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●被爆体験の継承 94

長崎医大の地下で九死に一生を得る

山本 高義さん

手記 2001年(平成13年)12月7日

[1]八幡の日本製鉄第一養成工として入工

 1942年(昭和17年)、私は福岡県八幡の日本製鉄に第一養成工として入工しました。(14歳)

 1942年〜1944年、勤労動員で三菱長崎製鋼所に配属され、製管の仕事に従事しました。身分は正社員ではなく、小林角弥親方(通称・小林角)に率いられて福岡県八幡から行った一団14〜15人の一人でした。その時の住まいは、長崎市浦上岩川町にある「横道道子下宿屋」でした。

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 1944年、三菱長崎製鋼所にはすでに鉄が無くなり、仕事が無かったので、三菱長崎兵器製作所の仕事をしていました。三菱長崎兵器製作所には、その他に長崎の浦上にあった柿本鉄工所の人たちや、島原の方から来ていた草野さんという親方も一緒でした。

 三菱長崎兵器製作所では、工場の拡張工場のため製管の仕事を担当していました。当日は、小林角弥親方が外注で長崎医科大学のスチームの修理の仕事を請け負い、私は親方と二人で長崎医科大学に行きました。

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 1945年8月9日、下宿先で朝7時に食事を済ませ、8時にはこの日の仕事先であった長崎医科大学の地下で、壊れたスチームの修理の溶接をしていました。技術を要する仕事だったので、この日は技術を身につけていた私と親方の二人で仕事についていました。(17歳)

[2]8月9日11時02分

 親方はガラス窓の真横で、私はその位置から5メートルほど離れたところでスチームの溶接中でした。突然ボーンというすごい音がしました。その時点で辺りは真っ暗で何も見えませんでした。このとき小林角弥親方とははぐれてしまい、その後、親方の行動は確認できませんでした。何が起こったのか、何があったのか、さっぱり分かりませんでしたが、とにかく外に出ようと1階の出口から、みんなに押されるような恰好で必死で外に出ました。その時白衣を着た人が沢山倒れていました。その人たちをふんづけて、足には人が死んでいる感触さえ受けながら必死になって人の流れにそって山手の方に走りながら逃げました。その一群の中には白衣を着た人もいました。走りながら周りをみわたすと、顔も身体も真っ黒の死体だらけでした。走ってしばらくしたら、ガスバーナーに一斉に点火したように、そこら辺りから一面火の手があがりました。そこで明るくなり、ぐるりを見たら回りの人は血だらけで、自分の腹や手をおさえたりしている怪我人でいっぱいでした。2〜3時間ぐらいしたころだったと思います、夕立のような大雨(ベトベトした黒い雨)がすごく降りました。山の上に上がると、そこには一緒に逃げた人たち20〜30人がおりました。「何があったのかようわからへんが、よう助かったなー」などといろいろなことを話し合っていました。その日の夕方5時頃だったと思いますが、下宿のあった場所に戻りました。周りは焼けて何もありませんでした。生きている人もいませんでした。それで川の近くに行って、その日は橋の下で寝ました。川の中は死体でいっぱいでした。

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 私は原爆にあった時どんな状況だったのか、どないなっているかとか、考える余裕など何もありませんでした。逃げるのに必死でしたから、自分に痛みを感じたのは2日ほどたってからでした。履いていた黒いズボンがぶつぶつ穴があいており、お尻に大きな火傷を負ってひりひりしていました。また、体じゅうがかゆくてかゆくてしかたがありませんでした。

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 2日目から親方を探しに歩きました。知っている人に次々と聞いて回りました。お昼前にやっと浦上天主堂で、下宿屋の女将・横道親子に会いました。その時「小林さんは向こうにいるよ」と浦上天主堂の方を指して教えてくれました。天主堂の下の方で親方とやっと再会しました。親方の体は真っ黒でガラス破片がいっぱい刺さっていて重症の状態でした。

 親方と一緒に八幡からやってきた一団の14〜15人(広渡・本田・浅野・原住・福原さん他)を各々が捜し当てて、見つかった6人が親方の元に集まりました。他の人は死んだと思います。その6人で重症の親方を戸板に乗せて汽車で奥さん(小林トミ子さん)娘さん(チエさん)が疎開していた佐賀県の祐徳稲荷へ連れていきました。それからすぐ近くの病院に連れて行きました。親 方は3日後に亡くなりました。

