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●被爆体験の継承 82

愛児の亡骸を抱いた写真

御手洗由紀子(みたらいゆきこ)さん

御手洗由紀子さんの手記と夫・英親さんの手紙
2020年9月30日(水)田渕啓子さんのお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

御手洗由紀子さんの被爆体験の手記
2003年(平成15年)- 御手洗さん73歳の時
(原爆症認定申請の時にまとめられたもの)

■広島県立第一高等女学校で被爆

 当時私(15歳)の家は広島市の大手町9丁目41番地にありましたが、原爆投下2週間前に父の勤務地であった科学研究所(白島町)に疎開していました。父と弟2人、私の4人家族でした。(母はすでに亡くなっていました)

 8月6日の朝、私は広島県立第一高等女学校(爆心地から1.5`)でいつもの如く校庭で朝礼のため整列していたその時でした。突如閃光が走り、一瞬にして意識を失いました。どのぐらいの時間が過ぎたのか分かりませんが、気がついたら全身の衣服は焼け、裸同然でした。校庭には焼けた生徒の死体が、そこにいた生徒の7割くらい。生き残った生徒のもがいていた姿が悲惨でした。私は幸いにも最前列にいたため、校舎の陰に位置し直接の被爆から避けられたのでしょう。ですが、70bは吹き飛ばされていました。

広島第一県立高等女学校の跡。慰霊碑、門柱(広島市中区 平和大通り緑地)
広島第一県立高等女学校の跡 慰霊碑 門柱
(広島市中区 平和大通り緑地)

 その時、黒い雨が降ってきて、真夏にもかかわらず浴びた体は寒く、寒く感じ、もう死ぬかと思いました。そんな中、救助に来てくれた先生に助けられました。助かった30人は、広島全市が壊滅し火の海となっている市中をくぐりぬけ、小高い「己斐」の山に避難しました。その日はそこの土の上で過ごしました。

 あくる日私は父を探しに疎開先に向かって、同じ方向の友人6人と一緒に線路沿いに歩きました。もらったおにぎり1個を父にあげようと持って歩いていましたが途中で落としてしまいました。やっと夕方たどりつき、友人と別れました。そのまま父を探しに疎開先周辺を「お父さん!お父さん!」と声を出して探していると、「ゆっこ!ゆっこ!」とかすかな声が聞こえました。その声の方向へ行くと、父は顔、手、体の半分くらい一面ガラスの破片だらけで血だるまでした。誰かが掛け布団をくれたらしく布団で寝かされていまし た。その1枚の布団の上に、父と崇徳中学校の生徒が一緒に寝ていました。よく見るとその中学生は死んでいました。通っている人が、「このおじさん死んでいる、死んでいる」と言っていましたが、 父はか細い声で「生きています、死んでいません」と言っていました。

 父はその後片目を失明しました。

 私は、父を確認した後、2人の弟を探しに行きました。4人が揃ったのは3日目の午後2時頃でした。そこで一ヶ月ほど過ごしました。

 毎日カンパンの配給がありましたがとても足りません。私たちは周りの野草、かぼちゃの花、芋ずる、芋の葉などを食べました。飲み水は、壊れた一升瓶に破裂していた水道管から水を入れてきて飲みました。

 私は物を食べると下痢をし、食べ物が入りませんでした。体も痩せて、痩せてガリガリでした。

 一ヶ月後、父の教え子の世話で広島から50`離れた中国山系の 盆地の庄原に落ち着きました。4畳半の狭い所でした。

 その頃でした。頭髪が抜け落ちました。2年間の間に抜けては生え、抜けては生え、3回ぐらい繰り返しました。また、足には紫の斑点が出てきました。10月頃にはその斑点から膿が出てきました。全身の浮腫もあり、食べ物も事欠き、医者もおらず、運命にまかせました。

■京大看護学校と看護婦勤務

 私は被爆後ずーっと体の調子が思わしくありませんでした。やっとの思いで22歳の時、京大看護学校に入学、卒業後は京大病院に勤めました。しかし体調がすぐれず、貧血の薬を京大病院でもらって飲みながら40歳まで勤めました。その後市立病院に移りましたが、やはり体調がすぐれず53歳で退職しました。この間看護婦らしい仕事はほとんどできませんでした。

