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●被爆体験の継承 86

授乳中被ばく 母を守った兄

國府[こくふ]幸代(被爆二世)さん

2020年10月30日(土)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

■父と母と兄の被爆

 私の父・國府峰雄は1913年(大正2年)生まれで、京都府の八木町(当時)出身でした。職業は土木関係の技師でした。満州や北支にも赴任していましたが、1942年(昭和17年)からは広島県の呉海軍施設部に土木技師として奉職していました。母の孝(たか)は1920年(大正9年)生まれで、京都市上京区の出身です。父が呉に赴任した時には母も一緒に呉の街に住んでいました。1944年(昭和19年)には長男・明生(はるお)、私の兄が生まれて一家3人の家族になっていました。京都の八木町にある父の実家では毎年8月7日、親族全員が集まってお墓参りすることが習わしになっていて、この年も前日の8月6日には早朝から一家3人揃って呉を発ち、京都へ向かっていました。

 廣島駅で呉線から山陽本線へ乗り継ぐため列車を待っていました。とても天気がよく暑い暑い日だったそうです。母は、風通しのいい場所を選んで外に向かって座り、一歳半の赤ちゃんに母乳を飲ませていました。

 午前8時15分、ピカッと光って、ドカン!と来ました。一瞬の出来事で何が起こったのか解りませんでした。すごい光と爆風で、母の身体は焼け焦げ、水膨れで腫れあがりました。気が付くと白い木綿のエプロンから露出している顔から肩、腕、指先まで、真っ赤に腫れ上り、触れるとドロドロと剥がれて、痛くて痛くて皮膚が無くなってしまいそうだったと言っていました。赤ちゃんだった兄も大火傷を負い、皮膚がポンポンと風船のように真っ赤に腫れ上っていました。母は顔や腕に重い火傷を負いましたが、兄を抱え込むように抱いていたお陰で死に至るほどの重傷は免れました。この時父は、駅構内で切符の手配をしていたので原爆の閃光を直接浴びることはありませんでした。それから列車が動くまでの時間、大火傷を負った母と兄は、廣島駅近くの広畑町にあった父の知り合いの家で待たせてもらいました。街中の人がみんな火傷を負っていて地獄絵を見ているようでした。

原爆で被災した廣島駅
原爆で被災した廣島駅

 8月6日のそんな大変な中、その日中に鉄道が復旧して、10時間後に1本だけ京都行の列車が動いたのだそうです。まぼろしの列車と呼ばれています。父は京都の母の実家宛に「シンガタバクダンにヤラレ、オオヤケドシテイル。エキマデムカエタノム」と電報を打っています。

 家族3人はなんとかまぼろしの列車に乗り込むことができ、廣島から京都へ帰り着きました。京都駅に着くと母方の祖父、町会長、近所の男の人たち数人が大八車で迎えに来ていました。とりあえず母の実家近くの菅野医院に担ぎ込まれ、その菅野医院の先生の紹介と同伴で京都府立病院に入院することになりました。「廣島で新型爆弾にやられた」と話すとすぐに入院、治療してもらうことができたそうです。

 でもその一週間後の8月13日、赤ちゃんだった兄は息を引き取りました。1歳6ヶ月でした。大火傷でポンポンだった赤い皮膚が黒く炭で作った人形みたいになっていました。母は大火傷をして頭から身体や右手にかけて包帯でグルグル巻きにされ、生死をさまよっていました。そんな母に赤ん坊が亡くなったことを話すのはとても残酷過ぎてすぐには知らされなかったそうです。兄が京都府立病院で亡くなったことは母の妊産婦手帳に書かれています。広島で新型爆弾で被爆したことは当時の米穀通帳にも書かれていました。母は後年、「赤ん坊の明生が自分の命と引き換えに私を生かしてくれたんや」と漏らすように語っていました。

 母の兄(私の伯父)が近衛兵だった人で、1944年(昭和19年)にフィリピンで戦死しています。そういう縁もあったのか、母は京都府立病院では比較的優遇されて治療してもらったようです。病院の地下には軍用の薬がたくさんあって、それらも使ってもらったようです。府立病院を退院してからもずーっと通院し、途中からは京大病院に通っていました。

■父と母の闘病
結婚した時の父と母
結婚した時の父と母

 父は原爆で大怪我とか火傷とかはしていないので、見た目には原爆の被害は受けていないように見受けられました。終戦後も呉に何度か行ったりしていたようですが、その後は八木町にある父の実家から南丹病院に入退院を繰り返していました。外見上は何もないのですが、体内への被爆の影響はあったのだと思います。苦しんでいたように思います。怪我をして足を悪くしたこともありましたけど、骨も弱くなっていて、体力もかなり弱っていたようです。土木関係の工事現場などでの仕事もうまく続けられなかったようでした。 私が生まれてしばらくして父と母は離婚しています。八木に帰ってからはずっと父の母(私の父方の祖母)に面倒見てみてもらい、祖母が96歳で他界するまでそんな状態が続いていました。

