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●被爆体験の継承 89

はるかな山の上に見た原子雲

村林 敏子さん

2021年2月27日(土)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

広島県地図

■山の上に昇った異様な雲

 私の生まれ育ったのは広島県の高田郡甲田町の甲立というところ です。今は町村合併で広島県安芸高田市の一部になっています。広島市から県北部の三次方面に至る、現在のJR芸備線に沿った地域 で、爆心地の広島市からは直線で45`ぐらいの距離になります。原爆が落とされた時、私は5歳、4人きょうだいの長女でした。お父ちゃんとお母ちゃんがいて、私の下に弟二人、一番下に妹がいました。

 昭和20年(1945年)8月6日の、その日の朝、お父ちゃんとお母ちゃんとは牛の世話してたんやね。そこへピカッと光って、それから山の方を見たら、ムクムクムクムクって黒い雲が沸き上がって。「いやぁ、何やあれは?」とお父ちゃんが言うて、お母ちゃんもびっくりして「なんやなー?」と。

 それからしばらくして、どれくらい時間が経ってたか憶えていないけど、汽車で、芸備線の旅客車やったか、貨物車やったかはっきり憶えてないけど、それに乗せられた人たちがたくさん降ろされてきたんです。甲立の駅に。その人らをお父ちゃんが荷車に乗せて運んでたの憶えてるんですよ。

 甲立小学校の講堂やったと思います。そこに、汽車で運ばれてきた人たちがいっぱい寝かされてはったんです。薬もないから寝かされているだけでしたね。子どもだった私の目にはすごくたくさんの人やったように見えました。血の流れている人や、服がボロボロの人やら。壁にもたれているだけの人やら。とにかくすごくたくさんの人が怪我して来はったと思いました。みんな真っ黒い顔やし、血は出ているし、服はボロボロやし、なんかとても恐かったのだけは憶えてますわ。とにかく恐い。気の毒やンとか、可哀想とか、そんなこと思う余裕もなかったですね。

 私はお母ちゃんについて行って、お母ちゃんたちが怪我や火傷した人たちを介抱してあげるのを見ていました。みんな地域婦人会からの動員だったように思います。お母ちゃんが箸で、怪我した人の傷口からうじ虫を取ってあげてるんですよ。それを見てて、何とかしてあげられんのかなー、と思ってましたわ。何とかしてあげられんのかなー、とは思うんですけど、それ以上のことは頭が回りませんでしたね。

 母に連れられて行ったのは2回程でしたかね。それからは私もついて行くとは言わなかったし、母もついて来いとも言わなかったし。その人たちがそれからどうなっていったのかは、最後は私にも分かっていないんですよ。とにかく、恐いなあーと思ったことだけは今でも頭に残ってて、ほんまにすごく恐かったんです。

■髪の毛の抜けた同級生たち

 昭和22年に私は小学校に上がりました。同じ学級には、髪の毛の抜けた子とか、丸坊主ではないけど髪の毛が少なくなっている子たちがいて、可哀相やなあと思ってましたね。詳しいことは聞いてないけど、広島で被爆して、お父さんの実家かお母さんの実家が甲立にあって、それでこちらに引っ越ししてきたんやと思います。その子たちとは学校を卒業するまでずーっと一緒でしたね。

 でも先生はその子たちのことや原爆のことについて何の説明もしませんでしたね。どうしてだったのか分かりませんけど。同級生の人たちとも原爆や被爆の話をしはたことありませんでしたね。不思議なくらい。親からそんな話するんじゃないと止められていたわけでもないし、先生もそんな話したことない。すっごく熱心な社会の先生いはったんやけど、原爆の話はされなかったですね。なんでやろね。

 私の親も原爆のことは話しませんでしたね。特にお父ちゃんはほんまに無口な人で、何も言わん人でしたから。私たちきょうだいの間でも話したことはなかったんですよ。

■新日本婦人の会と、中井あい先生との出逢い

 その後の私は、甲立中学校、向原高校を卒業して、18歳の時、知り合いを訪ねて京都へ出てきて就職しました。それからはずーっと京都で働き、暮らしてきました。結婚して、出産して、と。結 婚する時、相手の夫となる人からも、その家族の人たちからも、原爆の話は何も聞かれませんでしたね。私が広島の出身で、そういう体験していたにも関わらず。

