく上げないまま走って防空壕に入ってきた、とか、戦後よく言われていました。

 私の父は、原爆が落とされた時香焼の工場にいましたが、その日の内に家に帰ってきました。ただ、工場の職工さんたちの家族が長崎の市内のあちこちにいましたので、その安否を確かめるために市内を何日も何日も探し回りました。父は1971年(昭和46年)に食道がんで亡くなっています。74歳でした。

 原爆が落とされてから3日目、宮崎の油津や鹿児島から三菱造船の挺身隊に来ている人たちを探してくれと言われて、ずーっと長崎の市内を探して歩きました。鹿児島や宮崎から来ていた挺身隊の人たちは工場の寮にいて原爆で行方が分からなくなっていたのです。病院はほとんどやられていて、市内の学校などが臨時の救護所になっていました。そういう所を探し回りました。とにかく真夏ですから、人間の体の火傷したところにウジ虫がいっぱい湧いていて、それが強烈な思い出として脳裏に残っています。小型のエビのアミという食べ物がありますが、それから小さな白魚とか、これがウジ虫とよく似ていて、私は大人になってもずーっとこういうものは食べることができませんでした。

 鹿児島や宮崎から聞いていた人たちは、被爆した所から直接郷里に帰っていた人たちもいて、幸いにもみんな元気であることが後日確認されました。

■結婚、下関へ

 戦争が終わって、私たちは三菱ではもう仕事ができなくなりました。私は元々洋裁が好きでしたので、自宅に居て和服の着物を洋服に縫い変えるようなことをしていました。食糧難だったので田舎の方の服を縫ってあげて、その代として米やイモ、野菜などをいただいていました。それから大連で洋裁学校をしていた親戚の叔母さんが引き揚げてきて、私は叔母さんのところで一から洋裁を教えてもらうことになりました。弟子入りしたようなものです。そして2年後にはその叔母さんが長崎で洋裁学校を起ち上げられ、私もそこで教えることになったのです。長崎ドレスメーカー女学院という洋裁学校でした。

* * * * *

 25歳の時、1953年(昭和28年)に結婚しました。私は1928年(昭和3年)生まれ、主人は1918年(大正7年)生まれですから10歳年上の人がお相手でした。主人も元々は三菱造船の人でしたが、21歳で航空兵として出征し、3年を経て帰還したのだそうです。人間魚雷の設計をするために戦地から帰ったのだそうです。戦後の三菱では給料が少なく、熊本にいた両親は家が丸焼けになり、一緒に住んでいたのです。それで、結婚した頃は地方のマスコミの会社に勤めていました。

 ところがその会社が倒産して、私の父の世話で再び三菱造船の、今度は下関の事業所に就職することになりました。私が28歳、最初の子が4歳の時でした。この時初めて長崎を離れて、下関に移り住むことになりました。以来下関に住み続け、家も下関に建てて落ち着くことになりました。

* * * * *

 長崎では周りはみんな被爆者みたいなものでしたからほとんど気に掛けることはありませんでしたが、下関では事情が違いました。本当は被爆しているのに“自分は被爆者じゃない”という人も多かったのです。私たちの住む町内にも同じ被爆をされた方がありましたが、被爆の後遺症が出ることを恐れて、娘さんたちの結婚に差し障りがあるからと言ってずーっと隠し通しておられました。

 私の主人は原爆投下の時には三菱造船の飽の浦の造船所にいて被爆しています。1981年(昭和56年)に63歳で亡くなりました。突然心臓発作を発症して5日目に亡くなりました。

 主人には妹さんがいて、私よりは3歳年上でした。小倉でラジオの放送局に勤めていましたが、その内に長崎の放送局に変わっていて被爆しました。原爆が落とされたのが放送局のすぐ近くだったので大変な目に遭っています。6年ほどは生きましたが亡くなりました。髪の毛が全部バサバサバサバサと抜け落ちて、枕もといっぱいに髪の毛が溜まっていました。枕もとに私を呼んで、「兄さんのこと頼むわね」と言って亡くなっていったのです。まるで遺言のようでした。私はそれで結婚を決心したようなものなのです。親戚はみんな反対していましたから、妹さんの一言がなかったら結婚していなかったかもしれません。