* * * * *

 母の実家は、西陣織の織り屋さんでした。退院してからの母はこの実家の織り屋さんで暮らし続け、織り屋の仕事を支えて生きてきました。戦後生まれの私たち姉妹もそこで生まれました。私の一番上の姉が1946年(昭和21年)に生まれています。その次の姉は1948年(昭和23年)なのですが、その子は死産でした。そして私が1950年(昭和25年)の生まれです。

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 母の火傷跡のケロイドはずーっと治らないままでした。いつも火傷跡に包帯を巻いていました。特に夏場になると火傷の傷口から血や膿がジュルジュルと出てきて、痛くて、痒くてしようがなかったようです。汗と一緒に出てくる感じで、母はものすごす汗かきでした。そのために1ヶ月に1回は京大病院に通院していました。そういうところで同じ被爆者の人たちとも出会って、その人たちと色々お話しするのが一番の楽しみだったようです。

 京大病院から放射線の治療器みたいなものを借りてきたこともありました。機器の先にパラボラアンテナみたいなものが付いていて、その先から出てくるコバルトをバチバチとやって、その光を血や膿が出てくる箇所に当てるのです。私がその器具の操作を手伝ったりもしていました。今考結婚した時の父と母 えるとよくないことを平気でやっていたように思います。その他にも京大病院からはマッサージ機とかいろいろな物を借りてきて治療していました。お灸をしたりしていろいろな治療をしていましたがなかなか効き目のあるものはなかったようです。被爆者の会である京友会にも入ってい て、そちらの方の紹介で漢方薬を利用するようにもなり、それは生涯続けていました。

 母は厚生労働省から原爆症の認定も受けていました。認定通知書には大きく貧血症と書かれていました。

■織り屋の実家で育つ
 母の実家の織る織物は上物でしたので、その織物の上に血や膿が落ちたら大変なことになります。そうはならないように織り物の仕事をするのが、母にはとても大変だったようです。

 実家の織り屋ではたくさんの職人さんが働いていました。我が家に住み込みで働いている人もたくさんいました。お祖父ちゃん(私の母の父)は若い女の働き手さんを何人も私の実家からお嫁に送り出したのだと言っていました。そんな織り屋でしたので、一家を支えるようになっていった母は、仕事がしんどいとか、えらいとか、とても言っておられなかったのです。

 余談ですけど、私が生まれた頃はまだ「おいとさん」という大お婆さん (私の曽祖母)が家にはおられて、「鳥羽伏見の闘いの時には、おサムライさんが家に入ってきて、びっくりしたんや」など という話も聞かされたことがあります。そんな家でした。

 私が生まれて間もない頃からですから両親の離婚の詳しい事情は知りませんでした。私が物心つく頃には、私の苗字は「宅間」姓になっていました。私にとってお父さんのいない暮らしは当たり前の状態でした。一緒にご飯を食べた記憶もないし、お風呂とかに一緒に入ったこともないのです。母や母方の祖母の手で、生まれた上京区でずーっと大きくなっていきました。小川小学校、上京中学、朱雀高校を卒業しました。

 高校を卒業した丁度その頃、八木のお祖母ちゃん(父方の祖母)が亡くなりました。そのため離婚した父が独りになったので母がもう一度父と再婚し、父を引き取って面倒をみることになりました。そのため、私の苗字は再び「國府」に戻ることになりました。

 高校を卒業してしばらくはアルバイトの続きで近所の会社に勤めていましたが、間もなく東京に出て就職することになりました。『伊藤忠』という大きな会社でした。東京では独り暮らしでしたけど、あの頃はみんな就職して2〜3年したらお嫁に行くのが当たり前でした。3年ほどで父が亡くなり、私も東京での勤めを3年で切り上げて、京都に帰って結婚しました。22歳の時でした。

 結婚した翌年、1973年(昭和48年)4月に初めての子どもを授かりました。3,600cの女の子でしたが、前日まで心臓もちゃんと動いていたのに死産でした。死因は不明のままにされています。あの子のことを思い出すと今でも頭痛が出てきて何も手に着かない状態になります。一度も私の腕に抱かせてもらえず、見せてももらえないまま火葬にされたのです。母乳がいっぱい出て、お布団がびしょびしょになって、バスタオル巻いて、何回も変えて洗濯しても腐ってしまう。悲しくて悲しくて。

