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●被爆体験の継承 81

香焼(こうやぎ)の島で浴びた閃光

福島 圭子さん

2020年9月10日(木)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

福島 圭子さん

■香焼島

 原爆が落とされた時、私たちは長崎の、今は長崎市内になっていますけど、香焼という島にいたんですよ。長崎の街は山ばっかりでしょ。その先に港があって、海があって、そのすぐそこに香焼の島があります。原爆が落ちた爆心地から島までの間に何の障害物もなくて、海だけでしたから、直接影響を受けたようなものでしたよ。私が8歳の時、小学校2年生でしたけど。

 お昼前に、家の前で弟と蝉取りをしていたら、大きな夕陽がボーンと落ちたような感じでしたね。その時丁度爆心地の方向を向いていたんですよ。そしたら、「あれ、おひさまが落ちたのに暗くならないの?」って、その時一瞬思ったんですよ。家の裏の方にいた母もそう思ったそうです。でもそんな馬鹿なと思っていると、近所のみんなから「爆弾が落ちた!逃げろーっ」と言われて、家の裏に防空壕があったので、弟と一緒に慌てて防空壕の入り口まで行った時に、もの凄い爆風が来て、バァーンと、もう吹き飛ばされてしまったんですよ。

 夏だから薄着でしょ。ズボンとかははいていない。服は着ていましたけど、膝とか、顔も手もむきだしで。防空壕というのはきれいなコンクリートで作っているわけではないし、地面の上はガタガタの石ころだらけなんですよ。だから、爆風に吹き飛ばされて転ばされた拍子に、顔から、手からもう血だらけになったんです。その頃はまともな薬もないし、井戸水を汲んで、じゃーじゃーと何回も流して、タオルで拭いて、そしたらまた血が流れてきて、そんなことを繰り返しました。その時はそれだけでしたけどね。私と私のすぐ下の弟は血だらけになったんですけど、一番下の弟は一緒にいた母がかばってくれて怪我なんかはありませんでしたね。

* * * * *

 私が生まれたのは香焼ではなくて、すぐ近くの深堀というところなんですよ。父が学校の先生していたので、香焼の小学校に転勤になって私たちもそこに移り住んでいたんです。今は香焼も陸続きになって長崎市の一部になってますけど、私たちがいた頃は小さな手漕ぎ船で深堀まで渡って、そこから長崎の中心地に行っていました ね。香焼から直接長崎に行く連絡船もありましたけど。

 香焼村には造船所がいっぱいあって、そこをめがけて毎日のように爆弾が山盛り落とされていましたよ。深堀からもう少し長崎寄りのあたりにも造船所があって、そこにも爆弾が落とされていましたけど、香焼にはとにかくいっぱい落とされていました。だから爆弾なんて何かしょっちゅう落とされているような感じで、そんなもんだと思っていましたよ。「あらまた落ちた」という感じで。

* * * * *

 その頃の私の家族は、小学校の先生をしていた父と、母と、私が長女で、その下に昭和14年生まれの弟と、もう一人昭和17年生まれの弟がいて5人家族でした。一番下の弟はまだ3歳でした。戦争が終わってから昭和20年と昭和24年に妹が二人続いて生まれているんです。

 戦後になって、私たち家族は私が小学校3年生の時まで香焼にいました。それから枇杷で有名な茂木というところに父が校長として 赴任して、次に大串小学校というところにも校長として転勤になって、そして長崎に帰ってきたんです。私たちも父の転勤に合わせてその都度転校したんですよ。私が小学校を卒業したのは伊良林小学校でした。

私が4歳の時の家族写真。父と母と私と2歳になった弟と
私が4歳の時の家族写真
父と母と私と2歳になった弟と
■父の死

 原爆が落とされた時、父は同じ香焼の島でももっと長崎に近いところにいたんですよ。学校の子どもたちを連れてって、戦争のための何かの作業をしていたらしいんです。

 その父は43歳の若さで亡くなりました。火傷なんかはしてなかったんですけどね。その頃は原爆の影響とかなんとかいうのはよく分かっていなくて、私も子どもだったから詳しいことは分からなかったけど。ある日、父が突然「苦しい、苦しい」と言い出して、2〜3日そんな状態が続いて、そのまま死んでしまいました。急死ですよ。それまでもしんどかったんやと思いますけど、男だからしんどいとか苦しいとか言わなかったんだと思いますね。明治42年(1909年)生まれで、亡くなったのが昭和27年(1952年)、戦後7年目の年でした。私が中学3年生、15歳の時です。

