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●被爆体験の継承 95

母の被爆体験
半焼けで、もがく馬にハエがたかって真っ黒に

被爆者・米重フジヨ 聞き取り・米重節男(被爆二世)

1.母の被爆体験の聞き取り

  母米重フジヨは1925年(大正14年)9月1日生まれで、2018年(平成30年)1月8日に没しました。満92歳の誕生日を迎えた直後に、脳幹梗塞を発症して、意識不明状態のままその生涯を終えました。

 原爆投下後、宇品に住んでいた姉が被爆し、その看護に行って入市被爆しました。

 その体験については次のものからまとめました。

@2017年1月に本人から聞き取った話。

A遺品カセットテープに、偶然録音されていた原爆の当時の話。

B広島県への開示請求で得た「被爆者健康手帳交付申請書」の記載内容。

C私がそれまでに聞いていた断片的な話。

2.8月6日と当時の母の状況

 広島医療生協から被爆体験の依頼があり、三滝の軍工場で被爆した人との8月6日の体験の会話です。

被爆の会話が偶然に記録されていた録音テープ
被爆の会話が偶然に記録されていた録音テープ

(母)体験談をまあ話して欲しいと言うてよ。青年じゃげな。二世の者じゃないか?
 可部のあこのお寺へえっとえっとボロがいっぱいいっぱい欄干に打ちかけてありょうたよ。ありゃ原爆でやられた者が来とったものだろよ。

(友人)トラックで連れて来たら、ホンで死んだ人を根野谷川の河原で。

(母)焼いたん?

(友人)わしは、はあ焼く所へは行かんかのじゃが、うちの兄弟は知っとるよ。お母さんとつろうての。
 おかあさん、毎日一生懸命、てご(手伝い)しに行ってた。真っ赤にやけたのをこうして見とって。隣のも戻って来ちゃった。

(母)町で直接おうての、ついそのねきの方におっただろうが。話してやってや。

(友人)しゃべってて、見たんじゃけうちら。ピカっと光ってドーンというての。どうしたんじゃろと思うて、続けて見たんじゃけェ。はーんと雲が上がってのォ。
 遠くに行かされるけェいうて、ほかの所に勤めていたのを辞めてから。あんとこに勤めてりゃあ、徴用がかかって遠くへ行かされるでいうて。辞めてからあっちへ行け言うて、軍工場なんじゃけ。軍工場いうてもあっちへ行きょうったんよ。三滝へ。かようちゃあ行きょうったんよ。軍工場でドンドン作りょったよの。
 どんぐりの粉の団子、草団子。売りに来るんじゃけ。3時頃に腹が減るけ、はよ買わにゃみてる(無くなる)で言うて、我先に買ようちゃったで。あぁ言うこともあった。

(母)まあそれを行って、話してあげてや。わしでもうちにおってドンいうたけ、ありゃどうしたんかの言うて、障子がバリバリいうたのは知っとるんよ。障子がバリバリいうたがどうしたかの言うて、外を見ても何事もありゃせんのよ。ほいたらあっちの方で『今の音は何じゃったかの。』『なんかロクなものじゃないで』という事だけ言うて、すぐ隣の『竹藪に行こう竹藪に』言うてじゃが、『何しに。今行ったいうても音がした後じゃけ、つまりゃらせんよ』。ほじゃが、わしらは田舎じゃけェ、言うてもまあ何しても楽なことで。


 母の実家は、高田郡根野村下根(ねのむらしもね:(現在は安芸高 田市八千代町下根・広島市から約30km)の農家でした。当時は、父親の傳道花吉(でんどうはなきち)と2人で暮らしていました。長男の繁は1938年(昭和13年)5月に中国江蘇省鐡佛寺近辺で戦死しました。次兄の章も、海軍に徴兵され戦艦扶桑に乗り組んだ後に、この頃は本土決戦に向けて首都防衛で首都圏にいました。母親フサノは1940年(昭和15年)に病気で亡くなっていました。

 1945年(昭和20年)になってから、下根には海軍飛行場が急造され、1期工事が終わって練習機が飛びだしていました。飛行場の端が家のすぐ横に来て2期工事が進行中でした。立ち退きとなる計画でしたが、戦争が終わったので助かったのでした。親戚筋の家では、8月6日朝は家でご飯を食べていたが、8月15日には立ち退いて別の所にいた記憶があると話されています。

