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●被爆体験の継承 85

まあるいお膳をみんなで囲んでご飯食べたかった

池上 京子さん

2020年10月20日(火)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

池上 京子さん

■地獄の街

 私は昭和12年(1937年)の5月1日生まれで、原爆が落とされた時は8歳でした。長崎の爆心地から2`ぐらいあった所だそうですが、まだ幼かったし、原爆が落ちて1週間ぐらい後には母の実家のある熊本にみんなで避難したんで、長崎のどこに住んでいたのかはっきりとは憶えていないんですよ。父が三菱電機に勤めていたんで三菱電機の社宅に住んでましたけど。長崎市内に行くには電車で行かないといかんような所でしたね。

 その日はね、家の中にいてね、昼前やったし、ご飯のテーブル用意して「みんなご飯食べるよー」と言ったところだったんです。その時、ピカッと光ったんですけどそんなに強くは感じてないんですわ。長崎の市街地じゃないし。丁度カミナリさんが上の方でピカッとやるような感じ。向こうの方で同時にドーンと、こんな音がするんかいなというぐらいの音が凄かったですね。それから、その日は天気が良かったのに真っ暗になってきましてね、爆風やら何やらで、壁なんかがバンバン飛んでました。

 それから、私の父は長崎の三菱電機に勤めていたんですけど、原爆が落ちて消息が分からなくなって、みんなで一生懸命探したんですよ。何日も、何日も。

 長崎の街の焼け跡を歩いていたら、突然足を掴まれたりするんです。寝ている人たちからね。恐い、というよりもううわーっという感じでしたね。「水くれー、水くれ−」という人もたくさんいてね。井戸水をくみ上げるポンプの周りには物凄く火傷した人たちが折り重なるようになっていてね。みんな水が欲しかったんやね。エイリアンみたいな人がね、焼けただれた人が歩いてはるのも見ましたよ。「痛かー、痛かー」「水ばくれんとな、水ばくれんとな」と言いながら寄ってこられたら恐かったですよ。人間とは思えへんものね。目玉が飛び出したような人もいました。思い出しても恐いですけど、それでも可哀そうでしたね。

 死体もゴロゴロ転がってるんですよ。浦上川にも人がいっぱい浮いているんです。上になり、下になったりしてね。「母ちゃん、あれ何しやっと?」と聞いたら、「水が欲しゅうて、あそこから川に飛び込んで、水いっぱい飲んで死んでいっといやっとたい」と言われて、「えーっ」と。あの川、真っ赤になってましたね。人が死んでね、ウジ虫が湧いてね、夏ですからそれが体いっぱいになっててね。今思うたら悲惨なことでしたよ。世の中のものとは思えなかったですね。

* * * * *

 父は結局見つからんかったんです。暫くして父の部下だった人が、父は直爆で亡くなったことを知らせに来てくれたんです。父が亡くなったあたりに「岡崎と」いうバッチだけがあったんやそうです。その時父は32歳でした。父のお墓は父方の田舎に作られて、そのバッチだけ墓に入れられました。もう父の顔もよく憶えていないんですよ。

 父が亡くなったこと知らせに来てくれた人も足がドロドロに焼けていて、ウジ虫がいっぱい湧いていたんです。それを私の母が箸で取ってあげてね。あの頃はシーツなんてないし、布団の布を破いてそれで足をくくってあげて帰ってもらいました。あの日のことの光景はどうしてなのかよく憶えているんですよ。

浦上川
浦上川
■焼き場に立つ少年

 背中に子どもをおんぶしてじっと見つめている少年の写真がありますよね。あれと同じ光景を、私は実際に見たんですよ。私の母も一緒でした。私が「あん人、なんであげんとこ立ってやっと」と母に聞くと、「重油で死体を焼く順番ね、それを待ってると」と言われました。男の子の近くに行ってみると、その子は小学校5年か6年ぐらいやったと思いますよ。おんぶした背中の子はもう亡くなっていて、その死体を焼く順番でした。その傍にはその子のお母さんも倒れていたんですよ。もう血だらけでね、「はよ焼け、はよ焼け」と言ってはりました。私の母が傍まで行って、その男の子の背負った子をほどいてやったりしました。その子のお母さんが「お願いします、お願いしまいす」と言うてはりました。

