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●被爆体験の継承 26

夫の原爆症と裁判を支えて

小迫笑子さん

2014年11月18日(金)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

小迫さん
■私たちの結婚

 私は1940年(昭和15年)、京都の中京区で繊維関係の商売をしていた家の3人兄弟の長女として生まれました。空襲など戦争被害のあまりなかった京都と言われますが、それでも私の家では地下にあった物置の部屋を防空壕代わりにしていて、空襲警報が鳴った時はそこに入っていたことを覚えています。

 私の父親は、私が物心つく頃、もう兵隊に行っていて、ほとんど記憶にないんです。散髪屋に連れてってもらったことをかすかに覚えているくらいです。その父はフィリピンで戦死して、白木の箱に位牌のようなものを入れられてカタカタ音をさせながら帰ってきました。

 戦後は地元の小学校、中学校、高校を卒業し、30歳まで実家で商売の手伝いをしていました。

 30歳の時、大阪に勤めに出ることになって、最初は京都から通勤し、その内に大阪に住むようになりました。夫の嘉康(よしやす)とは、その大阪で知り合い、1978年(昭和53年)に結婚しました。夫は和菓子の職人でした。結婚して5年後の1983年(昭和58年)、京都の下京区に家を購入し、今の住まいに引っ越しました。

 結婚の時、夫が広島で被爆していることは聞いていました。でも、元気でしたし、気にすることなど何もありませんでした。夫からは被爆の話はそれほど詳しく聞くことはありませんでした。でも、亡くなった人の死体を集めて油をかけて燃やしていたことや、蛆虫(うじむし)がいっぱい湧いていたこと、太田川が亡くなった人でいっぱいだったことなどの話は、時々してくれていました。

 夫は和菓子の勤め先を55歳で一旦定年となり、その後60歳までは再雇用で仕事を続けました。60歳ですっかり仕事をやめた丁度その時、大腸にポリープが見つかって京都市立病院で摘出手術をしました。良性でしたが、これが初めての病気らしい病気でした。

 そして、5年後の2003年(平成15年)、夫が65歳になった時、咽頭(いんとう)がんがみつかったんです。それからの夫の晩年はその咽頭がんに負けまいとする、闘病の毎日になりました。それから原爆症認定を申請したのですが、却下されたので、国を相手に集団訴訟にも加わっていきました。最後には原爆症認定してもらうことができましたが、認定証書を受け取った2週間後に、2008年(平成20年)6月、甲斐なく亡くなりました。享年70歳、まだまだ頑張れる年齢でした。

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■夫・小迫嘉康の被爆体験

 ここからは、夫・小迫嘉康の被爆体験を、原爆症認定訴訟の時に本人の書いた陳述書を参考にしてお話します。

 夫は、1938年(昭和13年)1月5日生まれで、被爆の時は7歳でした。

 1945年(昭和20年)当時、自宅は広島市西区の楠木一丁目にありました。山陽本線横川駅に近く、爆心地から約1.5キロほどの所です。父方の祖父母、妹(当時4歳)、父方の叔母と本人との5人で住んでいました。学校は三篠国民学校に通学し、当時2年生でした。国民学校には兵隊がたくさん来ていたので、子どもたちは分校(近くのお寺が使われていました)へ行って勉強していました。

 1945年(昭和20年)は8月でも夏休みではなく、ほとんど毎日、分校へ行って勉強していました。分校となっていたのは光隆寺というお寺で、国民学校から300〜500mくらい、爆心地からの距離は1.7キロでした。学校へ行く日は、午前8時前には分校へ着いて勉強し、昼過ぎには家に帰っていました。

 8月6日の朝も、午前8時前には分校に着き、勉強していました。お寺は、木造平屋建でした。廊下から入ってすぐの部屋で勉強していました。生徒は、20〜30人くらいはいたようです。いつもどおり勉強していると、B29の音が聞こえ始めました。みんなで部屋から廊下まで、見に出ました。廊下に出て、あっと思ったら、すぐに建物の下敷きになっていました。あっという間の出来事だったので、はっきりとした記憶はないのですが、B29の機体をちょっと見た気がしたようです。白い色だったと記憶していました。

 あっと思った次に記憶しているのは、地面か畳の上か分かりませんが、とにかく俯せになっていたことです。木と木との間に挟まれていました。人の声が聞こえたので、「助けてくれー」と言ったようで、大人の人が助け出してくれました。

 助け出されてから、大芝公園へ行きました。大勢の人が大芝公園に向かって歩いていたので、ついて行ったのです。大芝公園は線路(山陽本線)より北、太田川の西岸にありました。一緒に勉強していた友だちがどうなったのかは、まったく分かりませんでした。

 大芝公園の付近は、家はほとんど倒れていました。公園に行く途中にも、公園に行ってからも、服がぼろぼろになっている人、皮膚がただれている人、体が大変なことになっている人をたくさん見ました。公園に着いたのは、まだ夕方になる前でした。公園の中には、火傷している人がたくさんいました。