 その状況で、夜になると若い兵隊や軍関係者が「腹が減った」と言っては家に出入りし、母は彼らに食べさせていたと話していました。19歳の娘が一人しかいない家ですから、若い兵隊が出入りしていたというのもうなずけます。

 このような毎日だったので、「戦争は負けるで」と母が傳道の本家のおじいさんに言ったことがあり、「大ごとになる。めったなことを言うな。」と叱られたことがありました。

 この飛行場は、広島市と松江市をつなぐ幹線道路を使ったもので、現在の国道54号線です。この道を拡幅して滑走路にし、道路周辺の家を立ち退かせて、急造した飛行場でした。その工事には、県内の各地域から人々が動員されていました。そのため、隣の道路に面した本家の傳道は、海軍の事務所になっていて、海軍関係者が常駐していました。道路の沖(向かい)に見える山の上には、海軍の通信施設がありました。8月6日の夕方までには、広島市が空襲されたことは、手旗信号で知らされていたようです。

3.姉の被爆と救援に行く

 すでに結婚していた姉の駄阿花子(だあはなこ:当時33歳)は、広島市宇品9丁目(当時の町名)に住んでいました。それで「広島が空襲された言うても、宇品は市の中心から遠いけェ、大したことはないじゃろう」と、父親とも話していました。ところが、8月9日になって海軍陸戦隊の人が本家に来て、 駄阿花子は原爆でケガをしているので、助けに来てくれと様子を伝えに来ました。

 「そりゃ、大ごとじゃ」となり、父親・叔母などと相談して、父の指示で、母フジヨを助けに行かせることにしました。元々、盆には姉のところに行く予定だったので、日を繰り上げて行くことになりました。

 8月10日早朝に歩いて下根から安佐郡可部町(あさぐんかべちょう)の可部駅まで行き、そこから可部線で広島市内に入りました。可部線は、終点の横川駅の一つ手前の三滝駅までしか走りませんでした。そこからは徒歩で、可部街道を三篠(みささ)、横川と南下し、横川橋から寺町東側の川沿いに本願寺別院、空鞘神社、左官町、相生橋、中島本町、紙屋町、白神社、広島市役所、鷹野橋、広電本社前、御幸橋を渡って、宇品9丁目の姉の家にたどり着きました。

可部の町を流れる現在の根野谷川
可部の町を流れる現在の根野谷川。
亡くなった被爆者が河原(場所は不明)で焼かれていた。

 私が小学生時分に聞いたのは「可部駅の近くの寺や神社で、逃げて来た被爆者が収容されていて、ケガや火傷のひどい姿の人があふれていた。建物の欄干などにボロがえっとかけてあった。臭いにおいがしていた」という話でした。

 宇品に行く途中で、「空鞘神社の出口にトタン板がかぶせてあり、動くので何じゃろうか思うて、トタンを上げてみると、馬が半焼けになって、生きてもがいており、真っ黒にハエがたかっていたので、ビックリして立ち退いた。市内の道は片付けられていて、意外な気がした」と語っています。

 宇品の姉の家や周辺の家は、倒壊はしていないが、爆風で建具や屋根などが壊れていましたが住むことはできました。外から家の中が丸見えの状態でした。「宇品の家に行って姉を見たときは、顔、手足は焼けただれており、お化けかと思うほどで、誰かわからんかった」姉は、国泰寺付近で建物疎開作業に動員されて被爆しました。船で金輪島に収容されたのちに、宇品の家に戻っていました。その時は知らなかったそうですが、宇品の陸軍運輸部(暁部隊の総元締め)に勤めていた姉の夫も、同じ島に運ばれていたと分かりました。

 8月6日の建物疎開作業は隣の人が出る番だったのですが、その人は山県郡の田舎に帰るから、代わってと頼まれて疎開作業に行きました。

4.米を運んで下根と宇品を数往復

 母は、姉の看病をして宇品で過ごしました。配給されたコメが青カビだらけで食べられないので、5日ごとに下根に帰っては、米・キュウリ・トマト・野菜などを背負って、途中の電鉄本社で休んでは行き来しました。それで爆心地を通って南北に、広島市内を横川から宇品まで、9月27日に引き上げるまで8回以上は往復したことになります。その間の9月1日に20歳の誕生日を迎えました。