 その頃の我が家は長崎に移っていました。父が早死にしたのは原爆が原因だと思うんですけど、その頃はまだ原爆が原因でがんになるなんて分からなかったじゃないですか。私はずーっと後に大人になってから、「ああ、父はがんだったんじゃないか」と思うようになったんですよ。もともとは元気な父でしたから。

 中学を卒業してからの私は、長崎西高校の事務員として働かせてもらいながら、長崎東高校の定時制に通いました。父が亡くなって、母親一人で家族の暮らしを支えるのは大変なことになっていましたからね。長女の私も働かざるを得なかったんです。一番下の妹はまだ3歳ぐらいでしたから。西高では印刷の謄写版の係が私の仕事でした。今だから言える話ですけど、謄写版で印刷する試験問題を一枚失敬して、家に持ち帰って、それで勉強したことなどもありましたよ。

■東京暮らし

 高校を卒業してからはある会社の事務員としての就職も決まっていたのですが、収入が思うようになくて、どうしても家族の生活が支えられないので、思い切って東京に出ることにしたんです。東京では昼間は会社に勤めて、夜はアルバイトをしながら長崎の家に仕送りをしていました。

 私は社交ダンスが好きで、競技ダンスなんですけど、社交ダンスのプロの試験を受けるまでになって、見事に合格したんです。それで夜はダンスを教える側の仕事をするようになりました。普通のアルバイトとは違って収入もよくなって仕送りを増やすこともできるようになりました。母からはいつも「助かるなあー」と言ってくれていましたよ。そのお蔭で弟たちも商業学校を卒業したり、妹たちも普通の高校を卒業して就職することができました。母からは「仕送りはもうこれでいいよ」と言ってくれました。

 余裕のできた収入はそれからは、長崎に居る母のところを訪ねたり、親せきに会ったり、父のお墓にお参りしたりなど、主にそういうことに使うようになりましたね。やはりできるだけ母の顔が見たくてね。

■京都で生涯

 結婚したのは東京でアルバイトしている時に知り合った人が相手でした。その人が京都出身の人で、一緒に京都に来て、ご両親にお会いして、お義父さんになる人がとてもいい人だったこともあって結婚したんですよ。昭和40年(1965年)私が28歳の時です 。

 結婚したその年に長女を出産し、31歳の時次女を、33歳で三女を出産しました。

 その後ずっーと京都に住み続けていろいろなことがありました。

 私が68歳の時になって、お婆ちゃん(義理の母)から「お好み焼き屋をやらないか」と言われたんです。初めは「お好み焼きって何?」っていう感じだったんですが、遠い親戚が大阪でお好み焼き屋をやっているのを見学したり、京都で美味しいと言われている店を3軒ほど回ったりして準備をしました。元々料理は好きだったこともあって、お好み焼きと焼きそばの店として開店し、10年以上続けてきました。いまだに「あんたんとこのお好み焼きは美味しかったよ、またやってよ!」と言ってくれる人もありますよ。

■私の健康、母やきょうだいたちのこと

 私は小さい頃から丈夫で元気でしたから、今日までこれといった病気はしてきませんでしたよ。自分でしぶとい女だと思ってきましたけど、それでもどうして私だけ長生きしているんだろうなと思いますけどね。

 ただ35歳の時に甲状腺がんになったんですよ。その時は府立病院で切除手術してもらいました。今でも薄っすらと施術の跡が残っていますけどね。見つかるのが早かったので転移もしないで済んだんです。あの時手術してもらった先生に私の被爆の話をしたんですよ。先生は「あんたの甲状腺がん、被爆の影響の可能性は十分ありますよ」と言われたのを憶えています。

