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●被爆体験の継承 22

被爆者救済を願って闘った原爆症認定裁判

木村民子さん

2014年9月5日(金)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

木村民子さん
■大阪大空襲

 私は昭和12年(1937年)1月26日の生まれで今年77歳になります。兄弟姉妹は13人もいて、上から男6人、続いて女4人、それから男、次が私、下に妹の順番です。ですから私は下から2番目の子です。父は大工の棟梁してましたが、子どもが多いので、家(うち)の上り口にいつも一斗の米が置いてありましたね。

 子どもが13人もいて、私らの親は偉かったんやなーて思いますね。母は私と同(おんな)じように小さい人でしたけど、どうやって生活したり子ども大きくしたんかと今にして思ったりもします。

 生まれた所は大阪市の昔の南区瓦(かわら)屋町という所でした。大阪城から南西方向にあって、道頓堀や生玉神社なんかも近くて、天王寺の動物園にもよう遊びにいったもんです。大阪の中心地みたいなところでした。

 昭和20年(1945年)の3月13日に大阪大空襲があって、私らの家は全部焼けてしまいました。私が8歳の時です。あの夜は寝てて、夜中の2時頃たたき起こされて、みんなで外に出て、防空壕いうても簡単なものでしたけどそこに入ったんです。その時私の真横に焼夷弾落ちたんです。もうちょっとずれてたり、防空壕に入るのが遅かったりしたら私は死んでたと思います。それから慌ててまた外へ出て、東へ東へと逃げたんです。その時向いの家主さんの大きな家はもう真っ赤になって燃えてました。逃げながら後を振り返ったら焼夷弾がパラパラパラパラ落ちてるんですが、それが花火みたいにきれいに見えたの覚えてます。

 朝方になってやっと玉造小学校に着いたんです。そこの講堂でおにぎり一つもらったんですが、その味は忘れられんですね。その時外は雨が降ってました。空襲の後になって、父が焼け跡を見に行ったんですけど、もう我が家は丸焼けで何も残っていなかったそうです。その頃私の家には両親含めて全部で8人が一緒に住んでたと思うんですが、みんな焼け出されてしまったんです。

■広島へ

 住む家が無くなって、家族一緒に広島に疎開することになったんです。上から3番目の兄が竹中工務店に勤めてて広島の社宅に住んでたんですね。まだ子どももなくて夫婦だけだったので、「広島に来てくれ」とその兄が呼んでくれたんです。

 父は大阪に残りたかったらしいんやけど、そうはいっても住むところもないし、しようがなく広島に行くことになったんです。私一人だけは最初、藤井寺に嫁いでた姉の所に残ったんですけど、その後で私も広島に行くことになったんです。

 広島の兄の社宅というのは南観音町という所にあって、観音橋ってあるんですけど、その近くでした。広島に引っ越しはしたんですけど、原爆前の広島のこと私ほとんど覚えてないんです。8歳で小学校3年生にはなってたと思うんですけど。

 広島に疎開して間もなく、7月5日の日に父が亡くなりました。もともと心臓が弱かったんですね。61歳でした。父が亡くなって、家族が多くて、兄や姉たちが一生懸命支えてくれてたんです。

■8月6日、死の街広島

 8月6日の日は、朝起きたら空襲警報鳴ってて、8時頃に解除になったんで細い畑道をたった一人で歩いて学校に向ってたんです。私のすぐ上の兄は5年生でしたけど南観音小学校に通ってて、その日は先に家を出てたんです。私らの低学年はあの頃分校といって別の所にある学校やったんです。木造の工場みたいな建物でしたね。

 その学校に着くちょっと手前の所で、突然吹き飛ばされたんです。周りは畑しかない所で、家と言ってもポツーン、ポツーンとしかないような所です。一瞬何も分らなくなって、気を失ったみたいです。どれぐらい経ってからか分らないけど、気がついて、うっすら目を開けたら、周りが全部鼠色(ねずみいろ)みたいな空気の感じになってました。その後またしばらく気を失ったような気がしますが、やっと立ちあがって、もう家に帰ろ思って一人で帰ったんです。

