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●被爆体験の継承 10

被爆と、貧しさと、民族差別を超えて

李 正道さん

2013年5月15日(水)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

李 正道さん
■韓国から岩国へ学校にも行けなかった子どもの頃

 私は今の韓国で生まれました。釜山から汽車に乗って2時間、山奥の田舎で、貧しく、川の水や山の水ばかり飲んで育ちました。日本に行くと白いお米がお腹いっぱい食べられる、寝転んでいても柿を取って食べられる(韓国の柿は高いところにしか実をつけない)というので、私がたぶん7歳か8歳のころ、父母と3つ年上の兄と4人で山口県の岩国に来ました。

 岩国では、田んぼの中にバラックみたいなのを建て、そこに韓国の人たちが5,6軒かたまって住んでいました。部落の中にしっかりした韓国の人がいて、「子どもたちは日本で学校にやらさないかん。そのためにはまず日本の言葉を覚えること、言葉を覚えるまでは学校には行けない」と言いました。

 言葉を覚えている頃、私は当時流行っていたチビス(チフスのことをそう言っていた)という病気にかかって入院、そうこうしているうちに10歳になってしまい、年がいっているというので、兄も私も日本の学校には入れてもらえませんでした。2人とも学校というものには行っていません。

地図
■戦時下での玖波(くば)での暮らし

 戦争の始まった頃は、広島県の大竹の近くの玖波(くば)という所(現在の広島県大竹市玖波)に住んでいました。後ろが山で、前が海でした。町の真ん中には住めず、ここでも海岸べりとか、田んぼの中とかに、7,8軒がかたまって暮らしていました。

 空襲警報が鳴ったら、親に連れられ、山陽本線の大きな線路を渡って山の上まで逃げました。近くの防空壕では危ないと、三菱か何かの大きな会社の横を通って山まで行きました。大きな防空壕で山の両方から入るようになっていました。着いたらすぐに警報は解除されます。一日、何回も空襲警報が鳴り、逃げました。逃げないと怒られました。毎日、逃げるのが仕事でした。

 灯火管制がしかれ、いつも小さな電球で暮らしていました。母は日本に来て、言葉がわからないから、私に何でもさせようとしました。私もするもんと思っていました。

 バケツリレーも1軒家から必ず出なくてはならず、私が行きました。大竹の駅に戦死した人を出迎えに行くのも私でした。毎晩のように白い箱に入って帰って来る戦死者を駅の両脇に並んで出迎えました。いつも裸足で、履き物を履いた覚えがありません。

 配給に並んでも、子どもだからと馬鹿にされ、三角のお揚げが、家族が多い家なら2枚なのに1枚だったり、タバコの配給は「もうない」と渡してもらえなかったり、虫のついたメリケン粉や芋の粉の団子を食べていました。石を投げられたこともあります。

 B29もよく見ました。B29は高いところを飛んで爆弾は落とさないと聞いていましたが、小さい飛行機が三菱か何かの大きな会社にカラスみたいに爆弾を落とすのを見たことがあります。窓がバラバラになっていました。

 海の横に潜水学校があって、生徒がいっぱいいました。軍艦などがあり、そこに爆弾がどんどん落とされるのですが、あたらなかったです。サイレンが鳴ると白い服を着た水兵さんがコンクリートに水が貯められたところに入ります。そこに入ると助かると聞いていました。

 兵隊さんが鉄砲や手旗信号の訓練をするのもよく見ました。監督している人が毎日、生徒をしばいていました。しばかれて体がよろけるとまたしばきました。教えるのではなくしばいてばかり、ほんとうにかわいそうでした。自分らはいじめられたら逃げたけど、あの人らは逃げられない、子ども心に、こんなことしていたら日本は負けるなと思いました。

■原爆投下、勤労奉仕先で消えた父を捜しに広島へ

 1945年8月6日の朝、私が14歳のときです。当時、トイレは堤防のところに1つしかありませんでした。私がトイレから出たとき、広島の空がピカッと光り、ドーンと爆弾が落ちる音を聞きました。

 みんな「なんやろ」「なんやろ」と騒いでいました。その日は一日中、空襲警報が鳴らず、今日はなんで空襲警報が鳴らないんだろうと思っていました。

 大きな川の向こうにあった、三菱石油の会社には3千人くらいの人がいましたが、全員、死んだそうです。石油が入っているタンクが燃え続け、空が見えませんでした。

 そして、その翌日、前から母の知ってる人が連れていってあげると言っていた、岩国の近くの本郷という山の中(現在の山口県岩国市本郷)に、トラックに乗って疎開しました。父は勤労奉仕で広島市内に行ったままでしたので、母と子ども2人、行李一つでの疎開でした。