 宇品にいた時に「大雨が降ったことがあり、太田川が大水であふれて道が河原になっていた。起きてみたらクドまで水が来ていて、道が川になって金魚が泳いでいてびっくりした」と話していました。(枕崎台風の時ではないかと思われます)

 姉の容体が落ち着いたので、下根から迎えに来てもらい、9月27日朝早くに、大八車を引いて下根に帰りました。大八車に姉を乗せて帰るのですが、道中では車輪に巻いてある金輪が、舗装されていない道の凸凹に当たり、姉が痛がるので休み休みして車を引いて帰りました。それで、下根の家に帰り着いたのは、夕方になっていました。途中には安佐郡と高田郡の境付近に、上根峠という200m以上の標高差がある坂道があります。戦時中に、付け替え拡幅されたので、母もその工事に動員されてモッコを担いで働いたと話していました。約3kmのつづら折りになった急な坂道を、姉を乗せた大八車を引いて上がりました。坂を上りきると分水嶺になっており、坂の下側は太田川水系で瀬戸内海へ、坂の上からは北側に江の川水系で、日本海に流れが変わる所です。その先に飛行場が作られていました。

 姉は、被爆から1か月したころからちょこちょこ熱が出ることがありました。また、髪を梳くとガサッと抜けて丸坊主になりました。のちに甥の私にも「髪が抜けて、ふうが悪うて外にも出られんかった」と話してくれました。

 下根の家で養生したのちに、夫のつてで山口県小野田に避難しました。夫の駄阿清太郎は1951年(昭和26年)に48歳で亡くなり、姉は下根の駄阿の家で農業をしながら暮らしていました。2000年(平成12年)2月に87歳で亡くなりました。

5.戦後の生活

 戦争が終わって間もなく、兄の章は海軍から復員して来ました。母は、幸いにも、被爆の影響らしきことは現れず、1947年(昭和22年)に山を越えた東隣の志屋村志路(しじ)の米重次郎と結婚しました。彼は指物大工でしたが、1939年(昭和14年)甲種合格で、陸軍第39師団の師団通信隊員で中国戦線に派遣され、揚子江から北側の地を転戦しています。敗戦となって現地解散となり、部隊から離れて一般人として、1946年(昭和21年)10月に博多港に引き揚げました。

 傳道の家へしばしば立ち寄っていた次郎の兄・哲二が、父の傳道花吉と話をまとめ、フジヨと結婚することになりました。次郎とは顔も知らず、志路に嫁入りして初めて顔を見たのです。下根から志路までは歩いて山越えしましたが、九州の叔父さんからお祝いにもらった桐の下駄をはいて行ったので、下駄がいっぺんでダメになったと嘆いていました。

父傳道花吉と宮島で撮影。昭和21年9月、21歳の時。被爆の1年後、結婚する前。
父傳道花吉と宮島で撮影。
昭和21年9月、21歳の時。被爆の1年後、結婚する前。

 その後、安佐郡三入村下町屋(みいりむらしもまちや)谷原という家に間借りをして移り、そこで長男の節男(私)が生まれました。1年後、1950年(昭和25年)に安佐郡祇園町に土地を借りて、大工の仕事を終わった後に一人で家を建てました。そこに転居して、長女の千津子、次男の秋男が生まれます。

 秋男は、生後半年で森永ヒ素ミルク中毒だと国鉄の広島鉄道病院で診断され、そこの紹介を受けて県病院(県立広島病院)に2か月ほど入院しました。その間、節男は父のすぐ上の姉の家に、千津子は母の実家に預けられて、半年くらい一家がばらばらで暮らすことになりました。

 母は良く働き、外に出るのも好きで、好奇心のある性格でした。いろいろな仕事につきました。子が小さいときは、ボール紙を箱に組み、外側に仕上げの紙を貼って箱を作る内職をしました。近所に、内職の卸手配をする女性がいて、その人から箱作りの仕事以外にも、内職をもらって収入を得ていました。その人も被爆者で、1962年に原爆病院に入院して気がふれて亡くなりました。死後に ABCC が解剖をさせてくれと言って来たと、母は後年に語っていました。