 原爆受けたのは畑の真ん中で、周りはなんにも遮るものない所やから、放射能は全身に浴びたと思いますね。後で知ったことですけど爆心地から2km近い所だったんです。

 帰ってみると、家は焼けてはなかったけど、家の形だけ残ってるようなことになってて、天井なんか落ちてました。原爆が落ちた瞬間は、家の中に5人ぐらい家族がいたんですが、みんなよう助かったもんやと思いますね。家はもうとても住めるようなもんではなかったので、前の畑に敷物敷いてしばらくはそこで過ごしたのを覚えてます。

 南観音小学校に向ってた私のすぐ上の兄は、途中で飛行機の音がするのでそっちをパッと見上げた瞬間光ったんやそうです。身体の右側が上から下まで大変な火傷になってました。私もあの時ぺたっとうつ伏せになったんでそんなにひどくはなかったけど背中に火傷をしました。己斐(こい)小学校というところで火傷した人たちが集められて治療してもらってたんで、私らもそこへ行ったの覚えてます。そこでは韓国の人らがアイゴー、アイゴーって泣いてはった声未だに耳に残ってますよ。

 私ら家族を広島に呼んでくれた3番目の兄はその頃兵隊で呉に行ってたんです。その兄の嫁さんは呉に兄に会いに行っての帰りに、広島駅近くの旅館に泊まっててそこで被爆したんです。2階の部屋にいたのに下まで落ちたそうで、すごい火傷してました。その兄嫁が言うのに、帰る途中、みんな水飲みたいから防火用水の水槽に首突っ込んだ死体がいっぱいやったのを見たそうです。川にもいっぱい死体が浮いていたと言うてました。

 私が自分でハッキリ覚えてるんは、原爆の落ちた日やったかどうかははっきりせんけど、痩せた男の人が、もう大火傷してて、うちの裏口の炊事場の所から「水下さい」言うて来たんです。母が「水飲んだら死ぬからあげられへん」言うと、その人は「死んでもいいから飲ましてくれ」言うて、それで母が飲ましてあげたんですわ。私ら柱の影からその人見てたんですけど。その人はそのままどっかに行ってしまったの、覚えてます。

 私らの住んでた所は川と海との境目みたいな所なんです。川にもいっぱい死体があって、浮いてて、ずーっと沖へ流れていってね。そして満潮になったら今度は死体が帰ってくるんですわ。そんな状態でしたね。その後何ヶ月かしてからですが、川に遊びに行ったら、水溜りのようなところで人が亡くなっていたり、そんなもんも見ました。

■兄弟姉妹たちの被爆

 一番上の兄と一番上の姉以外はみんな被爆してるんです。あの時7人の兄たちの内4人が岩国と呉とかに兵隊なんかで行ってたんですけど、原爆が落ちた時は家族のことが心配だったんですね、みんな広島の我が家に駆けつけて、それで入市被爆してるんですよ。ずーっと後になってですが、その4人の兄はみんながんで亡くなったんです。今になってですが、みんな原爆のせいじゃないかと思いますけどね。

 一番上の兄はその時兵隊でビルマに行ってたんです。戦争終わって2年ぐらいして帰って来たんです。まだみんな広島にいる頃でね、母は宇品港に船が入る度に兄が乗ってるんじゃないかと見に行ってました。私の妹がまだ小さくて、その子の手を引いて連れてってね。それこそ何回宇品港に行ったか分りませんよ。

 原爆落ちてから2年して、兄の社宅から別の姉が就職してた三菱造船の社宅に引っ越したんですけど、丁度その頃に長男がひょっこり帰ってきたんですよ。もう死んでるかもしれないと思ってたもんで、あの時はみんなびっくりしました。

■体のしんどさに耐えて大阪で仕事

 子どもの頃のことやからそうハッキリ覚えてるわけではないんですが、被爆した後はとにかく体がだるくて、勉強なんかする気にもなれませんでしたね。学校もまともに行けなかったほどでした。

 中学を卒業するまでは私もそのまま広島で過ごしまして、観音中学卒業してから大阪に帰って来たんです。就職のためです。5番目の兄が大阪に出て働いていたんですけど、その兄の世話で、私もちょっとでも親の食いぶち減らそ思うて。