 お葬式を済ませたのち、私と広渡とはもう一度長崎に戻りました。そして誰からとはなしに「罹災証明書を貰った方がいいよ」という噂を耳にして、私たち二人は歩いて歩いて長崎市役所へ行きました。しかし焼けてありませんでした。そこで山の上の洋風で円形のような建物(県庁ではないかと思います)で罹災証明書をもらいました。

原爆で破壊された長崎医科大学
原爆で破壊された長崎医科大学

 そしてその足で親方の母親が住む福岡県八幡市に親方の死を報告に行きました。お葬式から2日後、私は一人で故郷へ帰るべく四国の愛媛県喜多郡三善村へと向かいました。途中、炊き出しなどを貰いながら汽車を乗り継ぎ、乗り継ぎ、広島の周辺は歩いて歩いて、父、弟、妹3人の待つ実家に着いたのは既に8月下旬となっていました。

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 いつだっか記憶は薄いですが、長崎で捕虜が手錠を掛けられたまま沢山死んでいるのを見てゾッとした記憶も頭に残っています。

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 その移動中、私も、背中や足の腿にガラス破片が刺さっていたのが原因であちこち化膿しはじめました。自分で木綿針を刺したりして膿を出しました。また、自分で押さえたら膿と一緒にガラスの破片が出てきたりしました。背中は自分の手が届かないので他人に押し出してもらっていました。

[3]帰郷

 突然帰ってきた私を見て、家族は「よう生きていたなあー」といってびっくりしていました。当時の村の人口は1,500人位で、その小さい村に長崎で被爆して帰ってきたものは自分一人でした。

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 村へ戻ってから罹災証明書を役場へ提出しました。この証明書は長崎でもらったものです。この証明書で援助物資(衣類等)を村から何回かにわけてもらいました。

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 家に帰ってしばらくすると、火傷していたお尻がどんどんひどくなってきました。また、水ぼうそうみたいなものが胸から下半身全体にできました。家にあった置き薬の膏薬などを塗って一ヶ月ほど自分で治療していましたが、だんだんと傷も広がり、とうとう右足の内側のリンパ腺が腫れ、歩けなくなりました。たまりかねて、「原爆で傷を負ったのだから、何とか手当てしてもらえないだろうか、長崎の罹災証明書を持って行けば病院で診てもらえる、そうすれば治る」と思ったので、証明をもって喜多郡八多喜町(隣村)の三瀬病院へ行きました。その時あまりの傷のひどさに医師からは「死ぬ」と宣告されたほどでした。しばらくの間無料で注射などして診てもらっていました。

[4]結婚、脱毛、真性多血症、生活保護

 その後10年ほどたったのち結婚しました。(27歳) その頃でしたが髪の毛がぼろぼろと抜け落ちました。その間は実家の農業などを手伝っていましたが、農閑期に出稼ぎのため京都に出ました。名神高速道路工事で鉄筋工をしたのがきっかけで、鉄筋の勉強をし、それで生活をしていました。

 しかし、昭和60年(1985年)9月5日、真性多血症(赤血球が多い)及び胃潰瘍等で入院(57歳)したことがもとで生活保護を受け現在に至っています。(現在73歳)

みんなの願いが一つになって被爆者手帳を取得!

2003年(平成15年)1 月『季刊 公的扶助研究』より
京都市伏見福祉事務所(当時) 木下美佳さん
京都「被爆二世・三世の会」で一部編集

[1]山本高義さんが被爆者手帳の申請に至った経緯

 山本高義さんに被爆者健康手帳の取得を勧めたのは、生活保護の担当をしていたケースワーカーでした。1996年(平成8年)4月の家庭訪問の際に、「(生活)保護費が安い。何とかならないのか。私は被爆をしており、苦労もしてきているのに・・・」との訴えがありました。

 担当のケースワーカーは保健所で手帳の申請用紙を入手して、山本さんに当時の状況を聞き取り始めました。長崎市に原子爆弾が落とされた時、山本さんはどこにいたのか、何をしていたのか、どんな状態だったのかを申請用紙に書き込んでいったのです。遠い長崎の地名や、学徒動員など当時の状況を文章に書いては山本さんに読んでもらう面接を何度も重ねました。生活保護の内容は知っていても、被爆者援護法のことまではあまり深い知識があるわけではありません。保健所と連絡を取りつつ、指示されたことを書式に埋めていきました。この時、申請書に証人欄がありました。被爆後すぐに長崎を離れて郷里に戻っていた山本さんには、すぐに連絡の取れる証人がありませんでしたから、一緒に被爆した人たちの氏名や当時の住所等を思い出せる限り記入し、京都府に あてて証人調査依頼書を作成しました。そして、これらの申請書類一式は、保健所で特別な指摘もなく受理されました。

