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●被爆体験の継承 91

原爆に遭ってること言えなかった

米澤 重人さん

2021年4月27日(火)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

米澤 重人さん

■8月6日の朝

 私が生まれたのは昭和10年(1935年)6月12日なんです。 原爆が落とされた時は10歳やね。小学校4年生の時でしたよ。あの頃は国民学校言うてましたけど、広島の舟入小学校に通ってたんです。8月6日の朝は朝礼やってて、みんなで校庭に並んでたんです。私らは丁度校舎の陰になるところにいたんですよ。

 突然、私らの後ろの方からピカーっと光って、ドーンと来たんですわ。それで大慌てで校舎の中に入ろうとしたんですけどね。ところが校舎の中は爆風でガラスや板やらがごった返しになってて、とても入ることなんでできんのですわ。それでこれはアカンというので外へ出て、学校の塀を乗り超えて、帰るつもりで家の方へ向った んです。

 家に帰ってみると、自分の家ももうグチャグチャになってるんですわ。うちは軍隊に納めるお菓子の工場やってたんですけどね。原爆の頃はもう軍隊に納めることもなくなってて、家の半分が工場になってつながってたんですけど、柱なんか全部取り外されてたんですわ。だから、家の中はがらんどうになってたんですよ。

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 私の家族は、親父とお袋と私が長男で、二つ下の妹の暉子(てるこ)と、その下にもう一人4歳の妹の彈子(ただこ)と5人家族やったんです。その日は、父親は江波という所にあった軍事工場に行ってて、お袋は4歳の妹を連れて、街中の建物疎開作業の手伝いに入ってたんですよ。二つ下の妹は私と同じ舟入の小学校に行ってました。

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 学校から家に帰る途中、半分潰れてしまった家や、大きな通りに、女の子やら男の子やら、手を怪我している人、大火傷している人がいっぱいいるのを見ましたよ。近くに畑があって、そのど真ん中に小屋があったんですけど、全然火の気も何もない所なのに、突然 火がついて燃え出したりね。

 私は家には帰り着いたけど、子どもですから何をしていいのか分からず、とにかく家で待ってたんですよ。そんな時、表へ出て、空見たら、真っ黒い雲がずーっと昇っていくのも見ましたよ。それで雨が降るのかなと思って、雨が降ったら火事の火は消えるんやろな、などと思ったりもしてましたね。

舟入小学校の被爆ヤナギの碑
舟入小学校の被爆ヤナギの碑

 お腹空いたなと思ってたら、オニギリなんか配ってくれる人がいて、兵隊さんやったと思いますけど。それをもらって食べたことも覚えてますよ。

 その内に親父が帰ってきました。小学校に行ってた妹も帰ってき ました。でも4つの妹を連れて行ってたお袋はなかなか帰ってこなかったんですわ。

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 話が前後しますけど、あの頃『あの旗を撃て』という映画をやったんですわ。子ども同士の約束でその日はその映画を観に行くことにしてたんですけど、なんかの事情で行けなかったんです。私は それで助かったんですわ。映画観に行ってたらもうお終いでしたよ。

■お袋と4歳の妹を喪い、京都へ

 夜になってお袋はヨレヨレの瀕死の状態で帰ってきました。でも4歳の妹は一緒じゃなかったんです。お袋に連れられて建物疎開の作業の現場に行っていた妹の彈子は、その時作業場近くの保育所みたいな所へ預けられてたらしんですよ。ですから直爆の爆死だったと思います。

 お袋はそれから1週間か10日後に、学校の救護所みたいな所へ入れてもらったんですけど、大怪我していて大火傷もしてましたから、「もうもたんやろな」と言われてました。救護所の他の人見たら、傷口にはみんなウジが湧いていて、治療するするどころじゃなかったですね。お袋はそこでまもなく亡くなって、私らはお骨をもらいに行ったんですよ。

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 親父のお兄さん(私の伯父さん)の本宅が広島の街中にあったので、そこへ行ったこともありますわ。伯父さんの家もやっぱしすっかり燃えてて、みんな防空壕に入ってましたけど、そこから食べる物を少しだけもらって帰ったこともありますね。街は全部焼け野原でしたわ。