■私の病歴

 以下、私の主な病歴です。

・15歳 被爆後、体がだるく何もできなかった。

・24歳 貧血がひどく京大病院で治療を始める。

・28歳 京大病院、痔の手術(ファイトヘッド)
     ともかく助かった。
     (職場の仲間と琵琶湖に出かけ下半身だけつかった。
     すると肛門に菌が入った)

・31歳 妊娠2ヶ月で流産

・32歳 妊娠4ヶ月で流産

・34歳 妊娠5ヶ月で流産。子どものような子宮と言われた。

・35歳 4回目の妊娠。出産を控え仕事を一年間休んだ。

     9ヶ月で出産。「おぎゃあ」と一言言った切り
     すぐに保育器に入れられた。
     2週間後、新生児黄疸で死亡した。
・36歳 子宮外妊娠。卵巣を取った。足立病院で手術。
     子どもはもう無理だと言われた。また、 あなたの体、
     「胃も腸も腎臓も子宮も委縮している」と言われた。
     この頃から異常に体がだるく、吐き気、嘔吐、
     下痢に悩まされ始める。
     理由も分からないまま病院へ入院。点滴をしてもらう。
     桂病院、高槻医大病院、洛陽病院等、病院を転々とした。

・50歳 歯槽骨が腐ってきた。
     顎の骨を削って歯茎に入れる手術をしたが、
     結局駄目で入れ歯を入れることができなかった。
     歯がないため、言葉のリハビリに3年もかかった。

・60歳から67歳
     7年間、10数回逓信病院で入退院を繰り返した。

・68歳〜現在 京大病院で治療中

 今診断されている病名は次の通りです。
     血行障害と高血圧、膠原病、造血機能障害、
     骨粗鬆症による脊髄圧迫骨折、不眠症、 腎臓病

御手洗由紀子さんから田渕啓子さん(京都原水協と京都原水爆被災者懇談会の事務局)に送られた手紙
       2006年(平成18年)御手洗さん76歳の時

 長らくご無沙汰いたしましてお許し下さいませ。私ごと昨年12月23日、自宅でベッドから落ちて、顔7ヵ所、頭にたん瘤2ヵ所、その上、本日まで歩けませんでした。

 本日年賀状を拝見致しまして、今、床より起きて文を書いております。主人が昨年末の“被爆者を励ますパーティー”で田渕さんに会えなくて残念だったと申しておりましたが、お葉書にあの日バタバタとしていたと記してあり、本当に申し訳ございませんでした。

 1月4日と5日と京大病院に行ってきました。顔中血だらけなのと歩けないので、主人が病人を乗せる車を手配してくれました。整形外科、消化器と診てもらいました。脊髄骨折した時のA医院での注腸検査で骨折して、それから5年目に入り、今は京大の整形で診ていただいています。

 毎日過去の楽しかった“つどい”を思い出し、感謝しております。私も今年76歳になり、あと3年で80歳になります。主人はあと3年で91歳です。毎日3食、おかゆを作ってもらい、お椀に2分の一は食べれます。先生は100b歩けたらあとはタクシーでと申されますので、月4回〜7回は京大の7名の先生に診ていただいて生き抜いております。

 どうぞ今後もよろしくご指導下さいませ。主人からもよろしく申し上げるようにとのことです。

御手洗由紀子さんから田渕啓子さんに送られた手紙
2007年(平成19年)夏
                   御手洗さん77歳の時

 残暑お見舞い申し上げます。ご無沙汰しております。相済まなく思いつつ日々は過ぎていき、貴女様はご健康のことと思いつつ私の近況をお知らせしたくなりましたので、筆をとりました。

 4年前A医院にて、自分の主人が、注腸の検査が上手だからと、数回女医の奥さんが申され、受けて以来、私の身体はまったく生涯この脊髄骨折による疼痛と共に過ごすこととなりました。