 もともと生活保護費についての不満から端を発した話であり、担当ケースワーカーとしては、放射線加算の計上のことと、いずれかの手当が受給できれば収入認定除外になることを見込んでいました。「よかったね、山本さん。あとは結果が送られてきたら教えてね」とケースワーカーは山本さんに伝えました。

[2]音沙汰なしの京都府、5年間も放置。
   自ら証人探し

 1996年5月の人事異動で担当ケースワーカーが代わり、さらに翌97年5月にも同じく人事異動で担当ケースワーカーがまた代わりました。その都度山本さんのことは引き継がれ、家庭訪問で「手帳はすでに交付されましたか」と聞きますが、「まだ何も音沙汰がない」との返事です。府庁に電話し確認したところ、「まだ交付に至っていない」とのことでした。

 2001年5月の人事異動により、現在の私がケースワーカーの担当となりました。6月の家庭訪問の時、山本さんの近況を聴取しましたが、「手帳のことはまったく何の返事もない。長崎で罹災証明ももらったのだがなあ」といいます。ケースワーカーから問い合わせる了解を得て、府庁に電話聴取。府庁の担当者は「手帳のことは未処理となっている。被爆状況の証明の申し立ては添付されているが、証人が必要であり、その確認がまだできていないため交付に至っていません。1996年4月に手当申請を受け付けているので、早急に諾否は調査しましょう」との返答でした。

 8月の家庭訪問時には、山本さんは「その後、府庁からは何の返事もない。いろいろ考えてきたら、同級生だったHさんや、一級下のIさんのこと、当時の雇主の小林さんやその奥さんや娘さんのことなどいろいろ思い出してきました。八幡製鉄所の下請けで一緒に働いていた雇主の小林さんは、被爆後、体にウジがわきました。絶命された後に、小林さんの奥さんの勧めるままにそれぞ れの故郷に戻りました」といいます。

 電話番号案内でIさんの名前を尋ねたところ登録がありました。早速山本さんと一緒に電話をかけたところ、留守番電話になっていました。「京都の山本といいます。また電話させていただきます」それだけを山本さんは伝えました。「手帳のこと、健康管理手当等のことを考えると悔しい。きちんと弁護士に相談したい」と山本さんの意向が示されました。

 その後もIさん宅に電話。何度かかけるうちにつながりましたが、「夫は5年前に亡くなりました。夫が被爆したなど聞いたことがありません。何かの間違いではありませんか」という返事でした。この残念な結果を山本さんに伝えたところ、「何度か電話をかけたがかからなかった。昨日から思いつく名前や住所で番号案内に尋ねているが、他の手掛かりはなかった。Iさんの死を聞い てがっかりしました」と落胆を隠しきれない様子でした。

[3]弁護士、被爆者団体など協力者が増え、
    府庁に赴く

 8月、山本さんと一緒に被爆問題に詳しい尾藤廣喜弁護士と面談し経過を伝えたところ、京都の原爆訴訟を通じた協力者として京都原水協事務局長の小杉功さんと京都原水爆被災者懇談会事務局員の田渕啓子さんの紹介を受けました。弁護士から「手帳の交付に証人は絶対必要とはされておらず、当時の状況を再現することで交付されるはず。なぜ未交付なのか事情を聞きにいきましょう」との助言がありました。

 数日後、弁護士、小杉事務局長、懇談会事務局員の田渕さんと山本さんとで一緒に事実確認のため府庁に赴きました。山本さんは背中の浮腫を見せ、爆心地近くでの被爆の様子や死んでいった雇主、友人らの話や、罹災証明をもらってその後戻った郷里の役所に提出したことなど話しました。

 私が家庭訪問すると山本さんは、「ここ数日原爆のことばかり考えていたら、気持ちが落ち着かなくなってきました。死体が重なって川を埋め尽くしていました。その死体は膨れ上がっていました。死体を踏んで歩きました。足の裏に感触が伝わってくるんですよ。忘れることはありません」と言います。原爆のことがかなり脳裏に蘇ってきた様子でした。

