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●被爆体験の継承 79

聞いてほしい事があります

三山 正弘 さん(胎内被爆者)

手記 2020年1月10日(金)

三山 正弘 さん(胎内被爆者)

■広島市楠木町

 涼しい風が通る座敷でウチワを揺らしながら・・・
「もう、あれから何年経ったやろか」
「そうねえ、もう15〜6年経つかねえ、昨日のことのような気がするけど・・・。忘れ切らんねえ」

 母と祖母の何気ない言葉から始まった会話。
 高校生になった頃、近くでそれとなく聞いた、たった一度の母からの原爆被爆当時の話です。

 1945年(昭和20年)8月9日 午前11時2分 真夏の雲の間からの閃光と爆発音、それに伴う放射性熱線と強力な爆風により、24万市民の3分の1にあたる7万4千人が命を落とした。

 『ちょうど次の長崎駅前で降りんばいかんと思った瞬間、目の前で写真のフラッシュを焚かれたような光がピカッと射して走っとった満員の電車が急に止まったもんね。 立っていたので足で支えられず、他のお客さんにも押されて、一番下になってしもうた。』

 私をお腹に宿していた母のとっさの行動であったかもしれません。

 『殆ど同時に頭を押し潰すような爆発音とホコリや煙で暫く動かれんやった。 どのくらいの時間が過ぎたか分からんけど、倒れこんだお客さんの上の方から、電車が燃えるぞ!と声が上がり、どげんして電車の外に出られたか分からんやった。』

 国鉄職員の父と結婚して間もない母は、官舎に住む先輩職員の奥様達との交流で、爆心地から数百メートルの大橋を訪ね、父の弁当を届けるために中町の自宅へ戻る途中の事であった。

 『電車を降りたら、人がいっぱい倒れとって、真っ直ぐ歩けんやった。倒れたり、たぶん亡くなっている人たちを跨ぐように歩いたとさ。

 右側に長崎駅の構内が見えたけど、お父さんの弁当を作らなきゃ・・・と言う一心で、とにかく家に向かった。 周りの家の屋根や壁が煎餅みたいにめくれあがって、間借りしていた理髪店の2階へ上がろうにも、階段が斜めにずれて登り難かった。』

 被爆した八千代町電停から自宅までの約1キロ位の道のりが、はるかに遠く、長く感じられ、壊れかけた家々が踊っているように面白い格好に見えたと話していました。

 『家の中も足の踏み場もないくらいに散らかっていて、弁当を作ろうにも水は出ず、火も使えんので、有り合わせの物でおにぎりを作って長崎駅へ向こうた。 何が起こったとか分からんで、駅の構内から北の方向は赤黒い煙や炎でいっぱいやった。そこで酷か空襲があった事がやっと分かった。 お父さんの安否を聞いても、駅舎自体も被害に負うており、職員さんやお客さんも怪我をしとって混乱しとったので、勝手知った構内を自分で探し回ったとよ。』

 当時の長崎駅辺りから北側は爆心地に近くなり、三菱造船所や軍需工場もたくさんあり、攻撃の目標になって壊滅状態であったようです。 私が居眠りでもしていたのだろう、それからの出来事がハッキリ思い出せない。 母が父と再会するにはそれほど時間はかからなかった。 多分、駅や医療関係の場所に収容されて、そこへ母が訪ね当てた事のようでした。 結婚当時の母には頼れる知り合いも少なく、市民全体が各々被害に遭っており、お互いに大変な状況であった。

長崎駅前広場 中央はプラットホーム、左手にあった駅舎は全焼した。小川虎彦氏撮影 長崎原爆資料館所蔵
長崎駅前広場
中央はプラットホーム、左手にあった駅舎は全焼した。
小川虎彦氏撮影 長崎原爆資料館所蔵

 『被爆当時は広い構内を歩いていたとやろね、 半そで開襟シャツで制帽を被っていたので、陰になる部分以外、顔と首、両手までが火傷やった。 赤くただれ、出血もしていたけど、取り敢えず火傷用膏薬を塗られ、白塗りした歌舞伎役者のように真っ白な顔と、包帯でグルグル巻きにしてあった。 とにかく生きてはいたので、父の実家へ連れて行こうとリアカーに乗せて長崎を後にした。』

 酒に酔って赤くなった時の父は、首から上と顔面がブツブツしたケロイドが浮き立っていたのを思い出します。

 『長崎から爆心地を通り過ぎていく途中、官舎のあった大橋地区は、家という家がつぶれ、燃えて焚火の後のごたった。

 道路の端や橋の下の浦上川には沢山の死体がそのままの状態で放ったらかしやった。 あの時、もう少し話が弾んで帰るのが遅かったら、自分も生きてはおらんやった。 放置されている人たちに可哀そうだったけど、周りを見回す余裕もなく、とにかくお父さんを約20キロくらい離れた実家のある亀岳村(現在西海市西彼町)まで連れて行く事しか考えられんやった。』

