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●被爆体験の継承 93

あのいまわしい日から24年

庄林 二三雄さん

手記 1967年11月4日

   昭和20年(1945年)8月6日(月)の朝は雲ひとつない青空だった。

 当時19歳の若さではちきれるばかりの私は、呉線の延着で午前8時に広島駅に到着したため、学校(現広島大工学部)のことが気になってならなかった。8時始まりの講義に遅れることは、配属将校にうらまれることであり、当時の学生にとっては生涯浮かばれないことにもつながるおそれがあったからだ。長い長い市内電車の行列へ割り込んで学校前(当時電鉄前といった)で飛び降 りた私は、2階の教室へ息せき切って入った。すでに数学の講義が始まっていた。だが、幸いなことに教授はまだみえていない。助手が公式を黒板いっぱいに書き並べていた。空いた席に着くと風呂敷を解いた。ノートに3つほど公式をうつした。

 その時である。
 窓の横を走っている電線のガイシがあちこちで青白い光を発してスパークしている。学生の中から「なんだろう」というざわめきが起こった。それから2、3秒ほどたってからではなかろうか。今までの小さなスパークの光がみるみる一つの大きな光になって、目をあいておれない明るさになった。

 「漏電だ!」
 という絶叫が起こった。全員立ち上がった。と同時に、あたりは真っ暗な闇となり、私は体中にしびれるような感覚を覚えたまま、椅子にくずれおれた。しばらくは、どこからも声が聞こえない。全くの静寂である。今のことが夢のようだ。もしかすると悪い夢でもみているのではないだろうかと思えてならなかった。

 それから何分ほどたっただろう。次第に明るくなって視界が開け始めた。天井がない。黒板がない。三列ほど先から教室の床が落ちている。どうも変だ。背中に手をやってなんとはなしにその手をみると、真っ赤な血が流れている。

 「爆弾が落ちた!」
 と、やけくそのような叫びが聞こえる。反射的に立ち上がった。2階のくずれたところに倒れかかっている丸太を伝わって下へおりた。友達の顔があちこちで見え始めたが、誰もが顔中真っ赤でみわけがつかない。校門の近くまで出て自分の足を見ると、左の太モモのところに直径5糎ほどの大きな穴がポカンと口を開いて血をふいている。思わずその場に座り込んだ私は、それから100日あまり二度と立つことはできなかった。私たちの校舎の陰で難を免れた3年生が負傷者の救助に来た。タンカに乗せられた私は、初めての経験で呆然としていた。

 校門を出たとたん黒山のようなハダカ人間の行列を見た。着ているものはほとんど焼けつくしている。ところどころにボロギレのようなものがついていて、歩くたびに風にゆれている。皮膚は破れてタレ下がっている。その下からロース肉のような人肉がのぞいている。しかも、みんな口々にわけのわからぬことを叫びながら、押しあって歩いている。私の経験から想像できない光景であ る。先ほど目にしたビル街はどこにもない。道端には赤ん坊がノドをヒクヒクさせながらケイレンしている。腹は破れて腸がハミ出している。その側の母親はすでに絶命している。こんな光景ばかりの中を病院にたどりついた私は、庭の一隅に放り出された。

 「水が飲みたい!」
 「お母さん! 兵隊さん! 助けて!」という泣き声で、耳をおおいたいほどだ。

 足の自由な人は水道管の破裂したところで水をガブ飲みしたが、5分ほどすると体中がムクみはじめる。

 「お母さん! 先生!」
 と、うわ言を口ばしり出すと、間もなくノドボトケが大きく動いて臨終である。あっけない人間の一生である。これは珍しい光景ではない。その夜遅く病院の大部屋に入ることができたが、以後一ヶ月たって病院を出る時には、30人ほどいた患者で生き残っていた人は私ともう一人だけだった。来る日も来る日もうわ言と臨終ばかりである。