 京大病院へ5月に入院しました。右の足がしびれて歩行がやっと。エレベーターで1階まで新聞を取りに行く許可のみで、あとは安静に寝ています。京大の先生に広島の原爆の1.5`で、土橋で被爆したことを申しても、8人の先生は共々あまり原爆については、心配とか、自分の医学には関係がないご様子です。内科は私がよく下痢をしますし、@消化器科、A腎臓科、B脊髄骨折による整形、C神経内科、D糖尿科、E血圧が高いので朝夕血圧を計り、BD170/192/とありますし、朝夕の薬が出ています。F胸部外科は胸が悪かったので1ヵ月に1回は受診しています。Gリハビリは7月のM1の結果、週1回京大のリハビリで軽い運動をしていただいており、川端診は中止しておいて下さいと。もし便尿が出なくな ったら、京大の手術場において脊髄の手術をと主人に申しておられ、今現在は薬が出ています。手術をした患者は完全には治らないとのことで私も覚悟をしております。

 現在、被爆者の健康管理手当は36,000円から35,000円以下になっており、病気がひどくなっても自分が原爆を受けたのだから仕方ないと思います。貴女様がお休みの時電話しましたら別の男性の方からお見舞金も5000円の方はみんな3000円になりましたと申されました。長年5000円いただいてきたことに感 謝いたしております。

 主人はA医院にはあのこと以来は行っておりません。テレビでも、他の病院で私と同じ検査で5名はなくなっているようです。京大病院ですらこの前皮膚科の院内感染者が3名出て謝っていました。病気をする人は弱くて、死に至るまで人間は健康でなくてはいけませんね。

 京都府庁からは2回ほど原爆の血液検査を申して下さいましたが、私は京大では毎月1回は「血管の出にくい人」という札を検査箋 につけられて、30分あたためて血液を採血する状態です。腎臓との関係で昨日までは牛肉、豚肉、牛乳、うなぎなど中止でしたが、今夜から焼き卵を食べてよいという許可が出ましたので、早速卵焼きを作って食べました。

 また本日手紙を書きたいと念じましたのは、広島の弟が17日より原爆病院へ入院することになったからです。45年間も開業医にかかっておりましたが、自分の知っているお医者さんが原爆病院にいるからとのことです。京都の人たちはみな無関心ですね、自分が原爆に遭っておられませんし、仕方ありません。広島にいた私たちは一家全員が原爆に遭いましたし、命からがら己斐の山へ火の中を逃げましたので、この世に深く感謝いたします。

               暑さ厳しき折、御身お大切に

2007年(平成19年)暮れ、御手洗由紀子さんの夫・英親さんから寄せられた挨拶状

 今年もあと少し、時の流れの早さに驚くほどです。

 由紀子本人はこの半年で急速に体調の低下を来たし、歩行も困難な状況です。症状は手足関節の痛みと、下痢の連続で体重が40`を割り、私が3度の食事の世話、週2回平均京大病院通いも私の介護でどうやら切り抜けておる今日この頃です。由紀子には原爆の後遺症のため、原因不明の症状が出て、先生方も首をひねっている実情です。

 私自身89歳になり、戦中・戦後を体験して戦争の無意味さ、悲惨さ、基本的人権を抹殺した有様は誰にも増して体験しただけに、命にかけて反対でした。まして原水爆被災などもっての他です。それが戦後60年も経って風化し、自衛という名のもとにまた戦争への道を選んでいる政治に恐ろしさを感じます。どんな理由付けをしても人が人を殺す行為は絶対に許してはいけないのです。

 尚、今年の“被爆者を励ますクリスマス平和パーティー”には私たちは二人ともとても参加できませんでした。今年もみなさんにお会いしたかったのですが・・・。

御手洗由紀子さんの思い出
田渕啓子さん(京都原水協・京都原水爆被災者懇談会事務局)のお話し
2020年9月30日

■衝撃の初対面

 私が御手洗由紀子さんと初めて出会ったのは1975年(昭和50年)、彼女が45歳、私が27歳の時でした。私は7年前から京都原水協と京都原水爆被災者懇談会の事務局に勤めていて、その頃の事務所はまだ旧労働会館(四条寺町下ル)にありました。

