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●被爆体験の継承 76

広島第二県女の奪われた命を語り継ぐ

切明千枝子さん

2019年6月24日(月)
「切明千枝子さんの被爆証言を聞く会」でのお話し

■切明千枝子さんのお話しを聞くことになった経緯
   宇多滋樹さん

 宇多滋樹と申します。
 僕が切明さんと出会ったのは1年と9ヶ月前です。何故出会ったかというと、自分が小説を書くために、何を書くかということですけど、自分の母親が3年前に97歳で亡くなりましてね、亡くなった後じーっと考えていたら、僕は母親のことをどれだけ知っているだろうかと、生前生きていた頃の母親のことを思い返してももう断片的なことしか思い浮かばない。ずーっと思い返していると、彼女が若い時に昭和15年ぐらいから付き合い始めた男性がおりまして、その恋しい彼のことをよく聞かされていたんですね。その人との東京時代、本当に仲良く、炭問屋で働いていた頃のことも懐かしく話していました。

 岸成朋さんと言って、名前までちゃんと言っててくれて。ところが僕の父親ではありません、その彼は。そのすごくいい男性はですね、昭和18年の5月末のアッツ島の、格好よく言えば玉砕ですけど、玉砕第1号ですね、日本の戦争で言う。そこで戦死してしまいます。2,500人全滅です。その一員だったのです。それで彼女は彼の帰りを待っていました。ずっーと。でも戦死公報というのはずーっと後です、着くのは。紙切れ一枚で。そのように彼のことをいろいろ生前の母親は言っていたので、親父のことはさておいて、母親のことを何しろ書きたい。何故か僕は母親のことが大好きで、父親は軍隊式の人でしたからあまり好きじゃなくて、というか嫌いだったのですけど。だから父親のことを書くよりも、戦死した彼のことに目がいってしまったのですね。

 岸成朋さんというのは広島出身でした。広島出身としか聞いていなかったのです。それでどうして彼のことを調べようかと思いました。名前しか分からない。岸成朋、広島出身。それでアッツ島の戦死者の名前が公表されたのは玉砕戦のあった3ヶ月後あたりなのです。新聞、ラジオで出ました。その日付は全国一緒です。その日を?まえたものですから、これは広島の新聞、広島出身なら中國新聞か大手の新聞の県版に載っているのではないかと探し始めたのです。アッツ島で玉砕した岸成朋さんという人いますか、ということで。そしたら、中國新聞に、これは幸いと言っていいでしょうねえ、名前だけではなくて、彼がアッツ島に渡る直前に北海道の港で投函した姉さん宛ての手紙のあることが分かったのです。姉さんという人は広島市の中区鶴見本町、今は鶴見町です。鶴見橋のすぐ近くです。そこの出身だということが分かって、住所が分かって、そこから手繰り始めたのです。4回ほど、1回につき5日間ぐらい、合計20日間ぐらい日参して取材して聞き込みをして、向うの図書館にも行って調べて、さすがに広島の図書館は原爆関係の資料も豊富ですから。それでやっと掴んで、鶴見本町に何回も何回も行って、もう当時の町は吹っ飛んでいますから、即死率は80%ぐらい、爆心地から1500bぐらいの所ですから。それを探しだそうとして、家はどの辺にあったか、せめて吹っ飛んでしまった家はどの辺りにあったかを。

 今回切明さんをお迎えするついでに、これで5回目ですけど、広島に行って探してきました。今は便利なものがあるのですね。旧住所表示と今の住所を合わせてスマホでやると、竹屋町公民館の人が僕を連れて行ってくれるのですよ。「ここら辺りですよ」と言って、ブロックが分かりました。そこまでは、5回目の、5日前ぐらい前にようやく探り当てました。でももう道は変わっているし、道ぐらい残っているかなと思っていましたけど、大間違いで、何もかも変っていて、そのブロックだけが分かった段階です。でもその姉さん家族のことは探してきました。生きているか死んでいるか。皆目分かりません、今のところは。

 そんな具合で、切明さんにお会いしたのはそんなことも含めて、生の声をお聞きしたいと思って、友人を介して切明さんを紹介してもらって、1年9ヶ月前に原爆ドームの前でお会いしました。麦わら帽子を被って、腰から日本手ぬぐいを下げているのが僕ですから、と言って。ようやくそこで会えました。

 そう言うつながりなのです。

* * * * *

切明千枝子さん

 みなさまこんにちは、ご紹介にあずかりました切明千枝子でございます。

■戦争の“時代”の申し子

 今宇多さんがお話しして下さったのがここへ座らせていただくことになった諸々のことでございますが、実は私は1929年生まれでございます。1929年という年がどういう年かご存知でしょうか?

 近現代史を習うと必ず出てくる年なのですが、世界大恐慌の始まった年なのですね。恐慌というとみなさんご存知のように、物を作り過ぎて売れなくなって、それを作った工場とか売った会社とか、次から次へと倒産する、株券は紙くずになる、失業者は巷に溢れる、そんな大変な時代であったようです。でもまあ私は赤ん坊ですからそれを見て憶えているわけでもなんでもないのですが、でもまあその時の空気を吸って生きた人間であると思っております。

 その不景気な不景気な社会をいっぺんに景気をよくする、ひっくり返す大変有効な手段と言うか方法があるのですよ。何だと思われますか。それが戦争なのですよ。戦争が起きますと、もう軍需産業が一気に盛んになるし、男の人たちは兵隊として戦場へ送り込まれる、人手が足りなくなる、もう失業者なんていなくなるのです。失業者どころか働き手が足りなくて、もう女性は子どもたちまで動員して働かせる、それが戦争なのですね。私は本当に戦争の申し子かなと思うほど、生まれた時からずっと、2歳か3歳の頃から戦争なのですね。満州事変と言って中国の東北部にあたる所を日本軍が占領したようなことで、満州国などという傀儡の国をでっち上げたりして勝手なことをしておりましたから。中国は気に入りませんよね、日本が勝手に入り込んできて、自分の国を植民地のようにしてしまったのですから。いざこざいざこざが絶えなくて、とうとう日中戦争が起きるのですね。それが私が小学校の2年生の時でした。

■軍都広島

 広島というところは、たった一発の原爆で街中が壊滅状態になったと言っても過言ではないのです。私の実家と言いますか、生まれて育ったところは地図のBで示していますが、タバコ工場と書いてありますが、御幸橋という橋の袂なのですが、その割合近いところに実家がありました。

 それから私の通っている学校が県立第二高等女学校という学校で、地図では番号Cにあるところです。校舎が壊れはしましたけど、焼けはしなかった地域にございました。当時は私、高等女学校という学校の4年生だったのですけど、今の学年で言うと、学校の制度が違いますので、ちょうど高校1年生にあたる年齢でございました。それでももう原爆の落ちる前の年から、学徒通年動員というのが始まりましてね、高等女学校に入っても、勉強らしい勉強したのは最初の半年ぐらいで、後はもう本当に次から次へいろいろな工場へ働きに行かされておりました。

 広島という街はね、地図をご覧になったら分かると思うのですが、太田川という大きな川があって、その川が運んできた土砂が積もり積もってできたデルタなのですね。三角州なのです。だからちょっと掘ると塩水が出てくる。だからお米はできないし、それから広い平野もありませんし、農産物はできない、わずかにできると言ったら蓮、蓮根を作る。あれは塩気があっても出来たのだと思いますけど、私が子どもの頃は、街の中心部は都市でしたけど、ちょっと離れたところはもう一面の蓮田でしたね。

 ではなんで広島は大きな産業もないのに繁栄したかと申しますと、これはひとえに戦争のおかげで、この広島の中心部に広島城というお城があったのですが、このお城を中心にあたり一帯に広い、基町という、今も基町という町はそのまま残っていますが、軍隊の巨大な基地があったのですね。5師団11連隊といって、広島の人に言わせると日本一強い軍隊だったというのですが。だからあの、南京大虐殺ってありましたよね、あれにもどうやら関わっている部隊らしいのです。だけど、もう戦場に行って、還ってこられたご老人がまだご存命の頃に、そのことを私尋ねたことがあるのですけど、「さあなあ」と言って、とぼけて、教えてはくれませんでした。だけどどうもあの南京大虐殺にも関わっていたようなのです。