* * * * *

 やがて運命の日、8月15日がやってきた。病室でこのことを聞いた私は、体中がケイレンした。その時のイキドオリは今でも私の奥深くねむっているはずだ。

 「我々は、何のために生命を賭してまで聖戦(?)完遂のために生き続けてきたのだろう」。泣けて泣けてならなかった。

* * * * *

 幸い全快した私は10月から復学し、次第に心の平静さを取り戻していった。一年たって再び8月6日がやってきた。私の左足は残ったガラスのため、再び切開手術をしなければならなかった。病床でラジオが聞こえてくる。

 「広島のギセイ者は、平和のため尊いギセイとして天にめされました・・・・・」

 私はむしょうに腹が立った。尊いギセイにはちがいないが、生存者の救済を放置したまま、天にお祈りするだけのキレイごとに腹が立ってならなかったのだ。讃美歌であの罪悪が救われたりしてたまるものか・・・・・・。

* * * * *

 そして、40年。再び左肩に残ったガラスの破片を切開したが、その時の私の気持ちは以前ほど激しく波立たなかった。

 今では、ほとんど平静にこのことを語れるようになった。だが些細なことでも大騒ぎされる現在の世相の中で、被爆者に対する救援措置だけは一向進展しないことには静かな怒りがこみあげてくる。なにが「福祉国家」だ!! 口先だけの政治家のスローガンはもう聞きあきた。

 被爆体験をもたない人々の傍観者的態度には絶望せざるをえない。

* * * * *

 ところが昨夜(昭和42年・1967年11月3日)、「明治節復活論」という番組を毎日テレビでみて、再び憤りがこみ上げてきた。明治節をなつかしみ、教育勅語が朗読される。朝日テレビに切りかえると「明治節から文化の日」という番組で街頭録音が流されていた。老人は天皇政治を懐かしみ、若い人は無関心でなければ、戦争にあこがれている。私は思わずガクゼンとした。見せかけの平和がどれほどこわいものであるかを痛感した。

 忘れることのできないあの原爆の悲惨さを経験しなかった人の無責任な発言として聞きのがせるだろうか。しかも経験したからでは遅いのだ。日本人なら何人でもあのおそろしさから目をそらすべきではない。我々の今後の生き方は、そこから再出発すべきではないだろうか。


生年月日:昭和2年(1927年)7月25日

死没年月日:平成19年(2007年)8月29日

被爆の場所:広島市千田町3丁目 爆心地から1.5キロメートル

被爆直後の行動:8月6日、陸軍共済病院へ収容され、以後100日間入院するも完治せず、疎開先岡山県神田に向かう。

被爆当時の外傷・熱傷の状況:ガラス破片で全身60ヵ所傷つき、連日、破片摘出するも、10年以上経過し、左腕にガラス破片を発見し、京都第2日赤で摘出

被爆当時の急性症状:出血過多で瀕死の状態が1週間ほど続く

過去の健康状態:顎下腺炎、白内障、脚筋肉痛、高血圧、一過性脳虚内発作(急性脳梗塞)、慢性蓄膿症

被爆者健康手帳交付年月日:昭和38年(1963年)7 月30日


 なるべく思い出さないようにしている。敗戦前の混乱時とはいえ、あまりにも悲惨であった。当時若かったので何とか一命をとりとめたが、今だったら死は必至であったろう。

 両親が岡山県の田舎(疎開地、岡山市の空襲で家が焼けて僻住まい)から看病のため出てきてくれ、病院の医師、看護婦の方々の協力もあって、九死に一生を得たが、その後、数年間は不明の病気に悩まされ続けた。国の助成とてまったくなく、敗戦後の混乱の中で、売り食いを続けながら、両親が私を支えてくれたことは忘れられない。

 私の親友も即死だった。前々日(土曜)に東洋劇場で一緒に映画を観た仲である。たしか、大映の『東海水滸伝』であった。学校(当時、広島工業専門学校、今の広島大学工学部)が再開した時に病院(当時。陸軍共済病院)を訪れたが、当時お世話になった人々は誰もいなかった。

 すべては過去の悪夢としかいいようがない。それも思い出したくない過去である。この年齢まで生きのび、しかも現在、大学教授として勤めている私など、当時の私には予想もできないもの・・・・・。

