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●被爆体験の継承 83

20歳になって知った
私の生い立ち・被爆の事実

中川 美智子さん

2020年9月30日(水)
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

中川美智子さん

■20歳になって知った私の生い立ち・被爆のこと

 私が生まれたのは昭和19年(1944年)の12月16日です。最初は京都市内の伏見区に住んでいましたが、私が小学校2年生で8歳の時、父親の実家のある精華町に移り住んでいます。物心着く頃から、両親に可愛がられ、一人っ子で、大切に育てられてきたことを憶えていますよ。

 ところが、高校を卒業して2年後のこと、私が20歳になった時 でした。私を育ててくれた両親は実は養父母であること、実の親が別にいることを初めて知らされたんです。その親は広島にいるとのことでした。実の親が私を養子に出す時、私が20歳になったら本当のことを話す約束になっていたとのことでした。広島にいる父親はその頃はまだ元気だったらしく、私が20歳になってすぐに連絡を寄こしてきたそうです。そして、私に一度会いたいと。

 それから間もなく、私の実父のお姉さんという人(私の伯母さん )が京都の伏見に住んでいて、その人に連れられて広島に向かうことになったんですよ。広島に向けて出発する時、京都駅まで一緒に来てくれた養父が、駅で号泣して見送ってくれたんです。その姿は 私の脳裏に強烈に焼き付きました。そしてそのことが、その後の私の人生にも大きく影響するようになったんです。

 広島に着いて、初めて実の父と言う人と対面しました。その時、私の兄という人も一緒でした。私にはお兄さんがいることもその時初めて知ったんです。1歳違いの兄でした。この時、実の父や兄がいろいろ話してくれて、それで、私は自分の生い立ちを知ることになったんです。「あんたはこうやった、ああやった」というようにね。

 その後も、父や兄以外の人からもいろいろな話を聞かせてもらって、私が京都の養父母のもとで育てられることになった経緯いきさつを知ることになったんです。

■原爆の日、生後8ヶ月

 私が生まれた所は広島市の基町だったそうです。市内の中心部、原爆の爆心地からすぐの所ですよ。父親は陸軍の軍隊に入っていました。母親は私を産んだ後、産後の肥立ちがよくなくて、広島市の 郊外の祇園町にあった池田病院というところに入院していたんだそうです。まだ小さい兄と生まれたばかりの私を誰が面倒みるんか、ということで、祇園からさらに北に向かった広島県安佐郡の上安という所に母の実家があって、兄と私はそこに預けられたんだそうです。そこで母の兄、私の伯父さん夫婦に面倒見てもらっていたんで すね。

 ある時、入院している母から「赤ん坊の私の顔が見たい」というので、伯父さんの妻(私の義理の伯母さん)が私をおんぶして祇園の池田病院まで連れて行ってくれたんです。それが昭和20年の8月5日だったんです。私が生まれてまだ8ヶ月の時ですね。その日は遅くなったので、祇園に一泊して翌日上安に帰ることにしたんです。翌日の8月6日の朝、伯母さんが私をおんぶして朝ごはんの買い物に出かけた時、原爆の閃光と爆風に襲われているんですよ。ずーっと後になってもらった被爆者手帳を見ると爆心地から4.1`と書いてありました。伯母さんの話では、あの瞬間、写真を撮った時のように目の前がバァーっと光って、真っ暗になったそうですよ。入院してた母親もベッドごと外に飛ばされた、という話も聞かされています。伯母さんは何が起こったのかさっぱり分からず、とりあえずその日は上安の実家まで帰ったようです。

 安佐郡の上安あたりでも、火傷や怪我で傷ついた人たちがいっぱい、行列となって広島から逃げてきていたそうですよ。皮膚なんかを垂れ下げたままの状態でね。伯父さんは、逃げてくる途中で亡くなった人を積み重ねて焼くようなこともしたそうです。

 私の実の父親は原爆が落とされた時、どこでどうしていたのか、私が聞かされていないのか、私が忘れたのか、今は何も憶えていないんですよ。ただ、原爆手帳は持ってましたので、広島の市内にいたのか、或いは救援で入市被爆したのか、どっちかだったのだろうと思いますよ。

 もともとの基町にあった私の家には、父の父と母(私のお祖父さんとお祖母さん)が2人で住んでたようです。お祖父さんは近くを流れる太田川に遺体となって浮かんでいたと聞いています。お祖母さんも髪の毛が全部抜けて、真っ白い髪だったのに、次に生えてきた時は真っ黒になって生えてきた、というような話も聞いています。