 それから、お好み焼き屋はずーっと立ち仕事だったので腰を痛めて、いい整形外科があるからと言って連れてってもらったら、「これは古い傷ですね」と診断されたことがあるんですよ。そう言われたら、若い頃スケートリンクで思いっきり転んで転倒したこととか、階段からお尻を激しく打ちながら落ちていったこととかを思い出しました。最近も押し車を押して歩いていて転んで足と腰を骨折してしまい、家の中でも杖がないと歩けなくなっているんですよ。今も整形外科に通っていますよ。内臓の方は今のところ大丈夫だと言われていますけどね。要介護3になってしまって、月、水、金の週3回のデイサービス通いをとても楽しみにしていますよ。

 私の母は101歳まで生きました。原爆が落とされた時、母は家の中にいましたし、爆風で飛ばされたりもしていませんでした。爆風が収まってから防空壕に来たんですよ。

 弟二人は64歳と65歳と、二人とも60代で亡くなっています。下の方の弟はがんでした。戦後に生まれた二人の妹たちは今も元気に過ごしていますよ。

 私の3人の娘たちのうち一番下の子がね、東京にいるんですけど、被爆二世みたいな病気の症状があるらしくて、詳しいことは分か らないんですが、とても気になっているんですよ。

■香焼は被爆地として認められていない

 被爆者手帳の申請はしましたけど、結局交付はされませんでした。私がいた香焼より爆心地からの距離がもっと遠い深堀の方はみんな被爆者になっているのに、香焼の人たちは被爆者になっていないんですよ。市役所に行って、「(原爆で)こんな目に遭いましたけど被爆者じゃないんですか?」と尋ねたら、「香焼は違います」と冷めたく言われてしまいました。役所ってそんな所なんだなあと思いましたよ。とても怒った憶えがあります。

 京都の市役所にも行って言ったんですけど「京都ではそれ以上のことは分かりません」と言われ、長崎でも「あなたの持っている 『第二種健康診断受診者証』を被爆者手帳に変えることはできませ ん」と言われました。役所って、人の心を踏みにじる、優しくないところだなあとつくづく思いましたね。

 長崎に住んでいた弟たちは手帳をもらっているんですよ。長崎に住んでいる人なら手帳が出るけど、私のように他府県にいると駄目なんだそうです。今もって理解も納得もしていませんけど。

■原発のこと、戦争のこと

 原発作らはったでしょ。私、まだ子どもの頃から、日本は地震と津波とか多いのに、あんなに原発作ってと、それがバァーンとやられたら、また被爆者ができてしまうやんと思っとったんですよ。そしたら本当に起きたじゃないですか、福島で。本当に、なんでこんな勉強もしていない若い子がそんなこと思うのに、偉い人たちがね、なんでそんなこと気付かないのかと思ってね。もうね、偉いさんのところへ怒鳴りに行きたかったですよ。

 それと安倍さんがね、どこかが攻めてきたら自衛隊を国防軍にして闘うって言ったんですよね。私ね、この人、本当の戦争というものを知らないんだろう、バカボンが!と思いましたよ。首相官邸まで行って「戦争ってこういうものよ」ってことを教えに行こうかと思いましたよ。もう辞めちゃいましたけどね。

                       (了)

参考資料

 平成14年4月1日に爆心地から12キロメートル以内の次の対象区域が、新たに被爆地域(健康診断特例区域)として追加指定され、原爆投下時(昭和20年8月9日の午前11時2分)に対象区域内にいた人又はその当時その人の胎児であった人は、「第二種健康診断受診者証」の交付を受け、健康診断を年に1回無料で受けることができます。福島圭子さんの被爆した香焼村(当時)はこの「第二種健康診断受診者証」交付の対象地域になっています。

 第二種健康診断受診者証(注釈)を持つ人で、被爆体験による精神的要因に基づく健康影響に関連する特定の精神疾患(これに合併する身体化症状、心身症等を含む)が認められる場合、申請の後に「被爆体験者精神医療受給者証」の交付を受け、対象となる疾患・症状の治療等に係る医療の給付等が受けられることになっています。
(長崎市のホームページより)



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長崎市周辺被爆地域図

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