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●被爆体験の継承 96

被爆南方特別留学生

サイド・オマールさんを訪ねる旅

圓光寺・オマールさんの会 早川幸生

広島文理科大学の制服、制帽姿のオマールさん(写真提供 中村千重子さん)
広島文理科大学の制服、制帽姿のオマールさん
(写真提供 中村千重子さん)
■出会いは地域学習「地域たんけん」

 左京にある修学院離宮の里山近く、京都市修学院小学校に着任した年(1990年)の初秋でした。学校では創立70周年記念誌「修学院子ども風土記(修学院校区の副読本)」もあり、それらを使って全学年で地域学習に取り組み始めていました。全教育活動と教科を限定せずに、地域素材の教材化を模索していました。

 6年生は1学期、校区歴史散歩を企画しました。お父さんもお母さんも参加する「歴史たんけん」です。「こどもたちが地域探検をしているのなら、お父さんやお母さんもまけずにたんけんを・・・」と、PTAのよびかけで「校区めぐり」が計画されました。家族の参加を求める声もあがり、児童や教職員も参加自由になりました。当日参加も含めると7・80人の一行で始まりました。行き先は「金福寺・詩仙堂・圓光寺・曼殊院・鷺ノ森神社」などでした。

■オマールさんのお墓発見

 「金福寺」「詩仙堂」と地域めぐりは進み、次は「圓光寺」です。坂を少し下り細い道を北に進むと圓光寺というお寺の入り口に着きました。他のお寺には入ったことがある人がいたのですが、ここでは皆足が止まりました。

「ここは知らんなあ。初めてです」
「私もこの間、無料拝観のお礼に行ったのが初めてです。徳川家康が建てはったとか」

 門をくぐり石段を上がると、京都の町がよくみえます。学校も見えています。大文字の送り火の「妙法」や「船形」「左大文字」が見えます。修学院小学校も見えています。

 まっかなモミジの庭と本堂の前で、古賀慶信住職の話が始まりました。

「エー、この寺は曹洞宗南禅寺派の瑞光山圓光寺と言い、創建は江戸時代初期、伏見に徳川家康が足利学校の伏見分校圓光寺をたて・・・」
「当寺には、幕末期に活躍した村山孝女の墓があることで有名かもしれませんが、その他にヒバクナンポウトクベツリュウガクセイのサイド・オマールさんのお墓があります。このサイド・オマールさんは・・・・」
「今なんていわはった」
「???」

 一瞬のできごとでしたが、カタカナでささーっとメモし、ふたりのお墓を見学しに行きました。植え込みのある、一つだけ形の違うお墓には、英語の文字と9・3・1945という数字が読み取れとれました。

 次の年に広島修学旅行の実施を切望していた学校関係者や保護者は、内心「ひょっとしたら、とんでもない話を聞いたのかも?」と思ったのでした。帰り際に見学のお礼と共に「来年の修学旅行は広島行きを計画しています。又、被爆ナンポウトクベツリュウガクセイのサイド・オマールさんのことを教えて下さい。」と古賀慶信住職に再訪のお願いをして、曼殊院に向かいました。オマ ールさんのお墓発見!

サイド・オマールさんのお墓/京都市左京区 圓光寺
サイド・オマールさんのお墓/京都市左京区 圓光寺
■『わが心のヒロシマ』を見て

 PTA主催の「校区めぐり」の数日後、圓光寺を訪れました。広島修学旅行をより身近なものにするため、修学院と広島を繋ぐ「地域素材」を探していたことなどを、住職に話しました。話が済むと資料を提示されました。

 NHK広島支局製作の『わが心のヒロシマ』と毎年 9 月に行われている「オマールさんの慰霊祭」に参加されている方の名簿でした。家に持ち帰り、早速ビデオと名簿を見ました。驚いたことにこの番組は、1988年に放送された『夏服の少女たち』というアニメ動画と同じ年にNHK広島支局が制作したこと。又、戦争末期大東亜共栄圏を創るため日本政府、東条英機首相が日本国初の国費学生制度としての「南方特別留学生」という制度を作り、1943年〜1945年(昭和18〜20年)に 1 期・2期合計205名の東南アジアの青年たちを、半強制的に留学させていたのです。

 その中の一人のマレーシアの留学生であったサイド・オマールさんが広島で被爆し、終戦後帰国のため東京に行く途中、京都で急変し京都大学病院で死亡したことが、当時の動画や現地取材と証言で分かりやすく展開されていたのです。先日みんなで言った寺の境内や、お墓が写り、京都在住の当時治療に当たった京大病院の医師も写っていました。

 名簿には、『わが心のヒロシマ』に登場されている人や、全国からの参加者が多いこと、広島大学から「学問研究の先輩」として「南方特別留学生」を位置づけし毎年学長代理としての墓参があることなどでした。そのうえ、オマールさんに実際にあった京都在住の方が数人おられることも驚きでした。

