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●被爆体験の継承 80

呉海軍工廠から見た原子雲

斎藤 綾子さん

2020年3月10日(月)
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

斎藤 綾子さん

■呉海軍工廠に学徒動員

 私の出身は島根県の大田市、松江と浜田の中間ぐらいにある街です。島根県立大田高等女学校の4年生で私が16歳の時(昭和19年の10月)、学徒動員で広島県の呉に行くことになりました。島根県の全部の女学生が動員されたらしくて、私たち4年生のクラスも全員で行くことになりました。

 生まれて初めて親元を離れて、何も分からないまま、何も知らないまま、言われる通りに行ったわけですよ。私たちの頃はそういう教育を受けていたので、お国のために行って当たり前やと教え込まれているから、いやな顔もせずにみんなで行ったのです。

 私たちが動員されたのは呉の海軍工廠です。私はそこの砲熕部(ほうこうぶ)砲架工場という所に勤めることになりました。同じクラスの人でも、弾丸部とか、機械の係とか、いろいろ分かれていました。2交代制で朝8時から午後3時までとか、3時から夜までとかの勤務でした。島根県からみんな揃って行きましたので大人数でした。海軍工廠はとても広くていっぱい工場があって、船もあって、みんなが各部署に分かれて働きました。

 寝泊りは寮です。一クラスが一つの大きな部屋になっていて、階段式の二段ベッドが並んでいて、畳一畳ぐらいの広さに一人が寝るようになっていました。一クラス30人か40人ぐらいだったと思います。

 呉に行って最初の頃は敵の空襲とかはほとんどなかったのです。時々あってもそんなひどいことはなかった。それより食べ物がなくてね。栄養失調になって家に帰された友だちとかもありました。具合が悪くなって体調不良でね。どこに行っても食べ物はないのですから。コーリャン飯とか、そばかすの飯とか、ご飯粒を数えるような食事でした。魚とか野菜とかは割とありましたかね。今思うと魚はいろいろあって、それに野菜とかで一汁一菜を食べて、それでなんとかみんな元気を出して頑張っていたんです。

海軍呉工廠に学徒動員された頃 左端が斎藤さん
海軍呉工廠に学徒動員された頃 左端が斎藤さん

 海軍工廠で、私は鉄の板みたいなものを削る仕事をしていました。私らには分からないのですよ。なんでこんなことが役に立つのか。これがどんな役に立つのかなという思いでしたね。変な削り方をして、おしゃかを作ってしまって、組長には何度も怒られてしまいました。それでも必死になってやっていたのですけど、要領がなかなか分からないので、私の仕事が役に立っていたのか、立っていなかったのか分からないままでした。

■6月22日呉大空襲

 私たちが呉に行った最初の頃にも空襲はありましたけど、爆撃の目的が呉ではなくて、上空を飛んでいるだけでした。警戒警報が鳴って、「豊後水道を北上中」という情報が流れて、空襲警報が出た頃にはもう呉の上空を飛んでいましたから、米軍機は早かったのですね。

 私たちの寮は、すり鉢状になっている呉の街の一番上、高い所の宮原13丁目という地域にありました。真下が私たちの通う工場です。寮の近くに横穴式の防空壕があって、そこが私たちの避難先でした。空襲警報が出たらすぐに防空頭巾をかぶって、横穴式の防空壕に入って逃げました。外に出ていたら敵の機銃掃射でやられます。機銃掃射で亡くなった人もありました。

 空襲が本格的にひどくなってきたのは昭和20年の年が明けてから、3月頃からでした。東京とか、大阪とかめがけてB29が行くようになってから、いつも呉の上空を飛んでいきました。その頃からはもう戦地にいるのと同じような気持ちでしたね。生きては帰れんという感じで。爪やら髪の毛を切って、それを置いていたりしました。

 3月からずーっと毎日毎日上空をアメリカ軍の飛行機が飛んでいました。呉の海軍工廠めがけて初めてB29が1トン爆弾を落としたのは6月22日でした。この日は忘れられない日なのです。私らは防空壕に入っていました。目を押さえて、耳を押さえて、座っているのですけど、音が分かるんですわ。爆弾が落ちてくる音が。シューッと音がするんです。あっ、今度はここに落ちてくるっ、という感じで。しっかりと目を押さえ、耳を押さえてしゃがんでいるのですが、シューッと音がして、ドカーンと音がするんです。本当に、次はここに落ちてくる、という感じでした。

 別の防空壕に他の学徒の人たちが入っていましたけど、その防空壕は直爆されて、横穴が潰されて、みんな圧死しました。可哀そうなことになりました。

 6月22日のその日は、呉の海軍の広い広い施設が、呉の駅から工場の中を電車が走っているほど広い所でしたが、鉄骨の建物全部がやられてしまい、もう無茶苦茶になって、大きな穴が開いていました。爆弾の落ちた所をみんなで恐る恐る中を覗いてみたら、中にやられた人とか、死んだ人とかあって、手やら足やらがぶら下がったままの人もありました。それはとても恐ろしい光景でした。