 南京と言う都が陥落した時には、私小学校生だったのですけど、もう広島の街は万歳万歳で溢れかえって、私たち小学生は旗行列といって日ノ丸の旗を持って行列をしてパレードです。広島の街の中を。軍歌を唄いながら。大喜びでそれこそもうお祝いがあったのですね。夜になると今度は提灯行列といって、大人の人が日ノ丸提灯に灯を入れて、その提灯をもってみんな町内別にチームを組んで集まって、それで万歳万歳です、これも。そういう賑やかなまるでお祭り騒ぎ、そこで何人死んだかとか、何人虐殺されたとか、そんなことまったく報道もされませんから、知りもしなかったのですが、考えてみたらその南京という都市を攻略するために、どれだけの命が失われたことかと思うと、もう暗然たる思いがするのですけど。そんなことは知ったこっちゃないという感じで万歳万歳のお祭り騒ぎをした記憶がございます。

■出征兵士を送った港

 地図の一番端っこ、宇品という街でございますけど、陸軍船舶練習部と書いてある、あそこに陸軍の巨大な輸送部隊がいたのです。陸軍と海軍ってとても仲が悪くて、海軍の軍艦なんかに絶対に陸軍の兵隊なんか乗せませんから、だから陸軍は陸軍で運輸部というのを作って、それで船舶隊という部隊があって、自分たちで船を都合してきて、兵隊を戦場に送りだす。今は広島港とよんでいますが、私はこの宇品の港というのは、陸軍の軍港だったと思っています。毎日毎日たくさんの兵隊がね、ここから送り出されていきました。それを万歳万歳と見送るのが私たち小学生の仕事といったらおかしいですが、つとめだったのですね。

 兵隊さんたちがたくさん送られていく、その傍らで、宇品の岸壁で兵隊を見送っておりますとね、今は大きな港になっていますけど、1万トン級の船でも横付けできる港になりましたけど、当時はすごい遠浅の港で、大きな船は沖の方に泊まっているのですよ。それに兵隊が岸壁から艀(はしけ)に乗りましたね、艀ってご存知だと思いますけど、底の平らなボートみたいな船です。それを何艘も何艘も連ねて、そこへ重装備をした兵隊がきっちり詰め込まれて、先頭は発動機をつけたポンポン船とよんでいましたけど、その発動機船が引っ張って沖へ連れていくのですよ、兵隊を。兵隊たちは輸送船に乗るのに梯子で登って行って乗るのですね。

六管桟橋の跡碑(広島市南区宇品波止場公園)戦時中、たくさんの兵士と軍事物資がこの桟橋から送られていった。
六管桟橋の跡碑(広島市南区宇品波止場公園)
戦時中、たくさんの兵士と軍事物資がこの桟橋から送られていった。
■悲しい馬のいななき

 たくさんの馬も運ばれていったのです。中国大陸というのは、道路が整備されていないからトラックを持っていってもあまり役に立たなかったらしいのです。大きな都会というのは、今は知りませんよ、今は中国も大きな工業国になっていますから道路も整備されておりますでしょう。でもその頃は道路なんかなくて、街は城壁に囲まれて、その中が都会なのですね。その外は一面の麦畑。コーリャン畑。コーリャンって、丈の高い、私の背丈よりもっと高い、先に穀物のできる植物なのですが、そういう畑が一面に続いていて、トラックはあまり役に立たないというので、たくさんの馬がね、連れて行かれました。当時は騎兵隊もありましたから、兵隊が乗って突っ込んで行くっていう乗馬用の馬と、それから荷物を運ぶ馬と、両方の馬が運ばれて行きました。騎兵隊の馬は格好のいい馬なのですよ。荷物を運ぶ馬は駄馬なのですね。それがたくさんたくさん戦場に運ばれていくのです。私は動物が大好きでしたからね、兵隊さんより馬のことばっかりが気になって、馬は自分で梯子を登りませんから、みんな艀で沖へ連れていかれて、横付けにされて、腹にバンドを掛けられて、甲板からクレーンが下りてきて、釣りあげられて乗せられるのです。

 普段は民間にトラックがなかったものですから、民間でも荷物を運んだりするのは馬車が使われていた時代ですから、馬はとても親しい関係にあったのですね。トラックターミナルではなくて、馬車屋さんと言って馬車のターミナルみたいな所があって、たくさん馬車車を持って、馬を何頭も飼って、お引っ越しだと言えばそこに頼みに行く、馬車に荷物を曳いてもらって、馬がパカパカ引っ越し荷物を運んでいく、私もそれで一度引っ越しした憶えがあるのですが。そういう時代でしたから、とっても馬は親しかったのです。

 その馬たちが普段は元気よくヒヒーンといななくのですが、船に釣り上げられる馬の鳴き声、もうそれはそれは悲しそうな、哀れな哀れな声を出すのです。だから私は、ああ馬にも自分が動物の本能で危ないところに連れていかれるっていうのが分かったのではないかなと思うのですね。

 そういう可哀そうで可哀そうで、馬のために涙を流した記憶がございます。小学校の2年生でした。毎日毎日宇品の岸壁でそういうのを見送って、長い長い戦争でございました。

■帰ってこなかった馬、犬、鳩たち

 戦争が終わって、広島は壊滅状態になるのですが、宇品の港は焼けませんでした。助かったのです。港の設備もそのまま残ったものですから、今度はたくさんの兵隊が、復員と言って戦場から引き揚げてきた。その時私はもう高等女学校を卒業して女子専門学校という学校に、これも宇品にあるのですが、進学しておりました。学生たちがね、自分たちが幼い時には万歳万歳と言って勢いよく元気よく旗振って見送った兵隊たちが、もうしょぼくれてしょぼくれて、誰のお迎えもなく宇品の港に帰ってくるのが、もう気の毒で気の毒で。そこで学生たちが今度はボランティアで、在外同胞救出学生同盟とかいうなんか偉そうな名前をつけたボランティアグループみたいなものを立ち上げましてね、それで港に迎えに行った記憶もございます。

 帰ってくる兵隊たちは、行く時には元気よく勇ましく、「勝ってくるぞと勇ましく」なんて歌もありましたけれど、そんな軍歌を唄いながら行進して出て行った兵隊たちが、もう髭もじゃになって、汗と血にまみれた軍服よれよれになって帰ってくるのが本当にね、お気の毒としかいいようがなかったですね。

 広島は焼け野原だけど、まあ宇品は助かったので、たくさんの兵隊が帰って来られた。あの時は宇品だけではなくて、舞鶴とかにも引き揚げてきた方はたくさん上陸されたと聞いていますけれど、宇品にも随分兵隊が帰ってきました。

 それを出迎えた時に私がフッと思ったのは、あの時たくさん送られていった馬はどうしたろうと思ったのですよ。でも馬は一頭も帰ってきませんでした。馬ばかりではないのですよ。宇品から送られていったのは犬、鳩。犬はシェパードが多かったです。軍用犬と呼ばれていて。広島にはありとあらゆる兵科の部隊があって、歩兵、砲兵、機関銃隊と。電信隊というのもあって、それは無線電信とか、それから占領地に電話を引くとか、あらゆる手段で連絡をとるのが専門の部隊なのですが、その部隊は伝書鳩を連れていく、軍用犬と言う犬を連れていく。その犬は何をしたかと言うと、首輪に通信管をつけて、第一線と後方との連絡に使われる、犬の首に命令書を書いて第一線に送られる、第一線から今度は報告書が詰められて後方の基地に連絡に帰ってくる、弾の中を潜りながら。だから犬たちも命がけで行ったり来たり戦場でこき使われたのだと思います。