 特に、立命館大学文学部教授の永原誠先生もあり、以前から面識もあるので京都で「南方特別留学生」やサイド・オマールさんのことが聞けるのではと、期待が膨らみました。

 学年会議で校長先生を交えて視聴し、児童と保護者にも機会を設け見てもらうことになり、後に実施できました。一気に広島修学旅行の期待と取り組みの具体化が進みました。

■圓光寺に行って

 ビデオ『わが心のヒロシマ』を見て、圓光寺に行きました。予想通り児童の関心と真剣さ、そして臨場感は目を見張るものでした。

「ここやここや。ビデオと一緒やな」
「これがオマールさんのお墓か」
「オマールさんの体の骨がそのままやて」
「お墓になんてかいてあるの?」などなど。

 住職が来られるあいだ、お墓の周りの児童は口々に自分の想いを、語り始めました。番組の質の高さと、目の前の墓の存在の大きさでした。

 古賀住職の登場で更にテンションが上がりました。一言一言メモする子、墓のスケッチをする子と色々ですが、下を向く子は誰もいません。佐賀県の中学校の社会科の教師であった住職の声は良く通り、子どもたちの「知りたい」「聞きたい」心に響き渡ります。

「オマールさんの故郷、マレーシアはイスラム教の国です。これがイスラム教のお墓です。」
「日本の仏教のように骨は焼きません。死んで24時間以内に白布に包み地面に埋めます。ですから今も、ここに体の骨が全部埋められています。イスラム教の聖地のメッカの方、顔を少し西に向けて今も横たわっています。こちらが頭、そしてそちらが足ですね。」
「石碑には、アルザコフの息子のサイド・オマオル。マレーシア生まれ。1948年、9 月、3日。19才で死亡。という意味のことが彫られています」

 墓前の武者小路実篤の碑の説明もありました。

 住職の説明の後、もう一度お墓の周りを廻りました。一人一人感想や疑問を言っています。

「マレーシアの人やったんか」
「なんで、日本に来てはったんやろう」
「京都で亡くなったて言わはったけど何処?」
「なんの病気やろう。被爆て怪我かな」
「ヒロシマのどこで被爆しはったんやろ」
「どこで、誰とどんな生活してはったん?」

 児童のつぶやきの中に、次の課題と「オマールさんを訪ねる旅」のルートが見えたような気がしたのは、僕だけではなかったようです。

■手紙作戦開始

 5年生の3学期、修学旅行の実行委員会ができました。今までの実行委員会とは違う顔ぶれと人数でした。実行委員の希望が多く、各学級で人数を絞るのに苦労し、立候補した児童が自分は何がしたいのか発表したクラスもありました。これから実行委員会で、何をどんな方法で取り組むのか、話し合いました。

「オマールさんに合った人に手紙をだそう!」
「この間見たビデオの登場人物の名前わかる」
「先生に名簿の住所おしえてもらおう」等々

 事前にわたしたち教職員が手紙送付の承諾を得た、6年間3度の修学旅行で合計20人の方に、手紙を書きおくったのでした。返信の極一部ですが、紹介します。お読み下さい。

■「お墓について話しましょう」 園部宏子さん

 お墓を建立するまでの苦労は、第一は、家族の許可を得ることでした。その結果、イスラム教式のお墓ならかまわないとのことで、主人は再三、神戸の領事館や教会の牧師さんを訪ねました。第二にお墓を決めることです。夫はたまたま市役所の文化財担当でいまして、圓光寺の尼さんにお話しましたら、即刻提供して下さったわけです。石碑を嵯峨の石寅さんという人が準備して下さっ たのですが、その間の交渉、大日山墓地の骨の発掘、民政局の改葬手続などは特に大変だったようです。

 そして、昭和36年、オマールさんの命日の9月3日に墓地を移しました。暑い日で、息子も友達2人を連れて一緒に手伝いました

 苦労して建ててよかったと思った時は、昭和39年、オマールさんの義弟が来日、40年にはアジス博士、平成3年大阪万国花博覧会には妹のアジス・アザーさんが来られたことです。涙を浮かべて、「アリガトウ、アリガトウ」と再三言われました。家族の来日によってマレーシアと日本の国際親善の架け橋の一端となったと喜びはひとしおでした。

■来日前のオマールさんを知っていますよ
                 福田吉穂さん

 私は昭和16年3月京都帝国大学医学部を卒業し、12月には陸軍軍医中尉となりました。そしてマレーシアのジョホールバルにある第94兵站病院に勤務しました。オマール君はそのジョホールのサルタン(日本でいえば殿様)の親戚の一人でした。昭和17年にお母さんの学校の人たちが病院見学にきました。その中に妹さんも一緒でした。そのことがきっかけでオマール君が病院に来るようになりました。以来オマール君は、私の部屋へよく遊びにくるようになりました。

 オマール君はその時16歳。背が高くすらりとしており、顔は面長、鼻は長く、色は白く、なかなかの美男子でした。非常にほがらかで頭の良い人で、その当時もう日本語をかなり上手にしゃべりました。マレーシアの風俗習慣の話や、マレーシアの昔話などをよくしてくれました。その中に「いなばの白うさぎ」とほとんど同じ話があるのに驚きました。

 日本の歌もよく知っており、「荒城の月」「やしの実」「よいまち草」などは、大へん気に入っているようでした。そのうち太平洋戦争でガダルカナル攻略がうまくいかず死傷者が多発するので、私共の病院はラバウルに行くことになり、あるスコールのものすごい夕方オマール君の所へお別れに行きました。お母さんは、涙を流して見送ってくれました。オマール君は10歳ちがいでしたが、落ち着いて堂々としていたのを覚えています。
(福田吉穂軍医と16歳のオマール君が出会ったジョホールバルの第94兵站病院は、現在も当時の場所で建物もほぼそのまま、Besar病院として運営されています。元はイギリス軍の病院です。)

