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●被爆体験の継承 8

おやじを探し求めて広島の街を歩き回った私の被爆体験

高橋正清さん

2013年5月23日(木)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化


高橋さん
■おやじのこと、おかあさんのこと

 僕が生まれて育ったのは広島の草津じゃった。昭和11年(1936年)の生まれ。二つ上の兄貴と一つ下の妹がおって、3人兄弟、おやじとおかあさんの5人家族じゃった。

 おやじは広島県の三次(みよし)の近くの吉舎(きさ)というところの出で、おやじのおやじ、わしのおじいさんは学校の校長をしとったたらしい。おやじは生まれて3日目に母親が死んで、えらい苦労して育ったらしい。継子いじめされてな。

 そんなことがあって、父親が教師だったこともあって、高師(高等師範学校)に行って、自分も教師になったらしい。ずーっと後になって見つかったおやじの日記にそう書いてあった。

 おやじは初めは広島県山県郡の新庄というところにいたらしいが、新庄じゃ出世できんいうて、人に紹介してもらろうて広島市に行かしてもろうたんよ。ちょっとでも上へ行こう思うて、草津の学校やら、古田の学校やら行って、最後は観音にあった二校の教師をしとった。

 二校言うんは、観音にあって、国民学校の6年が済んだら後2年行く高等科だけの学校じゃった。

[ ※二校 : 戦前の広島市第二高等小学校の通称。現在の広島市立観音中学校の前身。]

 おかあさんは可部(かべ)にあった西本願寺の西光寺(さいこうじ)という大きな寺の娘じゃった。大きな寺の出ということで頭の高い人じゃった。伯母さん(お母さんのお姉さん)が本願寺の開教使でアメリカに行っとって、それをたよってわしのおかあさんもアメリカに2年ほど行つとったことのある人じゃ。英語もしゃべっとったような人じゃった。だから、草津に来てもずーっと“奥さん” “奥さん”で通しっとった。

 おやじは子供をよう可愛がってくれる人じゃったけど、おかあさんは子供にも頭の高い人じゃった。なんであんな二人が一緒になったんか分からんかったな。今でも。

■原爆の落ちたその日

 8月6日、原爆が落ちた時、家には、兄貴、わし、妹、おかあさんの4人がおった。わしは小学校3年生、9つの時じゃった。

 その日は暑い日やったんや。うちの前が学校やったんじゃけど、夏休みじゃけ学校行かんと、家で遊んどったんや。そしたらドスーンとものすごい音がして床が落ちたんや。そいで、いきなり天井がのうなって空が見えたんや。何が落ちてきたんかと思いながら、近くの田方(たかた)という所のお宮に避難したんや。広島の方角を見たら、なんかしらん真黒になっとった。その内、真っ赤になって燃え出したのも覚えとる。

 黒い雨も降ったなあ。なんもしらんから、黒い雨で顔も洗おうたし、足も洗おうたし、手も洗おたな。

 そいで後で家に帰った頃、すごい人がいっぱい歩いてきたんや。顔が半分ない人や、もうオバケみたいな人がドォーッとな。

 女学生のような人が、体全部ただれて、前が全部見えるような格好になって、ボロボロで何人も歩いてきたりもしたわ。そんな人をわしは助けたりもしたんよ。後になって、そんな女学生の親の人が「よう助けてくれた」言うてお礼にきたこともあったな。百姓の親は米を持ってきてくれたり、将校が親だった人からは果物をもらったりな。

■学徒動員の生徒と一緒に消えたおやじ

 原爆の落ちた時、おやじは二校にいっとったんじゃが、どこで原爆におうたか分からんのじゃ。あの頃は学徒動員いうのがあったんじゃ。あの日は生徒と一緒に学徒動員に行っとって、出ていったまんまじゃけえ、どこで生徒と一緒に死んだんか分からんのよ、今だに。爆心地に近い所で作業しとったんかも分らんな、生徒と一緒にな。

 おやじの行方が分からんので、その日中に己斐駅の近くまで探しいったんじゃけど、火が燃え盛っとって、どうしてもそっから先は行けんかった。己斐駅のあたりも死んだり、被災した人がいっぱいでひどかったなー。

 2日後ぐらいに、おやじをさがすのと、おばさんを可部の西光寺に送り届けるのも兼ねて、己斐から横川まで行って、それから三滝まで歩いて、三滝から電車で可部まで行った。途中の道路は、「おかあさーん、おかあさーん」言うて泣き叫んどるもんでいっぱいやった。「おとうさーん」言うもんはおらんかったな。

 家じゃわしはのけもんにされとったんで、「しばらく西光寺に行っとけ」言われて、終戦の8月15日までは西光寺におった。

 原爆におうた後、急性症状があったんかどうか、よう分からんな。熱も出した思うし、下痢もした思うけど、あの頃ろくなもんを食べとらんけえ、原爆のせいかどうかもよう分からん。頭の毛はきれいになくなって、坊主になっけどな。

 僕はおとうさんっ子だったんで、8月15日になった後も、おやじをさがしてアチコチ歩いたよ。可部の街でも、草津に帰ってからも、学徒動員に出て行ったまんまだと言うことだったけえ、今の平和公園になっとる中島本町のあたりもさがしたんや。けど、結局なんにも分からんかった。

■新生学園

 戦争が終わって、広島に新生学園言うんができたんじゃ。原爆孤児やら戦災孤児やら海外から引きは揚げてきた孤児やらを収容して保護する学園やった。その新生学園が基町、広島城の横のあたりにあった頃、わしのおばさんがそこに住みこんで勤めておっての、わしもおばさんをたよってそこに寝泊まりしとった。