 8月6日は、男の人は1軒に1人ずつ必ず勤労奉仕に来るようという命令が出ていました。韓国の人には特に厳しく、出ないと配給をくれなくなります。3日前に大竹の駅に集められ、大勢が広島市内に出かけていました。父もその一人でした。

 勤労奉仕でどこに行ったか、場所はわかりません。2,3日しても父が帰ってこないので、母と兄と私は、父を捜しにトラックに乗って広島にむかいました。1週間たってからのことです。

 焼け跡では、ドラム缶に油を入れ、死んだ人を放り込んでいました。1週間たっているのに、川には死体がどんどん流れていました。街の中をいろいろ訪ね歩きましたが、けっきょく父は捜せずじまいでした。広島の人でも捜せなかったときに、知識も手段ももたない私たち家族が父を捜すことなど、とうてい無理でした。原爆でその日のうちにみんな死んだんだと思います。

 韓国の人の集落では、あっちの家でも、こっちの家でもわんわん泣く声が聞こえました。広島から帰って来た人も1人いましたが、顔半分がひどいやけどで、すぐに亡くなりました。

■終戦、母と兄と3人で大竹に

 戦争が終わったことも知りませんでした。ラジオもなく、字も読めず、空襲警報が鳴らないなあと思っていました。おとなも子どもも、何も知らん人間が集まって暮らしていました。

 戦争が終わって、大竹のバラックがあったところの人たちが、「中野(実家の名字)のお母さんが子ども2人連れて来るから部屋を1つ空けてあげよう」と言ってくれ、大竹に住むようになりました。

 毎日、海で貝を取ったり、よもぎや芹を摘んで食べたり…、食べるのがやっとこさでした。私は体も大きく、いっしょに行った子より沢山とるので、子どもが6人も7人もいる家の子に分けてあげました。

 進駐軍が2〜3人グループになって、何もないバラックに入ってきたことがあります。「鶏の卵をくれ」と言いましたが、目も青いし背も高い、ほんとにこわかったです。

 毎日が買い出しでした。手巻きのタバコを作って20本ずつにして、田舎に米と替えに行きました。駅で見つかると駅員につかまります。布につめてお腹にまいて帰りました。芋を掘った後のを拾って食べたこともあります。

■結婚して宇品、そして京都へ。働きづめ、苦労しづめの人生

 20歳過ぎたら結婚できんということで、17歳で結婚しました。主人は韓国から鳥取の飯場を経て宇品に来た人でした。酒飲みで、仕事もお金もなく、服の着替えもありません。家に帰りたかったですが、帰る道もわからず辛抱するしかありませんでした。私が入市被爆したことなど言っても応援してくれるような人ではなかったので、そのことは言いませんでした。

 宇品の家の横に住んでいたおじいさんが、被爆した息子さんの背中のケロイドにウジ虫がわくのをピンセットで取っていました。傷口が固まらないからと息子さんをうつぶせにし、毎日、毎日ウジ虫を取るのですが、取っても取ってもわいてきました。おじいさんが居眠りしている間にウジ虫は大きくなるそうです。背中の骨まで見えていましたが、その息子さんも亡くなりました。

 私は、自分の手で働き、子ども3人を育てました。土方仕事ばかりしました。河原の石積みの現場では、3階の足場までバケツで石を運びました。ほんとにつらかったですが、ほかの仕事は知りませんでした。戦争も戦争だけど、人生、苦労をいっぱいしました。

 広島の中でも何か所も引っ越しましたが、広島から京都に来たのは、主人があちこち廻りまわって京都に来たからです。ぼろぼろの家でしたが、家の中に水道があるだけましでした。

 パネルの釘ぬきの仕事をしたり、桂川の友禅流しの仕事を10年間しました。桂川で男の人が反物を洗い、それを手でしぼる仕事で、雪の日などは反物が凍りました。昼も夜も子どもの顔も見ないくらい働きました。

■清掃の仕事、乳ガンの手術 身にしみた人の親切

 50歳になって身体がしんどくなり、四条烏丸にあった清掃会社で働くことにしました。そこで22年間働きました。清掃の仕事は楽で、世の中にこんな楽な仕事があるのかと思いました。50歳になって初めてそういう仕事を知りました。給料は安かったけど、厚生年金、健康保険に加入できました。

 会社の面接もいい人にあたりました。字を書けないことをずっと隠してきましたが、「学歴は広島の中学校を卒業したと書いておくから」と言ってくれ、それで一定の給料がもらえる仕事につけました。ほんとうにうれしかったです、いまだに忘れられません。

 清掃会社から派遣されたビルの社長さんもほんとに親切にしてくれました。乳ガンの手術で仕事を休むことになったときも、現場の主任さんがいい人で、「治ったらすぐ来るから」と頼むと、現場にほかの人を入れないでいてくれました。人の親切が身にしみました。

