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●被爆体験の継承 90

命をつないだ被爆者手帳

佐藤 稔(仮名)さん

2016年2月28日(日)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

■長崎に原爆が落とされた頃

 僕は昭和18年(1943年)2月28日の生まれなんです。原爆が落とされた時は2歳と半年ということになりますね。ですから何の記憶もないんですよ。

 僕の生まれた家は長崎の爆心地から2.5kmあたりですね。お諏訪さん(諏訪神社)の東の方向なんですけど、少し高台になってる所でしたね。親父おやじが酒屋をやってたんですよ。造り酒屋やってたんです。長崎は水が悪いということで諫早から水を運んできてやってたらしいですよ。戦争中は軍に酒を納めたりして結構繁盛してたらしいんですわ。

諏訪神社
諏訪神社

 きょうだいは4人なんですよ。一番上は姉ですけど、姉といっても年が離れてるから姉さんという感じがしなくて、叔母さんみたいな感じでしたけどね。その後に男ばかりの三人兄弟なんです。長男は軍に入って兵隊にも行ってましたけど、原爆の時には長崎に帰ってて三菱重工に勤めてました。僕のすぐ上の兄は私とは10歳ほど 離れてて、僕が末っ子なんです。原爆の時には姉はもう長崎市内ですけど嫁いでましたから、家にいたのは親父とお袋と男兄弟3人やったんですね。もう一人使用人のような人もいたように思いますけ ど。だから、親たちも姉も男兄弟3人もみんな被爆はしてるんですよ。

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 家の裏に防空壕作ってあったんですよ。あの日(8月9日)お昼前に、お袋が空にB29を見てて、突然ピカ―となって、慌ててその防空壕に入ったらしいんですわ。「防空頭巾」、「防空頭巾」と言ってね。そしたら下の方からみんな傷だらけになって、血を流しながらうちの防空壕にどんどんどんどん逃げて来たんだと言ってましたよ。うちの家も爆風で表から裏までズドドドーンって抜けたって、言ってましたからね。

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 親父は僕が6歳の時(昭和24年)、脳溢血で亡くなりました。実はその前に進駐軍のMPにジープで撥ねられたらしいんですけど。それから寝込んで、最後は脳溢血で。親父が倒れた後、一番上の兄貴には酒屋を継ぐ気は全然なかったみたいで、酒屋は親父の代で終わったんですよ。

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 子どもの頃の長崎の思い出はいろいろありますよ。僕たちは「高商、高商」と言ってましたけど近くに大きな学校(長崎高等商業学校)があって、中に池があったりして、河童が出るから行っちゃいかん、と言われたりしてね。稲佐山のハタ揚げ大会とか、精霊流しとか、とても懐かしいですよ。

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 僕は昭和25年(1950年)に上長崎小学校に入学したんですけど、2年生の時に、親代わりになっていた三菱重工の長男が転勤ということになって、家族全員で東京に出て来たんですよ。世田谷の社宅みたいな家に住むことになったんです。その後引っ越しになって豊島区の目白小学校に転向になったり、中学は高田中学に進んだりしていきましたよ。

 出来が悪くて、親も放ったらかしで、高校も行くところなくて、先生に「君はここしかない」と言われたのが帝京高校やったんですよ。今はサッカーとか野球とかで有名になりましたけどね。あの頃は、授業料納める能力があるかどうかだけでバスでしたよ。

 大学まで行けとは言われましたけどね、もう勉強が嫌で、料理の方に行きたかったもんですから、コックになったんですよ。昔、日比谷公園の前に電電公社の本局があって、その4階に洋食レストランがあったんですよ。そこに入りました。その後は都内でいろんな所の喫茶店なんかも経験していきましたけど。

■肺結核とベトナム戦争

 コックに成り立ての頃、急に熱が出て、倒れて、肺結核になったんですよ。19歳の時(昭和37年)でしたね。友だちに結核の人がいましてね、昔は隔離なんか何もしてなくてね、排菌してるもんだから。僕は親身になってその友だちに接してたもんだから、僕にもうつって発病しましてね。親がびっくりして。東京の立川に東村山という所があるんですけど、そこの立川国立診療所と言ったと思いますけど、そこの内科に入院して。その時は、まだ若くて先も長いのに薬だけで抑えていくのはどうかと疑問に思って、先生にそのこと言ったら外科に回されて、すぐに切ろう、ということになったんですよ。肺の右上葉を取ったんですわ。