 同月末に、尾藤弁護士、小杉さん、田渕さんと山本さんが京府庁を再度訪問。「なぜ手帳の交付が遅れているのか。証人がなくとも、交付は可能である」ことを確認しました。

[4]山本さん倒れる!
     郷里の役場から「証明」届く

 弁護士から、状況証拠の積み重ねを求められていた矢先、9月になり山本さんは脳梗塞のため入院されました。この間の心労が響いたのでしょうか。

 10月になり、病状の落ち着いた山本さんの入院先に田渕さんと私とで訪問。当時の状況について再度聞き取ったところ、被爆地について当初の申請と食い違ってていることが判明しました。「長崎県で交付を受けた罹災証明書は、郷里に戻った際に役場に提出しました。役場から砂糖などの物品配給通知が届き、もらいに行ったものです。近くに住んでいた人たちも知っていてくれたし、弟が今もその近くに住んでいるので役場に尋ねていってもらおう」ということになりました。

 数日後、山本さんの入院先に田渕さんと私とで再度訪問。「長崎県の仲間に問い合わせたら、被災直前である1945年8月9日時点の地図が入手できた」と田渕さんが提示すると、山本さんは地図を指さして当時の住まいや被爆時に働いていた場所、走って逃げた方面などを語り始めました。

 翌11月になり、山本さんが提出した罹災証明の存在を問うていた郷里の役場から、懇談会に返答文書が届きました。「罹災証明はもう保管されていなかったが、この地を郷里とする人のためにお世話いただきありがとうございます。せめてもと思い尋ねたところ、当時の話をしてくれた方がありました。被爆後の山本さんのことを聞き取りましたので、『聴取した事実証明』を送ります」と証明書が届いたのです。私は、すぐに懇談会からFAXを受け取り、山本さんの入院先を訪問し、罹災証明書の申請前後の事実を再度確認しました。山本さんは「お話をしてくれた方は当時私の家の向かいに住んでおられた方です」と語りました。

 山本さんの郷里の役場の方の熱意には本当に心あたたまるものを感じました。山本さんやまわりの支援者の思いが役場の人に伝わったのだと思いました。

[5]山本さん、被爆当時の状況を正確に思い出す

 11月、小杉さん、田渕さんと私とで弁護士と面談。尾藤弁護士から、「被爆直後の状況について、当初の聴取と最近のものとに差異があるので、確認をしてほしい」との要請がありました。すぐに田渕さんと一緒に山本さんの入院先に訪問。山本さんは、「ケースワーカーから手帳の話があった時、半信半疑だったので詳細に留意できませんでした。ここ最近になって、地図を見たり資料を見せてもらう中でバラバラだった記憶が整理されてきました。親方の指示の現場で働いてきたので、被爆地の記憶も混同していたようです。体中に水泡ができたり、火傷が広がったこともあった。本当に辛い思いをしてきたのであり、手帳の件、進めていただきたいのです」と。このことを補足文書として申し立てることにしました。

 山本さんは「ケースワーカーや弁護士、団体のみなさんにお世話になり、自分のことをこんなに助けてくれる人があることを実感した。当初から真剣に話しておけばよかったと思っている」と気持ちの変化を語りました。

[6]ついに手帳交付される

 1 月末、山本さん、尾藤弁護士、小杉さん、田渕さんが京都府庁を訪問したところ、「手帳の件、認可が下りそうである。実務期間後に交付されるだろう」という感触を得ました。山本さんは「今日、府庁に行ってきました。手帳も手当ももらえることになりそうです。みなさんの協力があったからこそです」と話されました。

 2月初め、山本さん、尾藤弁護士、小杉さん、田渕さんが府庁を訪問し、ついに手帳が交付され、テレビのニュースで報道されました。翌日には新聞報道もあり、山本さんは福祉事務所に来て、「これがもらった手帳です。近所の人が『今まで大変だったんだねえ』と声をかけてくれました」と手帳を見せて報告してくれました。本当にうれしそうでした。

喜びを語る山本高義さん(左)と代理人の尾藤廣喜弁護士(2002年2月7日朝日新聞)
喜びを語る山本高義さん(左)と代理人の尾藤廣喜弁護士
(2002年2月7日朝日新聞)

 2月末、家庭訪問して、被爆者健康管理手当の申請書類をいっしょに記入しました。山本さんは、「私の知らなかった人も『テレビで見た』『新聞で見た』『これからも元気でね』と声をかけてくれ、私のことを気遣ってくれるなんて、こんな経験は今までしたことがない。人が信じられる気がしてきました」と、手帳交付のとりくみにより、人間への信頼感ができてきたことを語りました。