 ずーと後になってですが、その人が長崎県庁に勤めていることが分かって、母と私と一緒に会いに行ったことがあるんです。「良かったたい、元気になって」と母が言い、私も立派な青年になられてるなと思いましたよ。とても印象に残ってることです。

■母の実家での過酷な暮らし

 父が亡くなって、母親もその時妊娠していたんで、それで母の実家のある熊本県の人吉に帰ることになったんです。残された家族全員で。その頃の家族は、母と、長女の私、双子の妹の博子と愛子、その下の妹の照子、弟の秀人、5人きょうだいでした。母親のお腹には6か月の子がいて、戦後、その子が6番目の子として生まれて、雄子と名付けられました。

 母の生まれ育った実家のある田舎でしたけど、周りからはとても迷惑そうな扱いを受けたんですよ。「(原爆が)うつる、うつる」言われてね。すごい厄介者扱いでした。あの頃の事を思い出すと今でも目茶苦茶腹が立ちますよ。

 その頃から母の体調はずーっと良くなかったんです。入退院を繰り返してたんです、具合が悪くて。夜トイレに行った時などよく倒れるんですよ。血も出るんです。そんな時は「母ちゃん、母ちゃん」と言って子どもなりに声をかけてね、思い出すだけでも辛いです。母は「子どもだけを残して死んどられん」と言うて一生懸命でしたわ。

 母の実家には伯父さん(母の兄)も伯母さん(母の姉)もいはったんです。母ももうちょっとはやさしゅうしてもらえると思って帰ったんやと思います。でも、本家(母の実家)に「ちょっと米ばくれんな」と言ってもらいに行くと、「乞食みたいや」とよく言われました。私ら家族は本家の家とは別に掘っ立て小屋みたいなもの建てて、そこに暮らしてたんです。8年経った頃、台風が来て倒れてしまいましたけど。

 私らきょうだいは「何でうちらだけこんなんや」言うてね。食べるために田圃に入ってドジョウを捕ったり、山に入ってわなを仕掛けてウサギを獲ったりもしましたよ。役場なんかからは何もしてもらえんかったし、国も何もしてくれんかったんですから。食べていくのが精いっぱいで、他所の畑の芋掘って、「ドロボー」って追いかけられたりね。

 偏見の目もひどかったですよ、田舎でも。原爆病がうつる、うつる言われてね。友達も誰もできんかった。「母ちゃん、これうつるとね?」と言うと、親は「うつらん」と言うけどね。親も子も「馬鹿たれ」とか「ドロボー」と言われてね。

 絶対笑わん子になってしまいましたね、私は。今はよう喋るようになりましたけどね。あの頃、周りからもうちょっと愛情もって接してもらってたら私も笑わん子にはならんかったと思いますね。人を信じることもできへんし、きょうだいみんなで「ドロボーくさい」「うつる、うつる」と、そこらへんのおばちゃんみんなから言われてましたから。

■集団就職で京都・山科へ

 私はそれからずーっと人吉で大きゅうなったんです。中学は1年しか行ってないんです。お母さんが入院してるし、妹たちの世話やご飯のこともあるし、中学2年、3年の時は学校に行かれんかったんです。ほんまに学校のことは知らないまんまでした。中学3年生になった時にね、優しい先生がいはって、ちょっとだけ学校に行かせてもらって、それで卒業ということにしてもろうたんです。

 中学を卒業して、集団就職で京都の山科に来たんです。私が15歳の時でした。正直言って、あの時はやれやれ思いましたね。就職したのは山科の大野木秀次郎さんという人の織物会社でしたわ。給料はちょっとしかもらわれんけど、それをせっせせっせと人吉の家に送ってね。夜中まで仕事させられましたわ。夜中の12時とか、みんなよう泣いてましたね。「母ちゃん、母ちゃん」言うて泣いてる子がようけいましたわ。寮生は500人位はいたと思います。私はとにかく田舎にお金送らんならんので、いつももっと給料欲しいなあとばっかり思ってましたけど。

