みなさん、こんにちは。ただいま紹介を受けました枚方市原爆被害者の会会長の森容香と申します。よろしくお願いいたします。
今から74年前、私は広島の爆心地から1.8`の楠木町という所で家族と共に被爆しました。当時父親は戦争にとられていまして、その頃は4人きょうだいと母親が残されていました。母親のお腹の中には弟がいました。
今思いますと、そんな子どもが4人も5人もいるような父親を戦争にとるなんて、もうその頃日本は人材も物資も底をついていたのではないかと思います。国民には日本に戦争に強い国なんだと思い込ませて、金目の物はみんな戦争に持っていって、食べる物も十分にないような、みんな戦争のために辛抱して、お国のためお国のためと頑張っていました。
父親が戦争にとられるまでは広島の上空にアメリカの爆撃機B29が来るようなことはなかったのですけれど、父親が戦争にとられてからはB29が広島の上空に来るようになりました。上空に来ると、「空襲警報発令ー」、ウーウーとサイレンが鳴り響き、何をしていても手を止めて防空頭巾をかぶり、防空壕に避難しました。
父が戦争に行ってからはだんだんと生活が変わっていったのを憶えています。夜電気をつけていた時も光が外に漏れないようにと電気の傘に布をかぶせたり、大切な物を入れておく蔵はほとんどが白壁ですがそれを黒く塗りなさいと言われたりと。そういうことをやっていまして、時々だったB29が頻繁に来るようになりました。
その頃は弟も生まれて家族は子ども5人と母と6人の生活になっていました。
頻繁にB29が上空に来るので、その度に警報が発令され、防空頭巾をかぶり、防空壕に避難して、2時間とか時間はバラバラでしたけど、B29が上空からいなくなったら、警報解除の知らせがあり、防空壕から出て、普通の生活に戻ります。
そういう生活が続いていたある朝、まだ深夜でしたけど、0時25分、眠っていましたら急に「空襲警報ー」が叫ばれました。飛び起きて、防空頭巾をかぶり、防空壕に避難しました。その時は2時間。何もなく空襲警報は解除となり、防空壕から出て、まだ夜中の2時過ぎですので、私はまた布団に入りました。ところがその日はなんとまた再び「空襲警報発令ー」。午前7時9分です。また飛び起きて防空頭巾をかぶり防空壕に避難しました。
その時は短かったのです。20分ぐらい。B29が上空を通り過ぎただけだったそうです。解除になり、ほっとしてみんな、朝の7時半ぐらいでしたので、それぞれ仕事に学校にと家から出て行ったのです。私たち家族は朝食中でした。
深夜から2度も警戒警報が発令されたにも関わらず、その次の警報発令はありませんでした。
忘れもしません。8月6日、午前8時15分。突然ピカーっと光ったかと思ったら、ドーンと物凄い音、そして爆風。私たち家族は家屋の下敷きとなり気絶してしまいました。1〜2分だったでしょうか、時間は定かではありませんが、ふと気がつくと、あたりは真っ暗でした。瓦礫の下です。その時に大勢の人が即死したり、または家屋の下敷きになっていました。
私たちは運が良かったというか、天井の屋根がバターンとは落ちてこなかったのです。一部の台所の所だけに屋根が斜めに落ちてきて、みんな爆風に吹き飛ばされて、その隙間のような所に固まっていました。ふと気がつくと外からの光が入ってくる所があったのです。
そこからまず兄が這い出て、私たちは次々と、中からは母が押し出して、外からは兄が引っ張り出すという形で、引っ張り出されて、助け出されました。
外に出てみると、広島の街は、鉄筋の枠組みだけを残して、壁は飛び散り、家々は全部潰れていました。全滅です。
家屋の外で直爆を受けた人は全身火傷とか着ているものもボロボロ。皮膚が垂れ下がり、本当に幽霊のようでした。喉が渇いて「水、水」と言いながらさまよい歩いておられる。家屋の下敷きになって、でもまだ生きている人もたくさんいたのですね、柱の下とかに。「助けて―、助けて―」という声があちらこちらから聞こえてくるのですけども、どうすることもできません。
当時私は5歳です。自分たちが逃げるのがせいいっぱいなのです。母が、朝の8時台はどこの家庭も火を使っている家が多いはず。そこへ天井、屋根が落ちてきたのだから早くこの場を逃げないと、火の手が上がったら逃げられなくなる、ということで、家の近くに大きな太田川という川がありまして、その川べりに大きな竹藪があったのです。そこへまず一時避難しようということで、母が私と私のすぐ上の姉に、「あんたたち二人は今すぐここからその竹藪に向かって行きなさい」と言いました。長女は弟を抱っこして、長男と母が瓦礫の下にもう一回潜り込んで、何か一つでも取り出せるものがあったらということで潜り込んでみたけれど、何一つ取り出せなかった、ということは後から聞きました。
私と姉は泣きながら裸足で歩いて歩いて竹藪まで行きましたけど、道なき道でした。道の上には家が倒れていてふさいだりしているわけです。家が壊れて土埃が舞い上がって、たくさんの人が倒れて、亡くなって、傷ついて、異様な臭いと光景が渦巻いている中でした。8月の炎天下で、裸足ですよ。本当に大変だったのを今でも憶えています。生き地獄を見てきました。
母たちとはバラバラに避難していたので、運が悪かったらそのまま会えなくなっていても不思議ではなかったのです。私と姉は母たちより先に竹藪に向かって歩いていたのですが、竹藪に行ってみると、みんな壊れた家から避難してきた人たちで溢れかえっているのです。ごった返していると言いますか。