 この日は一日で呉の駅とか、海軍工廠とか、公共の建物は全部やられてしまいました。山手の地域とか普通の民家はまだ残っていましたけど。交代勤務の人たちが寮に帰ってきて、お互い「良かったなあー」と言って喜び合いました。

空襲で壊滅した呉の街
空襲で壊滅した呉の街

次の日、仕事に向かうのに、寮から工場に歩いて行くのですけど、その途中に広場みたいな所があって、そこにたくさんの死んだ人が筵をかけられて並べられていました。その傍を通って仕事に行ったりしました。

■7月2日再び呉の大空襲で寮を焼き出され

 それからも毎日のように空襲はありました。7月2日にもありました。この日はB29ではなくて艦載機でした。もう空いっぱいに艦載機が飛んできたのですよ。私たちは防空壕に入って、その入り口から見てたんですけど、節分の豆まきみたいに、空いっぱいにパラパラーっと爆弾が落とされてきました。爆弾が落ちたとたん、ボッと家が焼けてしまうんです。呉の市中の普通の民家が全部やられてしまいました。山手の方の民家も。私たちの寮も焼かれました。「ああっ、寮が焼ける」と、目の前で見ていました。

 呉の市中には何もなくなってしまいました。私たちも着るものも何もなくなり、着の身着のままになってしまいました。

 呉の駅から一つ広島寄りに吉浦という所がありますが、そこに兵隊さんの寮のような施設があって、私たち学徒はそこに行くことになったのです。山の上から呉の街まで下って、街中を歩いて吉浦まで行きました。長い道のりでした。道の両側にある家々はまだ燃えているような所もあり、熱い熱い中をみんなで並んで吉浦の駅まで逃げるようにして行きました。もう死ぬような熱さでしたね。

 私たちは着るものも何も無くなっていましたので、学徒は一度帰郷させようということになりました。一旦家に帰らしてもらったのです。それから着替えやいろいろな物を持ってまた吉浦に来たのです。防空頭巾と自分の着替えをカバンの中に詰めて、それを肌身離さずもって行きました。

 吉浦に移ってからも空襲はしょっちゅうありました。その時に逃げるのは呉と吉浦との間にある隧道でした。防空壕の代わりにそこに逃げていました。隧道には呉の街から焼け出されて、そこに住んでいるような人もたくさんいました。

 吉浦から呉の海軍工廠までは船で通いました。もう工廠もすっからかんで、錆びついているような状態で、そこで一体何をしていたのかはっきりと記憶に残っていません。多分後片付けなどをしていたのだと思います。

■8月6日 広島への原爆投下

 8月6日は、その日も朝早くから工場に行っていました。

 8時15分、物凄い閃光が走って、目が痛くなるほど、目を開けられないほどの光でした。と思っていたら今度はドカーンと物凄い音がして。

 その後に、大きな入道雲が出てきて、いっぺん出てきて、それからもう2回も出てきました。私たちはそれを見ていました。呉から広島方向に向かっては障害物が何もないから、距離はあるけど、前は海だけなので。


  「広島の火薬庫が爆発したんじゃろか?」
  「大きな建物がどうかなったんじゃろか?」

そんな話をしていました。

 8月6日の日は工廠から吉浦まで汽車で帰りました。

呉市吉浦町(現在若葉町)海軍工廠砲熕部実験部から見た原子雲(撮影/尾木正己 提供/広島平和記念館)
呉市吉浦町(現在若葉町)海軍工廠砲熕部実験部から見た原子雲
(撮影/尾木正己 提供/広島平和記念館)

 途中の駅で、広島から焼けて送られてくる人たちと出会いました。髪の毛は焼け、体中が焼け、着る物も引き千切れ、火傷して水を欲しがる人、苦しがっている人、泣き叫ぶ人、そんなたくさんの人たちと出会いました。

■終戦、そして帰郷

 その後も毎日工場には行っていました。何もすることはないのですけど、船で毎日工場に行きました。

 毎日空襲警報、警戒警報と言って、アメリカの飛行機が飛んでいたのに、8月15日は朝からまったく飛行機は飛んでこないし、「えらい今日は静かやなー」と言っていました。

 お昼頃にみんな集まりなさい、ということで工場にみんなが集まり、天皇陛下の録音を聞くことになりました。でもよくは聞こえませんでした。大勢の人なので。何をしゃべってはんのか、私らには分かりませんでした。しばらくして「日本は負けたんや」というみんなの話から、はじめて負けたんかーと思いました。

 その日、8月15日の夜はとても怖かった思い出があります。兵隊さんがやってきて、「アメリカ兵が来たら何されるか分からへん」と言いました。

 8月16日にはすぐに、学徒は全員帰郷させるということになり、引率されて広島の駅へ向かうことになりました。広島駅はものすごく混雑していて、汽車の便もなく、その夜は一晩駅で過ごすことになりました。

 その時の広島駅の様子はよく憶えていませんけど、広島の街の情景は脳裏に残っています。本当に草一本もなく、青いものは何もありませんでした。周囲の山にも、町にも。街は瓦礫だらけで、焼け野原で、本当に悲惨な光景でした。