■私は日本語を教えました 上遠野寛子さん

 お手紙をありがとうございました。

 オマールさんは背が高く、肌の色は白く目は澄んでいて、東南アジア系の少年とは思えない少年でした。私は日本語教師です。

 宿舎には32名の留学生がいました。違った国の学生たちのなかでオマールさんは、だれからも信用されていたのです。それは、オマールさんが国の違いに関係なく、相手を信じたからでしょう。自分に厳しく人に対していたわりを持つ努力をした人でした。人にいやな顔を見せることもなく、不平を言うこともしなかったと思います。自分の意見を持ち、人の話もちゃんと聞く少年でした。その頃(昭和18年、19年)は日本にとって大変な時期でしたが、その学生生活のなかで、さわやかな生き方の印象を残してくれたオマールさんのことを紹介します。

 京都でゆっくりお話ししましょう。

 という手紙と、上遠野さんが執筆された『東南アジアの弟達』という本を送ってこられました。オマールさんを始め、南方特別留学生の写真や手紙などが沢山載った本で驚きましました。この手紙の通り、その後本当に上遠野さんが修学院小学校に来られました。

 圓光寺で実行委員会の児童と上遠野さんの座談会の様子も紹介します。

児童Q 「日本語だけを、教えられたのですか」
上遠野A 「いいえ、違います。当時は戦争中で、大東亜省という役所ができていたんですが、そこの方から、東南アジアの学生が来るのだけれど、一緒に住んで日本語を教えると同時に、日本の“大和だましい“というか、日本の心みたいなものを、少しでも早く教えて下さい、ということで、頼まれました。
児童Q 「オマールさんは、日本が好きでしたか」
上遠野A 「ええ、あの人は日本が好きだったと思います。戦時中の疎開先でオマールの死を聞いた時、本当に残念で、とてもくやしい思いがしました。

 今度は上遠野さんから実行委員に質問です。

上遠野Q 「オマールさんの、どういうところに、興味をもちましたか」
児童A 「自分が、ケガをしているのに、他の人に自分のことを何も言わず、他の人を救ったり、手伝ったからすごいと思う」
児童A 「自分のことより、他のケガをした人をかばったので、本当にやさしい人やったと思う。」
児童A 「人を大切にする人だと思う。」
児童A 「自分もケガをしているのに、20キロメートル以上もはなれた所への、引っ越しを手伝って、すごい人だと思う。」
児童A 「オマールさんは、勉強もできたみたいだけど、みんなを助けたりもしたから、心の広い人だと思う」

(上遠野さんは、児童の一言一言にうなずいてくださっていました)

留学生の教え子から上遠野さんに届いたハガキ
留学生の教え子から上遠野さんに届いたハガキ
■京大病院でオマールさんを診察しました
                 濱島義博さん

 サイド・オマールさんはのどの扁桃腺が痛いということで、京大病院の耳鼻咽喉科に来ました。初めて診察した時は、見たところは元気そうでしたが、診察でもう危篤直前の大変悪い状態でした。

 しかしオマールさんは、京大病院に入院された原爆第一号の患者であったのと、その頃は戦後の大混乱の中、京大病院の先生の中で誰一人としてそれまでに原爆症患者さんを見たことがありません。それよりも原爆症という名前すら知らなかった状態でした。だからどういう治療をしたらよいのか、お薬もなければ大変困りました。

 そこで京大病院の主だった専門の先生と色々相談した結果、輸血しか方法がないということになって、しかも緊急を要するというので私の血液を輸血したのです。幸いに、わたしの血液とオマールさんの血液がピッタリ合ったためオマールさんは非常によくなったのです。よし私の血で治るかもと考え毎朝晩と大量の輸血をしたのです。

 オマールさんの状態が少し良くなった時、思い切って尋ねました。

「日本にさえ来ていなかったらこんな苦しい目にあわなくてすんだのに。君は日本人を恨んでいないか」
「先生は、毎日僕に血を分けて下さっているでしょう。先生と僕は兄弟です。僕の体の半分はもう日本人です。ドクター、夕焼け小焼けを歌ってくれますか」と言って、手を握り離しませんでした。

 亡くなった時は本当に残念でした。医者として無力感で一杯でした。原子爆弾は本当に恐ろしい兵器です。惜しい人を救えませんでした。忘れられない人でした。オマールさんも看病にあたった南方特別留学生の色々な国の留学生も本当に仲が良く、医師も看護師もみんな感心していました。素晴らしい人々でした。

 みなさんは本当に良い、生きた学習をしています。オマールさんを忘れないで下さい。

オマールさんと濱島先生(修学院小学校の児童たちが制作した絵本より)
オマールさんと濱島先生
(修学院小学校の児童たちが制作した絵本より)
■児童文学者 山本真理子さんの手紙

 お手紙ありがとうございました。

 お送りいただきましたオマールさんの記事に胸が熱くなりました。でも皆さんが、オマ―ルさんのことを学習して下さったことで、オマールさんの死はむだではなくなりました。皆さんに、原爆の非人間性(人間らしくない行為)や平和の尊さを感じとってもらえたからです。

 遠い外国で、お父さんお母さん、妹さんにも会えないでオマールさんが、どんな気持ちでなくなられたかを、思いやって下さったのが尊いのです。人間は自分のことだけでなく、他人のことを思いやることができることが尊いのですよ。他人の痛み、悲しみを考えたら、殺し合いなんてできませんよね。戦争は殺し合いなんです。どんな理由があっても、一番大きな犯罪です。

 広島へ、修学旅行に行って下さるのですね。ありがとうございます。行かれたら、あの町の土には、20万あまりの人の血が流され、肉や皮が溶けていることを感じてきて下さい。
 では質問にお答えしましょう。