 一年ぐらいは家には帰らんとここから草津の学校へ通っとった。なんせ、ここにおったらとにかく食うことは心配いらんかったからな。あの時代、食うことは一番いやしいことじゃったけど、一番大切なことやとも思うたなあ。

昭和40年代頃の基町にあった新生学園の様子(食堂での慰問の風景)<新生学園ホームページより>
昭和40年代頃の基町にあった新生学園の様子
(食堂での慰問の風景)<新生学園ホームページより>


 基町から草津言うたら相当距離もあって、学校行くのも大変やったけど、とにかく食べられるとなると、今とは違おうて、遠いことなんか平気やった。何でもなかった。

 新生学園の子らは、兄弟愛がものすごう熱かったなあ。新生学園の子を一人いじめたりしたら、他の子がみんな集まってその子を守って、反対にいじめた方をやっつけにいくほどやったからな。

[※ 新生学園(新生学園ホームページより)]

 ・昭和20年10月  原爆孤児、戦災孤児、引揚孤児等の収容保護を目的として、広島市南区宇品長久陸軍暁部隊の兵舎の一部を借り、経営主体未定のまま事業開始。

 ・昭和20年12月  戦災援護会広島支部(現在の広島県同胞援護財団)の経営となる。

 ・昭和21年 4月  広島市中区基町、旧陸軍野砲部隊跡に移転。

 ・昭和46年 4月  広島市の都市計画により、現在地東広島市西条町に移転。

 ・昭和46年10月  広島県同胞援護財団より分離独立、社会福祉法人広島新生学園設立許可。

 ・昭和46年11月  新法人の経営となる。

■戦争の終った後

 戦後、おやじがおらんようになって、家族のことをいろいろ心配してくれる人はあった。親戚から猿猴橋(えんこうばし)にあった薬局を貸すから商売したらどうやというような話なんかもあったけど、おかあさんは全部断った。おやじが死んでも、おかあさんはどうしても働かん人やったな。おやじの恩給だけで、それだけでできる最低の生活じゃった。

 おかあさんは、西光寺の娘やという頭がずーっとあって、死ぬまで最後まで“奥さん”で通しとった。

* * * * *

 家の目の前の草津国民学校で、学校の講堂の中で、死んだ人の解剖しとるのを見に行った記憶もある。ずーっとおやじを探しとったから、解剖されるのがおやじじゃないかいうのもあった。京都から偉い大学の先生が来て、解剖しとったということじゃ。講堂の外でしとったことも記憶にある。

 先生らにトマトを差し入れしたこともあるのお。そしたら、わしが京都に住むようになって、そんな話をしとったら、「あああの時の坊主か、トマトのことはよう覚えとる」と言ってくれた元京大の先生がおったわ。

 あの頃は、ひょっとしたら今でもそうかもしれんが、草津の学校の運動場掘ったら、人の骨がでてくるんじゃないか、と言われとった。

病理解剖の行なわれた草津国民学校の建物 『医師たちのヒロシマ』(機関紙共同出版・1991年)より(提供:荒木正哉)
病理解剖の行なわれた草津国民学校の建物
『医師たちのヒロシマ』より(機関紙共同出版・1991年)
(提供:荒木正哉)

■闘病

 僕は18歳まで草津にいて、18の時自衛隊に入ったんじゃ。兄貴も先に自衛隊に入っとって、そのおかげで入隊したんや。あの頃は不況で就職先もなかなかなかったわ。

 昭和37年に、26歳の時に自衛隊やめて、広島に帰って広島にあったバス会社に入った。それから万博の年、昭和45年に、34の時じゃが、京都に出てきてタクシー会社に就職した。結婚したんが昭和47年。タクシー会社も転々として、その後32年間個人タクシーもやって、70歳で辞めた。

* * * * *

 原爆の影響じゃとハッキリ思っとるが、よう病気をしたわ。肝臓が悪うなって3ヶ月入院したこともある。糖尿病になったし、心臓の大動脈の手術もした。今は肺気腫とも言われとる。胃のポリープ、腸のポリープも取っとる。

 白血球もまだぎりぎり正常範囲じゃが、ずっーと下がってきとると言われとる。とにかく足腰が弱くなっとる。齢のせいだけとも思えん。まあ原爆におうとるんじゃけえしょうがないなあ思うとる。毎年1回人間ドックにも行っとるが、あんまりあてにはしとらん。

 被爆者手帳は昭和59年(1984年)、京都でとった。何回も何回も山科の区役所行って、区役所ともケンカして、苦労した。

 はじめの頃は手帳持っていてもどこでも使えたわけじゃない。あんまり使えんかった。「これで診察してもらえますか?」と確認してから診察してもらっとった。高瀬卓郎先生のところにお世話になって、それからいろんな診察に使えるようになった。

* * * * *

 僕の兄貴は平成18年(2006年)に、はっきり原因が分からんまま広島の県立病院で亡くなった。被爆者じゃいうことで解剖させてくれという申し入れがあったが、兄嫁が「可哀そうだから絶対嫌だ」といって断ったけどな。

■原爆ほどひどいものはこの世にない

 僕は大きゅうなって自衛隊に入って、救助で水害や災害の現場にもいっぱい行ったし、自衛隊の大演習なんかも何回もやったが、原爆のことを思うたら、小さいもんやった。あんな原爆の地獄のようなことは他にはないな。あんな悲惨なことは二度とないわ。原爆のことを思えば。原爆のあんな悲惨さはないわ。

以上     



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