 子どもが小学生になってからは、近所の鉄工所、木材チップ工場、ゴム加工工場、鉄工所(2社)など会社の定年まで勤めました。その一方で、中国新聞の集金の仕事を続け、85歳頃過までしていました。仕事のため、原付バイクの免許を取り80歳位まで乗っていました。鉄工所では溶接免許も取得していました。

6.健康と病気

 1959年頃(昭和34年)製材所で、手を鋸に巻き込まれ、甲の部分に大きなケガをしています。

 1968年(昭和43年)夏には夫婦で次々と入院しました。先に夫・次郎が、原因不明の病気で県病院に入院、退院したのと入れ替わりで、母は過労で肝臓が悪くなり2か月ほど同病院に入院しました。

 60歳を越えてから、腰が抜けて立てないことが何回かありました。歯は総入れ歯になりました。70歳頃に突発性難聴となり、呉の国立病院に通院しました。80歳頃に耳の聞こえが悪くなり、病院で診てもらいましたが、医師は年相応ですからねェと言っていました。

7.被爆者手帳の申請

 1965年(昭和40年)に旧特別被爆者健康手帳が、入市被爆者にも適用される改正があり、申請をしました。しかし、被爆後3日以内の要件に1日足りず、認められませんでした。この頃に、設立されて間もない広島医療生協が、被爆者相談を地域でしていて、それで手帳のことなどでつながりができたようです。

 この被爆者手帳申請に関しては、録音テープのやり取りにも残されていました。

 「聞く方は、わきゃァ分からんのじゃけェ、かまわせんよ。わしが言うことよのぉ。原爆手帳を申請した時に、保健所の若い者がのお、『あんた、ここをこのように渡っちゃいけんよ。こういうことはあるまい。』言うたもんじゃけェ、『この人らはもう、わけもわからん者が皆いちいち見たようなことを言うのォ』とわしは思うたけ。知ったげなことを言うても、知りゃぁせんのじゃけェ。そんで『書き直して来い』言うもんじゃけ、家に帰って書き直したんじゃけェ。

 若い者はわかりゃせんのじゃけェ。ウソを言うたってもひとつもわからんのじゃけェ。幽霊じゃないが現場を見てなきゃわかりゃせんのじゃけェ。」

 細かい経緯はわかりませんが、被爆者健康手帳の交付を受けて、死ぬ最後までそのお世話になりました。

8.医療生協で

 医療生協に加入してからは、組合員活動に参加していました。被爆体験を話してほしいとの要請もあった時は、直爆でないのでという想いもあったようで、直爆の被爆者に振っていたことが、残されていた会話の録音から推察されます。

 医療生協の組合員活動では、機関紙の配布者や組合員サークルの活動をしていました。布草履作りなどでは、娘時代から草履作りしていたので、教えたりもしていました。医療生協のつながりで新婦人や年金者組合、共産党の人たちにも広がっていきました。

 地域の老人会でもグランドゴルフを楽しみにしていて、毎週練習だ、大会だと、行っていました。2003年に夫が亡くなったあとは、誘われて共産党にも入りました。

9.広島から鳥取へ

 祇園の家は、数回の増改築をしていましたが、借地のため地主から土地を買い取るか、更地にして戻してくれという申し入れが何回かありました。

 2013年に、どうでも決断してくれとの話がありました。家族で相談して、家は処分して、土地を返却しました。母は、原爆養護ホームに入ると言いましたが、数年待ちですぐに入れません。丁度その時に、孫から勤務している鳥取市の施設が入れると、話がありました。それで急遽、長女がいる鳥取に移ることにしました。話が急に決まったので、バタバタと10日余りで祇園を引き払い、鳥取市内の施設に移りました。

 88歳の誕生日を迎える直前でした。88年間暮らした広島から、また63年間生活した祇園の家から、知らない地に移り、最初は慣れるのに苦労したようです。しかし娘や孫がごく近くにいることから、電話や行き来も頻繁にしばしば会えるので、娘を頼りに安心して暮らしました。

 鳥取で4年目の2017年9月に娘と孫・ひ孫らと92歳の誕生祝をしてほどなく、脳幹梗塞を発し、意識不明となり回復することなく、2018年1月8日に生涯を閉じました。

