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●被爆体験の継承 30

顔も覚えぬ母を奪い去った原子爆弾

濱村 巧さん

2015年5月19日(火)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

濱村巧さん 右は妻の美智子さん
濱村巧さん 右は妻の美智子さん
■小学校4年生の時初めて被爆者であることを知る

 私は昭和18年2月の生まれです。原子爆弾が落とされた時は2歳半ですから、あの時のことについては自分の記憶は何もなく、すべて後々になってから聞かされた話です。

 私が、自分が被爆していること、被爆者であることを初めて知ったのは、小学校4年生、10歳の時でした。1953年(昭和28年)のことになります。ある日突然、「検査をするから来い」と言われて、父親から「行ってこい」と言われて、その検査が何であるかを教えられて、初めて自分が被爆者であることを知りました。検査を受けたのはきっとABCC(放射線影響研究所)だったのだろうと思いますけど、ハッキリとは記憶していません。

 その検査は6年生になった時も2回目を受けています。自分が被爆者だと聞かされた時、でもそれで特別なことは何も思わなかったですね。ああ、そうなのか、と思う程度で。

 このことがきっかけになったのかどうかは分りませんが、私が中学に入った頃から、私や私の家族が被爆した時の様子を、たくさん聞かされるようになりました。ただ、父親は自分の被爆体験を話すことをとても嫌っていて、私にはほとんど何も話してくれませんでした。父親も同じように被爆はしていたのですが。私の被爆の時の様子は、主に、近くに住んでいた母方の叔父、叔母が詳しく語って教えてくれたものなのです。

■爆心地直下に消えた母

 2歳半の私が被爆したのは、爆心地から1.8`の距離になる長崎市本原町3丁目にあった自宅でした。長崎市の地図で探すと十字架山の近くになります。その頃の私の家族は、両親と3歳上の姉と私の4人家族でした。もう一人私より1歳下の弟がいたのですが、この年の1月に肺炎で亡くなっていました。

 私たちの家はそれまでは長崎市の山里町にあったのですが、原爆投下の3日前、8月6日の日に何かの事情があって本原町に引越ししたばかりでした。

 父親はこの頃三菱造船の工場で働いていたのですが、8月9日のその日は工場を休んで、新しく引越しした家のいろんな箇所を補修したり、修理などをしていました。原爆の落ちた瞬間はたまたま近くの防空壕の中にいて、おかげで負傷などは負いませんでした。姉も父と一緒にいたおかげで怪我をしなくて済みました。

 引っ越ししてから3日ほど経っていたのですが、まだ家財などが元の家にそのまま残されていました。それらを運び出すため、母は母の従妹と二人で大八車を曳いて朝から山里町の元の家に行っていました。母と母のこの従妹とはとても仲が良くて幼い頃からいつも一緒だったようです。この山里町の元の家というのは、爆心地からわずか470m、爆心地と浦上天主堂、長崎医科大学とを結ぶ三角形の真ん中辺りの場所でした。原爆が落ちた時は丁度家財などを運び出す作業の真っ最中だったと思います。

 原爆が落ちて、午後2時頃だったそうですが、父は急いで母たちを捜しに山里町に駆けつけました。でも元の家のあった一帯は、ほとんど原爆投下直下で、とても言葉では言い表せない悲惨な状況だったそうです。そんな中を捜しに行ったのですけど、母も従妹も骨すら見つけることはできませんでした。

■右手右足に負った火傷と蛆虫

 8月9日はとても暑い日だったそうで、午前11時2分のその時、私はパンツ一つで上には何も着ずに、庭先で遊んでいました。我が家の引っ越し作業のために、たまたまその日は母方の祖母が手伝いに来てくれていました。庭先で遊ぶ私をすぐそばで見てくれていたんですね。

 突然、物凄い光と音と、風とに襲われたんですけど、光った瞬間に祖母が私の上に覆いかぶさってくれたんです。叔父の話では、丁度鶏が雛を抱くような格好やったということです。私はそのお陰で助かったわけなんですけど、それでも右手と右足とははみ出していたんでしょうね。右の手も足もひどい火傷をしましてね。重傷ということでした。

 薬も何もない頃で、治療も何もどうしようもなくて、火傷はしばらくそのまま放置された状態にされていました。暑い頃ですから、ハエが多かったんですね。そのハエが傷口に止まって卵を産みつけるんです。その卵が孵(かえ)って傷口から出てくるんですね。その時に肉を食い千切りながら出てくるもんだから、私は痛くて痛くてきつく泣いたようです。叔母さんが箸で一つひとつ蛆(うじ)をとってくれたらしんですけどね。もちろん私には記憶はないんですけど、その話はよく聞かされました。右手と右足の火傷は幸いにもケロイドとして残ることはなく、自然治癒していったようでした。それでも長い間、傷口はじゅくじゅくした状態が続いたようです。

 後年になって私の家族の罹災証明の記録を見ると、母が死亡、私が重傷で、父と姉については何も書かれていませんでした。この時の母の罹災場所が、長崎市山里町197番地と書かれてありました。