 伝書鳩も使われて、第一線の報告を後方へするとか、後方から第一線へ鳩が行ったのかそこまでは知りませんが、犬は確実に行ったり来たり行ったり来たりしたみたいです。

 だけど復員してくる兵隊さんたち、随分の数の方たちが戻って来られたのですけど、馬は一頭も帰ってきませんでした。鳩は一羽も帰ってこなかった。犬も一匹も帰ってきませんでした。私は犬や馬や鳩たちがどうなったのだろうと思って、戦後とても気になって、戦線から帰った兵隊だった方にそのことを話して、「どうなったんでしょうかね」と言ったら、みんな言葉を濁して「さあ、なあ」とか言って教えてくれないんですよ。私の母の弟が、叔父ですが実は軍人でごさいましてね、陸軍士官学校出の生粋の軍人だったのですけど、その叔父がなんとか無事に帰ってきたものですから、その叔父に「おじちゃん、馬やら鳩やら犬やらいっぱい行ったけど、あれどうなったの。教えてちょうだい」と言ったら、その叔父ははじめは「さあなあ」なんて言っていたのですけど、「実はなあ、戦争に負けたら日本軍も食べるものがのうてなあ」と言うのですよ。「食べたの?」と言ったら、「まあなあ」と言うのですよ。「だからねえ、涙を飲んで自分たちの愛馬であった軍馬を殺して、肉をもらって生き延びた兵隊がいっぱいおるよ」と教えてくれました。「犬は?」と聞いたら、日本人は犬を食べる習慣はないから、犬は食べなかったと言うのですよ。だけど中国の人は犬を食べるのだそうですね。だから犬を中国の人に譲ってコーリャンだとか麦だとかの食べ物と換えてもらったと言うのですよ。「鳩は?」と言ったら、「鳩はうまいからなあ。フランス料理では高級料理だからなあ」って言いました。食べたとは言いませんでしたが、鳩も食べられたのだろうと私は思っていますけど。

 だからもう戦争と言うのは人間ばかりか、そういう動物までも犠牲にし、草や木まで根こそぎ焼き払い、生きとし生けるものの命を根こそぎ奪っていくのが戦争だなあと思いますね。

■灰燼の街

 広島の街も本当に草木も根こそぎ焼けちゃって、75年は草木も生えないなんてね、原爆の後では言われたのです。だけど、どこからか種が飛んできて、鉄道草と言っていましたけど、ヒメムカシヨモギというのが二番目だとか聞きましたけど、北米が原産で、鉄道の荷物に種がついてきて、それがこぼれて鉄道沿線に生えたので鉄道草という名前がついたと聞いていますけど、丈の高い上に白い小さな小さな小菊のような花が咲くのですけど、そういう草がね、戦後間もなくしてから生えてきたのです。草木も生えないと言われたのに草が生えたじゃないと言って喜んだのを憶えております。その草のね、先っちょの方の柔らかいところとか花とかを摘んで、これも食糧のない時には食べましたね。だからもう本当に広島の人たちは焼け野が原で、どうやって生きていこうかと、生き残った人たちは本当に草を食べて生きていきました。

 私の学校の生物の先生が教えてくれたのですが、ナという字のつく草は毒ではない、食べられるよ。ヨメナとかナズナとか、そういうナのつく草はね食べられるのだよ、と言われて、そういう草をむしってきてね、お雑炊に入れてそれが三度三度の食事でございましたね。

 市役所もやられる、市長さんも亡くなる、県庁は焼かれるで、行政は壊滅ですからね。誰も助けてくれないのですよ。軍隊も壊滅ですし、唯一残ったのがこの宇品港にいた陸軍船舶部隊という部隊だったのです。そこの兵隊さんが遺体の処理をしてくれたり、それから衛生兵の人が来て火傷の手当の方法を教えてくれたりしたのですけど、それも終戦までです。8月15日が来たら日本陸軍は解散ですからね。船舶隊の兵隊たちもそれぞれの国へ帰っていく。ですから本当に誰も助けてくれなかったですね。もう自分たちでなんとか手当をしてなんとか生きていくしかないという、空白の10年と言われていますけど。戦後は辛かったですね。

 生き延びた人たちもたくさんの身内を失ったり、友だちを失ったりで、自分たちだけ生き残ってしまったという後ろめたさにさいなまれて、ああ命が助かってラッキーなんて思った人は一人もいないと思いますよ。みんな「なんで一緒に死なんかったんじゃろうか」、「もう一緒に死にたかったよ」とぼやいていました。私もそういう一人で生きている気力もなくしていたのです。

■脱毛・出血・紫斑、そして・・・

 私は幸いにも両親が無事で、父親は元宇品に、今は大きなプリンスホテルの建っている近くですけど、そこにあった大きな造船所の技師でした。広島市内の中では一番安全な所にいたのですね。父は無事でした。だけども私や、私の妹も学徒動員で市内の中心部に出ていて、妹は行方が長いこと分からなかったものですから、父親はこの火の中を潜って妹を探すために何日も何日も、放射能のことは知りませんから歩き回って、結局一番安全な所にいた父が白血病になってしまったのです。

 白血病も、普通の原爆に関係のない白血病はどちらかと言うと白血球がどんどんどんどん増えていく、天文学的数字に増えていって、がん細胞みたいにどんどんどんどん血液の中の白血球が変形して増えていくのが普通白血病というのだそうです。ところが原爆の白血病は減っていくのです。どんどんどんどん白血球が減っていく。だから白血球減少症という名前が、当時の厚生省からつけられて、白血球減少症というのは=原爆症ということでございました。

 父はその病気にかかって亡くなってしまったのですが、怪我も何もしてないのですよ、一番安全な所にいたのですから。それが白血球減少症ですからね、どれだけここの焼け跡にたくさんの残留放射能があったかということなのですよね。でもそのことは誰も教えてくれないし、報道もされない。戦争が終わって間なしに広島にたくさんのアメリカ兵が進駐してきたのです。でもそのアメリカの兵隊たちも知ってはいたのでしょうけど、そんなことは教えてくれない。報道はもう厳重にプレスコードがかかっていて、地元に中國新聞と言う新聞社があるのですが、その新聞社の方も取材はしても、報道はできないという時期が、あったようでございます。

 ですから、本当に何も知らないから、平気で焼け跡に身内を探したりしながら、みんな歩き回って、それから放射能の後遺症みたいな病気で次から次へと死んでいくのですよ。典型的なのが、まず髪が抜ける、もう束になってバサッと抜けるのです。髪が抜けた後今度は歯ぐきから血が滲んでくる。あれれと思っていたら、体に紫の斑点、紫斑が出る、そしたらもう末期なのです。その内に今度は血便が出る、そこまで症状がいった人はもうほぼ助からないと言われていましたね。それに原爆症という名前がついたのはまた後のことで、なんだか分からないけど、爆弾が落ちて毒ガスを吸ったのだろうと、吸った毒ガスが体に回ってそういう症状が出るのだろうというのが一般市民の理解でしたね。大分後になって放射能というのがあるのだと聞いて、もうぞーっとしましたけど、放射能ということさえも、市民には知らされていなかった。それを知らないで郡部から身内を探しに来たりして、後で市内に入ってきて、それでまた原爆症になった人も随分あったのです。怪我も何もないのに、ある日突然髪が抜け、ある日突然血便が出て、血便が出るから伝染病の赤痢だと思われたのですね。だから血便が出た人は赤痢だからうつるから近寄っちゃいけないとか、そんなひどい話になってしまって。

■箪笥の引き出しがお棺になった幼い従妹

 私の従妹二人が、叔父、叔母と街の中心に住んでいたのですが、叔父、叔母はどこで亡くなったのかも分からないのですが、幼い従妹たちがなんとか無事に火の中を潜って、比治山の近くにあった私の家に辿り着きました。地図のAの陸軍被服支廠、これは軍の大きな工場なのですが、兵隊の軍隊の帽子から靴の先まで軍服を主に作る工場なのですが、そこで何千人という工員さんが勤めていました。私の家はそこの近くだったので、焼けはしなかったのですけど、もう本当に、街の方に住んでいたたくさんの人が、宇品の港の方は焼けていないというので、そこをめざしてたくさんたくさん逃げてきて、私の家にもその従妹たちが逃げてきたのです。そして3日目か4日目に血便が出るようになったのです。そしたら赤痢だということになって、母が、はじめは壊れた私の家の座敷の畳をはがして、他所の畑の中に勝手に入り込んでそこに畳を敷いて、どこかから柱を持ってきて四隅に立てて、テントなどはないですから蚊帳といって、蚊を防ぐために夜吊って寝る夜具があったのですけど、それを外に釣って、その中に従姉妹たちも寝かせて、私たちも一緒にすし詰めになって野宿をしたりしました。