そんな中、私と姉は見るも無残な悲惨なものを見て歩きました。親とはぐれて「お母ちゃーん、お母ちゃーん」と泣きながら親を探している子ども。また名前を呼びながらきょうだいをさがしている人。あちこち歩き回っている人。喉が渇いて水を求めて川に飛び込んでそのまま死んでしまう人。顔を突っ込んでそのまま死んでいる人。その上に何人も何人も重なるようにして死んでいる人。
一時避難した竹藪です。そこには薬も食べ物も何もありません。ただ壊れた家から避難してきただけです。私と姉が歩いていると母たちとバッタリ出会いました。とても不思議なのですけれど、「やあー、良かったわー」、大きな怪我もなく家族6人みんな出会えて「あー、良かった良かった」と喜び合いました。
母はその足ですぐに父方の田舎に行こうということで、そこからまた歩き出しました。父方の田舎は高田郡の八千代町という所で、被爆した場所からはずーっとずーっと北になります。だから私たちは偶然そうなったわけですけれど、爆心地より北へ1.8`で原爆に遭い、それから北へ北へと避難したわけです。その日の内に広島市から離れました。
ずーっと歩き続けていますと、市内から離れた所では家も無事で、ある小学校では炊き出しもして下さいまして、そこで並んでオニギリをいただき、そのオニギリを食べながらまた歩いて歩いて歩いて行きました。1歳の弟は誰かが抱っこしているのですけれど、5歳の私は誰も抱っこしてくれません。もう自分で歩くしかないのです。母の服の裾を持って泣きながら歩きました。喉が渇くのでその辺の畑のトマトを食べました。もちろん放射能を被っていることなど知らずに食べながら歩きました。
歩いて歩いて一日中歩いて可部あたりまで行ったあたりで夕陽が沈む頃になり、その辺りの部落の方のお世話になりました。それは上からの命令だったのかどうか、「このような者が来たら世話するように」ということになっていたのか、みなさんとても親切にして下さいました。当時は食糧不足でお世話下さった家族もお腹いっぱい食べるだけのお米はなかったのです。そんな中で私たちはお世話をいただいて大変ありがたいことだと思いますが、夕ご飯をいただいている時にお茶碗を覗いてみると、顔が映るのです。おもゆです。米粒を数えられるぐらいのお米しか入っていない。それでもお世話下さった方に感謝です。それがあって今があると私は思っています。
一軒のお家(うち)に家族6人がお世話になることはできないので、1歳の弟は母と一緒に一軒のお家、私からは一人ずつ別のお家にお世話になりました。5歳で大変怖い思いをし、その日の夜にまた母と別れて他人様のお家にお世話になると言うことは非常に心細いものでした。一晩中泣いて過ごしました。
父方の田舎に行くために、車の用意するために、トラックをお願いしたのですが一週間ぐらいかかりました。その間、そこの部落でお世話になりました。やっと車の手配ができて田舎まで送っていただきました。
被爆者にもいろいろありまして、同じ所で被爆しても同じじゃないんですね。10人いたら10人違い、100人いたら100人通りの被爆体験があります。私の友だちも原爆ドームのすぐそばを通る電車に乗っていて被爆しました。当時の電車はギューギュー詰め込んで乗っていましたから、その電車は丁度ドームの横を通った時にドーンと落ちて、窓際に乗っていた人たちは即死です。ギューギュー詰めで中に押し込められていた人は助かった。私の友だちも助かった一人ですけれども、その人は舟入という所に親戚があってそちらの方へ避難しました。舟入とか宇品とかは爆心地より南です。爆心地の近くで被爆して、それから南へ南へ避難する途中に黒い雨に遭ったと言っていました。
私たちは爆心地から北側の方で1.8`、それからまた北へ北へと避難したので、同じ広島で被爆しても黒い雨には遭っていないのです。その日、広島の街は雲一つないすごくいい天気でした。そこへ原爆が落とされて広島の上空に放射能がたくさん混じったキノコ雲ができました。そのキノコ雲がしばらくして黒い雨となって降ったわけです。その時、南の方に南の方に風が吹いていて、南の方の人は黒い雨にたくさん遭いました。
同じ広島市内にいても北と南とで違いましたし、どこにいても体の向き一つで被爆の受け方は全然違います。
3・1ビキニデーに参加した時も思いました。マグロ漁船の第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉さんのように半年で亡くなった人もあります。同じ船に乗っていても90歳を超えるまで生きて頑張ってきた人もあります。人それぞれ、またその時の体調にもよると思います。みんな同じではないのです。
なのに国は線引きをします。おかしいのですよ線引きすること自体が。被爆者はみな被爆者ですよ。国の犠牲になった被爆者をなぜ線引きして、ましてや被爆者援護法ができているのにそれに則った認定を下さず、本当に悔しい思いをしています。
私は当時5歳でしたので、またその日の内に母親と一緒に広島を離れていますので、被爆体験と言ってもあまり詳しいことはお話しできませんが、生き地獄を見てきたのは確かです。
二度とこのような戦争を起こしてはならない、という気持ちはずーっと持って今まで生きてきました。今枚方市の会長をしていますが、出て来れる被爆者は本当に少なくなっているのです。もう被爆者には時間がないのです。早く原爆症認定をみなさんに下して欲しいと思います。
2020年に向かって、「ヒバクシャ国際署名推進大阪の会」というのを作って頑張っていますが、2020年というともう今年しかないのですね、頑張れるのは。みなさんよろしくお願いいたします。私もまだまだ一生懸命頑張ります。
今日はありがとうございました。
(了)