児童Q 「どうして、広島を書くの」
山本A 「死んだ人は、もうなにも話すことができないのです。核戦争の最初の犠牲者にかわって、その人たちといっしょにけがをして血を流した私が、あの時のようすを、あとから生まれてくる人たちに、伝えたいからです。もう、同じあやまちをくりかえしてほしくないのです」
児童Q 「どんなことを思って書いているの」
山本A 「ひとのいのちは、とても大切なものです。自分のいのちが大切なように、他人のいのちも同じように大切なのですよ。人と人は仲よく、たすけあって生きていくもの。世界中の人間が、仲よくしてほしい。戦争は、けっしてかっこよくないこと、わかってほしいなあ。それを祈って書いています」
児童Q 「戦後、一番困ったのは」
山本A 「家がなくて、おまけにものもなく9月には台風が来て困りました。防空壕、いなかの物置、牛小屋などに、大勢の人が着るものもなく、食べるものもなく、傷だらけで住んでいましたよ」

(中略)

 8月6日の夜。あの、太田川の土手や川原で、息もたえだえの人たちが、
「おかあ さーん」
「みず……みず」
「いたいよう」
「さむいよう」
 と、よわよわしくつぶやいていたのを、忘れることができません。

 広島へ行かれましたら、どうか、私のお話しを思いだして下さい。あの日、お母さんにもあえず、死んでいった人たちにおまいりして、「もうけっして、戦争はしません」と誓ってくださいね。どうも、長い手紙を読んでいただいて、ありがとうございました」

■オマールさんと一緒に野宿をしました
                 栗原明子さん

 原子爆弾が投下された次の日の8月7日〜14日までの8日間、広島文理科大学(広大)校庭で、一緒に野宿した南方特別留学生の名前と国名は次の通りです。

  サイド・オマールさん(マライ)
  アディル・サガラさん(スマトラ)
   ムフマド・タルミジさん(ジャワ)
   フギラン・ユソフさん(北ボルネオ)
   アブドール・ラザックさん(マライ)
   ハッサン・ラハヤさん(スマトラ)
   アリツィン・ベイさん(スマトラ)

 この他にも二人おられましたが、ニック・ユソフさん(マライ)は、火の中に向かって行き死亡されました。広島市佐伯区五日市にお墓があります。ムスカルナ・サラトラネガラさん(スマトラ)は病気入院中でした。だからこの二人は野宿に入っておられません。

 中国から来られた留学生は、朱定裕さんと薫永増さんです。

 日本人では、前川リヨさん・繁子さん・幸子さん・時子さん(興南寮持主)の4名は、8月10日頃に親戚の牛田の家に行かれたと思います。他に佐々木千重子さん(現在中村姓)とお母様、千賀さん、高橋明子(現在栗原姓)と母兼子。お母さんたちは、8日から野宿に加わりました。以上17名が校庭及び理学部教室の一部で野宿をしました。これは、学校の特別の計らいだったので 一般の被害者の方々は誰もいらっしゃいませんでした。

広島文理科大学構内で野宿(修学院小学校の児童たちが制作した絵本より)
広島文理科大学構内で野宿
(修学院小学校の児童たちが制作した絵本より)

 それでは質問に答えましょう。
(児童の質問は次のような事項でした。

質問1「野宿生活の間は何を食べていましたか」
質問2「戦後、一番苦労したことは何ですか」
質問3「留学生と別れてからの生活の苦労は」
質問4「野宿していて一番気になったことは」
質問5「オマールさんの病気が分かった時、どんな気持ちになられましたか」

 一番最後の質問に対する答えの紹介です。

栗原A 「広大の野宿生活の後半くらいから熱がありました。私の母が自分のハンカチで額を冷やしてあげていました。自分があんなにひどい火傷をしていることは何も話されませんでしたし、誰も知りませんでした。とてもガマン強い人なのですね。前川家の引っ越しをだまって大八車を引いて手伝ったり、又疎開先の可部町までお見舞いに行ったりしています。往復30キロはあります。

 オマールさんが、東京に行かれる途中の京都で亡くなられたのを知ったのは、ラザックさんが東京国際学友会目黒寮から手紙を下さり、その中に書いてあったからです。とても信じられませんでした。原爆症のことが何一つ分かっていなかったことも、オマールさんを死にいたらしめた原因の一つかもしれませんね。オマールさんに血液をあげ、看取って下さった濱島先生やその他の人々が、献身的に看病して下さったことが唯一の救いです。

 せめて、ご家族に見守られての最期だったらと思うと残念でたまりません。民族を問わず、お互いに協力して、共に野宿生活したということを一生忘れることはできません。わずかな食糧をみんなで分け合って食べたこと。私達を勇気づけ、なぐさめて下さった留学生たち。本当ならば、日本人の私達がなぐさめ励ましてあげなければいけませんのに、全く反対でした。

 今も心より感謝しています。戦争さえなかったらと今でも思います。戦争は絶対に反対です。

■ぼくたちは、きのこ雲の下にいた 永原誠さん
  直接会ってインタビュー

(5組の実行委員会の人は、オマールさんたちが広島にいる時住んでいた興南寮で、お父さんが、寮の責任者としてお世話をしていらっしゃった、立命館大学の永原誠先生に手紙を書きました。その後永原先生からお電話があって、「直接会って、お話ししたいので、大学の平和ミュージアムへ来てくれませんか」とのことで、実行委員の児童は永原先生に会いに、立命館大学に行きました。