 その後、1974年(昭和49年)に長男が生まれ、1976年(昭和51年)には次男が、1979年(昭和54年)に長女が生まれ、3人の子宝に恵まれて育ててきました。みんな生まれた時は大きな子で、長男は4,080c、次男が4,120c、長女が4,260cでした。大学病院の研究のためだということで私の胎盤の一部を提供したほどでした。

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 長男は胆嚢の切除手術などして今も薬を飲み続けています。孫はみんな合わせて7人になります。健康な子もいれば心配な子もいていろいろです。私の長女の夫になる人が34歳という若さで亡くなり、長女は3人の子を持つ母子家庭になりました。今は私の家の近所に住んでいて助け合いながら暮らしているような状態です。

■偏頭痛と私の健康

 私は中学2年生の頃から偏頭痛に悩まされるようになりました。最初は生理痛だと思っていたのですが、今でものその症状は続いており、ひどい時には動けなくなるほどきつい痛みに襲われることがあります。病院で全部調べてもらったのですが原因が特定できない、分からないままになっています。特に低気圧が近づくとか、カミナリガなる時とかに痛みが来ます。気象状態がよく分かり、そんなことに敏感なのかなあと思っています。

 子どもの頃から食事には注意する暮らしが身についていました。母が自分の体調のことを考えて注意していたのでその影響を受けてきました。とりあえず好き嫌いなくいろんな食物を食べるように心がけていました。15種類以上の食べものを食べた方がいいと言われていました。私が小学校5年、6年生の頃からは私が家の食事を作っていました。あの当時はまだみんな釜炊きでした。

 小学生の頃はプールもなくてあまり泳げなかったので、中学生になってから水泳部に入り、そのうちにトロフィーをもらうほどになりました。高校には水泳部がなかったので少林寺拳法部に入り、道場にも通って黒帯にまでなりました。

 偏頭痛のこと以外は健康に恵まれてこられたのだと思っています。母がずーっと漢方薬を服用していたので、その影響で私もずっと漢方薬のお世話になってきました。そのお陰かどうかわかりませんが、70歳の今になっても仕事ができることに感謝しています。

■父母と兄の遺品寄贈と平和への祈り

 父が亡くなったのは60歳の時でした。1972年(昭和47年)で、私が22歳、東京にいる時でした。母は87歳で亡くなりました。2005年(平成17年)で、私が55歳の時です。原爆に遭っていることを思えば長生きしてくれたなあと思っています。父と母と、そして1歳6ヶ月で幼い命を奪われた兄の遺品を2011年(平成23年)、広島市の原爆資料館に寄贈しました。寄贈したのは両親と兄の家族3人が被爆した証拠4点と写真です。兄の明生ちゃんの写真、母の妊産婦手帳、母の「原子爆弾症」の診断書、父の 「原子爆弾症」の診断書です。「生と死が紙一重の時代だったことを多くの人に感じ取ってほしい」という思いからでした。2013年(平成25年)に行われた原爆資料館の「新着資料展」では3人 の遺品も展示されました。

 その前の2010年(平成22年)には国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に3人の死没者登録も行っています。

兄・明生(はるお)ちゃんの遺影1945年撮影
兄・明生(はるお)ちゃんの遺影1945年撮影

 私は今年70歳になりました。人生を振り返ると色々なことが次から次へとありましたが、自分なりに一つ一つ乗り越えて、ポジティブに今を生きてきたと思います。私は宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の詩がとても好きです。小学校の時、教科書で知りました。今でも時々辛い時、頭の中で繰り返します。

 「一番ツライ時こそ一番大切なとき」、ウォルトディズニーの言葉です。また、「生きることは呼吸することではない。行動することだ」、ジャン・ジャック・ルソーの言葉です。 「Imaging all the people living life in peace」(すべての人が平和に暮らしているのを想像してみて)、オノ・ヨーコです。彼女は言います。「例えば300人で平和を祈っても世界は変えられない。でもその願いをそれぞれがさらに300人に伝えたとしたら?そうやって想いがつながっていけば地球を平和の祈りで包むことだってできるのです。核兵器をなくして世界平和を祈ります」。

 私はこれまで独りでがんばってきていたように思っていましたが、北区の新婦人の会に入ったり、「北区九条の会」に入会させてもらっている中で、京都に「被爆二世・三世の会」があることを 教えてもらいました。そして、一昨年(2019年)6月に入会することができました。

 同じ被爆二世・三世の人たちと勉強しあったり、近況などを交流しあったり、時には助け合ったりと、こういう「会」があって、そこの一員として活動できるようになって、本当に良かったと思っています。
                       (了)




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