 血便が出だしたものだから赤痢だろうと言って、その従姉妹たちをまた別の所に離して、私たちにうつってはいけないから近づくなというのですよね。その従姉妹たちは3日目か4日目には死んでしまったのですけど、せっかく逃げてきたのに。私は仲良しの従妹だったのですけど、その死目にも逢えないで、荼毘に付されてしまったのです。

 でも亡くなっても火葬場もなければ何もないのです。だから近くの畑とか野原とかへ、桜土手と言って春には桜が満開になっていっぱい咲き誇る土手があったのですが、そこの土手の並びがずーっと死体焼き場になってしまったのです。母が従妹をこのままでは放っておけないからどうしようかと言って、いろいろ考えて、箪笥の引き出しを抜いて、その引き出しをお棺の代わりにして、従妹も幼いですから小さいので箪笥の引出しに入るのですよ。その和箪笥の引出しに従妹を入れて、両側から大人が抱えて、土手の並びに行って、火葬にしたのですね。お手元にある絵は、私の描いた絵なのですが、あれは私の従妹を焼いた時はこういう焼き方ではなかったのです。

 箪笥の引出しに入れた従妹をえっちらおっちら土手に運んで行って、そこに焼け残った家でめちゃめちゃになったお家があったりしたら、空家ですね、そこの窓枠なんかを勝手に外してきて薪代わりにしてそれを積み上げたりして焼いたのです。

 とにかく次から次へ死んでいく人が出てきて、人々はもうそれこそまるで人焼き人夫でした。

■広島中に溢れたあの臭いを残すことができたら

 私の通っていた学校は宇品の港に近かったので焼けませんでした。妹も同じ学校の下級生で通っていたのですが、なかなか帰ってこないから、父が「お前は照子(私の妹の名前)が学校に帰ってくるかもしれないから学校におれ」というものですから、家から離れて泊まり込みみたいにして学校にいたのです。1年生と2年生の下級生たちは、広島の市役所の裏、地図のEの雑魚場町、昔雑魚場と言って、ブリとかマグロとかの大きな魚ではなくて、小さないわゆる雑魚を取引する市場があった街なのですよ。広島は城下町でしたから、雑魚のある所は雑魚場町、箪笥やいろんな家具を作る所は細工町、猿楽師が住んでいる所は猿楽町と、みんな職業別に住んでいる所が決められていて、町の名前が鍛冶屋さんが住んでいる所は鍛冶屋町とかですね、そういう町名があったのです。今はそういう町はみんな無くなって、大手町何丁目とか、そういうように十把一絡げ(じっぱひとからげ)にされて、古い町名は無くなりましたけど。鷹匠が住んでいる所は鷹匠町とか、私の娘が生まれた時はまだ旧町名は残っていて、私の娘は鷹匠町にあった病院で生まれたものですから、出生地が鷹匠町になっています。

 そんな旧城下町だったのですが、それが木端微塵にやられてしまって、原爆資料館ができていますが、でも臭いだけは資料として残すことができない。あの臭いを残すことができたら、どんなにひどかったかということが、一目瞭然ではなく、一息吸ってもらったら「うえっ」となるような臭い、それを嗅いでもらうことができたらどんなに悲惨だったかということが分かってもらえると思うのですけど、臭いはとっておくことができない。その臭気といいますか、人や獣が焼けていく臭い、建物が焼ける臭い、草木が焼ける臭い、犬だろうが猫だろうが、馬だろうが、そういうものが焼ける臭い、それが広島市内に満ち満ちたのです。

■ハエに襲われる街

 そしたらですね、地図で緑になっている郡部、佐伯郡とか、安佐郡とか、双葉山とか、焼けなかった郊外から、まあ集まってきた集まってきたハエ。こんな大きなハエが広島中を覆ったのです。道を歩こうと思っても、何か木の枝か何かで払いながらでないとハエがたかってくる。死んだ遺体にハエがたかってウジ虫がわくというのは分かりますよね。

 広島の中心部の雑魚場で作業していた下級生たちが宇品の学校まで帰ってきたのが何人かいるのですよ。その子たちの血膿の臭い、それをめがけてハエが飛んでくる。それを払っても払ってもしつこくしつこくハエが来る。窓なんかは壊れていますから防ぎようもない。蚊取り線香もなければ、殺虫剤もないですからもうハエにたかられ放題。そうすると、下級生がたくさん雑魚場町から全身火傷で帰ってきたのですけど。

 全身火傷って想像できますでしょうか。火傷すると水膨れになりますよね、痛いです。部分的に火傷してもピリピリ痛いのに、それが全身火傷なんですよ。全身水膨れ。髪の毛は焼けてみんなチリチリ、あの頃は長い髪をそのまま垂らしたていてはいけなかったのですよ、作業の邪魔になるからといって。だから長くしたい人は必ず三つ編みにするか、おさげにするか、それとも短くおかっぱに切るか、邪魔にならないような髪にしなければならないとされていたのです。みんなそうしていたのですけど、それがみんなざんばら髪になっちゃって。もう全部逆立っている。一本一本焼け縮れてうおーって立っているのですよ。着ている物も焼けちゃって裸同然。手の先から真っ黒いドロドロの、まるで昆布か若布を水に浸したようなものがぶら下がっているのです。足元にもずるずるずるずる長い昆布か若布のようなものが引きずられているのですよ。なんだろうと思ってみたら、全身火傷で、表皮がペロンと剥ける、その剥けた表皮が、手先に爪があるから、スポッと抜けて落ちてしまわないで、止まってぶら下がっている。手から黒いものをぶら下げて、足には昆布かワカメのようなものを引きずって。

 その生徒をご覧になって、もう中年を過ぎた女の先生でしたけど、若い男の先生なんていないのですよ、みんな召集されて戦場に行っていますからね、女の若い先生か、お年を召した先生しかおられない。その女の先生が「これは皮膚だけどどうしようもないわね」と言ってね、私は勇気のある先生だなと思いましたけど、最初の一人をね、ぶら下がっている皮膚を手で千切ってね、棄てられたの。足にずるずる引いている皮膚も千切って棄てられたのですよ。そしたらね、その子は何と言ったと思います?もう唇も火傷で腫れあがって、うまくものも言えないのだけど、細い細い声でね、「先生ありがとうございます。これでちゃんと歩けるようになりました」そう言ったの。自分で自分の足の皮膚を踏んづけてね、ずるずるですから、それで滑り転びそうになりながら、火の中を帰ってきたのですよ。もうそれは可哀想でね。どう言ったらいいのか、慰めの言葉なんか出やしませんよ。医者もいなければ薬もない。

 怪我をしたままの人たちも、しばらく生きていた人たちがおりましたのですけど、その人たちの体に、生きている体に、ハエがいっぱいたかって卵を産んで、体中ウジ虫だらけになるのですよ。生きている体にですよ。痛いから「取って下さい、取って下さい」と言うのですよ。ウジ虫がうごめくのが痛いのですね。さすがに素手ではようとらないから割り箸で一匹一匹取るのですけど、取っても取っても取っても、中から湧いてくるのかと思うぐらい、ぴっちり湧くのですね。両腕のウジ虫を取ってあげて、ああやっと綺麗になったと思ったら、「背中も痛いから見て下さい」と言うので、そーっと起こすと、背中にびっしりウジ虫。取ってあげている途中に息を引き取る子もいるのですよ。それを荼毘に付すのに、遺体は死後硬直が始まってピクとも動かないのですが、ウジ虫は生きているのですよ。動くのですよ。それで荼毘に付すので火をつけて、火が回っていくとね、想像できますか?ウジ虫のはじける音がするの。ウジ虫が熱で膨らんでパッパッパッという音がしてはじけていくのですよ。その内に内臓に熱がいって、胃とか腸とか、これも破裂音ですね、自転車のタイヤがパンクするような音がするのです。ジリジリジリジリ焼けていって。今考えても地獄でしたね。