 それにしても、国は何も支援の手を差しのべてはくれなかったものだ。敗戦なるがゆえのことだろうが、今頃になって今更何をしようというのだろうかと、うらみごとでも言いたくなる。

 大国の核実験につけても、「力は正義である」という大国のエゴイズムの前に無力な日本政府に、一種の絶望感さえ生まれてくる。だからといって、私個人にもそれを止める何の力もない。被爆者は老齢化して死んでいく。そして原爆体験は急速に風化していく。

(平成7年・1995年 被爆者実態調査に寄せられた体験記)

正門
旧広島工業専門学校の被爆写真
1995年8月3日付中國新聞

【正門】
門柱には「広島工業専門学校」「広島市立第二工業学校」の文字が見える。 道路は片付けられており、この写真は被爆から数日たっていると思われる。


木造校舎
【木造校舎】
屋根が崩れ落ちるなど、激しく壊れた木造校舎


父(庄林二三雄)を語る

奥田美智子さん(被爆二世)

2021年5月12日(水)お話し
京都「被爆二世・三世の会」で文章化

■赤貧のくらしから

 父が生まれたのは岡山県の苫田郡 (とまたぐん)という所なのですが、原爆に遭った頃は呉にいて、呉に長く住んでいたようなのです。私の父の父(私のお祖父ちゃん)の代、岡山県で小間物屋の商売をしていたらしいのですが、その商売がうまくいかなくなって、家族全員で呉に移り住んでいるのです。あの頃、日本中が戦争でぐちゃぐちゃになっていて、そのドサクサに紛れるようにして、呉に行けば、海軍工廠にでも仕事を見つけられるのではないか、何とかなるやろ、という感じのようでした。呉に逃げ込んだようなものなのですね。呉での頃のこと、父はあまり話したがらなかったのですが、赤貧洗うが如しで、本当に貧しく、極貧の暮らしだったようです。そのことを父はコンプレックスに思っていたらしいです。「今晩食べるものがない、というのは本当の貧困だ」などと言っていたのを記憶しています。

 父は長男で、その下に二人の妹がいて、一番下に弟という4人きょうだいだったのですが、中の2人の妹は呉で亡くなっているのです。一人は生まれてすぐに、もう一人も生まれて1歳か2歳の時に。2人はお地蔵さんにしてもらっていて、それを今も私が預かっています。

* * * * *

 そんな貧しい中でも父は呉の三津田中学に進学して、その後、広島工業専門学校に入学しているのですね。広島工業専門学校って、今の広島大学工学部の前身なのです。よくそんなことができたと思います。日清戦争のことを知っているような時代の人なのですが、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも旧制中学や女学校を出ているような人で、プライドだけは高い人やったようです。お茶の葉 が買えない、お米もない、という中でも、とにかく教育だけはしなければだめ、ということで父は相当無理をして進学させてもらっていたようです。

 呉で暮らしていた頃のことは、それ以上は何も話してくれなかったですね。父と結婚した母も聞かされていなかったようです。

1945年頃の父とお祖母ちゃん
1945年頃の父とお祖母ちゃん

 父は広島工業専門学校にいた時に原爆に遭ったのですが、その様子は父が書き遺した手記に著されています。手記の中で、父は呉から呉線で広島の学校に通学してきたとあり、同じ手記の中で、岡山県の田舎から両親が看病に来てくれたとも書いています。このあたりの関係はよく分かりません。終戦間近の頃、お祖父ちゃんお祖母ちゃんはすでに元の岡山県に帰っていて、父だけが一人 呉に残って広島の工業専門学校に通っていたのかもしれません。

1945年 広島工業専門学校の復興の資金集めに遊説して歩いた頃、友人たちと(前列左から2人目が父)
1945年 広島工業専門学校の復興の資金集めに遊説して歩いた頃、
友人たちと(前列左から2人目が父)
■学生結婚・京都府職員から研究者へ