 あの頃ベトナム戦争やってましてね。立川には米軍基地があるんですよ。でっかい、真っ黒い爆撃機がたくさん来るんですよ。ベトナムからアメリカ軍の休帰兵もたくさん来ていましたね。亡くなった兵隊の遺体や負傷した兵士もたくさん運ばれていたようですよ。 あの頃、負傷したアメリカ兵や、ベトナムにも持っていくために、 日本の血液の血清がみんな持っていかれてて、日本人の手術をするにも血液が足りなくなっていたんですね。僕の手術には輸血するのに5000ccとか6000ccとか要るというんですよ。それを集め なきゃいけない。売血でやると血清肝炎になるからだめなので集めてくれということになって。僕のきょうだいは被爆の関係からか、赤血球か白血球かが少ないというので、みんなひっかかるんですわ。僕も同じで今もって献血とかできないんですよ。まあそれでもとにかく5000cc集めたんですよ。親戚とか、いろんな人に協力してもらってね。

 結核になった時被爆者手帳使われたんじゃないかと思うんですよね。手術代に100万円かかかるとか言ってましたから。この手帳が効いたから手術できたんやないかと、今にして思いますけどね。

■働きづめの人生

 僕が京都に来たのは昭和45年(1970年)、27歳の時ですよ。万博の年でしたけど。東京でコックやってまして、関西でも勉強したくなって来たんですよ。京都ではコック以外にもいろんな職 を経験しましたよ。昭和46年(1971年)、28歳の時に結婚しましてね。それを機会に、社員食堂に勤めることなどもありました。でも個人企業なので福利厚生なんかが何もなくて、社会保険もないので、そこも辞めて、今度は食品加工業卸の会社に勤めることになったんですね。お惣菜を作る会社ですよ。社長と二人で一生懸命仕事をしてきましたわ。事業は順調でよう儲かったりもしましたわ。平成8年(1996年)には会社設備を一新して、衛生設備のしっかりしたものにしていって、ますます事業は伸びましたね。あの頃は食品加工会社の衛生管理なんかちゃんとできてない会社が多かったので、スーパーなんかからもうちにどんどん注文が増えて来たんですよ。でも土日も休みがなくてね、働きづめの毎日でしたけどね。

 平成15年(2003年)、60歳で定年になって、後1年だけ 嘱託で続けて、その後は、「若いものに任せよう」ということで社長と一緒に身を引いたんですよ。

■膀胱がんの発症

 19歳の時に結核の手術やって、それ以来健康の問題はずーっと 何もなかったんですけどね、定年になる年までは。ただ、血圧は50歳代の時にボーンと200まで上がってね、それからはずーっと 薬を飲んでましたけどね。先生にこれは遺伝だと言われましたよ。 親父も脳溢血だし、2番目の兄も脳梗塞だったし。

 もう7〜6年も前になりますけど、食品会社の仕事を退職してからですね、10月の被爆者健診の検便検査でひっかかって、その時、京友会の人から和田クリニックを紹介されて、そこで診てもらったら大腸ポリープが見つかったんですわ。それから市立病院紹介されて、ポリープ4つくらいあって取ったんですけど、悪性じゃないので良かったですけどね。

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 一昨年になりますが、ある時期からトイレが近くなってね、和田クリニックに行ってCT診てもらったりしたんです。それから朝のウォーキング途中に突然歩けなくなって、痛くなって、また和田クリニックに行ったら脊柱管狭窄症だなんて言われて、漢方薬貰って たんですよ。そしたらある朝、トイレに行ったらバァーっと鮮血が出て、びっくりしてまた和田クリニックに行ったら、尿採ってこらぁあかんわということになって、五条通りの泌尿器科の先生紹介されて行ったらそこでもあかんわぁということになって、市立病院に 行って、即入院。膀胱がんだったんですよ。手術やったんですよ。 1回目は1〜2時間ほどかかって部分的な除去手術したんですよ。しばらくして今度は市立病院の別のお医者さんに診てもらった時、部分的な手術ではもうダメなので、全部とった方がいいということになったんですよ、去年の1月のことですけどね。全部とるというのは随分悩みましたよ。病院に行くその日まで悩んでましたわ。和田先生にも、泌尿器科の先生にも相談して、結局全部とった方がいいとアドバイスされてね、それで手術しました。