 街中を歩いていると、防火用水の蓋の上に、真っ黒になった人が死んでるんですよ。川べりを覗いたら、遺体がボンボンに膨れ上がって、そんな遺体が何体も何体も浮かんでましたよ。それからまた別の日には、電車が骨組だけ残して燃えてしまっているのも見ました。その電車の天井裏見たら真っ黒になったブツブツがあるんですよ。よう見たらそれが全部ハエでしたんや。夏場やさかい、臭いかなんかで寄ってきたんやと思います。

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 原爆が落とされて何日か経って、親父が掘っ立て小屋みたいなものこしらえて、やっと寒さをしのぐだけのようなものでしたけど、 そこでしばらくは暮らしてましたね。その頃もとにかく食べるものがなくて、手に入らないので苦労しましたわ。何とかせなあかんいうことで、私らの小屋の向かい側に女学校があったんですけど。そのころの学校のグランドはみんなイモが植えてあって、もう食うもんがないから、昼間っからそれを掘りに行ったりして、そんなことしながら命を長らえたんですよ。

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 その年(昭和20年)の11月に、広島から京都へ引っ越したんです。親父の弟さん(私の別の叔父さん)が京都の大石橋に住んでて、私ら一家を「京都に来い」と呼んでくれたんですわ。九条通の唐橋に叔父さんの工場があって、そこが空いていたんでそこに住むことになったんですわ。親父と私と妹の暉子と三人一緒にね。

米澤さんが今も大切に保管している75年前の被爆証明書
米澤さんが今も大切に保管している
75年前の被爆証明書
■京都では原爆に遭ってること言えなかった

 小学校4年生の時に京都に来て、それからそのままずーっと今日まで京都に住んで、すっかり京都の人間になってしまったんですわ。京都に来てからは、原爆に遭ってること誰にも言わんようにして きましたな。

 京都に来てから最初の1〜2年ぐらいですかね、子どもの頃、広島に行ったことあるのは。お袋と妹の墓参りやったと思いますよ。広島に行く時も、京都に帰って来る時も、汽車はいっぱいの人で、ぶら下がるようにして帰ってきたのを覚えていますよ。

 被爆者手帳とるのは全部親父がやってくれたんですよ。交付日が昭和32年(1957年)10月4日になっているから、私が22歳の時やね。昭和32年やから、手帳の制度ができてからすぐの頃、早かったということやね。この手帳も長く親父が保管してて、私らほとんど使うこともなかったですわ。お陰様で若い頃は大した病気もしなかったしね。

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 私らが京都に来て4〜5年経ってからかな、親父は再婚してね。 それからは継母になるその人とも一緒に暮らしてたんですよ。義理の母になるその人はクリスチャンでね、その影響で親父もクリスチャンになったんですよ。三条河原町の教会の所属になってましたわ。だけど、私と妹はそのクリスチャンになるのが嫌でね。何度も誘われましたけど、どうしても好きになれんで、絶対にクリスチャンにはならんかったんですわ。

 親父は71歳で亡くなりました。心臓が悪かったんですが、最後は心臓よりも脳溢血やったね。

■子ども、孫、ひ孫たちに囲まれて

 私らが結婚したのは昭和35年(1960年)ですよ。私が25歳の時やね。私は板金の仕事をずーっとやってきました。子どもは娘と息子の二人できて、二人とも右京区の近くに住んでるんですわ。孫は全部で4人いて、ひ孫も2人いるんですよ。孫の一人だけは遠くにいますけど、後はみんな近くに住んでて、いつでも来てくれるのが、何よりの楽しみで、安心でもありますわ。

 それから、お袋と下の妹のお墓は、親父が京都に持ってきて西本願寺さんに預けてたんですけど、それから後になって、妹の暉子と私ら夫婦で、こちら(右京区の嵯峨)にお墓を建てたんですよ。

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 私の体の方は今のところまあまあですね。血圧が高いだけですね。もう4〜5年前になりますが、大腸のリンパ腺を切る手術をしたんですよ。検便で血が混じってるということで、最初はがんかと思ったんですけど、検査してみたらそれはリンパ腺やったんですわ。それを10aほど切って。自覚症状みたいなのは全然なかったんやけど、人間ドックでひっかかってね。それからもっと前には脳梗塞もやって、10日ほど入院したこともありますけど。

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 こんな話するのほんまは好きやないんですわ。娘にも話しておらんのですわ。京都に来てからは広島に行く気も、帰る気もなくて。 私の子どもが「連れてってやろうか」言うてくれるんやが、「いやや、行きとうない」言うてるんですよ。あんなこともう思い出したくもないですから。
                       (了)





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