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●被爆体験の継承 33

広島で被爆して−原発事故と放射能−

芦田 晃 さん

 芦田晃さん(福知山市在住・89歳)が2011年8月6日「戦争と平和について学ぶ六人部(むとべ)のつどい」でお話しされた内容を、京都「被爆2世・3世の会」会報で紹介させていただくことにしました。

■付記

 2011年8月6日(土)、福知山市長田段の法林寺で、第一回「戦争と平和について学ぶ六人部(むとべ)のつどい」が開かれました。この「つどい」で、私が「広島で被爆して−原発と放射能−」と題してお話ししたものがこの文章です。

 時間が限られていたため、お話ししようと思っていたことが十分できませんでした。今までにも何度かお話ししたものではありますが、まとめて記録したことがありませんでした。

 今回「つどい」でお話ししたものを文章化して、語り残したものを今後補っていきたいと思っています。

■原爆 許すまじ

 福知山市多保市(とおのいち)に生まれ現在も多保市で生活をしています。今日は顔見知りの方が多いのでうれしいようなはずかしいような気持ちもしております。そして地元でお話するというのは初めてのことなので緊張もしております。

 暑い日が続いています。去年の日記を見ますと、炎暑とか酷暑とか書いておりまして、猛暑日が8月5日は全国で177ヶ所あったと書いておりますので、去年の方が暑かったのかなという思いもしております。

 最初に「原爆 許すまじ」をみんなで歌います。従前にはよく歌ったのですが、最近は歌わないのでご存じでない方もおられますけれど、私について歌ってください。


原爆 許すまじ

ふるさとの街やかれ

身よりの骨うめし焼土に

今は白い花咲く

ああ許すまじ原爆を

三度許すまじ原爆を

われらの街に


(浅田右二 作詞、木下航二 作曲 以下四まで、略す)


 「原爆 許すまじ」の歌ですけれど、私は66年前ですが秋深まったころに広島に行きました。その時に、広島は70年間は草木が生えない、人は住めないといわれていたのですが、瓦煙の中に白い花が咲いていました。たぶんドクダミの花だと思うのですが、こんな花が咲いているなとびっくりしました。あの灼熱の原爆のなかでも生きておったので、ドクダミは強い花だと思ったことを覚えています。

 私は大正末期の生まれです。昭和をまるまる生きて、そして平成も23年です。80代も半ばを過ぎたわけです。よくぞ今まで生きてきたかとの感慨があります。

 当時、広島では死ぬのが自然だ、生き伸びるのは不自然だといわれていました。生きているのはほんとうに少しの偶然に過ぎないのだ。そういうふうにいわれていました。そういうなかでこうして八十半ばまで生きたということは本当にありがたいことだと思っています。

■原爆資料館に遺された中学生の上着の前で

 私は去年の10月に広島へ行ってきました。久しぶりの広島なのですが、学生時代に一番汽車賃が安かった和田山から播但線に乗って姫路で山陽本線に乗り換えます。各駅停車に乗ったのです。

 福知山駅を朝の7時に出て昼からの2時半、7時間半ほどかかって広島駅に着きました。平和公園の近くに宿屋を取っていたのですぐに平和公園の中の原爆資料館を訪れました。その二階に被爆した人の遺品が展示してあります。

 前に聞いた話ですが、そこに中学生の上着があります。その上着を寄贈したお母さんの話を直接ではないのですが、聞きました。中学生は8月6日に市内で建物疎開に出ていました。8月6日は月曜日でした。その頃日本はB29の絨毯爆撃という焼夷弾を雨のように降らして焼き払って行く、そういう時だったのです。だからできるだけ火災を防ぐというので50メートルほどの何もない部分をつくるのです。

 建物疎開というのですが、疎開というよりも破壊です。柱を鋸で切り、ロープをかけて引っぱり倒していくという乱暴な作業です。その作業に中学生が出ておりました。そして被爆したのです。