 その時のインタビューの様子です。

永原A 「お手紙いただいてありがとう。直接会って、僕の話を聞いてもらって、ぼくのわかることがあったら、お答えした方が良くわかるのではないかと思ってきていただきました。

 最初に、ぼくの体験をかんたんにお話します。ぼくの名前は永原といいます。広島で被爆体験をしました。被爆した時は、17歳で高校2年生でした。ぼくは広島生まれで家族は7人でした。そのうちの4人(お父さん、お母さん、一番上の妹と一番下の妹)が原爆で死にました。被爆した所は爆心から2・5キロメートル(広島高等学校構内)で、家は 1・1 キロメートルの所でした。(家は全焼で、何一つ残らなかった。)

 オマールさんは、だいたいぼくと同じ年でした。高校ではなくて広島文理大学(現在の広島大学)の学生で、マレーシアの人でした。ぼくのお父さんは、オマールさんや他の留学生の人たちが住んでいた興南寮の学監(寮の先生)をしていました。だから、ぼくのお父さんは親しかったし、ぼくもオマールさんをよく知っています。というのは、ぼくのお父さんは、ずっと寮に寝泊まりしていたので、週に一度くらい、生活に必要なものを持って行くのが、ぼくの仕事でした。それで時々顔をあわせては、当時は物がなくて、お腹をへらしていたので、互いに、「腹へったなあ」なんて言ってました。

児童Q 「オマールさんは広島大学で、何の勉強をしていたのですか?」
永原A 「それは覚えていないのです。教育学と言って、学校の制度や組織を勉強する学科にいたのではないか、と言われています」
児童Q 「興南寮での思い出は何ですか」
永原A 「興南寮は東南アジアの留学生の寮で、15〜16人の留学生が一緒に寝泊まりしていました。大きな民家で、二階建てでした。ここの留学生は、日本から南の方の国(マレーシア、インドネシア、フィリピン、ビルマ等)から来ていたので、とてもみんな陽気でした。歌や音楽が大好きで、民族楽器を弾きながら歌ったり、踊って賑やかにしていました。「ラ・サ・サヤンゲ」と いう歌をよく歌っていましたし、ぼくも教えてもらいました」
児童Q 「先生の体験は、どんなものでしたか」
永原A 「8月6日8時15分には、高校の校庭で朝礼をしていました。でも学生の数は少なくて、17人くらいでした。他の学生200人くらいは、呉の工場に、大砲の弾をつくりに、寝泊まりで行っていたのでいませんでした。

 爆発した瞬間は後ろから光が差し、空や木や目の前の壁が、黄色や緑や桃色のように、何とも言えない色に染まりました。何が起こったのか分からないので、地面に伏せました。次は後から台風の様な爆風が来ました。幸いなことに、ぼくたちの後ろに木造の二階建ての校舎があったので、直接熱戦や爆風を受けず、ほとんどの人が、けがもしませんでした。でも大量の放射線をみんな浴びました。目には見えませんが、大変恐ろしいものです。しばらくしてから、防空ごうにみんなで入りました。

 10分ほどして外に出ると、空はよく晴れていました。一人の友人が、「上を見てみい」というので見上げると、きのこ雲がぼくたちの頭の上に、もくもくと入道雲のように、広がって来ました。ちょうどきのこ雲を真下から見たことになります。ふしぎなことは、真白な雲の中に、紫、桃色、黄色などの光がポッポッとついたり消えたりしていたことです。

 ぼくのお父さんは、留学生のニック・ユソフさんと大学に行く途中で被爆し、熱傷を負った後、原爆の熱によって起きた火事にあって、焼け死にました。この平和ミュージアムで皆さんが見た、ベルトのバックルだけが、ただ一つの形見です。うつ伏せにたおれていたので、お腹の下になって焼けなかったようです。手や足、頭は全部、灰になってしまいました。妹ののぶ子は女学校1年生(12歳)でした。国の命令で大きな道を造るために家屋疎開に動員されて、被爆し死にました。当時の広島に住んでいた中学生や女学生(1年生・2年生、約7,000人)の殆んどが、町の中心で作業をしていて死んでいます。君たちより、一つ年上で死んだのですよ。

児童Q 「平和や原爆のことで、小学生として勉強できることあれば教えて下さい」
永原A 「一つ目は、原爆が落とされたまでの戦争の話を聞くことです。日本はそれまでに15年間戦争をしています。当時のことを知っておられるおじいさん、おばあさん、またその人たちにお話をきいたことのある、お父さんお母さんからお話を聞くことから始めてください。

 二つ目は、戦争はなぜ起こるのか、又始まったら、なぜすぐに終わらないのか等、戦争のおこるわけや、しくみを、先生やみんなと一緒に、子ども向けに書いた本などがあるので、読むなどして考えてください。今、ぼくが君たちに言いたいことは、これだけです。修学旅行で広島に行ったら広島の街をしっかり見てきて下さい。原爆で何一つ無くなった街が、現在のような大きなにぎやかな街に復活したのは、日本の国が戦後はずっと戦争をしないで、平和を守り続けたからです。

 今日は、遠い所をありがとう。気をつけて、修学旅行に行って下さいね」

(永原誠先生は、永らく京都原水爆被災者懇談会の代表世話人をされていました。依頼されて京都の学校で体験等を話されました)