 大芝公園まで行けば、誰か家族を見つけられると思いましたが、見つけられず、知らない大人の人についてさらに田舎の方へ行きました。その日の晩は野宿をしました。

 田舎には1週間くらいいました。知らない農家の家で生活していました。1週間くらい経ったころ、祖父が迎えに来てくれました。後で祖父に聞いたところによると、近所の人か誰かが農家に買い出しに来ていて、夫がいることに気付いて、家族に「お宅のお孫さんがおる」と言ってくれたんだそうです。祖父が迎えに来てくれたときは、まだ戦争は終わっていなかった時期のようです。祖父に連れられて、また大芝公園に帰りました。

 公園に行くと、小屋が建てられていて、家族はそこに住んでいました。祖父母、叔母、妹の4人はみんないました。家族から、自宅は全壊したと聞きました。被爆の瞬間、叔母は物干しに上がっていて、祖母と妹は家の中にいたそうです。祖父は仕事に出ていました。屋外で被爆した叔母は、ひどいケロイドが顔にできていました。妹が、叔母のケロイドを怖がっていたそうです。

 食事はできていましたが、乾パンや缶詰みたいなものばっかり食べていました。水は、祖父がどこからかバケツに汲んできてくれていたので、それを飲んでいました。その水を使って、公園の中で煮炊きもしていたことを記憶しています。

 公園のそばで、よく死体を焼いていました。公園の周りに死体が転がっているので、集めて焼くしかないのです。大人の人が、引っ張ってきて山積みにして、焼いていました。ガソリンか何かをまいていたと思います。死体を焼くとき、ひどい臭いがしていました。風で煙が流されるので、よく吸っていたんだと思います。

現在の大芝公園にある原爆慰霊碑
現在の大芝公園にある原爆慰霊碑

 9月に入ったころ、祖母の妹にあたる人が迎えに来てくれました。祖父母、叔母、妹、夫の5人で、広島県後調郡(みつぎぐん)市村に行き、親戚のお世話になることになりました。電車に乗って行ったのを覚えているそうです。

 その後、夫は中学を卒業するまで後調郡で暮らしました。中学を卒業後、大阪に出て就職しました。親戚の叔父さんにお世話になっているので、高校進学までは頼めず、中卒で働け、と言われたんだそうです。大阪では食品関係の職場に入り、最初は販売をしていましたが、徐々に和菓子業界に入り、和菓子職人としてやっていくようになりました。

 被爆した後は、下痢によくなりました。よくトイレに行ったのも覚えているそうです。他に風邪もひきやすくなっていたようです。

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■咽頭がんの発症

 2003年(平成15年)、夫が65歳の時、のどのあたりに塊があっておかしいなと言い出して、かかりつけの島津医院に行ったんです。島津医院の先生から京都市立病院を紹介されて、塊の一つはとれたんですが、奥の方のもう一つがおかしいと言われて検査しました。1週間後に悪性の咽頭がんと診断されたんです。

 翌2004年(平成16年)の4月12日から6月4日まで入院してカテーテルによる抗がん剤治療を受けました。退院してからは経過観察になって、1ヶ月に1回の通院を続けていました。

 2007年(平成19年)になって再び咽頭がんがみつかり、7月から10月まで長期間の入院で治療をしました。今度は切除手術でした。それでも完全には切除できなくて、残ったがん細胞には放射線治療を行うことになりました。退院後は、定期的に通院しながらの治療を続けて行きました。

■60年目に取得した被爆者手帳

 夫は被爆者健康手帳というものがあることは知っていました。でも、本人がそれまで元気に過ごしていたので特別に必要とは思わず、仕事や生活に忙しくて、手帳申請のためにあれこれするのも煩わしくて、被爆者手帳はずっととっていませんでした。咽頭がんだと診断されて、これからは治療費も大変になると思い、かかりつけの島津医院の先生からも「手帳取るなら今しかないよ」と言われて、それでとることにしたんです。

 でも、手帳をとるのは大変でした。被爆してから60年も経っているので証人になってくれる人がなかなかなくて。京都府庁に行ったら、嘘言って手帳取ろうとしているみたいに言われたりして。もう止めようかと諦めかけたこともありました。でも、島津医院の先生や、原水爆被災者懇談会の田渕さんなどにたくさん助けてもらって、インターネットやいろいろな方法で夫の被爆の証人探しをしてもらったんです。私ら夫婦で一緒に横浜まで行って、証人になってもらう人にお願いをしたこともあります。やっとのことで、2005年(平成17年)2月18日、手帳をもらうことができました。

2006年(平成18年)頃、旅館のような所で船盛を前に夫婦ツーショット
2006年(平成18年)頃
■原爆症認定申請と集団訴訟

 被爆者手帳の申請を手伝ってくださった島津先生などから、原爆症の認定を申請してみてはどうかと勧められ、2006年(平成18年)3月14付で原爆症の認定申請をしました。けれども、5月26日付で申請を却下するという通知が来たんです。