 被爆者健康手帳は1957年(昭和32年)に取得しています。手帳の制度ができてすぐの時ですが、主人のお父さん、私のお姑さんが、関係している親族全員の手帳をまとめてとってくれました。健康管理手当の給付を受けるようになったのは1976年(昭和51年)からです。

■京都に来て、私も何かしないといけないと

 私たち夫婦は3人の子どもに恵まれました。長男、次男、長女の順です。長男が京都にいて今私と一緒に住んでいます。次男と長女たちは今も下関にいます。

 長男は立命館大学を経て、それからずーっと京都で仕事をしておりました。もう47年ぐらいになります。その長男によばれて、孫の面倒をみてくれと言われて、2005年(平成17年)に京都に来て、長男の家族と一緒に住むようになったのです。もう14年前になりますね。3年前から京都生協に加入して生協の利用を始めるようになりました。その生協を通じて“被爆者をはげますクリスマス平和パーティー”が催されているのを知ったのです。それまでそんなこと全然知りませんでした。「こんなことをやっておられるのだ」と思って、それからクリスマスパーティーにお邪魔するようになりました。それから私も何かしないといけないなあと思うようになって、今年の5月に市役所前のゼスト御池で行われていた“ヒバクシャと話す原爆展”に行ったのです。

 下関にいる頃から、被爆体験を手記にして書くよう何度も勧められていました。書き始めようとはするのですが、途中から当時のことが鮮明に頭の中に浮かんできて、あの惨状を思い出すとどうしても書き進めることができませんでした。特に被爆してから20年〜30年間ぐらいはどうしても駄目でしたね。でも下関では「被爆者の会」に入り、原爆記念日には長崎に行ったり、広島に行ったりしていました。“ノーモア・原爆”の平和行進に参加したりもしていました。

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 立神造船所のドックに行っていた挺身隊の仲間たちとは戦後も会うようにはしていましたが、今はみんな亡くなってしまいました。女学校の同窓生だった人たちも半分以上は亡くなってしまいました。

 実は私は三菱に勤めていたというだけで長く行方不明者扱いになっていたのです。最初の頃の女学校の卒業生名簿には行方不明者ということで名前が載っていなかったのです。

■年を重ねてきての病気

 若い頃は私もいろいろな仕事に頑張ってきました。自分の家で洋裁をしたり、洋裁学校の先生もしました。ずっと後にはヤクルトや保険の外交の仕事などもしてきました。健康には自信がありました。ところが年を重ねてきて、心臓を患ってきました。最初狭心症だと言われて入院し、それから心臓肥大だと診断されました。それ以来何度も入退院を繰り返してきました。

 一昨年には難病のクローン病もあると診断されました。この病気は原因がまだ分からないらしいのですが、日本人では18万人いるといわれているそうです。

 昨年は急に血圧が上がって、上が210、下が110にもなってパブテスト病院まで救急搬送されたこともあります。今も血圧の薬は放せない状態が続いています。

* * * * *

 私の家のお墓は長崎の飽の浦にあります。父も母もそこに埋葬されています。ですから私も時々は長崎に帰って手を合わせるようにしています。
                       (了)

私たち家族が過ごしていた東山手洋風住宅(一番手前の住宅・現在の様子)
私たち家族が過ごしていた東山手洋風住宅 (一番手前の住宅・現在の様子)

私たちが住んでいた洋風住宅の前で
私たちが住んでいた洋風住宅の前で

住宅の中には、被爆時の建物内の物や日用品などが展示されていました。
住宅の中には、被爆時の建物内の物や日用品などが
展示されていました。



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