 炎と煙の中を自分の家に帰ろうと目ざしました。郊外のはなれた家だったらしいです。家路をたどるというのはなにか心なごむ言葉なのですが、その中学生の一刻も早く家に帰りたい、家族に会いたいという気持ちを思うと切なくなります。夕方になってやっと自分の家にたどり着きました。出迎えたお母さんに明日は学校を休みますから欠席届けを出してくださいといって倒れこんだのです。

 そして夜明けを待たず息を引き取りました。

 私は8月6日の月曜日の前の週にその建物疎開に出ていたのです。その中学生は私と交替で月曜日から建物疎開に出ていました。その小さな名札のついた上着を前にして私はしばらく動けなかったのです。身代わりになった若い命を思っていました。

2012年原爆死没者慰霊式典
2012年原爆死没者慰霊式典

■原爆と重なり合う原発事故

 ところで、私たちにとりましてはこの春は本当に忘れられない春になりました。東日本大震災、あの一瞬にして消えた町並み、一発の原爆で廃墟となった広島と重なります。

 私は原爆が投下された6日は工場にいました。そして爆風で飛ばされましたが、怪我もなく広島市内で死体の片付けなどをしたのですが、その時に見た広島の光景。10数万人が亡くなりましたが、折り重なる死体こそなかったのですが、微塵に破壊された日常に声も出ません。

 こんな川柳が新聞にありましたので書いておいたのです。私は川柳はやったことはないのですが、中には端的に表現しているものがあります。「大地揺れ波が襲って町消える」「手加減を知らぬ自然の恐ろしさ」「泣いていられない、でも泣けてくる」というものです。

 瓦礫の中を這うようにして家族の遺品を探しておられる女性の姿がありました。泣いても泣いても泣けてくるといっておられましたが、ほんとうに胸に迫ってきます。

 そして大地震、大津波に加えて原発の災害が加わりました。

 私たちが利用している原子力は一歩間違えば大爆発を起こします。しかし、通常の状態でも危険な放射能物質を作りつづけています。

 14年前に出された『原子力と共存できるか』という本をたまたま読んだことがあります。今度も取り出して読みました。京都大学の原子炉実験所の助手と書いてありました。やはり当時は原発推進のなかでああいう本を書く人は傍系として助手でおられたのかと思うのです。

 その人の本に書いてあります。40種類ほど放射性物質を作り続けているのです。放射能が半分になるという半減期は2秒とか5秒とか1分とかのが15種類ほどありますが、そしてそのほか今問題になっているセシウムは一番短いものは13日ぐらいらしいですが、ちょっと長いのになると30年になり、最も長いプルトニウムは2万4千年の間放射能を出し続けています。

 半減期が長いというのは放射能を出す量が少ないのでしょうが、原子炉の中ではそういう物質を作り続けているのです。もしも運転中に大事故が起きたらそれらの物質が大気中に飛び出していきます。

 もしもでなく福島のように、過去にもアメリカのスリーマイル島があります。スリーマイル島というのは近くに飛行場があったので、飛行機が墜落しても大丈夫なようにと鋼鉄で非常に頑丈に作ってあったらしいので、わりあい放射能漏れが少なかったようです。ロシアのチェルノブイリはヨーロッパ全域に被害を与えており、日本でも影響があったと聞いています。

 ああいう事故があっても、原発を推進している人は日本は大丈夫なのだ、絶対大丈夫なのでああいう事故は起こることはないといっていました。

 これも川柳ですが、「杞憂だと笑い想定外と言う」というのがありましたが、杞憂というのは、中国の杞という国の人が天が落ちてくると心配したという取り越し苦労という意味です。

 この間の新聞に原発を推進してきた関係者が「当時は最善の知識、最良の技術でベストなものを作ったのだ、そういうように確信していた」と、「だから今謝罪するつもりはないんだ」といっていました。