 就職したのはビニールを加工して雨カッパなんかを作る工場で、ミシン踏んだりする仕事でした。住み込みでね。福井県やら秋田県やらから集団就職で女の子が10人ぐらい来てて一緒に仕事しました。

 あの頃は本当にひどい生活でね、仕事は夜中までさせられるし、食べるもんはろくなもん食べさせてもらえんし。だけど親が大変なんやから口減らしのためや思うて、そこで7年ほど辛抱したんです。仕事するところと寝るところ一緒のようなところでしたけど、その内に工場は別のところに建てられたけど、それでも仕事は朝の7時から夜中の1時2時頃まででしたよ。よう7年も耐えられた思います。

 その頃でもずーっと体はしんどて、住み込みの家内工業みたいなところですから、特に調子の悪い時は工場の奥さんに病院に連れてってもらったりしました。でも原因は分らんかったですね。

 22歳になった時、兄が自分で商売することになったんで、今度はそれを手伝うことになったんです。兄妹の仲と言っても、夜中まで仕事するのは一緒でした。仕事は同じビニール加工の仕事でしたけど、あの頃はレインコートとかジャンパーとかビニール加工の仕事が盛んでそれを輸出してたんです。輸出と言うのは仕事を船便に間に合わせなあかんので、ほんまに大変でした。毎日毎日が忙しくて。自分で自由にできる時間いうのはたまに映画を観に行くぐらい、後は家のことするのと、仕事ばっかりでした。

 その頃これといって目立った病気はしなかったんですけど、体はとにかくしんどかったんです。だけどそういう生活で鍛えられたような気もします。だから今の自分があるような気もします。兄の仕事は25歳まで手伝いました。

■結婚、被爆者手帳

 その頃、被爆者の運動とか平和運動とかあったんだとは思いますが、私ら全然知らなかった、関係なかったですね。被爆者手帳と言うものがあることも知らんかったですから。

 結婚したのは25歳の時です。結婚の時主人に私が被爆してることなんかなんも言ってないんです。手帳もとってなかったし、ああいう目に遭ってることわざわざ言わなあかんこととも思ってませんでしたからね。自分でも被爆者言われても何がどれだけのもんか分ってなかったんです。

 昭和60年(1985年)になって、私が48歳の時、広島にいた兄が、証人が見つけられる内に手帳取っとけと言ってくれて、初めて被爆者手帳いうもの知ったんです。それから大阪にいる兄と私のすぐ上の姉と私と3人一緒に手帳とったんです。広島に住んでた兄弟姉妹たちはみんなもうとってたのに、大阪にいる私らはなんも知らんかったいうわけです。

 手帳とる時、大阪城東区の被爆者の会に入って、そこの紹介で此花診療所の小林栄一先生にお会いして、それから原爆関係のいろいろな申請する時などお世話になることになっていったんです。

 城東区の被爆者の会とのお付き合いが始まって、被爆者の健康診断も年2回あったりして、それからいろんなことが分るようになってきたんですね。

■夫婦で働きづめの日々

 主人とは私が25歳の時一緒になったんですけど、ずーっと二人で一緒に働いて、子ども育てるのが精いっぱいやったです。主人はタクシーの運転手やったり、いろんな仕事したりして、最後は二人でスポーツ用品店やるようになったんです。私はユニフォームのマーク付けとか一生懸命ミシン踏んだりしました。

 今はユニフォームのマーク付けといってもミシンで縫わんでも貼り付けいうもんがあるんですけど、あの時代は全部ミシンの縫い付けでね、本当に夜中までやってましたよ。もう子どもほったらかしでね。とにかくあの頃はどんなことでも仕事せな仕方なかったんですよ。食っていくためには。

 主人がまだ店も持ってない頃から、長屋みたいな所に住んでる頃から、野球帽の取り扱いなんかを他所で分けてもらって一人で回ってね。長屋の狭い家から表通りの店にやっと出て、それからその地域でも少年野球が盛んになってきて、ユニフォーム取り扱うようになって、そのお陰でスポーツ用品店をずーっとやってこれたんです。