 膀胱がんって、症状が痛くも痒くもないんですよ。毎年人間ドッグやってても、CT撮ってても、でも膀胱の中は分からなかったんですね。どこにも転移してなかったから良かったけど、リンパにも行ってなかったし。今は半年に1度の経過観察の検査やってて、5年間は続けないといけないんですよ。

 ですから今は身体障害者なんですわ。遠くには出かけられないんです。今さらどこかに行くところもないんですけどね。電車でもトイレのある所確認してからでないとダメなんですよ。夜もトイレに3回は行きますからね。2時間毎になんとなく目が覚めるんですよ。水分は十分補給しなければと言われていますしね。

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 それでも僕は被爆者だったから、親が被爆者手帳取っといてくれたもんだから良かったんですよ。それまで自分が被爆者だなんて何にも意識はなかったけど、手帳は持ってたけど使ったこともなかったし。会社勤めしてたので、仕事している間は社会保険でやったし、風邪ひいたことぐらいしかなかったですからね。和田クリニックに通院するまでは、健康管理手当なんかもあること全然知らなかったんですよ。

 お袋が僕の被爆者手帳をとっておいてくれたのは、僕たちが東京に行ってからですからね。長崎と違って東京なんかでは被爆の情報なんか何もない頃ですよ。よくとっておいてくれたと思いますね。 きょうだいもみんな手帳とってますけど。あの頃は被爆してるとうつるとか何とか言われて、隠してる人も多かったですからね。

 被爆者手帳は本当にありがたいと思いますわ。この頃は医者に行かない人の話もよく聞きますよ。医療費が高くて払えないのでね。 そのため手遅れになって亡くなってる人も多いじゃないですか。手帳がなかったら、僕もとっくに死んでますわ。

被爆者健康手帳
被爆者健康手帳

 膀胱がんの手術してから原爆症の認定もしてもらいました。和田クリニックの先生にすすめられてね。まあ膀胱がんと引き換えのようなもんですけどね。僕の膀胱がんも原爆と関係あると認められたようなものですよね。70年も前のことなんかなかなか証明するのも難しいのにね。認定が決まって通知が来たのは去年(2015年)の5月ですけど、その時は嬉しかったですよ。すぐに和田クリニックの先生に電話しましたわ。

■独りで生きていくのは大変

 お袋は僕が36歳の時に80歳で亡くなりましてね。我が家のお寺は長崎の正覚寺なんですけど、本山が京都にある仏光寺なので、27回忌は京都でやったんですよ。

 次男の兄は独立して、横浜に家も建てて、設計用の機械を作る会社で役員までやってたんですけど、お袋が亡くなった後に76歳で亡くなりました。脳梗塞で倒れて最後は肺炎の診断でしたけど。長男の方も昨年亡くなりました。剣道7段、居合8段ほどの腕前でしたけどね。胃がんもやって、こちらも最後は肺炎でした。姉の方は80いくつかまで生きましたけどもう亡くなっています。

 僕は事情があって離婚してるので、今は天涯孤独になってしまったんですよ。これからどうしたらいいんでしょうね。

 先日、同じマンションの人で、これも独り暮らしだった人が亡くなりましてね。部屋の中で突然死だったみたいですけど、1週間ほど分からなかった、誰も気付かなかったんですよ。他人事じゃないんですよね。僕も先日部屋の契約の更新をしたんですけど、保証人になってくれる人を見つけるのも大変なんですよ。昔からの友だちにお願いするしかなくて、それでなんとかなりましたけどね。

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 一人暮らしで毎日何をしてるんだ?ってよく聞かれるんですけどね。毎日結構忙しいんですよ。結婚してたら奥さんのやってくれること、全部自分一人でやるわけですから。病気があるので規則正しい生活しなければならないということもあるしね。朝一番はお袋にお線香あげることから始まるんですね。それから掃除して、コーヒー飲んで、観たいテレビは全部録画しておいて午前中に見るんですよ。お昼は食べたり食べなかったり。買い物にも行かんならんし、洗濯はパッとやって。食事を作るのは好きなんですよ、元コックだから。夜は7時までに食事して、それ以降は絶対に飲み食いしないんですよ。テレビ見てるとウトウトしてきて、そうするとすぐにベッドに入って、それで一日が終わりですわ。

 それでも年とっていって、病気もあって、独りで生きていくのは 、心配ですし、大変ですよ。
                       (了)





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