 周辺住民の生活を根こそぎ奪い、そして国民に心配をかけ、迷惑をかけてきて全然心が傷まないのか。そして放射能の被害の実態を一番知っている我々被爆者も原子力の平和利用、原子力はうまく使えば医療にも役立つし、発電もできるのだと、この平和利用という言葉で積極的に今まで反対してきていません。そういうことの反省もあります。

■広島造船所で光を浴びる

 私の被爆体験を話したいと思います。私は今から66年前の8月6日、広島造船所という所におりました。学徒動員ということで大学3年生(広島高等師範学校)だったのですが、前の年の昭和19年に学徒動員法ができて満15歳以上−中学3年生以上は、日本はこういう状態で学校で勉強している時でない、志願して軍隊に入るか軍需工場で兵器の生産に励むかということで、工場に出るか、少年兵に志願するか、そういうふうな時だったのです。

 私は造船所におりました。当時、造船所では船は全然造っていません。従前は一万トン級の大きな貨物船を造っていました。私は鉄板に穴空けの作業をしていました。その鉄板も入らなくなりました。瀬戸内海はB29が機雷をたくさん落としたので大きな船が来るとそれに触れて沈んでしまいます。それで長崎から鉄材を運んでいましたが、それが入らなくなくなりました。昭和20年には農機具などを作っていました。

 私は大きな鉄骨の工場の中におりましたが、その時はよくは知らなかったのですが、人間魚雷の外側の伜を作っていました。8ミリぐらいの薄い鉄板を曲げる仕事をしていました。人間魚雷は前の半分ほどは爆薬を積み、人間が一人か二人乗ります。潜水艦から発射して敵艦に体当たりするという特攻兵器です。

 8月6曰、宮島から連絡船で造船所に行き、着いたら朝の準備体操、それが終わるか終わらないかで空襲警報のサイレンが鳴り、屋上のスピーカーから「敵機数機豊後水道を北進中」と放送。放送があったのですぐ私は防空壕に逃げました。

 今まで広島は全然空襲がなかったのです。今日も大丈夫だろうと思いつつ、それでも空襲警報ですから防空壕に入ったのですが、しばらくすると解除になりました。やはり今日も大丈夫だったということで工場の仕事にかかったのです。

 しばらくすると工場の北側がぴかっと青白く光りました。何だろうと思いました。写真のマグネシウムフラッシュを何十となく焚いたような感じだったのです。電気のスパークにしては大きすぎるという感じで、そう思う間もなくすさまじい爆風が起こり飛ばされました。爆風で何メートルか飛ばされたのです。

 これは工場が直撃弾を受けたと命からがら海岸の船台の下に潜り込みました。船台というのは船を組み立てる台で、その下に潜り込み次の爆撃はと息をひそめていました。工場の機械は止まってしーんとしていますし、少しも物音がしないのでおかしいなと思ってみんなでそっと出てみますと、あのきのこ状の大きな雲がまっ赤な炎をつつんですごい勢いでぐんぐんひろがっていました。

 これはアメリカのスパイが市内のあちこちに時限爆弾をしかけて一挙に爆発させたのではないだろうかというのが周りの人の話でした。しばらくすると夕方のように暗くなって土砂降りの黒い雨が降ってきました。これはかなわないとまた防空壕に逃げ込んだのです。

 それもすぐにあがりました。工場は屋外にいる人はちょっと髪の毛を焼かれた程度の熱だったようですが、ガラスの破片で傷を負った人が多かったです。ガラスの破片はすごいです。私の友だちも背中にいっぱいの、無数の破片が突き刺さっていました。

 私達の隊長の森滝市郎先生もぱっと光ったのでなんだろうと事務所の窓を見てガラスの破片が目に突き刺さってとうとう片眼を失明されました。そういう怪我人もたくさんおりますので工場から船を出してもらって宮島に帰りました。その晩は徹夜して看病しました。看病といっても手ぬぐいを濡らして冷やしてやる、拭いてやる程度でした。