 子どもは長女と長男に恵まれて、孫も2人います。スポーツ用品店は今はもう畳んで、老夫婦二人で市営住宅で静かに暮らしてますけど。

■原爆症認定申請と集団訴訟の提訴

 原爆症の認定申請したのは平成14年(2002年)の6月です。それまでもいろんな病気したり、いろんな症状はあったんですけど原因がはっきりとは分らんかったんです。

 前の年の平成13年(2001年)に近くの町医者で他の病気診てもらった時、帰りがけにどうも胃が痛むんでそれを言ったら、レントゲンとられて、2〜3日後に胃がんの大きいのが見つかったと言われたんですよ。それまでも調子は悪かったんですけど、もう生きるために一生懸命仕事してたんで、自分では全然気付かなかったんですね。

 そこの医者から大阪市中央区の大手前病院紹介してもらって、手術したり、抗がん剤うったりしてもらって翌年の平成14年(2002年)の1月まで40日間も入院したんです。胃は3分の2も取ってしまいました。その時でも自分では全然原爆と関係あるとは思ってなかったんですけどね。

 その頃、広島にいる姉とか、その姉の旦那も被爆者なんですけど、丁度私の胃がんが見つかる前の年頃から、広島でたくさんの人が原爆症認定申請してて、却下されてて、みんなでどうしようかと考えるようなことがやられてたんです。そんな話が私にも伝わってきてて、そういうことなら私も原爆症認定申請してみようか、と思ったんですよ。

 申請は全部自分一人でやったんです。そしたら却下通知が来て、それで此花診療所の小林栄一先生にそのこと言うたら、先生から「こうこうこうで、却下された人たちが裁判するけど、木村さんも入るか?」と言われたんが始まりです。

 城東区の被爆者の会の会長さんは平田さんという人でしたけど、その方も肺がんでしたけど、その方が小林先生と相談されて、却下された人たちの裁判しようという話が進んでたんです。私も年に一回は小林先生に診てもらってたので、先生から「平田さんが裁判するけど、木村さんもどうや?」と言われて、何も分らんままだったんですけど、「そしたらお願いします」と言ったんです。

 ところが平田さんは裁判始まる前に亡くなられてしまって、大阪で裁判するのは私一人になって、大阪と神戸の人と3人で一番最初の提訴をすることになったんです。提訴したのは平成15年(2003年)です。原爆症認定集団訴訟の始まりだったんですね。全国の被爆者が一斉にとりくんだ原爆症認定集団訴訟の一番初めの裁判の原告が私たちになったんです。

 裁判始めた時は、小林先生にお願いしてやってきたことだし、嫌やとか、途中で止めたりするのは絶対にできない、やるからには勝ち負けは別として最後までやり切ろうという気持ちでいっぱいでした。大阪地裁での近畿の裁判の第一陣は後から提訴された人たち、京都の人らも入れて全部で9人の原告になってました。

 裁判は主人にも子どもにも全然相談しなくて、全部自分で決めてやりました。主人も子どもも最後まで何も言わんと私のやりたいようにやらせてくれました。それは本当にありがたいな思いましたね。そのことは本当に感謝してます。普通やったら、怒ったり、止めとけ言われたり、そういうこともあったかもしれませんけど。家族には本当にありがたく思いました。

■5年間闘った裁判で勝った!

 裁判起こした年の8月8日、生まれて初めて裁判所の証言台に立って原告本人の意見陳述というのをやりました。被爆の体験を話した後、「原爆症認定申請に、返ってきたのは紙切れ一枚の却下通知。がんの告知よりも強いショックを受けました。人間扱いされていないように感じました」と言って、裁判長に訴えたんです。

 平成17年(2005年)4月22日には一人1時間半もかけて原告本人尋問というのもありました。原告の訴えてることに間違いがないかどうか証明するため、原告側と被告国側の代理人それぞれが質問してそれに答えるものです。この尋問の最後に、裁判長に言っておきたいことはないかと言われたんで、「大阪にもたくさん被爆者はいて、裁判したくてもできない人がいっぱいいます。裁判には忍耐力も精神力も体力もいりますから。だから私が代表だと思って頑張ってます。みんなのために是非公正な判決をお願いします」と言ったんです。