 父は広島工業専門学校を卒業して、その後、京都大学に入学しています。文学部の哲学で、西田幾多郎に憧れて、などと言っていました。京都の吉田山が登場する黒澤明の映画『わが青春に悔いなし』(1946年公開)を観て影響を受けたとも言ってました。入学したのは昭和22年(1947年)で、その頃はまだ京都帝国大学でしたけど、卒業したのは昭和28年(1953年)ですから、6〜7年かかっているのです。文学部の哲学では食っていけない、経済学部やったら飯が食える、ということで転部もしています。

 結婚は大学在学中にしているのです。昭和23年(1948年)で、学生結婚です。父が学生アルバイトで小学校の当直をしていて、その同じ小学校で先生をしていたのが母でした。京都市の明倫小学校やったそうです。父と母が結婚する時、父が広島で被爆していることは意外にもまったく問題にされなかったのだそうです。それよりも赤貧の方がよほど気になっていたとか。

 それから私が生まれたのが昭和33年(1958年)で、父が31歳の時でした。

* * * * *

 父は昭和28年(1953年)に京大を卒業して就職しているのですが、最初は金融機関志望でした。ところがあの頃の金融機関は、志望者の身辺調査みたいなものがとても厳しくされていて、家庭環境までいろいろ調べられたそうです。その頃はお祖父ちゃんとお祖母ちゃんは離婚していて、赤貧の育ちでもあったことが原因だったようで、どこの銀行もダメでした。このことについて父はとても嫌な経験をしています。

 最終的には京都府庁に職を得て、そこで長く務めることになっています。京都府では部長クラスの幹部にもなって当時の蜷川府政を支えていました。その蜷川府政から林田府政に変わり、突然左遷される身になったのです。それを機会に府庁を退職することになりました。その時、懇意にしてもらっていた京都信用金庫の理事長さんのお世話で、京都地域経済研究所という研究所が設立され、その研究所の所長をやりながら大学の非常勤講師もやるという研究者の道に入っていきました。

 立命館大学の非常勤講師を皮切りに、大阪経済法科大学、岐阜歯科大学、いろいろな大学に勤めています。専門は中小企業論と経営学でした。大阪国際大学が創立されるときには創立メンバーの一人にもなり、名誉教授職もいただき、ここが研究者として最後の大学になっています。

■身体からガラス片・父の被爆体験を知る

 父が私に話してくれた被爆体験のことは、大体手記に書き遺しているようなことです。その一つひとつが断片的に、ポロポロといろいろな機会に聞かされてきました。一緒に広島に連れて行ってもらったとか、そういうことは一度もないのです。ただ広島カープのことは好きでしたね。テレビで野球中継観て一人で盛り上がったり、甲子園の高校野球でも広島県の代表校を一生懸命応援したりとか。

 父に広島弁訛りがあったのかどうかよく思い出せませんけど、私が京都「被爆二世・三世の会」に入って、同じ会員の米重節男さんと初めて話した時、「いやー、この人は!」と、ビックリ。父というより、父方のお祖母ちゃんと一緒や、とつくづく思いました、言葉と訛りが。以来、米重さんの広島弁訛りというのは、すごく私の哀愁を誘うものになりました。昔の記憶を蘇らせてくれるような。  父が原爆に遭って被爆していることは、私は小さい頃から知っていました。だから自分が被爆の二世であることも。

 父の身体からガラス片が出てきて、それを取り出すのに父と一緒にお医者さんに行ったこともありました。近所の外科の開業医さんに行って、そこへ私も一緒について行って、出てきたガラス片を「これや」と見せられて。大き目の爪切りで切り取った爪ぐらいの大きさでした。私が小学生の頃ですから、父が原爆に遭ってもう10年以上経っていたわけですが、その頃になって、体に痛 みが出てきて症状が出てくるのですよ。それでレントゲン撮ってみたら何かあるということになり、それから分かるみたいなのです。出てきたガラス片を私が見せられたのは一度だけでしたけど、それまでにも同じようなことは何度もあったようでした。