■興南寮前の折り鶴集会

 児童作文・・・興南寮跡「折り鶴集会」

「ここが、オマールさんのいた寮の跡か。もっとなにかあると思ってたのに」と思った。そこには、タイルで作った、東南アジアの地図だけでした。

「折り鶴集会で、誓いの言葉や、歌を唄いました。集会が終わったとき、ぼくはいいことをしたような気持ちになりました。なんでかというと、オマールさんにお礼をしたように思ったからです」 「誓いの言葉や歌が、オマールさんに本当に聞こえたらいいのに」ぼくは、思いました。

現在の興南寮跡の記念碑
(広島市中区 元安川東岸)
現在の興南寮跡の記念碑(広島市中区 元安川東岸)
■花岡俊男さんのお話し

 みなさんよく来てくれました。広島は、どんなですか。長い旅でつかれましたか。しばらく時間をかしてください。今、紹介がありましたように、わたしは南方特別留学生の方達と、非常に仲良くしておりました。ここが留学生がおりました跡地なのですが、わたしの家もつい近くにありましたし、彼らが学んだ文理科大も、わたしが通っていました研究室の関係から、近所付き合いも学校自体でもしていました。そのような関係からオマール君とは非常に仲が良かったのです。(中略)

 オマール君は広島に来た2年目も広島文理科大学に進学した5人の学生の内の一人です。ですからここで原爆を受けたのは、新入生の4人を加えた9人の学生でした。その中で、マレーシアのオマール君とニック・ユソフ君が原爆のため亡くなったのです。

 原爆が投下された時、オマール君は寮の中におりました。そしてこの辺りの川の中は、死人やけが人でいっぱいで、埋め尽くされているような状態でした。オマールさんは寮生の被爆後の状況を大学へ連絡しに行き、大学の指示を受けて寮に帰り、寮の消火活動をはじめ、日本人の救助活動をいろいろしたわけです。

 戦争中に日本軍がジャワを占領したとか、フィリピンのマニラを占領した時に、その土地に、それぞれの土地でそこの王族とか、大臣とか大統領とかのそこの偉い人の子どもさんを、日本に連れてきたのです。そして「日本で勉強させて偉い人にしてやる」、そして大東亜共栄圏を守ろうということで、連れてきたのです。自分の子弟が日本にいることで、日本にはむかえない。日本軍の言いなりになるというふうなことが、作戦的に考えられたわけです。だから留学生としては、非常に、お気の毒だったわけです。

 しかし、15歳から20歳までの、皆さんより少し年上だけの留学生は、一生懸命勉強しました。特にオマール君は、日本語が非常に上手だったんですね。(中略)

 オマール君たちが広島に来た頃は、食べる物が十分ではありませんでした。夜は灯火管制のため、真っ暗な中でじっと時を過ごすという、非常に重苦しい毎日を送っていたわけですが、かれらは明るくふるまいました。ここの土手に夜は出てきて、「ラサ・サヤンゲ」の歌を歌ったり、フィリピンあたりでは、「ラフィズサヨ」という歌を唄ったり、お互いに民族のその国々の歌をうたいながら踊りもして、一生懸命に明るくつとめた留学生でした。むしろ、わたしたちが留学生に励まされ、なぐさめられた格好でした。実際には、逆でなければならないのです。異国の地に、お父さん、お母さんと別れて、若い子ども、少年が来てるわけですから、わたしたち日本人がなぐさめてあげなければいけないのに、逆の立場でした。わたしはその気持ちを非常に嬉しく思いました。先ほどから、オマール君のことを思い出しながら、涙がでるようなうれしさと、胸がつかえるような気持ちでいっぱいです。(中略)

 ここにある興南寮の跡も、なぜ作ったのかと言いますと、かれらや家族が広島に来た時に、なにもないとね。「かれらの思い出になる学校も、寮の跡もなにもないというのではいけない」ということでつくったのです。みなさんもおわかりのように、このタイルには、東南アジアの地図を表してあるわけです。

「ここは、ぼくの国だ。」
「ここが。ぼくの国だ。」
といえるように、表している地図なので、今度は国名をいれておこうとおもっています。

 以上のことからみなさんに、南方特別留学生の方々が、非常に勇気のある、心豊かな清潔で立派な学生であったということを、ぜひ伝えたいと思います。

 来年は広島に留学生が来て、ちょうど50年になります。南方特別留学生の方と家族の人を、広島に招待することを計画し発表しました。オマールさんを知った人がたくさん来られますので、ぜひ京都によってみんなでオマールさんのお墓に参りたいと思っています。もしよかったら、圓光寺のほうでぜひお会いしたいと思っています。

 それではみなさん、元気で思い出多い、いい旅にして下さいね。ぜひ又、京都でお会いしたいと思っています。

(この年から4年後の戦後50年の年に、日本政府の招きでお元気であった105名の南方特別留学生が来日しました。1995年の8月7日、花岡さんは約束通り修学院小と圓光寺に数人の留学生を連れて来て下さいました)

■「見て下さい。オマールさんの写真です」
                中村千重子さん

 皆さんこんにちは。みなさんの学校はとても素敵な場所にあるのですね。昨年6月に、初めてオマールさんのお墓にお参りしました。そして日本人の人たちが、はるかマレーシアからこられた(今では飛行機で一飛びですが、戦争中オマールさん達は、日本海軍の駆逐艦に乗って何日もかかって、魚雷をくぐりぬけながら来られたから、私は遠い所という気持ちが今でも消えません)オマ ールさんのお墓にまいったりお花をささげたりして、本当によかったなあと思っています。(中略)