■2歳の時、養父母のもとに

 私の実の母は、原爆が落とされた時から2ヶ月経って亡くなっているんです。

 私たち兄妹はそれからしばらくは上安の伯父さんの家で面倒見てもらっていたんですけど、伯父さんの家にも子どもたちがいて、何時までもというわけにはいかなかったようです。残された父親が一人で二人の子どもを育てるのは大変だということで、それからの私はあっちこっちと親戚などに預け回されたらしいんです。みんな、どこの家も大変な頃で、なかなか落ち着いて預かってくれるところはなかったようです。最終的には実の父のお姉さん(私の伯母)が京都の伏見に嫁いでいて、そこに預けられたんです。でも、そこも 子どもがたくさんいて大変で、その伯母さんの近くに、子どもを欲しがっている人がいるということで、そこにもらわれていったんで す。それが私を育ててくれた養父母なんです。私が2歳の時で、養子縁組されたんです。「女の子はどうせ嫁に出さんならんから、欲しいと言わはるところへもろうてもらおう」、それから「子どものいない夫婦のところへもろうてもらうのがこの子にとって一番幸福や」ということだったようです。

 私には一緒に育ったきょうだいはいませんでした。養父母には私以外の子どもはなくて、一人っ子で本当に大切に育ててくれたんですよ。

 それから20歳になるまで、私はまったく何も知らないまま大きくなっていきました。生い立ちも、もらわれてきたことも、もちろん原爆で被爆していることも。ただ、成長するにつれて何となく、 「ひょっとすると本当の親じゃないんじゃないか」と感じてしまうこともちょっとだけはありましたけどね。何となく雰囲気で。で もハッキリとは広島ということも、原爆のことも何も聞かされてこ なかったんです。

 高校を卒業して就職する時に私の戸籍謄本が必要になり、それを養父母に頼んだんです。ところが両親ともなかなか用意してくれなくて、最後は養母が、私に黙って、直接私の就職先に提出していたんです。きっとあの時は養父母も悩んでいたんだろうと思います。

■実父とのこと、兄とのこと

 実の父親と初めて会いに広島に向かう時、京都駅で見送ってくれた養父の号泣する姿を見て、それまで大切に育ててくれたことも思って、実父と会った後には、私は「広島の父とは縁を切ろう」と思ったんですよ。実父との付き合いを続ければ、私を本当の娘のようにして育ててくれた養父母に申し訳ないという気持ちがいっぱいだったんです。それに、実父と初めて会った時、正直に言うとあまり感情が高ぶるようなこともなかったんです。何となく「よそのおじさん」という感じでしたね。

 実の父には、「おつきあいすることはできません」と書いた手紙を送りました。そして本当に二度と会うことはありませんでした。実父が亡くなった時、広島からは連絡もありませんでした。ですから実父がいつ亡くなったのかも私は知らないんですよ。

初めて広島を訪問し実父と会った時。1965年。左から2人目が実父、その右が私
初めて広島を訪問し実父と会った時 1965年(昭和40年)
(左から2人目が実父、その右が私)

 実の父との関係は「縁の切れた」状態になっていきましたが、ずっと後になって、兄とは付き合いをするようになったんですよ。

 実の父は、母が亡くなってあまり時間を置かずに再婚、後妻さんをもらってるんですね。兄はその後妻さんから随分いじめられたようなんです。後妻さんにも子どもができて、そちらが可愛いか ら、腹違いの兄は疎ましくていじめは酷かったようです。木に縛り付けられたようなこともあったようです。兄は辛い思いをしながら大きくなっていったんですよ。住む所も広島市内で転々としていたようで、私にも兄の住所が分からなくなってしまう時期があったりもしました。

 そんな兄でしたから、たった一人の実の妹である私と会うことは とても嬉しかったようです。私の養父母が亡くなってからですが、兄とは2年に1回は会っていましたね。私の方から広島へ行ったり、向こうから京都へ来てくれたりと。兄が入院してからは広島の病院へ看病にも行きましたよ。兄は2年前に亡くなったんですが、その時は向こうの家族から連絡もあって、お葬式にも行きました。兄は甲状腺がんだったんです。

■結婚、二人の子

 私は24歳の時に縁あって結婚しました。相手は散髪屋さんでした。結婚する時に私が被爆していることはちゃんと話して、そのことは了解してもらって一緒になっているんですよ。ただ、夫となる人のお姉さんから「そんなん(被爆してること)世間にいうたらいけんよ」などと言われたことはあります。でも、「私はなんにも悪いことしてへんのに」とは思っていましたけどね。

