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●被爆体験の継承 87

9人家族で乗り越えてきた

川村 弘子さん

2020年11月2日(月)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

川村 弘子さん

■父の転勤で家族一緒に全国を〜そして長崎へ

 私たちの家族は原爆が落ちる一年前までは広島に住んでたんですよ。今の平和公園の南になる水主町(かこまち)というところ。今の原爆ドームにも割と近いですよね。広島に原爆が落ちる前に長崎に移ってたわけですよ。それで私たちは長崎で原爆に遭ったんですよ。本当は長崎より広島にいた方がずーっと長かったんですよ。

 私は1932年(昭和7年)の生まれですが、私が生まれたのは徳島だったんです。父親が郵政省に勤めていたもんですから、もうあちこち転勤で行ってますねん。広島にも行ったし、岡山にも行ったし。私らの学校ももう転校続きでした。国民学校6年生の時に広島から長崎に移って、長崎の女学校1年生の時に原爆に遭ってるんです。もともとの父親の実家は大阪なんです。高槻なんですよ。

 家族ぐるみ、9人家族でしたけど、みんなで長崎に行ったんです。

* * * * *

 父は郵政省の長崎の貯金局に勤めていました。

 母は家にいて、私のきょうだいは7人だったんです。上から言うと…

 長女、私より11歳年上で、8月9日は自宅に母と一緒にいました。

 次女、私より5歳年上で、この日三菱の兵器かなんかの工場に学徒動員で行っていました。

 長男、私より2歳年上で、次女と同じくこの日は学徒動員で三菱の工場に行ってました。

 私が丁度真ん中で三女、この時13歳でした。

 次男、私より2歳年下で、この日私と一緒に家の二階にいました。

 四女、私より6歳下で、同じく家にいました。

 一番下が三男で、私より11歳年下、この時まだ2歳でした。

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 この9人の大家族が、父が転勤の度に全国あちこちへとみんなついて行ってたんですよ。9人家族で全国を転々とするのはそりぁ大変でしたわ。今だったら、父親だけが転勤して、家族はみんな大阪とか京都に残るのが普通でしょうけど、あの頃は全部引き連れて行ってましたね。親は大変やったと思いますわ。

 長崎で住んでいたのは長崎の中心地でした。県庁の近くで、百貨店のような建物も割と近くにあるような所でした。防空壕の向こうに川が流れていて、その向こうに貯金局があったんです。貯金局言うても当時は仮の建物の貯金局でした。長崎にはちょっとの間しかいなかったんで住んでいた街の名前も忘れてしまって。

 あの頃は原爆が落ちる前でも機銃掃射みたいなの始終あったんですよ。ものすごく低く飛んできてね、ちょっとでも外に出ていたら恐かったですよ。

■家族9人を襲った原爆

 8月9日、原爆が落ちた時、私は家にいたんですよ。空襲警報が鳴って、学校を休んでいたんです。二階に2歳下の弟と二人でいたんです。二階の窓から外を見ていたら、突然、バワーっと来て、もうびっくりして、下へ降りようとしたんです。もう階段が曲がってしまってましたけど、弟と二人何とか降りることはできたんです。階段の下にどうやって降りたのか自分でも分からんぐらいです。弟と二人でダアーッと降りた事だけは今でも憶えていますわ。ほんまに恐かったですわ。私、原爆が落ちた時、すぐ近くに焼夷弾かなんかの爆弾が落ちたんやと思うてね。

 母たちは家の一階にいました。その時家にいたのは、母と一番上の姉と、私と弟と一番下の妹と弟の6人でした。家の前に防空壕があって、弟が、年下と言っても男の子ですから家の中からちょっとしたもんだけ、ばっばっと持ち出して、とりあえず運び込んで防空壕に入ったんです。

 父は貯金局に行ってましたし、二番目の姉と兄は三菱の工場に学徒動員に行っていました。

 そうこうしていると家の裏の方から燃えてきたんです。火の手が上がって火事になってきたんです。家は爆風で飛ばされはしなかったけど、結局全部燃えたんたです。丁度川があって、川の手前までが全部焼けたんですよ。川の向こう側には百貨店とかがあったんですけど、そっち側は全然燃えていないんですよ。