■私を育ててくれた『家族討論会の時間』

 父はとにかく家庭を大事にする人でした。子煩悩でもあったと思います。父と母と私の3人家族でしたけど、少なくとも週に1回、月に数回は、3人一緒に1時間、2時間と食後にしゃべる、話し合う時間というのがありました。何についてしゃべるかというと、原爆について話し合ったことはありませんでしたけど、今の政治について、蜷川京都府政についてとか、いろいろ聞かされました。知事選挙についてとか、市長選挙についてとか、日教組のこととかも。母も教職員組合のことについて話したりと、がんがんがんがん3人でしゃべっていましたね。私が小学校の高学年の頃からですけど、私もがんばって話についていきました。

 京都大学が近くて、学生運動も激しい頃でしたから、「今日は〇〇君のお父さんが角材で殴られてコブができた」などという話が出ると、それも家族の中で「そもそもそれは・・・・」という話になっていました。テレビを観ながら話をするようなことはなく、テレビを観る時は3人揃って観る、しゃべる時はテレビは消す、というように徹底していました。

 こうして父は世の中のことをよくしゃべってくれて、「こんな話をただで聞けて2人は幸せだ」などと言っていました。そういう話の中に、戦争中のことや、自分たちはとても貧しかったこととかが一緒に入ってきていて、自分はもっと大変だったのだと話していました。

 NHKの大河ドラマも3人一緒に熱心に観ました。そしてドラマの評価をしたり、役者の演技についしてしゃべったりね。この人はうまいとか、この人は下手とか、あのセリフはどうのこうのと。時代考証についてもすごくうるさくて。

 また映画がとても好きな人でした。その趣味が高じて『京都映画産業論』(1994年・啓文社)という本を出版するまでになったのです。あれは父の近隣の友人である池上惇さんから論文として提出してみてはと奨めていただいたものなのです。平成 7 年(1995年)に、父はその論文提出で学位を得ているのです。

学位を得た日(1995年3月23日) 父と母
学位を得た日(1995年3月23日) 父と母
■バケツに溜まった鼻血

 私が幼い頃から見ていた父は、健康のことではごく普通の健康状態のように見えていました。お酒はまったく飲めなかったし、タバコも吸わなかったし、糖尿もなく、健康そのもの。ただ血圧は高かったみたいで、よく太ってはいました。食べることは好きでしたね。

 そんな父でしたが、私が小学生の頃、父が大量の鼻血を出していたのは憶えています。普通の鼻血ではないのです。ブリキのバケツにすごい量の鼻血を出していて、バケツいっぱいまでとはいかないけど、底の方にかなりの量の鼻血が溜まるほどでした。畳の上で、バケツにかがみこんで、一時間ぐらいずーっとそうやっている。そんなことが何度もありました。母はそれを見てもあまり気にするようでもなく、「あ、また出てる」「その内止まるでしょ」という感じでした。鼻血のことは私の脳裏にしっかりと焼き付いている情景です。子どもの頃は「お父さん、どうしてなんだろう」と見ていましたけど、今にして思えば、放射能による被ばくの影響だったのだろうなと思います。

■脳梗塞から7年の闘病を経て

 父は73歳の時、まだ大学の研究者として現役の時でしたけど、突然倒れたのです。脳梗塞でした。倒れると言ってもバタッとひっくりかえるようなものではなく。その日の朝、出勤前の自宅で、ワイシャツを着て、ネクタイ締めて、これからスーツを着ようとする途中でした。座ったままの状態で、急に動けなくなっていて、目線が合わなくなっていて、小刻みに痙攣していたのです。もう何もしゃべれなくなっていて、小さく震えていました。「これはおかしい」、「どうしたの?」と聞いても答えられない。その瞬間、私は「ああーっ、 来てしまった」と直感しました。実は父の脳梗塞はその時が3回目で、最も大きいのが来たな、と思いました。

 父は身長178a、体重が100`近い体躯でしたので、2階の部屋から救急隊の人3〜4人がかりで助け出してもらい、担ぎ込まれるようにして京大病院に入院して行きました。

 京大病院に入院してからは、しっかりと治療とリハビリに専念すれば少しは歩けるぐらいにはなるだろうと期待していました。ところが入院中に腎臓に細菌が付着して、腎臓摘出手術を余儀なくされてしまったのです。その結果、まったくの寝たきり状態になり、自分で動くこともできなくなってしまったのです。