 それから新日本婦人の会というのを知って、会に入って、それからですよ、原爆のことやら、核兵器のことやら勉強を始め出したのは。だいぶ遅くからだったんですよ、20歳代の後半から30歳代の初めの頃からですから。いろいろなことに興味を持つようになって、「ああ、原爆って、大変なことやったんやなあ」と思うようになっていったんです。

 私が新日本婦人の会に入って、6・9行動やら平和行進とかを知ったのは、中井あい先生という方がおられて、その人からの影響がとても大きかったんです。丹波橋に住んでおられて、その先生がずーっと平和運動やっておられて、私も「先生は偉いなあー」と思ってきました。私たちが平和行進歩くのがしんどいなあと思うような時でも、先生は率先して行動されてました。そんな人でしたね。

デモの様子の写真

先頭中央が中井あい先生

 日頃、私にできることというのは、ちょっとしかできないのですけど、6・9の日の行動だけはということで署名行動を、ずっーとそれだけは続けてきました。いつも近鉄の大久保駅に立って、何人かの人たちと一緒にやっています。

 新婦人に入っていろいろ活動していく中で、私も5歳の時に体験した、怪我や火傷した人たちのことを思い出していったんです。被爆者手帳のこともお母ちゃんに相談しました。でももう保証人になってくれる人も亡くなっておられるからできない、ということになりました。お母ちゃんは、「もっと早よう言ってやればよかったなあ」と後悔してましたけどね。手帳はお父ちゃんもお母ちゃんも持っていたんですよ。

■お母ちゃんの平和行進

 私のすぐ下の弟が町会議員をやっていて、ある年、平和行進を歩く人が、島根県から広島に向かうコースの途中で、私の実家(弟の自宅)に一泊されたことがあるんですよ。そんな話をしている時、お母ちゃんが「私も歩いているよ」と言ってきたんです。私は、うわーっと思って、お母ちゃんは偉いなあと思って。原水協のことやら平和のことやらあまり知らへんのやけど、ただ「歩いているよ」「ええことやな」と言って。その時、お母ちゃんがそんなことに参加しているのを初めて知ったんです。甲立からどのあたりまで歩いていたのか知りませんけど、私は嬉しくてしようがありませんでした。

 お母ちゃんは104歳になって、今でもまだまだ元気なんですよ。病気で入院したのは肺炎か何かで一回あったきりでした。今は弟夫婦がみてくれています。お父ちゃんも一度胃潰瘍で入院しただけで、90歳代まで生きてくれました。私のきょうだいは、下の弟が胃がんになって、全摘手術したんですが間に合わず、60歳代で亡くなっています。他のきょうだいはみんな元気にやっています。私も膝の痛みがあって整体に行く程度で、お陰様で元気に過ごしています。

■甲立で亡くなった人たちに思いを馳せる

 幼い頃からのこと思い出していると、とても気になっていることがあるんです。甲立の駅に運び込まれてきた人たちの、全員の名前や住所など分かっていたのだろうかと。シベリア抑留や、満州や沖縄で犠牲になられた人たちの遺骨の話を聞くことがありますけど、 原爆に遭って私の田舎なんかに運ばれてきたまま亡くなった人たちの遺骨の話は聞いたことがないんですよね。私が知らないだけかもしれませんけど。亡くなられた人の中には名前も住所も分からない、そういう人もたくさんおられたのではないだろうかと思うんですよ。名前や住所を尋ねることもできないような人もあっただろうし、聞かれても答えることもできないような人もあっただろうしね。 そういう人たちの遺骨は、その後どうなっているんですかね。気の毒やなと思いますけど。

 それから、なんでいまだにこんなにたくさんの核兵器があるのかな、ということも思いますね。競争みたいにしてどんどんどんどん増やしてきて。あんなことにお金使うんやったら、今、コロナが大変やけど、どれだけの人が助かるのかなと思ってね。ほんまにええ加減にせいや、と言いたいですよ。食べる物もないとか、そんな人もたくさんいるのにね。
                       (了)





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