 山本さんが給付を受ける健康管理手当は収入認定除外であり、最低生活費はその分上乗せされます。しかし、放射線障害加算については対象とはなりませんでした。他に医療および年2回の健康診断の給付がうけられることとなりました。

[7]人を信じられるようになった

 人を信じられるようになった山本さん。戦争の傷跡と平和の大切さ。

 山本さんを中心に様々な人がお互いの立場による役割分担しながら、様々に関わりました。その内に、情報の入手が進み事実関係が明らかになりました。手帳の取得を終えたことより、山本さんが「自分は一人ではない。自分の言うことを信じて助けてくれる人がいた」そう言ってくれるように変わってこられことが大きな成果です。そして、そのことが、なお一層山本さんへの援助に駆 り立てたのです。

 また、山本さんの中に戦争が終わっていないことを知り、重く感じていた間にもテロ事件が起こりました。長く残っていく心の傷を慮ったり平和の大切さを考えました。何よりも生活保護ケースワーカーの家庭訪問から端を発して、世間に一石を投じたのではないかと自負しています。(きのした・みか)

山本さんの手帳取得を振り返って,そして今後へ

2021年8月22日 木下 美佳

 生活保護のケースワーカーとして従事していると,なかなか対応に苦慮する方を担当することがあります。これまでの人生に疲れていたり,時に強い言葉を吐いてしまったり,投げやりな態度をとって見せたりする人に出会います。私が担当したばかりの頃は,山本さんもそのような印象でした。

 山本さんに手帳の申請を勧めたケースワーカーも,「手帳の取得なんて半信半疑だった。京都府が審査して決めてくれる,そう考えたから手帳の申請につないだし,取得を簡単に考えていた」と話していました。第三者証明の重要性など深く考えていなかったし,証明なしに交付された前例がないことを知らなかったので,怖いもの知らずだったと言えますが,結果として,山本さんは『第三者証明を入手できなくても手帳を取得した第一号』になりました。

 手帳を申請してから丸5年も経っていたのに交付されていなかったため,尾藤弁護士に相談しました。そこから,事務局長の小杉さん,田淵さんにつながり,長崎の仲間の方へと広がっていき,長崎から,数種類の被爆当時の長崎市内地図を送っていただきました。その地図を見た山本さんは「下宿,親方の家,捕虜の収容所」と指さして話し始めました。この数種類の地図を得たことで,記憶を思い起こす山本さんの姿に驚きました。長崎の仲間の方は,地図が被災後すぐに長崎を離れた山本さんの記憶の整理に役立つだろうと気遣い,田淵さんに送ってくださいました。

 ほかにも,故郷の大洲市役所に罹災証明が保管されていないか照会した際の回答として,市職員の方が当時の住所地へ訪問して『聴取した事実証明』を作成し,送ってくださいました。かつての住民のために尽力される姿勢に敬意を表しました。次々と山本さんを中心とした関係がつながっていき,入手できない第三者証明の代替資料は収集されたのです。

 そして,これらの周囲の支援を受けていた山本さんに変化がありました。

 家庭訪問の際に,山本さんに覚えている友人の自宅の電話番号を調べて掛けてもらったのですが,その時には新たな情報を得られずに辞しました。その後,自分で思いつく名前を順番に電話を調べて掛けてみるなど,山本さんが自ら手帳取得に向けて積極的に動き始めるように変わっていきました。

 さらに,周囲の支援を受けて手帳を取得してからは,山本さんの心情にも変化が見られました。「近所の人から励ましや労りの声を掛けられることが増えた。今までは不信感があり,すねたように生きてきた。自分は独りぼっちだと思っていたが,人を信じられる経験をした。まだまだ世の中捨てたもんじゃないかも」と語ってくれました。

 山本さんの支援を通して,私自身の心境にも変化がありました。相談者の態度や物言いに影響されずに,本当に困っていることに目を向ける大切さを学ぶことができました。

 また,山本さんの手帳取得に携わり,原爆について考えるきっかけを得ました。山本さんは「人間を踏んで逃げたときの足の裏の感覚が忘れられない」と語っていました。その言葉が今も忘れられません。今後,被爆の影響を受けているにも拘らず,第三者証明が提出できないことで,手帳取得の困難さが増すことを懸念します。山本さんは,周囲の支援と連携によって手帳を取得できま した。将来において,また今でも,手帳を必要とする人と支援者が手を携えて突破口を開いた先例として,皆様の励ましのひとつとなれば幸甚です。





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原爆投下時の長崎市近郊地図

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