* * * * *

 結婚したのは20歳の時です。もう、「もらい手があったら誰でもいいから行けえ」って言われてたしね。はじめは何人かの人とお見合いしたけど、みんな断られました。何人も世話してくれはっんですけどね。私がおとなしいし、まじめでよう働くしということで。でも被爆者ということでみんな駄目。変な子ができるという噂が出ていたんやね。

 最終的に結婚した今の夫は、戦争のことも原爆のこともあんまり知らん人でしたけど、私を妹のようにかわいがってくれて、私が原爆におうてることも知った上で、一緒になったんです。今でも優しい人ですよ。

 被爆者健康手帳は割と早ようにもらいました。京都に来てからね。でも、会社に勤めている時は、ずーっと隠してましたけど。

■みんな被爆の影響を背負っている

 私の身体はずーっと悪かったですよ。一番最初はうつ病でした。32歳の時。それから胃潰瘍になって。胃がんまではいかんけど胃はずーっと悪いんです。甲状腺腫瘍も二つできて、30年前から白血球が高い高いと言われてきました。

 夜、寝られんのですわ。飛行機が飛ぶ音がとっても恐いのと、幻想というのか、電気消えたら天井から幽霊のような血だらけの人が出て来はるんですわ。天井に映るんですね。追いかけては来ないけど。そしたら精神科に行け言われて、京大病院にも行ったけど、「これは一生ついてまわるやろな」と言われてしまいましたわ。頭がおかしならんかっただけでもましや思うてますけど。

 今年の春先に右足の膝にこぶができて、切らはったら凄い血が出てきて止まらんかったんですよ。そんなこともありました。今お医者さんからは、絶対に痩せないことと言われてるんです。あれだけ血が出るとね。

 双子の妹の一人博子と弟の秀人は若い時に亡くなりました。原爆の直撃を受けていたわけではないけど、血が出たら止まらんようになって、白血病で亡くなったんです。弟の秀人は18歳、血が止まらへんのです、手術もできないままでした。特殊な細胞の持ち主だと言われて、亡くなってから京大病院に献体して解剖してもらいました。妹の博子は山に行った時に怪我して、それも血が止まらんようになって、そのまま亡くなったんです。

 私らきょうだいはみんなどっかで被爆の影響を背負うていると思いますよ。父の顔も知らないきょうだい6人がそれでもようここまで頑張ってこれたと思いますよ。

■まあるいお膳をみんなで囲んでご飯食べたかった

 妹の愛子が亡くなる時にね、熊本へ帰ったんですけど、「京子ちゃん(私のこと)、今度生まれてきたら、みんなでまあーるいお膳で、父ちゃん、母ちゃん、京子ちゃん、博子、私、照子、秀人、雄子、みんなでお膳囲んで、一緒にご飯食べようねー」と、亡くなる直前の愛子が言ったんですよ。これだけは絶対に忘れられんね。結局そういう場面は一度もなかったですよ。

 妹らは中学校もまともに出らんと、よその子の子守をしてましてね。ちゃんと出たのは一番下の妹と、その上の妹だけですよ。普通の家庭ではいつでもできることだけやけど、お膳を囲んでというのは。そういうのはとうとう一回もなかったです。

 それからずっーっと後になってからのことですが、私が仕事中のあいた時間に、愛子ちゃんの言ってたことを思い出して、紙の上にまあるく丸を書いて、その周りに、父ちゃん、母ちゃん、きょうだい一人ずつの名前を全員書いた絵を作ったことがあるんです。その絵を熊本の妹らに送ったら、みんな泣いて見たそうです。忘れられない思い出ですよ。

 それからやっぱし学校にはきちんと行きたかったな、と何回も何回も思うてきました。今でも思うてますよ。

* * * * *

 私は二人の男の子に恵まれました。孫は3人います。お蔭さまでみんな元気ですよ。今はみんなに囲まれて幸せに暮らしています。
                       (了)





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原爆投下時の長崎市近郊地図

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