 ある日、彼女が何か相談したいことがあるというので一人で事務所を訪ねてこられました。ソファに座って話している途中、彼女が 急に立ち上がって、「ちょっとこれ見て」と言っていきなりスカートをまくり上げたのです。見せられたのは足のひどいケロイドの跡でした。私もまだ若かったので、いきなり見せられて「ええっ!」という思いでした。「私、こんなんでね、しんどい思いをしてきたんですよ」と足を見せながら話は続けられました。

 その時、歯の話もしておられました。歯がもうガクガクになっていて、会話もなかなかしゃべりにくかったようです。「入れ歯も入れられへんねん。歯茎の骨が溶ける病気で歯茎がなくなってて、何もまともには食べられへんし」と言われました。この時は、それ以外にも色々な話を聞かされました。

 私にしたら爆発的と言ってもいいほどのショックでした。私より年上とはいえ、まだ45歳という若さで、私の目の前でスカートをめくって、「見てちょうだい!」と言ったあの姿。それほど辛かった、見て欲しかった、聞いて欲しかったのだろうと思います。今も強く強く印象に残っているあの日です。

旧労働会館(四条寺町下ル)
旧労働会館(四条寺町下ル)

 そのことがあって以来、御手洗さんは毎年“被爆者を励ますクリスマス平和パーティー”に参加されるようになりました。いつの頃からか一人ではなく、ご主人と仲良く一緒に参加されるようにもなりました。このパーティーが私と御手洗さんとを繋ぐ貴重な機会となっていきました。

今も続く「被爆者を励ますつどい・Xmasパーティー」
今も続く「被爆者を励ますつどい・Xmasパーティー」
■愛児の亡骸を抱いた写真

 2003年(平成15年)、この年全国で原爆症認定集団訴訟が始まっていました。闘病を続けていた御手洗さんも認定申請しては どうかと思いお勧めをしました。私も申請手続きのお手伝いをすることになりました。そのために何度かご自宅も訪問することになりました。

 何度目かの訪問の時、部屋に飾ってある写真を見せてもらいました。その中の一枚が親子三人で撮った写真でした。由紀子さんのご主人と、由紀子さんと、由紀子さんが赤ちゃんを抱いた写真でした。大きなサイズの立派な額に入れられた写真でした。撮影されたご夫婦はとても素敵な容姿で、すごくきれいに撮られていて、私はしばらく見とれていました。

 その時、由紀子さんが言ったのです。「この子、死んでるんですよ」と。

 私は次にかける言葉を見つけることができませんでした。とても大きなショックでした。赤ちゃんもとても死んでいるとは思えかなかったのです。

 由紀子さんは31歳の時から3回も続けて流産していました。1965年(昭和40年)、35歳の時に4回目の妊娠をして、9ヵ月目でしたが出産することができました。しかし、その子は生まれて2週間で亡くなっています。やっと、唯一形のある子として生まれた子です。それを喪うことの辛さはどれほどだったことでしょう。

 御手洗さん夫婦は亡骸となった愛児を抱いて大丸百貨店の写真館 に走り、写真として遺し、生涯いつも傍らにいるようにしていたのです。

* * * * *

 原爆症認定申請は、2003年の3月7日、再生不良性貧血と皮膚腫瘍を申請疾病として申請しました。しかし書類不備の理由で申請書類は差し戻され、結局は申請自体を取り下げることになっています。その過程では申請書の医師意見書をお願いしたA医院の医師との間に問題があったり、いろいろな事情もあったようです。詳細は不明です。

* * * * *

 それから数年後、2010年(平成22年)のある日、御手洗さんのご主人から突然の電話がかかってきました。

 電話は「由紀子が死にました。僕は由紀子を心から愛していました」の一報でした。

 御手洗由紀子さん、享年80歳でした。

 由紀子さんはいっぱい辛い思いをして生きてきた人です。それでも、こんな男性と巡り会うことができて、それはそれで幸せな人生だったのではないかと思います。

 ご主人との交信もそれが最後となりました。

                       (了)




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原爆投下時の広島の地図

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