 爆心地から1.7キロという近い距離で、放射能の影響を強く受けると言われるわずか7歳の年齢で被爆して、申請した病気も咽頭がんなのに、どうして却下になるのかまったく理解できませんでした。島津先生や市立病院の主治医の先生も、原水爆被災者懇談会のみなさんも、そのことを知らせると、「何でや、おかしいんちゃうか」と言ってくれました。

 普段はとても大人しい性格の夫でしたが、原爆症認定申請が却下された時は、あまりに理不尽な国の処分に腹が立ってしようがなかったようで、その頃全国で運動が進められていた原爆症認定集団訴訟の原告になり、参加していくことになりました。このまま却下で終わらせるは、悔しくて悔しくて、どうしてもできなかったのです。提訴は2007年(平成19年)7月28日です。

 夫は、裁判には熱心に行きました。他の原告の人の裁判の時も応援のために、ほとんど毎回、傍聴しに行きました。がん治療を行いながらのことでしたから、裁判に行くのも大変でした。のどの渇きがひどいので、いつも水を用意して、ペットボトルも欠かさないようにして。

 原告本人としての口頭での意見陳述も、原告本人の証人尋問も頑張って証言台に立ちました。

■3度目の入院

 通院治療を続けていたのですが、気付かない内にも、症状は悪くなっていたのかもしれません。釣りが趣味でよく出かけていましたが、2007年(平成19年)の秋頃から、しんどいといってすぐに帰ってくるようなことがありました。家の中でゴロゴロしていることも多くなっていきました。食事がのどを通らないと言ってお茶漬けだけを続けることもありました。体重もかなり減っていました。

 2008年(平成20年)3月15日、自宅の玄関で突然倒れてしまったんです。すぐに京都市立病院に担ぎ込まれました。その時、肺にもがんがあることが分かりました。転移してたんです。その時、肺のがんは「3年〜4年は大丈夫だから」と言われましたが、「もう自宅には帰れませんよ」とも言われたんです。

 その日を境に、急にものが食べられなくなって、歩くこともできなくなっていったんです。うまく呼吸できないから食事も、運動もできなくなるんですね。肺だけだったはずのがんは転移が急速に広がっていったようでした。

■亡くなる1週間前の認定通知

 その頃、厚生労働省では全国の裁判結果や世論に押されて、原爆症認定審査の新しい基準が決められていました。まだまだ不十分な新基準でしたが、その新しい基準で全国の裁判中の原告の申請がもう一度、審査され直したんですね。その結果、私の夫も裁判の判決を待たずに認定されることになりました。

 2008年(平成20年)5月の末に、京都府庁から電話がかかってきて、原爆症に認定されたことが知らされました。府庁の人は認定証書を郵送で済ませようかなどと言いましたが、私は、病院まで来て、本人にきちんと手渡すよう強く求めました。認定証書が届けられたのは、もう夕暮れでしたが、弁護士の尾藤廣喜先生にも立ち会っていただいて、市立病院のベッドの上で、夫は待ちに待っていた認定証書を手にして涙ぐみました。

原爆症認定証書を手にした時
原爆症認定証書を手にした時

 認定証書を手にした1週間後、2008年(平成20年)6月5日、夫は息を引き取りました。突然、倒れて3度目の入院をしてから3ヶ月も経っていませんでした。末期がんでしたが、壮絶な最期でした。苦痛と、声も出せない辛さに襲われ、激しい幻覚に見舞われながらの最後でした。原爆は、人が人間らしく死ぬことさえも許さないのか、というように。

 もともとは、体は丈夫な人だったんです。火葬された時も立派なお骨やったと言ってもらいました。でも、それとがんとは別物なんですね。それも原爆が原因ですからね。

 夫が亡くなってから、私が代わりに原爆症認定訴訟の応援の傍聴に行くようになりました。みなさんのご協力のおかげで認定してもらうことができたと思ってますから、少しでもお返しができれば、という思いからです。

■広島への供養の旅

 2012年(平成24年)、夫の供養を思って広島に行きました。平和公園を歩いていると、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島平和記念資料館とは別の建物)という建物があり、入ってみました。その地下2階に原爆で亡くなった人たちの遺影コーナーがあって、たくさんの人の名前や写真が掲げられていました。ここには遺族が、亡くなった被爆者の名前を登録して初めて掲げられるのだと知って、私も京都に帰ってから早速、夫・小迫嘉康の登録を申し込みました。

 今年2014年、あらためてこの祈念館を訪問して、私の夫も掲げられているのを確かめました。永久保存され、いつでも誰でも見れるように公開されています。該当する人の名前から検索できるしくみにもなっていました。

爆心地と広島市の地図

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