■8月7日地獄の街

 次の日の7日は元気な者は工場へ行けということで連絡船に乗って工場に行きました。広島に近づくと死体が多く浮かんでいます。その死体もほとんど衣類を付けていません。造船所に船が近づくにつれてだんだん多くなりました。死体をかき分けるというと大げさなようですが、そんな感じがしました。

 工場に着くと、工場の中は昨日とは一転して怪我人でいっぱいでした。造船所は大きいので電気工場や木工場などいろいろありますが、病院もあるのです。病院というよりも診療所です。

 お医者さんが一人常駐していて看護婦さんが2、3人の病院の、軒下から廊下までいっぱいの怪我人なのです。市内から逃れてきた人で自分も怪我している看護婦さんが忙しくやけどの薬などを指で塗っておられました。赤いヨーチンや白い薬を塗ったので、赤と白の化け物のような顔をしていました。

 とにかく学校の様子を見てこいということで私ともう一人、ふたりとも柔道部なのですが、私は今はこのようにやせてやつれた人間になりましたが、当時食料もなかったですが、わりあいがっしりしていました。

 工場の北側にある小高い丘を越えると広島市内が一望できます。いつも見える広島城はもちろんありません。街路樹は一面だけ赤茶けています。川は死体で埋まっています。向こうから歩いて来る人は一点を見つめてとぼとぼと歩いて来るのです。顔がかぼちゃのようにふくらんでいます。そして、皮がむけて垂れ下がって、やけどの皮膚が触れ合わないように両手を持ち上げるようにして歩いています。

 広島は川が多く、一級河川が一番多い町です。だから橋がたくさんあります。その橋が目安で大学に行きます。橋の上にも死体が多くありました。中にはまだ息のある人もありました。小さい赤ちゃんを抱いたお母さんもいました。中には息をしている人が「水をください」、「熱い」、「助けて」とよわよわしいですが、それでも必死で呼んでいました。私にはどうにもできませんので急いで学校に行きました。

広島高等師範と同じ敷地内にあった旧広島文理科大学(被爆建物)
広島高等師範と同じ敷地内にあった旧広島文理科大学(被爆建物)

 あの惨状を見て日本は負けるのではないかと思いました。それまではいつかは逆転できるのではないかと思っていました。軍国少年として育ちましたから神風が吹いて日本は逆転できるのではないかと望みもありました。しかし、あの惨状を見て今度は割に被害が少なかった海岸方面が狙われたら確実に命がないと覚悟しました。

■語り続けねばならない

 今、福知山には被爆手帳を持っている人が19人います。被爆者の会を作っておりますが、私はその役員をしています。今度8月25日に毎年やっている総会をやります。19人おりますが、出席は今のところ8人です。去年は23人おりました。4人亡くなりました。

 こうして毎年毎年被爆者は亡くなっていきます。まもなく死滅していきます。あの悲しいむごい戦争の実態がだんだん薄れていきます。かき消されてくる、そういう思い、そういう焦りがあります。

 8月6日、8月9日それはわりあい知っている人もあるでしょうが、8月15日なると、もう知らない人が多いです。8月15日、終戦、敗戦です。敗戦ってどこと戦争したんや、戦争したことがあるんか、などということを聞いたことがあります。

 1・17は阪神淡路大震災、3・11は東日本大震災、9・11はアメリカのテロでした。8・15は忘れ去られるのでないかと思います。

 リトルボーイ、ファットマンという言葉があります。リトルボーイは広島に落とされた原爆の名前で、ちびっこという愛称です。ファットマンというのは太っちょです。愛称でいうのは抵抗がありますが、アメリカでいわれています。

 この二つの爆弾が広島と長崎に落とされました。人類の生存を脅かすその恐ろしさ、悲惨さを私達は語り続けなければならない。そういうことを痛切に感じております。

 倉嶋厚さんをご存じですか。気象庁を辞められてからNHKの気象の解説委員をしておられた方です。奥さんが亡くなられて自分も認知症になったりして、それも回復されたらしいですけれど、その人の言葉に「人間は大気の海の底に住む海底動物である」と言っておられます。