 胃がんの手術した次の年の秋には、今度は脳に血がたまって、また手術したんですよ。脳と頭蓋骨との間に200tも血が溜まってたんです。脳内出血だったんです。それでも手術した後、ものは言えるし、手は動くしで、手術した先生もびっくりしてはったんですけどね。脳の手術したのは裁判中やったんですけどね、それでも手術のために裁判休んだのは一回だけで、後は原告として全部裁判所に行きました。裁判は十何回とあって、どれぐらい行ったか分らんぐらいでしたけど。

 手術した後に裁判に行くのはほんまはしんどかったです。でも、家でしんどいとも言われんし、夫婦で仕事してるもんやから仕事もちゃんとせなあかんし、家事もちゃんとして、そういうことは徹底してやりましたね。

 裁判中は、厚生労働省まで要請や抗議にも行きました。大阪ではなかなか東京まで行ける人が少なくて、私が代表のような格好になってしまったんですよ。厚生労働省への抗議やら、国会での集会やらで、月に1回は東京に行ってたような時もありました。

 その頃は、朝一番の地下鉄に乗って出かけて、日帰りで東京往復して、最終の地下鉄で家に帰ってくるようなこともありました。2番目の姉が亡くなった時、丁度東京にいて葬式に行けなかったこともあったんですよ。まあ、主人が黙って見ててくれてるからできたことでした。

 一審の大阪地裁は平成18年(2006年)5月12日に9人の原告全員の勝訴判決が出て、二審の大阪高裁も平成20年(2008年))に勝って、結局国が上告を断念して、私ら原告の勝訴が確定したんです。

 一審で勝って厚生労働省に「控訴するな」と訴えに行った時、最初は建物にも入れんようにされたんでよ。弁護士さんが抗議してやっと原告だけ建物には入れたんだけど、小さい部屋に押し込められて、私らを座らせようともせんで、訴え文書を渡すと、「預っといて次の時までに考えておきます」と言われたりしてね。私もあの時は腹が立って、「朝早うからしんどい体おして大阪からここまで来てるのに、『今度来い』言われたって、次まで生きとるかどうかも分らんやないか」と言って強う抗議しました。裁判になっても一番は原告が頑張らなんだらあかんと弁護士の先生からはよう言われてたもんです。

 やっと裁判に勝って認定が決まった時、すぐにはあんまり感情が出んかったんです。嬉しかったのは間違いないんやけど、あんまり感情を表に出すタイプでもなかったし。まあ、それ以上に苦しい生活、人生を送ってきてたもんやから、乗り越えて来てたですから。勝った時、主人も子どもも何も言わんかったです。私もその方が楽でしたけど。

2006年5月12日全国のトップきり大阪地裁第一次提訴全員勝訴の日
2006年5月12日全国のトップきり
大阪地裁第一次提訴全員勝訴の日

 裁判やってる最中は、がんで亡くなった兄や姉たちのことはなかなか思い浮かばなかったですけど、なかなかそこまで余裕もなかったですから。後になって、裁判終わってから、兄や姉が何人もがんで亡くなったこと、原爆と関係あったんやろなー、と思うようになりました。

 裁判はほんまにたくさんの人に励まされて応援してもろうて最後までできたんですよ。此花診療所の小林先生とは東京へも一緒に行きました。肥田舜太郎先生にも励まされました。被爆者のことを本当に応援してもらって、とっても温かい先生でしたよ。神戸の支援のみなさんにも、京都の支援のみなさんにもよく支えてもらったもんです。特に京都の被爆者懇談会の田渕さんには本当によくしてもらって、何もかも全部教えてもらったようなもんです。

 私らの後に続いて裁判してる人らが今もいて、続いてるんですけど、今でも裁判のある時は傍聴に出かけてます。裁判が終わった後の報告集会にも出るようにしてるんです。原爆症の認定申請してる人全員に認定して欲しいと訴えています。

■核兵器のない世界に向けて

 被爆者にとって核兵器が一番怖いもんで、絶対に無くさんといけない思ってます。私の一番の願いは被爆者の救済と、それに関係する戦争と核兵器を絶対に止めることなんです。亡くなった兄や姉たちもきっと同じ思いやったと思います。兄や姉たちの供養のためにもそう願ってます。

 私なんかにできることは小さいことばっかりですけど、私は私なりにできることを、これからも精一杯やっていきたいと思ってます。

以上  

爆心地と広島市の地図

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