 広島から島根に帰る列車もたくさんの原爆で負傷された人たちと一緒でした。母校の大田高等女学校も原爆被災者の救護所になっていました。私たちの下級生や一部の同級生たちが被爆者の救護、介抱に当たっていました。被爆者の傷口からウジがわいたりして大変だったと聞かされています。

 大田の女学校の同級生で、学徒で一緒に呉に行っていた人ですが、途中で広島の女子専門学校に変わった人がありました。その人は原爆で亡くなりました。

 広島から中国山脈を越える汽車に乗って島根県に至り、大田に帰り着きました。

 家族は「私はもう帰って来ないのではないか」と心配していました。でも帰ってきたのでとてもビックリしていました。私自身、よう生きて帰れたなあーと思いました。

 呉から実家宛には何度もハガキや手紙を出していました。戦争が終わって実家に帰ってみますと、私の送ったハガキや手紙は全部黒塗りされていて何が書いてあるのか分からないほどにされていました。全部検閲に引っかかって、全部消されていたのです。寮からは工場の一帯がよく見えましたので、見たまんま、ありのままを書いていたのですが、それが許されなかったのです。

■特攻の学徒動員の人たちを見送る

 私が海軍工廠で働いていた時、作っているのは回天という人間魚雷の舵を作っているのだと聞かされたことがあります。一人乗りの魚雷で敵の艦船に突っ込んでいく特攻ですね。その回天に乗り込む人たち、死んでいく人たちと、いろいろ話をして、最後は見送っていきました。その人たちはみんな大学生で、学徒動員だった人たちです。突撃攻撃に出発する時はみんな海軍少尉の位をもらって、回天に乗って突っ込んでいったのです。

 あの人たちとは「さよなら」と言って、「頑張って」と言って、手を振って別れたけど、今考えると、どんな気持ちで行かはったんかなーと思いますね。

 死んだって、遺骨はない、海の中やしなー。そんなもん一発ぶつかったって、相手の大きな船にどれだけ傷がつけられたもんかなー。今思うたら無茶なことしたもんやなーと思いますね。

 特攻隊で飛行機で突っ込む人たちも大変やったと思います。みんな学生でしょう、若いね。そういう「これから出撃します」という人たちをたくさん見送ったんです。その人ら、どういう気持ちで行かはったのか、あの時も、今も思うているんです。死んでも何の形も残らないし。

 私の小学生の時の同級生でも予科練に行った人たちがいます。ただその人たちは昭和19年に予科練に入ったので、終戦までに出撃することはありませんでしたけど。私らより年上の人たちの中には予科練に入って、特攻隊で出撃して、死んでいった人がたくさんあると思います。

■戦争の悲惨さ−二度とあってはならない

 戦争が終わって実家に帰りましたけど、そのまま女学校に行くことはありませんでした。でも卒業証書だけはもらいました。たぶんそのまま女学校卒業の扱いになったのだと思います。

 その後は、実家が農家でしたので家の手伝いをし、裁縫、お茶、生け花などの習い事をしていました。昭和25年(1950年)、結婚をし、それを機会に、主人の仕事の関係で京都に住むことになりました。主人が昭和53年に56歳の若さで亡くなり、それからは私一人で二人の娘を育てながら一生懸命やってきました。

* * * * *

 被爆者健康手帳の交付を受けられたのは、私が50歳を過ぎてから、随分遅くなってからでした。女学校時代の友だちから教えてもらって、広島への入市の証人にもなってもらって取得することができました。手帳を取得する頃と同時に、甲状腺機能低下症だという診断を受けました。手がふるえるのです。市立病院で検査してもらったりしました。

 今、91歳ですけど、腎臓肥大とかいろいろありますけど、どうにかしなければならないところまでは行ってない。スレスレのところにあるみたいで、とにかく気を付けるようにしていたらいいと言われています。

* * * * *

 子どもは女の子二人でした。次女の方が私と同じ甲状腺障害の病気で25〜26歳の頃、甲状腺機能亢進症と診断されました。汗をかく、ドキドキドキドキする、字が書けないほど手が震える、そして目の玉が飛び出るように眼球が出る、といった症状がありました。10年ほど前からは甲状腺機能低下症に診断が変わっています。 そしてその娘の子が、私の孫ですが、また甲状腺機能亢進症になっているのです。

* * * * *

 私は戦争が終わってから一度も広島に行ったことがありません。京都から島根県の田舎に帰省する途中広島を通過したことはありますが、じっくり広島の街に行ったことは戦争が終わって以来一度もないのです。生活のために働き続けなくてはならず、その余裕がありませんでした。原爆ドームも観たことがなく、原爆資料館に行ったこともないのです。テレビなどで、今広島の山に草木が生えていて、立派に街が栄えているのを見ると、夢を見ているみたいです。呉の街にも一度は行ってみたいと思いながら、その機会がありませんでした。小高い山の上にあった工廠の寮から山に沿って歩くと海の見える所に出ます。そこからは眼下に音戸の瀬戸の渦潮が見られました。あの光景はとても懐かしく思えてなりません。

* * * * *

 あんな悲惨なこと、二度と味わいたくありません。子どもらにもあんな目に遭わせたくないのです。
                       (了)





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