 オマールさんに初めて会ったときは、背の高いやさしい感じのする人でした。言葉は日本語が上手でしたから、お話は普通にできました。オマールさんとお話して感じたことは、日本のことを責めることはなく、今つらいことを考え合って切りぬけて行く、そういうふうに感じました。でも自分の考えはきちんと持っていて、求められたら必ず話す人でした。

 特に感心したのは、老人や女性、小さな子どもたちや弱い立場の人には、とてもやさしかったことです。そんなオマールさんを見て、留学生はみんな親切でした。被爆後の広大での野宿では、行方不明のわたしたち肉親捜しを一緒にしてくれたり、疲れてかえったら、「千重子どうだった。明日またさがそう」と声掛けしてくれました。5人の留学生は率先して係を作り、私や母たちの食 べ物もどこかから(配給や炊き出し、学校の畑等)持ってきてくれました。本当に感謝でした。

 オマールさんは胸にヤケドをしながら、そのような様子は全く見られなくてドラムかんを探してきて、お風呂をわかして入ったりしている姿が忘れられません。オマールさんは自分の考えをはっきり持った人で、お別れの時「日本はこの様になったけれど、きっと立ち直るでしょう。(私はそれを信じることはできませんでしたが)わたしもマレーシアに帰って国のために働きます。きっ とまた広島にみんなに会いに来ます」と約束されました。

 おわかれにオマールさんは数枚の写真をくださいました。こんど広島でお会いした時にお話しし、お見せしますね。

マレーシアからの留学生3人組 左/ユソフさん、中/オマールさん、右/ラザックさん 写真提供 中村千重子さん
マレーシアからの留学生3人組
左/ユソフさん、中/オマールさん、右/ラザックさん
写真提供 中村千重子さん

(この年の修学旅行の時、興南寮の平和集会に栗原明子さんと証言してくださった中村さんは、約束通りオマールさんの写真を持って来てくださいました)

■全校で取り組む修学旅行「プラスワン」

 修学院小学校の修学旅行「オマールさんを訪ねる旅」は少しずつ全校の、児童会ぐるみの行事になっていきました。

 5年生の二学期に圓光寺に行き、住職さんからオマールさんのお墓についてお話を聞くことから始まります。4月が修学旅行であったので、5年生の三学期には事前の調べ学習や、手紙を出すなどの活動を始めました。春休みには各班で、旅行のしおりの清書をするという、毎年の日程でした。

 広島の興南寮前での平和集会で使うパネルの、折り鶴は全校の人に頼んで折ってもらいました。例えば毎年虹の中に「友情」や「未来」、「平和」、「仲間」などを折り鶴を貼って創るのですが、出発までに完成したパネルを全校児童に紹介し見てもらうのでした。そして全校で歌を唄うのでした。それに今年の取組を紹介するのでした。

 以上のことを見ている低・中学年の児童は、5年生になったらああいうことが始まり、6年生はああいうことをするのだという、自分なりの高学年観をもったようでした。

 そして毎年の高学年の取り組み「プラス1」を児童も教職員も楽しみにしたのでした。ちなみに修学院小学校の「プラス1」は、初年度は「交流カード作りとカード渡し」。次年度は「絵本作り」と「ミニ絵本渡し」、「オマールさんを訪ねる旅」の大型紙芝居。3年目は学習発表会で「オマールさん」の劇と歌「希望をのせて」の発表。4年目は「50年ぶりの同窓会」。1991年8月7日「修小にようこそ留学生の皆さん」、オマールさんのお友達を招いて交流会等。以上が修学旅行の各学年の「プラス1」です。

 結果、歌「希望をのせて」は全校生が覚え、30年以上経った今も、歌うことができます。そして児童を通し保護者の人も歌えます。

■ようこそ修小へ・オマールさんのお友だち
   1995年8月7日「50年ぶりの同窓会」
   「南方特別留学生と修小児童の交流会」実現

 1995年は「戦後50年」として、テレビや新聞で取り上げられており、南方特別留学生のことに注目があるかもと、修学旅行の時に広島の証言を毎年して下さる花岡さんに、留学生の来日の可能性の有無を尋ねました。「可能性は大いにあります。広島市でも数年前から計画もあり、ひょっとしたら国からも要請があるかもと情報があり、楽しみです」とのことでした。思いきって頼 んでみました。「その時留学生仲間の方の京都訪問は、無理ですか。圓光寺のオマールさんの墓参と、修学院小学校訪問し児童との交流はどうですか」「日程的に余裕と調整さえつけば、私は是非実現したいし、学生達も希望するでしょう」

 可能性があることが判り、その後も花岡氏と連絡を取り合い、圓光寺や京都大学国際交流会館、京都市教職員組合や修学院小学校PTAの理解と協力をもって、8月 7 日の墓参と修学院小児童との交流が実現したのです。

 修学院小学校の体育館の檀上には、「ようこそ修小へ オマールさんのお友逹」の横断幕。6年生全員と教職員が迎えます。広島の興南寮跡に記念碑を建て、平和集会で毎年証言をして下さる花岡さんが先導して、南方特別留学生で広島大学での滞在経験のある4人の学生と、広島大学教職員、永原誠先生及び留学生の随行員や関係者など総勢16名の入場でした。

 実行委員の司会で進みます。

プログラム
1 お迎えのことば
2 絵本「オマールさんを訪ねる旅」発表
歌「青い空は」合唱
3 留学生と皆さんへ絵本の贈呈
4 留学生の皆さんからスピーチ(その間に色紙にサインと一言)
5 記念撮影(参加者全員で)
6 留学生の皆さん退場