* * * * *

 三菱の工場に行っていた姉はちょっと怪我をしていましたけど、原爆の落ちた翌日に家に帰ってきました。姉はもう、あの時のことほ話すのは嫌や言うてね。もう誰が聞かはっても「原爆の話はせん」といつも言ってました。その姉ももう亡くなっていますけど。  兄は3日目に帰ってきました。父やらは「もうアカンな」言うてましてん。「どこでどうしているか分からへんな」と言うてね。ところが3日目に兄は帰ってきたんですよ。兄が帰ってきた時の格好はもうひどいもんでしたわ。ボロボロになってね。着ているものから何から何までボロボロでしたわ。兄の方がきつい怪我をしてましたね。3日間どうしてたんか、兄もその話はしないんですよ。「恐い」と言うてね。「もう恐ろしくてその話はできへん」言うてね。姉と一緒ですよ。

三菱兵器工場被災後
三菱兵器工場被災後

 貯金局に行っていた父は全然大丈夫でした。貯金局の中でも立場がちょっと上の方やったから、原爆が落ちた後なかなか家にも帰って来られませんでした。

 だから母が大変でしたね。家が全部焼けてしまったので、しばらくは防空壕にいたんですけど、それから市場のようなものの跡地みたいな所を貸してもらって、そこに住んでいました。わたしらは行くところがないので、そういう場所を貸してくれはったんやと思います。

■浦上で見たもの

 私が長崎で行っていた学校は280段も階段を上がったところでしたんや。そこの女学校に1年生で入れてもらってたんです。家から結構遠くて、1時間ぐらいかかって通っていましたよ。そこまで毎日歩いて通ってたんです。原爆が落ちてから、学校へいっぺんは行っておかなあかんな思うてね、一人で学校に向かったんですよ。その途中で浦上という所を通ってね。天主堂のある所を通って、ずーっと山の上にあったんですよ、私の女学校は。長崎の街は山ばっかりですからね。今から思うとよう一人で行ったと思いますわ。もう、馬やとか、牛やとかね、人間もものすごう亡くなっててね、恐かったですよ。そんなひどいことになっているとは知らんから行ったんですけど、行ってみると私が住んでいたところより浦上の方がずっときつかったんですよ。

 学校まで行ってみると、何もなかったですわ、学校そのものも。誰もおられないし、何も分からないし。それからは、もうそのまんまになってしまって、二度と行くことはなかったんです。学校にもちょっとしか行ってないし、その後どうなったのか全然知らないんです。

 家の方も原爆に遭って全部燃えてしまって、何も無くなったんです。学校のことは何も分からないままなってしまったんです。

常清高等実践女学校被災跡
常清高等実践女学校被災跡

 原爆が落ちる頃、私らが住んでいたあたりの人はみんな田舎へ疎開していて、ほとんどいはらへんのでしたわ。空き家だらけでね。だから長崎にいた時にお付き合いしていた人、知った人というのはほとんどいないんですわ。広島では普通に住んでいましたからね。近所の人もみんな知ってましたけど。でも、広島にいた頃の学校の友だちもみんな亡くなりました。

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 終戦直後は、海岸べりに船が着いていましたけど、そのあたりによう遊びにも行ってましたね。アメリカの兵隊さんが船で来ていましてね、チョコレートなんかいっぱい持ってきてるんですわ。それを私らやら子どもらが行ったらくれますのや。そんなん貰っていたりしたことも憶えていますね。

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 それから長崎にはあまり長くはいずに、父の実家のある高槻に帰ってきたんです。父が長崎から神戸貯金局に転勤になったためでした。広島には6年もいんだてすけど、結局長崎には1年とちょっとぐらいでしたね。もしあのまま広島にいたら、私ら家族はみんなあかんかったでしょうね。