10.死後のこと

 亡くなったあと、思ってもなかったことが続きました。

 その年2018年の広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式に鳥取県の遺族代表として参加することができました。驚いたことには、さらに全国の遺族代表の一人として花輪を供える役目があたり、娘の千津子が遺族としてその任につきました。広島や京都で生涯を終えていたら、出来なかったことだと思います。

 さらに2019年に所属していた広島市の共産党支部から、解放運動無名戦士合葬の推薦をする旨の連絡をもらいました。母のような無名の人を、記録にとどめることは意味があると思い、広島県の追悼会と、東京での追悼会に出席しました。

 母の死後のことは、本人は知る由もないことで、生前には思いもしていなかったでしょう。寺に行けば、安芸門徒として熱心に通っていた話がでます。良い置き土産を残してくれたと感謝します。
                               (完)

2017年5月 西本願寺飛雲閣にて(娘の萩原千津子と)
2017年5月 西本願寺飛雲閣にて(娘の萩原千津子と)

母の体験から引き継ぐこと

京都「被爆二世・三世の会」 米重節男

1.母の体験をまとめて思うこと

 京都「被爆二世・三世の会」において被爆者の体験を記録に残そうという呼びかけは、早くからありました。このことの重要性は、最初は余り認識していませんでした。広島では子どもの頃から、隣近所に多くの被爆者がいて、普通のことでした。ただ、「ピカにおうた」という言う程度で、被爆の状況の詳しい話は聞いたことはありませんでした。

 京都「被爆二世・三世の会」で話し合うと、親の被爆について詳しい話どころか、被爆したこと自体を知らないという事実があることも知りました。そういえば、自分も話は聞いたとはいっても、折に触れて断片的な話しか聞いてなかったなぁ。改めてきちんと聞いておく必要があると思い始めたのは、「会」の提起からかなりたってからです。母の体験は、姉を助けに行って連れ帰った 程度の話で、最初の被爆手帳も申請却下になったと聞いていたので、記録するようなこともないの認識でした。

 しかし、実際に被爆体験の聞きとりをして、多くの体験記録を読んでみると、それまでの認識が変わりました。

 2014年にウイーンであった国際会議に参加し、ウイーン大学で学生に二世として話す機会が あ り ま し た 。
被 爆 者 を 英 語 で は 「 A-bomb survivor」と訳すと知りました。それを聞いて、ああそうかと納得しました。被爆者は生き残りだから、被爆後の生きざまも含めての記録が大事なのだと、理解しました。

 それで母の話をきちんと聞こうと思いながら、時間ばかりがたちました。資料も調べる必要がありました。ようやく聞くことができたのは、母が意識不明になる8か月前でした。

 すでに91歳となり、76年も過ぎた昔のことですから、「はぁ忘れたよゥ」というのを、子どもの頃に聞いていた話をしながら、聞き取りました。

 すると、いくつか違う話になっている点もありましたが、それまで私が認識していたことと、全然違う体験が語られました。

 姉を助けに宇品に行ったことは知っていましたが、米や野菜を運んで何回も通っていたこと。宇品には1か月以上滞在したこと。姉を連れ帰った時の様子などは初めて聞きました。

 中には食い違いもありました。姉が運ばれた島は、昔に聞いたのは、金輪島と断定していました。最後の聞き取りでは似島と言っています。また、姉が被爆した場所も、以前には「電車の中で原爆におうたようじゃ」と言っていたのですが、最後の話では国泰寺の近辺と言っています。ケガの様子も、母の話からは余りわかりませんでしたが、県から取り寄せた被爆申請の記録には書かれていました。

 実家に連れ帰った日は、2017年1月の話では9月の始めごろだったと言っていました。ただ、大水で金魚が泳いでいたというのは、いつの時か疑問でした。県や市の記録や他の人の手記などから、8月末から9月初めには雨の日が続いていたとわかりましたが、大水の話はありません。被爆手帳申請書には9月26日までいたとありますので、枕崎台風だろうと思われます。

 私が小学生の時に、吉島刑務所の横を母と二人で通ったことがあり、ここの塀に被爆者がいっぱいもたれていたと言っていました。これは申請書の道順では通らないのです。会話テープに出てくる、保健所の職員が「通った道が違うだろう」と言ったので、書き直したというのは、この辺のことではないかと思います。