電車大橋終点付近 手前は大橋終点の引込線と線路。 強烈な爆風により線路が枕木からはずれている。 一番奥に見える線路は国鉄長崎本線(左、長崎駅〜右、道ノ尾駅方面に至る)。 中央の煙突は雲仙耐火煉瓦工場の折れた煙突。 林重男氏撮影 長崎原爆資料館所蔵
電車大橋終点付近
手前は大橋終点の引込線と線路。
強烈な爆風により線路が枕木からはずれている。
一番奥に見える線路は国鉄長崎本線
(左、長崎駅〜右、道ノ尾駅方面に至る)
中央の煙突は雲仙耐火煉瓦工場の折れた煙突。
林重男氏撮影 長崎原爆資料館所蔵

 『途中の町では親切な人たちに膏薬や包帯を替えてもらい、2日くらいかけて時津と言う大村湾内の港まで行き、実家の近くまで行く渡船に便乗させてもらい、炎天下の残りの道を再びリアカーに乗せた父に日傘を差して、ようやく実家に着いた。』

 『義父や義妹は、長崎に強い新型爆弾が落とされ、市内は全滅状態だったと聞いていたのでもう生きておらんと生存を諦めとったらしかった。 まさか生きて帰って来るとは・・・とみんなで大泣きしたとよ。』

 以後、私は兄弟姉妹5人と大きな変化もなく普通の生活を送り、おそらく家族の中では「原子爆弾」と言う言葉さえ忘れかけていました。

 父が60歳、母が64歳で白血病で世を去ってから、社会の出来事にも関心が高まる中、被爆体験者が年々少なくなり、被爆者の本当の声が聞かれなくなりつつあることが分かりました。

 核の傘の下と言う間違った平和感に浸り、一時的には平和を取り戻したような世界でしたが、一方では核弾頭の保有数を競い合い、さらに新しい、小型でより強力な核弾頭が開発されています。

 長崎市の3日前に原子爆弾を投下された広島市での14万人と合わせ、22万人の命が失われた忌まわしい出来事、日本だけが持つ悲惨な、そして二度と起こしてはならない経験です。

寄贈者 吉山昭子
長崎原爆資料館所蔵 (H14年度、NHK、長崎新聞社などと共催して募集した「被爆者が描く原爆の絵」作品)
寄贈者 吉山昭子
長崎原爆資料館所蔵
(H14年度、NHK、長崎新聞社などと共催して募集した「被爆者が描く原爆の絵」作品)

 今、地球上には約1万4千発の核弾頭が保有されています。
 単純計算では、これで30億人以上の命が瞬時に奪われることになります。 例えれば、中国・インド・アメリカ合衆国(2018年版)の3大人口多数国が、ポンと消えてなくなる事と同じです。

 決して二度と同じ不幸を招かないために、穏やかな毎日を過ごせるために、核弾頭廃絶の遅滞は見過ごすことはできません。

 母から被爆体験を聞いた夏の夜の静かな時間、こんな幸福な時間がいつまでも続くようにと願いを込めて、語り継ぐことは続けていきたいと思います。

 先日来日されたフランシスコ・ローマ教皇のスピーチには『核弾頭を保有しながら核廃絶を訴えるのは、偽善者の言葉である』とありました。

 全くその通りです。核弾頭を廃絶することは、小さな地球を核のない平和な星として守るために、所有国が最初に為すべき事です。


〇最近読んだ著書の中にあった感銘した言葉を紹介します。

 お釈迦様の国、インドに伝わる話だ。

 ある夏、日照りが続き、水不足が起きた。畑に引く水がなければ農作物が育たない。隣り合う二つの村では水の争奪戦が起き、いよいよ戦争に入ろうとしていた。それを知ったお釈迦様は、それぞれの村の村長を呼び、「なぜ戦うのか」と尋ねた。

 「水が無いからです」

 水が無いとなぜ困るのか

 「水が無いと農作物ができません」

 農作物ができないと、なぜ困るのか。

 「農作物がないと、村人の食べ物がなくなります」

 食べ物がなくなると、なぜ困るのか。

 「食べ物がなければ、村人は死んでしまいます」

 そこでお釈迦様は、二人の村長に問うた。

 「村人を生かすために、お前たちは殺し合いをするのか」

 二人の村長は顔を見合わせた。そもそも戦を始める理由は「水がない」から。しかし、水はある。あるからこそ奪い合う。

 生きるために殺しあうのではなく、生きるために分かち合うことを考えよとお釈迦様が諭すと、村長は限られた水源を有効に使う手立てを相談し始め、戦争は回避されたという。
(文芸春秋 発行 堀川恵子 著 原爆供養塔 403頁より引用)





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長崎市被爆地域図

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