■比治山橋のたもとで

 私たち上級生は工場勤務が多かったですから、割と無事で、何人かは学校まで帰りついたのはいたのですが、私もその一人でした。地図のBにタバコ工場と書いてありますが、その日私はこの工場に学徒動員で出ていました。朝7時半から工場に行って8時からもう機械を回してタバコの粉まみれになりながら働いていたのですが、朝から晩まで立って働くので、足を痛めて、医務室があるのですけど、内科の先生しかいないので、その内科の先生が「あんたなあ、関節リウマチが起きよる、わしが紹介状書いてあげるから外科の病院に行きんさい」とおっしゃって、紹介状書いてもらって、7月の終わりからこの比治山橋という地図の@にかかっている、その橋を渡った先にある病院なのですけど、そこへ1週間に1回通っていたのです。ちょうど8月6日は月曜日でね、その病院に行く日だったものですから、タバコ工場の先生に断ってもらって2時間だけ休暇をもらって、病院に行くために、この橋の所まで行っていたのです。

現在の比治山橋東詰
現在の比治山橋東詰

 橋を渡ろうと思ったのだけれど、暑い日でね、朝からかんかん照っていて、足は痛いわ、汗は出るわね、そしてまたこの比治山橋が長い橋なのですよ。今もありますけど。その橋を渡るのにね、これは一休みして汗を拭かなきゃ私は渡れないわと思って、きょろきょろどこか陰がないかなあと見てたら、橋の袂に小さな木造の倉庫みたいな建物があって、軒が深くてちょっと陰があったのですね。あっ、あそこに入って汗を拭こうと思って、そこに入った瞬間だったですね。ピカァーっと、何と言ったらいいのか形容のしようのない、昔集合写真などを撮る時に写真屋さんが、あれマグネシゥムですかね、バアッと焚いてましたでしょ、あれをね、何千発も集めてバアっとやったかというような、おひさまが目の前に落ちたような閃光でした。パアッとそれが光ってきて、爆心地には背を向けて立っていたのですけど、それでもパァっと目が眩んで、あっと思う間に地面に叩きつけられて、爆風で、それで気を失っちゃったんですよ。

 気を失った時間がね、どれぐらいだったのか、ほんの数秒だったのか、もっと長かったのか、それは分かりません。

 はっと気が付いたら、体の上に重い物がいっぱいのしかかっている。その倉庫みたいな建物が私の上に倒れていた、その下敷きになっちゃったのですね。でも私はその倉庫があったお陰で、熱線をその倉庫が防いでくれた、火傷を負わなかったのです。その代わりその倉庫の、窓があったとは思わないのですけど、天窓かなんかあったのでしょうか、ガラスの破片が、小さなガラスが頭や首筋に立っていたのです。それは後から気がついて、その時は痛くもなんともなかった。

 その時は必死になって、倉庫の残骸から抜け出すことができたのですね。もっとしっかりした建物の下敷きになっていたら、圧死していたと思うのですけど、まあなんとか私の力でも抜けて出ることができたのですよ。

■対岸から逃げてくる人たち

 「助けて下さい!」と一声言ってみたのですけどね、誰も助けには来てくれない。自分ではすぐそこに爆弾が落ちたと思ったのですね。必死になって外へ這い出て、そしたら、さっきまでカンカン照りだったのに、あたりが真っ暗闇。何にも見えないのですよ。えーっと思ってね、わけが分かんなくて、その暗闇の中にしばらく突っ立っていたのですね。後から考えたら、うわーっとあの原子雲が上って大きな柱になって、地上の埃とか土も一緒に巻き上げて、うわーっと高い所まで昇って行って、広がってキノコ雲になっているのですね。だけど私はキノコ雲は見ていない。キノコ雲の柱の中にいたのだろうと思うのですけど。えーっ、真っ暗闇だあと思って、どうしよう、どうしよう、どうしようと暗闇の中でまた茫然自失ですよね。それでぼんやりと突っ立っていたら、しばらくしたら、少しずつ少しずつあたりが明るくなって、周りが見えるようになったのですね。そしたら今歩いてきた道の両側の家がみなぺっしゃんこに潰れている。渡っていこうと思った橋の向こうは、紅蓮の炎と真っ黒い煙。もう大火事になっているのですよ。そこではじめて、自分のそばに爆弾が落ちたのではなかったということを知ったのですね。

 橋の向こうはもう真っ黒い煙に包まれてね、チラチラチラチラ炎が見える。橋の向こうから大勢の人が私のいる方に向かって、悲鳴をあげながら逃げてくる。その人たちの着ている物がボォーボォー燃えている、それを消そうともしないで、消す手段もないのですが、消そうともしないで燃えながら逃げてくる、泣きながら逃げてくるのですよ。でも私はそれをどうしてあげることもできない。ただ茫然と見ている。そしたら、橋の南の方、宇品の方は火の手が上がっていませんから、みんなそちらをめざして逃げていくのですよね。私の目の前を燃えながら泣きながらたくさんの人がゾロゾロゾロゾロ逃げていく。

 私はどうしよう、どうしよう、どうしようと思ってね、その時はもうタバコ工場に帰ろう、帰れば先生もクラスメイトもいるからと思ってね、それしか頭になくて、帰ろうとするのだけど、今度は道がない。両側の家が潰れちゃって、そこからブスブスブスブス、まだ川の私のいる方は火には包まれてはいなかった、だけど大地震の後みたいに家が潰れているのですね。ところどころでブスッ、ブスッと煙が出ている。対岸はもう火の海ですけど。とにかくタバコ工場に帰らなきゃと、壊れた塀を乗り越えたり、屋根を乗り越えたりしてね、たった15分歩いてきた道を30分も40分もかかって、タバコ工場まで帰りついた。

■タバコ工場の禮(のり)ちゃんと共に

 タバコ工場もまだ焼けてはいなかったのですけど、メチャメチャに壊れていて、もぬけの殻でした。先生もクラスメイトもどっかに避難していないのですよ。またどうしようと思って、タバコ工場の前で突っ立っていたら、工員さんが「あんた学生さんだね」、「はい」、「早く逃げなさい。倉庫に火が付いたら危ないよ、ここにいたら」と言うのです。「みんなどこに行ったのでしょうか?」と聞いたら、「そんなこと知らん」って言うのです。知らないのは道理なのですけど。どうしようと思って、ふっと港の方を見たら、港の方は火が出ていない。学校がある。じゃあ学校に帰ろうと、そう思って、学校に帰りかけたらね、「助けてー」って声がしたのです。ふっと振り向いたら、メチャメチャになった工場の中から一人のクラスメイトが這って出てきた。那須禮子(なすのりこ)さんというクラスメイトですがね、その子が「助けてー」と言っている。見たら額が割れて血が吹いているのですよ。後から聞いたら気絶して、倒れていたらしいのです。工場の中も真っ暗闇になったのだそうで、そんな暗闇の中をみんなギャーっと言って逃げたから、その禮ちゃんが気絶して倒れているのも、みんな気がつかないで逃げたのですね。あれ気がつけば放ってはおかないで、引きずってでも逃げたと思うのですけど。真っ暗闇になって、何も見えない中を手探りでみんな逃げたと言うのですよ。

タバコ工場(専売公社広島工場)の跡に建つ平和記念碑
タバコ工場(専売公社広島工場)の跡に建つ平和記念碑

 少し暗闇が明るくなった頃に、禮ちゃんも気がついて、這って出るしかない、工場もメチャメチャですから。這って出てきたところに私がたまたま出くわしたのですね。血を止めてあげなきゃ、どうしようどうしようと思って、血を止めるものはないかと思ってひょっとみたら救急鞄という鞄をさげていた。あの頃はね、空襲で怪我したりしたら自分で自分の手当ができるものを持って歩かなければいけない規則があった。私の母が大事にしていた和服の帯をほどいて、二度と着ることはないといって、その中に帯芯といって固い布地が入っているのですが、それを使って作ってくれた鞄で、こんなに太い肩紐がついていて、ミシンでバックステッチがかけてあったから、私が這って出る時も切れてなかったのですね。防空頭巾といって、座布団を半分折ったような雪国の子どもが被るような綿入れ頭巾があったのですが、それはヘルメット代わりのものですけど、それも肩からかけてたすき十字にして歩いていたのですが、防空頭巾の方は紐が切れてなくなっていました。だけど帯芯で作った救急鞄が助かっていたのに気がついて、それを開けて出して、三角布を折って畳んで血を止めて、タオルもあったのでそれで血だらけの顔を拭いてあげて、血止めをして、そしたらその子が「あんたも怪我してるじゃない」と言うのですよ。