 乳ガンの手術をし、週1回、抗ガン剤を点滴していたのですが、点滴の日はこんにゃくのようになって目もあけられません。仕事があるので、2回でやめました。でもリンパを切ったので手が上がらず、2年ほどはバスのつり革も持てませんでした。5年間飲まなければならない薬も1年でやめました。

 慢性の頭痛もちでいつも鎮痛剤を飲んでいました。放射能にあたったからいつも頭が痛いのかなあと思っていました。

■被爆者手帳申請の時

 被爆者手帳を申請したのは、ずっと後です。大竹の区長みたいな人が母に「おばあさん、被爆手帳もらったか?」と聞いてくれました。母は日本の人に好かれていました。

 「なんかねえ」と言うと「ご主人を捜しに広島に行ったんなら被爆手帳を申請した方がいい」と教えてくれ、手続きをしてくれました。通知があったのかも知れませんが、回覧板も来ないところに住んでいました。

 連絡をもらい私も母、兄といっしょに広島で申請しました。昭和59年、53歳のときでした。区長さんもやさしいし、広島の人はみんなやさしいです。

■今は、子にも、孫にも、ひ孫にも恵まれて

 主人は、30年以上前に亡くなりました。酒飲みで、日雇いに行くだけの人でした。母は96歳まで生きて、7〜8年前、京都で亡くなりました。口数の少ない、優しい人でした。兄は、今も広島の大竹にいます。土方仕事ばかりしていたので、腰がまがってしまっています。(先日、肺ガンの手術をしました)

 京都の今の家に来て、やっと落ち着いた生活ができるようになりました。今は一人暮らしですが、子どもは3人、孫が9人、ひ孫が11人います。2年に1回くらい、大竹の母の墓参りに帰っています。82歳になった今が一番幸せです。

 人の多い所は疲れるので、あまり外には出ません。3日、4日家の中にいることもあります。C型肝炎もしているので、月1回、肝硬変などの治療に病院に行きます。

 私は、どこへ行っても字で不自由しました。長年苦労して、日本語の字は読むのはほとんど読めるようになりましたが、書けない字があります。被爆者懇談会からのニュースも何日もかけて読んでいます。

 よその国から来て、家もなく、教育も受けられず、きつい力仕事しかできなかった人生ですが、私が自慢にできることは、人に迷惑をかけなかったこと、母にイヤという言葉を使ったことがなかったことです。自分も苦労しましたが、母はもっと苦労しました。

 この年になったら、人間はみんな同じ、校長さんであろうが社長さんであろうが、年を取ったらみんな同じです。

 韓国の被爆者の慰霊碑は、この間まで平和公園の外にありました。たくさんの人の要望や運動でやっと平和公園の中に設置されたのだそうです。同じ被爆者なのに…と思います。

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韓国人原爆犠牲者慰霊碑(広島平和公園内) 韓国人原爆犠牲者慰霊碑(広島平和公園内)

碑に刻まれている慰霊碑の由来
 第二次世界大戦の終わり頃、広島には約十万人の韓国人が軍人、軍属、徴用工、動員学徒、一般市民として存在していた。
 1945年8月6日原爆投下により、2万余名の韓国人が一瞬にしてその尊い人命を奪われた。
 広島市民20万犠牲者の1割に及ぶ韓国人死没者は決して黙過できる数字ではない。
 爆死したこれら犠牲者は誰からも供養を受けることなく、その魂は永くさまよい続けていたが、1970年4月10日、在日本大韓民国居留民団広島県本部によって悲惨を強いられた同胞の霊を安らげ、原爆の惨事を二度と繰り返さないことを希求しつつ平和の地、広島の一隅にこの碑が建立された。
 望郷の念にかられつつ異国の地で爆死した霊を慰めることはもとより、今もなお理解されていない韓国人被爆者の現状に対しての関心を喚起し一日も早い良識ある支援が実現されることを念じる。
 韓国人犠牲者慰霊祭は毎年8月5日この場所で挙行されている。

在日韓国青年商工人連合会及び有志一同

 韓国人原爆犠牲者慰霊碑は当初(1970年)、平和公園外の本川橋西詰めの川岸緑地にひっそりと建てられた。その後関係者、心ある多くの人々の要望と運動と募金が実って、1999年7月、現在の平和公園内移設が実現している。

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朝鮮人被爆者数(被爆者援護法裁判パンフレットより)
全被爆者数 朝鮮人数
被爆者総数 爆死者数 被爆者数 爆死者数 生存者 帰国者 日本在留
広島 420,000 159,283 50,000 30,000 20,000 15,000 5,000
長崎 271,500 73,884 20,000 10,000 10,000 8,000 2,000
合計 691,500 233,167 70,000 40,000 30,000 23,000 7,000

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