 その後、私は息子と娘の二人の子どもに恵まれました。今は孫も 2人います。

■被爆後57年、被爆者健康手帳を受け取る

 広島で実の父親に初めて会った時、私にも申請すれば被爆者健康手帳が交付してもらえることは教えてもらってたんです。でも、私を育ててくれた養父母への気遣いもあって、広島のこととは縁を切ろうと思ってたんです。それに、まだ若かった私は健康そのもので、お医者さんにかかるような心配も全然していませんでした。そんなことで被爆者手帳の申請はせんとこうと思っていたんですよ。

 でもずーっとその後になりますが、私を育ててくれた養父が平成11年(1999年)に亡くなったんです。私が54歳の時でした。50歳を超えるようになって、私も健康のことを心配するようになっていました。それで、養父が亡くなったのを機会に手帳のことを養母に相談したんです。養母はこころよく賛成してくれましたよ。

 被爆者手帳を申請するには、私が被爆していることを証明してくれる人が必要なんですね。ところが、私が実の父親と初めて会ってからもう35年も経っていて、広島の人たちとその後交流があったわけでもないので、証明してもらえる人がどこにいるのかさっぱり分からなくなっていたんです。広島にも何回か行きましたけど、それでも住所も何も分かりませんでした。広島の役所にも行って聞いたんですけどそれでも分からない。この頃は兄の所在地も分かっていない頃だったんです。

 そんな時、唯一の手掛かりじゃないかと思ったのが、原爆が落とされた当時、私たちを預かってくれていた伯父さん夫婦のことだったんですね。あれこれ考えた末に、思い切って、養父母と一緒に住んでいた精華町の役場に相談に行ったんです。精華町の役場では、私の事情を聞いてくれて、いろいろ調べてくれて、その結果、広島の伯父さん夫婦の住所を突き止めてくれたんですよ。伯父さんも、義理の伯母さんも昔の住所の所に、まだ元気で暮らしておられるとのことでした。私は喜んで伯父さん、伯母さんに会いに行きましたよ。生まれたばかりの赤ん坊の頃からですと、50年以上も経っていたんですがね。伯父さん夫婦はきちんと私があの日祇園にいたこ とを証明してくれました。お陰でやっと被爆者手帳を手にすることができたんです。平成14年(2002年)のことでしたね。

* * * * *

 養母は平成16年(2004年)に亡くなり、養父母二人共見送りました。私は幸福だったと思いましたよ。こんなにいい両親に恵まれて

■橋本病と骨粗鬆症

 20歳の時、初めて被爆してることを聞かされた時、それについて特に思うことはなかったんですよ。でも、そのうちに病気や怪我をするようになってからは「ああ、これは被爆が原因かな」と思うようになりましたね。

 私の今の健康状態は、一つは甲状腺が悪くて、橋本病だと診断されてるんです。もう10年来薬を飲み続けているんです。もう一つは骨が弱いんですね。去年は2回転倒してあばら骨を折ってしまって。今年2月には道を歩いていてふらふらっと来て生垣の岩に体をぶつけてしまって腰の骨を折ったんですよ。2ヶ月も入院したんです。これまでに腰の骨折は3回やってるんですよ。骨粗鬆症だと診断されていて、そのための薬も飲んでいるんですよ。今は重たいものを持ち上げることができなくなっているんです。ただ、甲状腺と骨折以外は特に悪い所はないんですけどね。

* * * * *

 私の娘が乳がんになったり、頭に腫瘍ができたりして、被爆二世 だからなのかなあと心配しているんです。乳がんの方は治療してから8年経って、完治しています。頭の腫瘍は良性とは言われていましたけど、京大病院で切除手術を受けました。18時間の大手術だったんです。

■原水爆被災者懇談会のこと、孫の思い出

 私たち夫婦は散髪屋さんをやっていましたけど、その頃のお客さんの中に長崎で被爆された人があったんです。私が被爆者手帳のことを話してたら、その人が京都原水爆被災者懇談会のことを教えてくれたんです。それから懇談会を伺って、いろいろ相談にも乗ってもらいました。京都府庁に手帳の申請をする時には懇談会の田渕さんにも一緒に行ってもらったりしました。それ以来ですね、懇談会とのお付き合いは。

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 私の孫が小学校の頃、先生が原爆の話をしはった時、孫が「うちのお祖母ちゃんもそうなんや。だからご先祖を大切にあかん」と感想を書いたんだそうです。それを読んだ先生が「大人が忘れてることを、今思い出されました」と先生の感想を書かれていたんですよ。今でも憶えていますよ。
                       (了)





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