 「えー、私も怪我している?」と言ったら、「うん、怪我してる、頭にいっぱいガラスがささっているよ」と言うのですよ。彼女が今度は私の頭にささっているガラスを抜いてくれるのです。そしたら抜いた瞬間、ダラダラーっと血が出るのですよ。顔の方に刺さっていてガラスは自分で無意識の内に抜いていましたけど、頭の方のガラスはあまり痛いとも感じていなかったのです。だけど口の中に何かしょっぱいものが入ってくるのですよ。鏡はないから自分で自部の顔は見えないのですけど、汗が口の中に入ってくるのだと思っていたのですけど、汗もあったのでしょうけど、一緒に血も流れてきて、口の中に入っていたみたいです。それがしょっぱかったのですね。今度はその禮ちゃんと言う子が私の顔を拭いてくれて、大きいガラスを2〜3個抜いてくれましたかね。その後、私の救急袋から、その頃ヨードチンキというものがあって、それをつけるととっても沁みる、臭くて茶色の何とも言えない傷薬だったのですけど、それを小さな瓶に入れて持っていたのが割れてなかったのです。それを彼女がガラスを抜いた後にちょっとつけてくれたりして、赤チンと言って、赤インクみたいな傷薬もあって、それも入れてあったのです。それもつけてくれて応急手当みたいなことしてくれて。小さいガラスは抜けきれないのでそのままにして。

 それからどうしようとなって、ひょっと宇品の港の方向見たら火の手は上がっていない。「学校は焼けてないよ」、二人で学校に帰ろう、ということになって、学校まで帰ろうとするのですけど、道がないのです。両側の家が壊れていて、もう屋根瓦の破片やガラスの破片で街中もうガラガラ。でもとにかく学校に行こうとなって、もう必死になって学校までたどり着くことができたのです。

■帰ってきた第二県女の下級生たち

 禮ちゃんは出血が多いから真っ青い顔になっちゃって、私はもう歩けないから、私はここにいるからあんただけ帰り、と言うのですよね。「そんなわけにはいかんでしょう」と言って、私は身長が1b49aしかなかったのですが、彼女もそれぐらいの身長でチビだったのですが、チビがチビを背負うようにして、とにかく学校まで帰ろうよと言って、帰り着いたのですね。

 そして学校は壊れてはいたけど焼けてはいなかった。やれやれと思って、学校に入っていったら校長先生やら何人かのクラスメイトも帰っていて、私たちを見て無事で良かったと言ってくれました。だけど1年生と2年生が連絡がつかないんだよ、と先生がおっしゃって、私には2年生に妹がいたものですから、心配になって、行ってみましょうか?と言ったら、「馬鹿、橋は全部閉鎖されて行かれはしない」「待ってなさいここで、きっと連絡が来るから」とおっしゃってね。

 学校でイライラしながら、学校もね、ガチャガチャに壊れていますから片付け片付けしながら待っていたら、もう昼近かったでしょうか、雑魚場町という所に行っていた下級生が一人また一人帰ってき始めたのですよ。みんな手の先から真っ黒いワカメか昆布のようなものをぶら下げ、足にズルズルズルズルそういうものを引きずり、顔は腫れあがり、髪は逆立ち、もう誰が誰だか分からない。私は2年生の子でも東西に2クラスしかなかったし、みんな何組の誰と知っていたのですが、それが分からないのですよ。もう人相が変わっちゃっていて。胸に名札をつけていたのですが、それも焼けちゃって見えない。でもなんとなく、自分の学校の生徒だということは雰囲気で分かるのですね。「あんた第二県女の生徒?」って聞いたら、「うん」と言うのですよね。で、下級生に肩を貸してあげようと思うのだけれど、うっかり肩を貸して上げたら、全身火傷ですから、皮膚が剥げるのですよ。触れないのですよ。触るとそこが剥けちゃったり、肉に食い込んだりしますからね。どうしようもないから頑張ってね、頑張ってねと言って声で励ましてあげるしかできないのです。

旧雑魚場町のあった場所を示す記念碑(広島市中区国泰寺町)この小公園の中に犠牲となった県立第二高女の生徒たちの慰霊碑が建つ。
旧雑魚場町のあった場所を示す記念碑(広島市中区国泰寺町)
この小公園の中に犠牲となった
県立第二高女の生徒たちの慰霊碑が建つ。

 黒いものをズルズル引き摺りながら帰って来て、それをご覧になった先生が、皮膚だけどどうしようもないねえ、と言って最初の一人を手で千切ってね、捨てられた。そしたらその子が「先生ありがとう。これで歩けるようになりました」って言うのですよ。もう可哀想と思っている暇もない、後から後からそういう子が帰ってくる。あの頃は女子の学校ですから、お裁縫するための特別室があって、「裁縫教室に裁ちばさみがあるから持ってらっしゃい」と言われて、クラスメイトの一人が裁ちばさみを持ってきて、3人目ぐらいからは先生がそのぶら下がっている皮膚を裁ちばさみで切られたのです。

 薬もなければお医者さんもいない、「どこへ寝かせましょう」、「理科教室に実験用の机があるだろう。あそこをベッド代わりにするから片付けろ」って言われて、物理化学教室という教室でしたけど、ちょうどシングルベッドぐらいの机。壊れて散乱したガラスの実験器具がいっぱいあるのですけど、それを一生懸命掃き出して片付けて、机の上を拭いて、帰ってくる下級生を一人ひとり寝かせていくのですよ。薬もなければ何もない、「先生どうしてあげたらいいでしょう」と言ったら、先生が下級生を見て、「これは火傷のようだから、火傷なのですけど普通の火傷と全然違うから、油を塗ってあげたら少しは楽になるかもしれない。家庭科の実習室にてんぷら油の残ったのがあると思うから探してきなさい」と言われました。

 家庭科の部屋に走っていく、鍋だの釜だの実習室ももうメチャメチャになっているのですけど、そこに潜り込んでいって、戸棚を探ったら、中に、てんぷら油も貴重品ですから、いつ実習に使ったのかも分からない、もう何年も何年も前に使ったようなものしかないのですけど、一升瓶の空き瓶に5本ぐらいありましたかね、真っ黒い菜種油が。それを持ってきて、塗ってあげる。脱脂綿に浸して。

 それがせめても手当と言えば手当。まだ1年生、2年生ですから、幼いでしょ。「お父ちゃん、お母ちゃん、熱いよ、痛いよ」って泣くのですよ。でもどうしてあげようもない。とにかく、しっかりしてね、頑張ってね、死んじゃ駄目よ、と口で声をかけてあげるぐらいしか、やりようがないのですね。

■地獄絵図の方がまだまし

 そうこうする内にね、陸軍船舶隊という宇品の港の端っこにいた部隊、ここは無事だったのですが、ここに私より1年下になる3年生が動員で行っていた。そこの動員先に情報が行ったらしくて、ここに衛生兵といって看護婦と同じ資格を持った兵隊がいるのですが、その衛生兵の兵隊さんか火傷の薬をたくさん持って応援に来てくれたのです。もう嬉しかったですね。今度はその人が頼りで、その人の指示で看病するのですけど。たくさんの火傷の薬を持ってきてくれたのだけど、その薬が、亜鉛化でんぷんというでんぷんがあるのですけど、その亜鉛化でんぷんをオイルで溶いたドロドロの真っ白い薬、練り薬というか塗り薬なのです。これを塗ってあげろとおっしゃる。それを脱脂綿に含ませて、ベタベタのズルズルの薬です。それを塗るのですけど、それでなくても誰が誰だか分からないのが、全身火傷の子にその真っ白いのを塗るとみんな石膏像みたいに真っ白くなって、もう何が何やら分からない、誰が誰やら分からない。「口が利けるうちに名前を聞いてメモして貼っておけ」って先生から言われて。「あなたは何組の誰?」と聞いて、でも口が腫れているからはっきりと言えない、何度も何度も聞き返して、鉛筆で名前書いて押しピンで留めておく。