 私と一緒に被爆したお祖母ちゃんはそれから5年か6年は生き伸びることができました。背中の火傷がひどくてほとんど寝たり起きたりだけの毎日だったようです。家事も何もできないものですから、家の人たちには随分悪く言われていて、辛い晩年だったようです。

■幼い頃の長崎の街

 私たちは8月9日に母を亡くしていきなり3人家族になったわけです。私の父は五島列島の久賀島(ひさかじま)という島の出身で、祖父や父の兄弟たち6人もその島にいましたので、その年の秋口からそちらに行くことになりました。島にいた叔父がよく言ってましたけど、その頃の私はほとんど口を利かなかった、利けなかったらしいんです。それも原爆の影響やと思うんですけどね。精神的な影響が多分にあったんだと思いますね。

 その後、父が再婚したので、また長崎に帰ってきました。長崎では、竹ノ久保町とか、三菱造船所に近い水ノ浦町とか、2〜3ヶ所は転居しています。そうしながら私も長崎の街で育っていきました。

 子どもの頃の私の健康状態は特別悪いということもなく、寝込んだりするようなこともありませんでした。ただ、まだ小学校に上がる前頃だったと思いますが、突然背中にまるでムカデに刺されたようなピリーっとした痛みが走ることがありました。医者からは被爆と関係あるのかなー、と言われたことがあります。その後も大きな病気はしてきませんでしたけど、肝機能がよくないとは言われ続けてきました。

 小学校4年生の時「検査に来い」と言われて(おそらくABCCだったと思いますが)行ったわけですが、それは当然私が被爆者であると分っているから指名して「来い」となったわけです。なのに、その後1957年(昭和32年)になって施行された被爆者医療法で被爆者手帳が交付される時には、こちらが申請しないと発行されない、しかも証人が3人以上いないと認められない、というしくみでした。随分理不尽な、おかしな話だと思いましたね。

 長崎で過ごした幼い頃の情景で、特別印象深く心に残っていることが二つあります。一つは、私が4歳か5歳の頃だったと思いますが、父親に手を引かれて街中に行った時のことです。街はほとんど掘っ立て小屋ばかりで、屋根のない市場のようなところでした。たぶん季節は秋だったと思います。陽がさんさんと照っていて、その中で柿の実が山のように、いくつも積まれている情景が強く記憶に残っているんです。

 もう一つは、長崎から20kmほど離れた大村にしばらく住んでいた頃のことです。大村は戦争中海軍の飛行場があったところですが、そこはいつまでも戦争の跡が残されていたようなところでした。飛行機の格納庫、大きな建物などが戦争が終わった時のままの状態になっていました。重油が残されていた砂浜には防毒マスクがそこかしこにいくつも転がっていたりと。夏の草むらの中には飛行機がそのまま放置されていて、その上に登って遊んだり、防空壕に自由に出たり入ったりしていた記憶もあります。

 ああした情景や記憶から、長崎の復興には随分時間がかかったのではないかと、何故か思ってしまいます。

■名古屋から京都へ

 中学校卒業までは長崎でしたけど、高校からは事情あって名古屋に行って一人で寮生活をしました。大学も名古屋にある大学を卒業し、一年ほど名古屋の高校で教諭を勤めた後、京都の学校に就職しました。最初の3年は伏見区藤森にある聖母学院の小学校で、その後は宇治市等の小学校教員を勤めることになりました。

 被爆者が差別を受けることとか、そういう話はよく聞きましたけど、幸いにも私にはそういうことは一切ありませんでした。妻にも、結婚する前に、私が被爆していることはちゃんと話しました。断られないで、ちゃんと結婚してくれました。私たちの結婚は1969年(昭和44年)です。

■従弟の白血病

 私が幼い頃よく面倒見てくれた人の一人に父方の叔母がいました。この人は長崎の稲佐町にいて被爆した人です。かなり遅くなってから結婚し、1950年(昭和25年)に子どもが生まれました。私の従弟になります。従弟は大きくなってから大阪に出て仕事に就いていましたが、しばらくして体調を壊し、また長崎に帰りました。40歳の時でした。

 体がだるく微熱が続いていて大阪の病院では原因が分らない、原爆の関係かもしれないので長崎の病院で診てもらった方がいいということでした。長崎に帰ってから診察を受けると、白血球の数が非常に少ないと診断され、それから1年と少しで亡くなってしまいました。白血病でした。

 彼は5人兄弟の長男でしたが、こういう病気を発症して亡くなったのは彼一人だけです。彼は被爆二世だったわけですが、身近にこういう例もあったので、私たちは今も尚不安を抱えて生きています。

■被ばくして苦しんでいる人を助けあう運動にまで

 今も一年に一度は長崎に行っています。親戚も多いですし、退職後は小・中学生と共に長崎まで行くこともあります。また、被爆者団体の長崎訪問などでは付き添いや案内役で行くこともあります。

 教員を退職してからは被爆体験を語る機会も増えてきました。先日は、宇治市の三室戸の“9条の会”で被爆体験を語りました。「2世・3世の会」のように被爆体験の掘り起こし活動を積極的に行なわれているみなさんには申し訳ないなあと思いながら、求められる機会があった時だけお話しするようにしています。本当はもっと積極的にやらなければならないんだろうけれど、体験はしてるけど記憶がないということが壁になって、そこが難しいところですね。