 会場には、広島RCCのテレビカメラと取材記者も来られ、後日『50年ぶりの同窓会』という番組でTBS系で全国放送されました。

 これは、時の政府が自民党から社会・村山政権下に移り、外務省が戦時中の205名のうちの105名を探し出し、東京に招いたのでした。広島留学の経験を持つ10人程の留学生は、原爆投下の8月6日に広島の平和記念式典にも出席し、京都に来たのでした。村山政権下で、戦争の加害を顧みる政治体制であったからと言われています。

 交流集会では、児童が手渡した絵本を手に、児童の発表を聞く留学生の目に涙が光ります。スピーチにたった、アブドール・ラザックさんの頬杖には涙が流れ、言葉が出ませんでした。

 書いてくださったサイン入り色紙には、「われわれ、南方特別留学生のように、一生懸命勉強してください」や、「日本の未来はあなた達の手の中にある」、「オマールさんのことを永遠に伝えて下さい」等と書かれていました。永原誠先生からは、「オマールさんの墓守りありがとう。いつまでもつづけてあげてください。オマールさんが忘れられない限り、日本には平和が守られているように思えます」という言葉を書いてくださって、みんなで考えました。

■大坪住職さんからのお誘い
  「圓光寺オマールさんの会」結成

 修学院小学校に勤務し、地域学習で圓光寺の「オマールさんのお墓」に出会って、32年目です。最初にお世話いただいたのは、古賀慶信住職でした。修学院小学校の広島修学旅行は、阪神淡路大震災のため新幹線不通などにより、行き先を変更せざるを得ませんでした。その間もオマールさんの法要は、圓光寺にイスラム式の現在の墓碑を建立した園部家により2008年まで実施されてきましたが、それ以降は次の大坪慶寛住職により、命日に供養されてきました。修学院小学校の広島修学旅行も2014年頃に再開し、6年児童は事前学習として圓光寺を訪れ大坪住職にオマールさんと墓について話を聞いていました。

 2017年の秋に、圓光寺大坪住職から電話がかかってきました。大坪住職は従来から「被爆南方特別留学生のオマールさんのことを、悲惨な過去の出来事にするのではなく、若い人たちにつないでいくことが必要で、オマールさんの墓を学校や地域で語り継ぐ、市民の会などつくりませんか」という内容でした。「最近の世の中のきな臭さも気になるんです」

 全く同感の思いでした。広島行修学旅行を再開した修学院小に協力し応援したい気持ちの大きかったので、大坪住職のお誘いは、本当に有難かったです。

 圓光寺に会の事務局を置くことも、定例の事務局会議を寺の大広間ですることも構わないとのことでした。条件はそろっています。修学院小学校の教職員仲間や保護者、南方特別留学生に関心のある方やマスコミ、広島や京都の平和運動や活動の先輩や教職員組合等に相談し、市民団体「圓光寺に眠る被爆南方特別留学生サイド・オマールさんを語り継ぐ会」(通称・圓光寺オマールさん の会)の準備会を結成しました。

 そして2019年8月20日に結成式とオマールさんの足跡を紹介する展示会のオープニング集会が持たれました。冒頭の挨拶で、「平和のありがたさや、命の尊さが希薄になっているが、その大切さを将来に繋げていくことが必要ではないか」という大坪住職の言葉が参加者の共感を得ました。9月3日の法要までの展示会は、延べ500人にのぼり、法要にも約80人の参加がありました。

「圓光寺オマールさんの会」結成のつどい 2019年8月20日
「圓光寺オマールさんの会」結成のつどい
2019年8月20日

 戦後75年に当たる2020年には、新型コロナ禍の中、人数制限をしつつ10月20日に会主催の「オマールさんの足跡を辿る旅IN京都」を実施しました。制限人数一杯の参加者で、広島大留学直前の約 1 ヵ月滞在した三条小橋の「吉岡旅館」や、京大病院で亡くなった後、多くの人の協力でイスラム教の教えに従って埋葬された、京都市営の大日山墓地など5ヵ所を一日かけて辿りました。

 核兵器禁止条約発効の2021年も新型コロナ禍の下、「第40回京都平和のための戦争展」に参加し、展示とDVD上映、大型紙芝居の読み聞かせをしました。

 9月3日の法要に約30人が参加し、広島島市立大学のヌルハイザル・アザム氏がイスラム式の祈りと、マレーシアへ法要の様子を初めてライブ配信をすることができました。

■「南方特別留学生について

 最後に「南方特別留学生」について簡単に記します。

 東条内閣が外務省の反対を押し切って設立した「大東亜省」が留学生の受け入れにあたり1943年(昭和18年)に第一期生104人と、1944年の二期生101人がいたといわれ、この一期、二期の青年たちが「南方特別留学生」と呼ばれたそうです。

 出身階層は、王族の子弟(オマールさんは、ジョホール州のサルタンの一族)や、当時の東南アジア軍政下の現地政府高官の子弟などで、最年少は15歳、年長でも20歳過ぎであったそうです。東京の国際学友会日本語学校で日本語を半年ほど勉強した後、全国の学校へ別れていったそうです。

 合計205名の内、オマールさんとユソフさんに加え4名が日本で死亡し、帰国できませんでした。
                       (了)





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原爆投下時の広島市近郊地図

京都市近郊地図

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