 本当に、赤鬼青鬼の描かれている地獄絵図の方がまだましという感じでしたね。本当に可哀想で、お父ちゃん、お母ちゃんと言いながら、苦しんで苦しんで、ふっと、安らかな顔になるのですよ。あっと思ったら心臓が止まっているのです。なんと表現していいか、今思っただけでも身震いがして、涙が出そうになるのですけど、その時は涙も出ませんでしたね。こっちももう人間としての感覚を失っていたのかとも思いますけど。ああやっぱりこの人も駄目だったわ、この人も駄目だったわ、という感じですよ。

 夏の暑い時だし、遺体をそのままにしておけないから、「こりゃ火葬にせにゃいけんなあ」と先生がおっしゃって。手伝えとおっしゃる。私の怪我なんか怪我の内に入らないのですよ。先生の指図で、校庭の隅を掘って、それがこの絵なのですけど。ちょうど人が一人横たわれるぐらいの穴を掘って、幸か不幸か、木造校舎がメチャメチャ壊れていますから、壁板をひっぺ返したり、窓枠をへし折ったりして、それを薪代わりにして、その上にご遺体を置いて火を放って焼くのですけど、野天ですからね、なかなか、校舎の破片の薪ぐらいでは焼けないのですよ。生焼けになって、困り果てていたら、船舶部隊の兵隊が、遺体を焼くのにお使い下さいと言って一斗缶に真っ黒い油を入れて持ってきてくれた。それをかけたら、ぐーっと火が上がって、やっと荼毘に付すことができたのですけど。

「校庭で友達を焼いた日 1945年8月」切明千枝子さんが描いた被爆絵画(広島平和記念資料館蔵・提供)
校庭で友達を焼いた日 1945年8月
切明千枝子さんが描いた被爆絵画
(広島平和記念資料館蔵・提供)

 人が焼けるのは私はそれまで見たことなかったですから、最初はね、パンパンパンと自転車がパンクするような音がする。胃袋とか腸とか空気が入っているでしょ、それに熱がいって膨張して内臓が破裂する、その破裂音がパンパンパンとするのですよ。そして手や足が、神経が熱せられると反応を起こしてピュッと上がるのです。私はそんなこと知りませんでしたから、ビックリ仰天して傍にいる先生に向かって「先生、まだ生きてるじゃありませんか!」と言ったのです。先生は「生きてるのじゃない、見るな!」と言われたのです。見るなと言われても、体が金縛りになっちゃって、ガタガタガタガタ震えながら横を向けないのですよ。震えながら震えながら、小一時間、一時間以上かかったかもしれませんが、痩せた体で栄養失調で骨と皮なのですが、それでも骨になるまで、ガタガタガタガタ震えながら一部始終を見てしまったのです。

 焼け落ちて、目の前に遺骨が、本当に綺麗に骨格の標本のように残りましたね。今のように火葬場で焼くとね、高温で焼くから半分ぐらいは灰になってしまいます。だけどあの時はそうではないのですよ。骨格の標本というぐらい、頭蓋骨から小指の先に至るまで綺麗に残るのです。桜の花びらの色をしていましたよ。骨が淡いピンクで。その時になって初めて涙がうわーって出てきて、おいおい泣きながら、骨を拾いました。そしたら、骨を拾うための用紙もないのですよ。その頃はわら半紙と言うものがあって、そういう紙を先生にもらって、遺骨を拾うのです。紙が破れるのですよ。先生が「全部拾わなくてもいいぞ。喉ぼとけと小指だけ拾え」と言われるのです。喉のところに仏様のような形をした骨があるのですよ。そういう骨があることもその時初めて知ったのですが。喉ぼとけの骨と小指の骨とだけを拾って、後はもうそこに埋めちゃったのです。

■家族のもとにも帰れなかった遺骨たち

 名前が分かっている人は名前を書いて、亡くなった日付書いて、壊れてはいても女子専門学校の中に私たちの学校の校舎はあったので、私の学校の校舎はもう爆風で傾いで入れなかったのですが、女子専門学校の方の校舎はまだ壊れても残っていました。倒れなかったのです。そこの中の大きな部屋に応接机があって、そこへ遺骨を並べていくのですね。しばらく経つと、もう火が収まってから、お父さん、お母さんがご無事だった方は、お子さんを学校まで探しに来られるのです。そうするともう遺骨になっている。「間に合いませんでしたか」と言って泣かれるのです。それを見るのが辛くて辛くて、「もう私も一緒に死んでしまいたかった」と言いながら、生き残った者が廊下の端っこの方に逃げて、泣いたりもしましたけど。

広島県立第二高等女学校の碑(現在の県立広島大学キャンパス内)
広島県立第二高等女学校の碑
(現在の県立広島大学キャンパス内)

 そうやってご遺族が探しに来られるのはまだ幸せ。何日経っても誰も捜しに来ない。とうとう終戦になって、戦争が終わった、でも誰も来ない。連絡付けようにも家は焼けてしまっていて、ご遺族がいらっしゃるのやら、どこかに疎開でもして生きていらっしゃるものやら、一緒に原爆で焼かれてしまったものやら、それも分からない。ただひたすら待つしかない。長いこと長いこと校長室に引き取る方のない下級生の遺骨が、何人も何人も置かれておりましたね。校長先生もせめてものご供養だとおっしゃって自分の部屋の応接机に遺骨がおいてある。それにお線香をあげられていました。何日経っても何日経っても連絡のない遺骨がありました。結局最後には遺骨の引き取り手のないご遺骨を収容する所では、今平和公園に供養塔と言う饅頭みたいな塚があるのですけど、あそこに引き取り手のない遺骨が納めているのですが、それもできるのは随分後のことですから。

 それもまだない時にね、慈仙寺さんというお寺さんが爆心地の近くにあったのですけど、その寺はもちろん焼けてしまったのですが、その慈仙寺さんのご住職がご無事だって、自分の寺の焼け跡に帰ってこられて、本当に急ごしらえのバラックのようなものでしたけど、引き取る人のないご遺骨をご供養しますということを始められたのです。最終的にはそこへお納めして、その後にちゃんとした供養塔というのができて、そこの地下に納めるようになったので、最後はそこへ納まったのだと思いますけど。本当に引き取る方のない遺骨も何人も何人もありましたね。今考えると。何とも言えない悲しい思いがしますけど。

原爆供養塔(広島平和公園内)
原爆供養塔(広島平和公園内)

 下級生たちが学校に帰って来て、次から次へ死んでいった、その骨を拾って、校長室に安置して、そういう日が何日も何日も続きました。

 だけどいまだにどこで亡くなったのか、どういう死に方をしたのか、分からないという下級生もいるのです。

■靖国神社に合祀されてしまった動員学徒

 戦争と言うのは何なのでしょうね。人間の命の尊厳さなどというものはこっから先もないですね。兵隊はもちろんですけど、一般の国民に至るまでたんなる消耗品だったのでしょうかね、戦争しろと命令した人たちにとっては。命なんてものは虫けら同然だったのかなと思いますね。

 昔からね「身を鴻毛の軽きに置く」と言う言葉があったのですよ。大君のためなら自分の身なんか水鳥の羽根のように軽いものだよ、だから何の値打ちもありはしないのだよ、そうなのですよね。大君のために、国家のために死んでこそ値打ちがあるのだよ、ということなのですよね。それこそ靖国神社に祀られてこそ、という、そういう酷い時代でしたね。

 戦争が終わってしばらく経って、たくさんの亡くなった私の同窓生たち、靖国神社に祀って欲しいという運動が起きました、遺族の方から。私たち同窓生は、とんでもない、お国のためにといって殺されたのじゃないの、靖国神社なんかに祀って欲しくないわよ、なんて息巻いたクラスメイトたちもいましたけど、でもご遺族にしてみれば、自分の娘が犬死をしたと思いたくない。お国のために礎になったのだ、平和のための礎だったのだ、そのために靖国神社にちゃんと祀ってもらって、お祭りもしてもらって、全国民から拝んでもらって、それでこそ成仏できるのでしょう、とおっしゃるのですよ、ご遺族の方が。そしたら、さすがに私たちもそれまで止めろとは言えませんでしたね。靖国神社合祀反対なんて声をあげた同窓生もいたのですが、いつのまにかそれもしぼんでしまって。