 被爆した時の様子をいろんな機会に話して、悲惨な実態をみなさんに知ってもらって、二度とこのようなことのないように、とまでは行くんです。だけど、本当はそれだけで終わってはいけないと思うんですね。被ばくによって今もまだ苦しみ続けている人がいる、それをみんなで助け合っていこう、というところまでいかないといけないと思います。

 ところが、そこまではなかなかいってないと思うんです。核兵器も原発も、反対運動を頑張ってやることも大切だと思いますが、現に被害に遭って、苦しんでいる人たちに対して、むしろ助け合える活動に力を入れていくことがより求められているように思います。なかなか難しいことだとは思いますけど。


夫・巧さんと歩んできた妻・美智子さんのお話し

■兄弟姉妹たちとの約束

 結婚する時私の家では、相手が広島の人、長崎の人だったら被爆してるかもしれないので、きちんと検査を受けてもらって、大丈夫かどうか確かめてから、などと言われたのです。私自身は「大丈夫であろうとなかろうと、そんなこと関係ないから、どうであっても絶対に結婚するから」と強く思っていました。

 でも、私の父は気になっていたみたいです。私にも母はいなかったので、父は私の兄弟姉妹たちを集めて、家族全員で話し合いをしてくれました。その時兄弟姉妹たちは、もしも私の子どもが生まれてきた時に、原爆と関わりのあるような病気があったら、みんなで助け合っていこうね、と約束してくれたんです。

 結婚する時には私も夫の叔母さんから、被爆のことについていろんな話を聞かせてもらいました。原爆のもたらした悲惨な状態のこともいっぱい聞きましたけど、自分の夫になる人が、小さい頃どんな生活をしてきたのかも聞かされて、感じることがたくさんありました。私などとは全然違う環境の中で育ってきたんだなあと思いました。2歳半で母親を奪われて、顔も覚えていないんですよね。親戚に預けられていた生活も長かったようですし、肩身の狭い思いもして、随分苦労して育ったんだなあと。

 この叔母さん達は夫を我が子のようにして本当によくしてくれたようです。結婚相手となった私も娘のようにしてもらいました。

■二人の子の出産後に教職に挑戦

 私は結婚した時には聖母学院の事務職員をしていました。結婚して二人の子どもを出産したその後、30歳になってから大学に入り、教員資格を取得して、宇治の教員採用試験に受かって小学校の先生になったんです。子どもが二人もあって、主婦で、学生もやり、毎朝二人の子を保育園に預けて、送り迎えして、大変な生活でしたよ。

 夫は被爆しているので先々どんなことが起こるか分らない。それを考えると、男女の差別なく生計を立てていけるような職業を持っておくのが必要ではないか、と夫婦で話し合いをした上でのことでした。結婚した時に二人で強く意識していたのは、被爆との関わりで夫に何かあった時のことを考えて、生涯設計を考えておかないといけないということでした。

 小学校の教員になることができて、落ち着いてから3人目の子どもが、2人目からは一回りも歳が離れて生まれました。子どもは男の子ばかり3人ということになります。子どもたちには2度ほど被爆二世健康診断を受けさせたことがあります。でも全然“2世”という意識はないようですけど。

■家族の健康を守るための食生活を

 私が通っている伏見区で開業医をされている堀田忠弘先生というお医者さんがあります。その先生から聞いた話ですけど、長崎の原爆で被爆したお医者さんや看護婦さん達が70人ほど、食べもの、玄米とか味噌とか、そういう食生活を徹底されて生き延びられた実例があるとか。

 堀田先生は高次元予防医学をされている先生で、『体と心から毒を消す技術』といった著書やDVDも作成されている方です。まず病気にならないような体を作りましょう、食べものから放射能を取り去りましょう、農薬も取り去りましょう、それから食事にとりかかりましょう、と提唱されています。私はできる範囲でそれを実践するようにしてきました。玄米食を摂りましょうとか、それが難しい場合は五穀米にするとかね。

 私のできることはまず家族の健康を守ること。夫が被爆していることもありましたが、実は私の三男がアレルギーがひどかったので、この堀田先生にいろいろ教えてもらいました。まず体を治さなあかん、体の中から治していこうとね。もう15年くらいやっています。三男は今32歳ですが、アレルギーはすっかり良くなりました。私の家では日常生活からやってきたことで、子どもたちにもそれを教えてきました。今はがんに罹る人が増えている時代、それを食い止めるための生活をしていかないといけないとすごく感じています。

 福島の人たちも、もし被ばくしていたら、こういう食べものを食べるように気をつけて、それで随分体が癒えるのではないかというお話しでした。放射性物質も含めて、すべての人間の体には入れてはいけないものを取り去りながら調理し、食事していくことが、今すごく大きな課題のように思います。

 原爆、原発、放射性物質の影響だけでなく、様々な要因、原因から今本当に“食”が危ないと思います。こうした先生からのアドバイスも大切にしながら生活していく必要があると思っています。

了     


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