 私は追体験のため、宇品から下根まで実際に歩いてみました。70歳も越えてからの歩きですから、時間もかかり1日では終わりませんでした。それからすると、今よりも状況が悪い中で、舗装もされていない道を、大八車を引いて歩いた大変さを実感しました。

2.母の想い

 母は原爆に反対とか、何か運動の先頭に立って活動したわけではありません。ただ、広島市内の惨状や逃げて来た被爆者を目にしていたわけですから、心に思うことはあったと思われます。

 広島医療生協が発行した被爆体験記「ピカに灼かれて」、新婦人広島県本部の「木の葉のように焼かれて」、安佐郡内の同人誌、中国新聞の年鑑や原爆特集誌など、60年代からの多くの資料が残されています。今になって振り返ってみると、原爆に反対する気持ちは強かったのだと思います。これらの資料は、二世の活動をするうえで、大変役立っています。金銭や不動産などの遺産は ありませんでしたが、貴重な置き土産で引き継いで役立たせています。

 1966年頃だったと思いますが、原爆ドームを壊すか、残すかで市民の大きな議論になったことがあります。この時、父は「あんな汚らしいい物は、壊したら良い」と言っていましたが、母は「残さんといけんょ」と言っていた覚えがあります。そこにも被爆者としての想いがあったのだろうなと思います。

 1941年(昭和16年)にアメリカと戦争が始まった時に、日本がハワイ真珠湾を攻撃しました。その時に2人乗りの特殊潜航艇5隻が突入し、乗員9人が戦死し、九軍神として国民に宣伝されました。その内の一人に、広島県山県郡出身者があり、母は青年団で歩いてその家まで行った時、なぜ10人でなく9人なのか不思議だったと話していました。戦争に負けると言って、おじいさんに怒られたという話も、母の性格の共通点があるように思えます。

 下根の飛行場では、滋賀県や岐阜県などから来た人が多かったとも語っていました。調べたところ、京都府峰山の海軍航空隊から派遣された部隊だったことがわかりました。

 この工事には、多くの人が動員されています。京都被爆二世・三世の会の庄田政江さんが伝承する被爆者の河野きよみさんの話に、8月6日「朝早く両親が飛行場をつくる作業に出かけた」との話は、下根の飛行場だと思われます。

 広島に原爆が落とされて、多くの人が死んだことを私が初めて知ったのは、1958年(昭和33年)に復興博覧会が開かれ、原爆資料館を見学した時です。

 ソ連の人工衛星、マジックハンドの操作、放射線照射による利用など、記憶に残っていることが多くあります。その時見た、被爆者人形の怖かったことや、髪の毛の抜けた少女や体中ヤケドした人、影が映った石の写真、溶けたガラス瓶や瓦、曲がった鉄橋の欄干などが展示してありました。家に帰って、母に見たことを話したところ、自分の体験を話してくれました。その頃、宮島の厳島神社に神馬として、被爆馬が飼われていて新聞に載りました。原爆で半焼けになった馬がいたと言っていました。空鞘神社の馬のことがそれだったのだろうと思います。

 また、長崎の原爆は広島よりも強力だったが、天気が悪くて被害が小さかったと言っていた記憶があります。

3.被爆二世を意識して

 私は被爆二世の活動で、被爆者の話や苦労などを聞き、改めて母が被爆したことの影響を自覚するようになりました。とりわけ健康問題は自身のことで、他の人が代わるわけにはいかないと事だと、思い至りました。健康に関しては、母の被爆が関係するのではないと思うこともあり、そのことを通して被爆二世という自覚が強まりました。最近になって、アメリカは被爆者の遺伝的影響 がないこと、原爆の放射線の影響はないことにするために、調査や研究をしているという事実が知られるようになっています。そのことからも、被爆者の子・孫など子孫のことを、正面から社会問題にしていくのが、二世・三世と自覚した者の務めだと行きつきました。

 被爆者は三度被爆する。最初は原爆の投下で、二度目はそれが原爆だったと知った時、三度目は被爆者運動で被爆者を自覚して、と言われています。被爆二世も同じように、被爆者の子として生まれた時、親が被爆者だとわかった時、被爆二世運動に加わった時と、自覚するのだと思います。

                   (2021年9月17日記)





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原爆投下時の広島市近郊地図

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