 それから1年後に病院は退院するのですが、その時には要介護5の状態になっていて、その状態が固定したまま最後の6年間を自宅で過ごすことになったのです。父を介護する母は大変でした。そして私も大変でした。

 自宅に帰ってから民医連のみなさんにとてもよくしていただいたのです。あの頃第二中央病院と言っていた病院の、ケアマネージャーさんや、かかりつけのお医者さんや、スタッフのみなさんにとてもお世話になりました。門祐輔先生が担当医となられて、うちに往診に来てもらった時期もありました。母は、「もう民医連のお医者さんで、それでどうしようもなくなったら、もうそれでいいわ」と言っていました。私もそれでいいと思っていました。高度な医療を受けるとか、延命措置を取るとかではなくて。

 父が亡くなったのは平成19年(2007年)8月29日です。80歳でした。

 3年後の平成22年(2010年)に母も亡くなりました。84歳でした。母も民医連で亡くなっているのです。

* * * * *

 父はいわゆる被爆者運動とか、被爆者団体の役員になるとかはしていませんでした。それでも京都原水爆被災者懇談会とは縁があって、京友会(京都府原爆被災者の会)の会員にもなっていました。

 父が倒れてから亡くなるまでの7年の間、今、京都原水爆被災者懇談会や京都原水協に勤めておられる田渕啓子さんが毎年のようにひざ掛けを持って私たちの家を訪ねて下さり、「庄林さん、どうされてますか?」と声をかけて下さいました。「これ(ひざ掛け)持ってきてくれはってなあ」といつも母から聞かされていました。後々、私が原水爆被災者懇談会の事務所に顔を出すようにな った時、『被爆者をはげますクリスマス平和パーティー』のために用意されているひざ掛けを目にして、「ああ、これやったのか」と、初めてひざ掛けのことを理解したことがありました。母もすごく感謝していました。

■父のことを忘れないために
「二世・三世の会」へ入会
 2012年(平成24年)に京都「被爆二世・三世の会」が誕生する時、そのことを知らせる新聞記事を見て、「あ、そういうことやってる人たちがいるんだ」と、なんとなく新鮮なものを感じました。それで設立総会の行われる会場の京都教育文化センターに行ってみたのです。父も亡くなっていて、でもこのままプツンと切れてしまうのもさみしい気持ちもして、父の影を追い求めるような感じで「二世・三世の会」の扉を叩いたような気がします。「二世・三世の会」に入ってから、いろいろな人たちと出会い、特に米重さんに対しては、年齢は全然違いますが、父の面影のようなものを感じています。米重さんの広島弁に親しみを感じます。  父が亡くなった翌年、京都府からの連絡で京都の被爆者の遺族を代表して広島市の慰霊式典に参列することになりました。その時、広島大学からも大学の慰霊祭への案内が母に来ていて、私が代わりに両方参列することにしたのです。その時からほぼ毎年、8月6日に行われる広島大学の慰霊祭に参列するようにしてきました。「二世・三世の会」に入ってからはさらに原水禁世界大会の ことも知るようになり、そこでの分科会などに参加する機会も兼ねて、夏には広島に行くようになってきたのです。

 子どもの頃から家族とたくさん話してきたお陰で、今広島の街に行った時、土地の名前など聞くと父の話に出ていた地名がふつふつと頭の中に蘇ってくるのです。「センダマチ」などと聞くと、「ああ父もセンダマチと言っていたな」とか。「エビスチョウと言ってな」とか、「ノボリチョウ」とかね。初めていく所でも懐かしくその地名を思い出すことが多くて、自分が生まれたり育っ たりした所でもないのに、いつも何か発見があるような気持ちがしていました。広島の街を走る路面電車の音も大好きです。そこにかっては京都の街を走っていた市電が京都市交通局のマークをつけたまま自然に広島の街にとけ込んでいて、私をとても嬉しい気持ちにさせてくれます。
                       (了)





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原爆投下時の広島市近郊地図

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