 後から聞いたら、今はどうか知りませんけど、靖国神社に祀られてこそ遺族年金が出たのだそうですね。だから祀られなければまさに犬死なのですよ。お金もからんでいるということが分かって、なんかもうガックリきてしまって、靖国神社合祀反対の声も尻すぼみになってしまいました。それではあんたたちは何してくれるのよ、と言われたら何もできませんからね。だから何ともうまいカラクリになっているのだなあと思いましたね。

 今はもう靖国神社に国家は関われなくなって一宗教団体になってしまったようですけど、でもA級戦犯が靖国神社に祀られてから昭和天皇は靖国神社参拝を止められましたね。あれはどういうお気持ちだったのか、私にはよく分かりませんが、天皇にしてみても軍部の高位高官たちに乗せられたというお気持ちはあったのかなあと、勝手に想像してみた時もありましたけど。

■世の中の危うさを感じて始めた被爆証言

 だけど、私は天皇家がある限りは被差別部落があると思うのですよ。あれは一対のものだから、被差別部落を本当になくすためには、私ブラックリストに載せられそうですが、天皇家ももう民間に降りて来られないと本当の民主主義の国にはなれないだろうなという気がしています。何も変わっていないのですもの。ただ。軍隊が自衛隊という名前に変わっただけではありませんか。今は安保法も改正されて自衛隊だってアメリカのために海外にでも行かなきゃいけない時が来るかもしれないし、行くことのできる道はもう開かれてしまいましたからね。

 なんだかキナ臭い臭いがプンプン臭うのですが、若い方は、戦前をご存じないから、お気づきにならないのだと思うけど、もうキナ臭い臭いがプンプンしていますよ。でもそれに負けてはいけないので、平和というのはみんなで力を尽くして守っていかなきゃいけないものだと思っております。

 平和を守るという言葉があるじゃありませんか。平和と言うのはね、座ってたら向こうから来るものじゃないのですよ。今掴んでいる平和をもう必死で自分たちでできる努力をして、力を尽くして、守っていかないと私は逃げて行くと思います。

 それが怖いですね。今もう羽根がはえて逃げる寸前ですからね。それを必死で押えて、飛んでいっちゃ駄目って、ひっつかまえて、ねじ伏せて、押さえつけて、逃がさないようにしないと、私は逃げて行くと思いますよ。

 戦争が一旦起きると、人間は虫けら同様になってしまうのですから、とにかく一人一人がそのことに気付いて、自分たちにできる、ありとあらゆる手段を考えて力を尽くして守っていかないと、私は平和は危ういと思っています。

 私が一生懸命になって被爆証言を始めたのも、なんか世の中キナ臭い臭いが漂ってきて、これではまた同じことの繰り返しになるぞという恐ろしさ、それから始まったことなのです。ちゃんと伝えておかないと人間は嫌なことは忘れてしまって、何度でも同じことを繰り返す、というところがありますからね。だからそれを二度とあってはいけない、戦争への道を、完全にシャットアウトしなければいけない。それはやっぱり一人ひとりが自覚して、平和と言う目には見えませんけど、それを力を尽くし、一人ひとりの力は小さくても、微力であっても、無力ではありませんから。その微力な力をたくさん集めれば大きな力になると私は思いますから、もう一人ひとりの人に説得してでも戦争駄目だよ、戦争起きそうになったら反対運動起こさなければ駄目だよ、ということをお願いしてまいりたいぐらいの気持ちでいるのです。

■被爆二世・三世のみなさんには胸を張って生きて欲しい

 ご縁があって今日ここにお集まりいただいて私の話をお聞ききくださったみなさまもお考えいただいて、特に被爆二世・三世の方というのは、いろいろご心配もあろうかと思うのですが、でもみんなで力をあわせれば、乗り切れると思いますし、人間の命と言うのは大事でございます。

 被爆者同士が結婚したらね、障害児が生まれるかも分らんから子どもは産まない約束で結婚したのが実は私なのですよ。ところがそれを一人の近所の先生が「あんたら結婚して7年も子を持たんけど、産まんのんか、産めんのんか」とおっしゃったのですよ。実はこうこうでね、二人とも被爆者だし、産まない約束で結婚したのです、と言いましたら、「馬鹿めが」と怒られたのですよ。「何を言ってるのだ。あんたたちの心の中に障害を持った子に対する、障害者に対する差別意識があるんだろう。だから障害児を産んだら怖いと思って産まん約束なんかしやがったんだ」と言われたのですよ。まさにそうですから、私にはグサッと来ました。主人もグサッと来たみたいでした。そして、「命言うのはなあ、障害があろうがなかろうが、どうであろうが、もう値打ちは一緒なんじゃ。それは大事な大事な命なんやから、そんなことで産むの産まんの勝手なことを言うな」と言われて、もう本当に目から鱗と言うか、頭を金づちでぶん殴られたというか、すごい衝撃でしたね。それで間違っていたわ、ということになって、子どもを作るまいという約束は止めました。結婚後8年目にして女の子を授かり、それからまた何年かして男の子を授かり、二人の子どもに恵まれて、それぞれがまた結婚して今孫が5人おります。ひ孫が1人おります。

 あの先生の一喝がなかったら、あんたたち生まれていないんだからね、って言うのですよ。それでね、その先生は割とご長命でいらしたのですけど、孫たちにね、あんたたちこの先生の方に足向けて寝てはいけんよ、あの先生のおかげであんたたち生まれたんだからね、って言ったら、ええ、そうなの、つて言ってましたけど。

 本当に私は、二世・三世の方には特に申し上げたいのですけど、そのことを恐れて命を後に繋ぐことを止めるなんてことは絶対になさらないで欲しいの。もう正々堂々と胸を張って、被爆二世である、三世であることを、何にも恥ずかしいことではないし、引け目に思うこともないし、大きな顔をして堂々と生きて欲しいのですよ。堂々と命を繋いでいって欲しいの。私は「2世・3世の会」の方がね、京都によんで下さると聞いてね、このことだけは言っておこうと思って来ました。

 人権とか命とか大事に大事になどと言うけれど、でも自分たちが被爆二世・三世であることを恐れて、命を繋いでいくことをね、止めてしまうことなんて、それこそ止めて下さい。正々堂々と、胸を張って、強く、凛として生きて行って欲しいと思っております。もう大威張りで生きて行って欲しいと思うのですよ。

2019年6月24日(月)「切明千枝子さんの被爆証言を聞く会」の様子
2019年6月24日(月)
「切明千枝子さんの被爆証言を聞く会」の様子

 いまだに被爆者差別みたいなものが日本にはあるのですが、私の娘に「お母さんが被爆証言なんかしているから、あんた大きくなって結婚するときに嫁入り傷になるから、お母さんに被爆証言止めてもらえ、と言う人がいるのだけど、あんたどう思う?」と聞いたら、娘が言いました。「お母さん、私はそんなことで差別してね、結婚は嫌だなんて人のところには絶対に行かないから心配しないで」と、そう言いました。「そいじゃ、お母さん証言活動続けてもいいよね」と言うと、「それは是非やって頂戴」と言ってくれたので、もう安心したのですけれど、娘の連れ合いもそれをちゃんと分かってくれて、結婚してくれました。彼は「お義母さん、僕はね、引け目になんて思っていませんよ、誇りに思いこそすれ」と言ってくれたので、堂々と生きてきた甲斐があったかなと思っております。

 だけど今も、広島にもね、被爆二世であること、三世であることを隠していらっしゃる方もおられるのですよ。そのことがばれたら困るから、現場手帳とらない方もいらっしゃる。私はそれは違うと思うのですよ。そのことを引け目に思うというのは、人権を踏みにじっていることになると私は思います。

 人間の尊厳さ、命の大事さ、それを思えば思うほど、私は被爆二世・三世の方は胸を張って生きていただきたい、そう思っております。
 今日はありがとうございました。
                       (了)





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