■高槻へ、京都へ

 高槻に実家の母屋があったのでそこへみんな帰ってきたんです。戦争が終わって、まだ夏の気候が残っている頃でしたね。外地から復員してきた兵隊さんたちもいっぱい帰ってこられていた頃です。兵隊さんたちと一緒の汽車にのせてもらってね。

 おかげさんで家族9人、全員無事で、命だけは助かったんですよ。あの頃はみんなびっくりしてはりましたわ。「よう9人もみんな助かったなあ」言うてね。

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 高槻の実家というのはかなり大きな家だったんですよ。もともとは高槻城の中に家が建てられていて、父が子どもの頃はそこに住んでいたという話でした。昔は、お城の家老の子孫にあたるような人も近くにおられたとかいう話でした。それから高槻城はなくなって、父の兄にあたる人がそこに家を建てていたんです。

 高槻には少しの間置いてもらって、それから京都に移りました。京都には母のお母さん(私のお祖母ちゃん)の家があってそこへ移らせてもらったんです。父は京都から神戸まで通っていたんですよ。あの頃は京都から神戸までだと4時間はかかっていましたね。父はそれから大阪貯金局に転勤となり、最後は京都貯金局で定年を迎えました。

 私らは北区にあった官舎にも住みました。ここの家(東山区)は父が定年退職してから建てたもので、それ以来ここに住み続けているんです。

 実は私も京都の貯金局に勤めていたんです。19歳から54歳まで19年間。姉も貯金局でして、兄も最初は法務局に勤めていましたから、公務員が多かったです。

■芋のつる

 終戦になってからも、うちはとにかく家族も多いし、食べることが大変でしたね。長崎でも大変でしたけど、京都に帰ってからがもっと大変でした。もう食べる物が全然なかったんですよ。うちは京都に親戚もないでしょ。母がいつも亀岡の向こうの園部あたりまでお芋さんとか買いに行ってましたよ。お隣りの奥さんと一緒にね。汽車に乗って帰って来る時、途中まで来たら警察に全部取られてしもうて、結局何も持って帰れなかったこともよくありましたよ。

 ほんまに食べる物には苦労しましたわ。お米なんか全然なかったんですから。学校のお友だちが、その人の家はさつま芋なんか植えてはったんですけど、「芋のつるあるから取りにおいで」と言うてくれはって、それをものらいに行ったりしてましたわ。そんなもんでもなかなかなか無かったんですよ。

 私の母は着物ばっかり着てたんですよ。死ぬまで、生涯着物でしたね。そんな着物を京都にも持って帰っていて、それをお百姓さんのところに持って行って、食べ物と交換して、そんなんばっかりやってましたんや。私らもちゃんとした服はなくて、着物をほどいて 、それをスカートやらにしてもろうてました。

■両親もきょうだいたちも見送って

 被爆者手帳は家族全員が持っていました。父がまとめてとってくれたんですよ。結構早い時期だったと思いますよ。

 父は88歳で亡くなりました。母は92歳で亡くなりました。父も母も、がんとか白血病とかにはならずに普通の病気で亡くなったんです。

 一番上の姉は97歳になりますが、今も私と一緒に暮らしています。

 二番目の姉は去年亡くなりました。ベッドから転落する事故があって、それがもとで話せなくなって亡くなったんです。原爆症みたいなものは出ていないんですけどね。

 2歳上の兄は6年前に84歳で亡くなりました。胃がんでしたが最後は誤嚥でした。

 私のすぐ下の弟は42歳で亡くなりました。これもがんでした。

 妹も27歳で病死しています。がんかだったのかどうかは確かではないんですが。

 一番下の弟は外国旅行専門の旅行会社やっています。今コロナで全然あきませんけど。

 7人きょうだいの内4人が亡くなって、生きているのは長女と私と一番下の弟、三人だけになったんです。

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 私はお蔭さまで今日まで健康に過ごしてきました。今年88歳になりました、米寿です。
                       (了)





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原爆投下時の長崎市近郊地図

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