 天をあおぎ大地に人間がしがみついています。大地がちょっとずれて今度の災害が起きました。大気がちょっと揺れると暴風雨など大きな災害が起きます。科学技術がどんなに発達してもやっぱり人間の小ささは変わらないのではないかと思います。

 この前に亡くなられた小松左京さんも「人間は自然に対してもっと怖れというか謙虚でないといけない」ということを言っておられます。ただ科学技術は人間に災害を及ぼすことなく、もっと災害に対しても強くなってほしいという願いがあります。

■輝く憲法

 最後に平和の問題について話したいと思います。このごろ気になるのが日の丸、君が代の問題です。日本人だと当然だと、日の丸を掲げ、君が代を歌うことは当然だといわれます。これも川柳に「立て歌え、軍事教練現代版」というのがありました。

 日本人なら当然だという知事もおります。ああいうのを聞くと、戦争中のこの言葉を思い出します。「国賊」とか「非国民」。ひょっとしたら戦争に負けるのでないかというと、そんなことを言うと非国民だと注意されました。そういう社会になっていくんではないか。「日本の日の丸なんで赤い。帰らぬおらが息子の血で赤い」と、これは東北のある女性の詩です。

 今日の会に「原爆 許すまじ」を最初に歌いましたが、これからひょっとしたら公立の学校などでなくても、こういう集まりでも日本がこういう時代だと、「一億火の玉だ」という標語がありましたが、「国難に立ち向かわなければならない」と、何か集会をやるときにかならず日の丸をあげて君が代を歌ってから始めよとなるかも知れないと、危惧しています。戦争中に育った私にはそういう思いもあります。

 戦争が終わって文部省が出した最初の社会科の教科書にこういうことが書いてあるのです。

 みなさんの中には今度の戦争でお父さんやお兄さんを送り出された人も多いでしょう。無事にお帰りになったでしょうか。それともお帰りにならなかったでしようか。また空襲で家やうちの人をなくされた人も多いでしょう。今やっと戦争が終わりました。二度とこんな恐ろしい悲しい思いをしたくないと思いませんか。

 そしてもう一つ、憲法です。これも中学校の社会科の教科書に出ています。

 今度の憲法では日本の国が決して二度と戦争をしないように次のことを決めました。

 それは兵隊も軍艦も飛行機もおよそ戦争をするためのものはいっさい持たないということです。これから先日本は陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。放棄とは捨ててしまうということです。しかし、みなさんは決して心細く思うことはありません。日本は正しいことをほかの国より先におこなったのです。世の中に正しいことぐらい強いものはありません。

 これらは文部省の出した中学校の教科書に書かれていたことなのです。

 私は綾部で教師になってこの憲法の話を聞いたのです。本当にこんな憲法ができたのか、この憲法からいろいろな法律が出てくるということは、がんじがらめになってしばられていたあの戦争中の生活から解放されるのだ、何か胸の中がぱっと明るくなるような気持ちになったのを覚えています。

 今、憲法は輝いているのですが、世の中は揺れています。戦争が終わった時のあの気持ち、何にもなかったですけど解放感というか、明るいものを感じていました。これからがんばっていかなければならないと思ったことを思い出します。

■今も蘇るトマトの味

 話が長くなったのですが、もう一つ。原爆に遭ってそれから一週間ほどして広島ではなにもできないし、学校が再開される時まで家に帰って待てということで帰省命令が出たのです。

 その時には列車は動いていました。どの列車も満員ですが、私は炭水車 ― 機関車の次の石炭の積んである所に乗って姫路に着いて、播但線で、それから福知山にと、夕方に広島を出て昼に福知山に着きました。炎天下のなか歩いて多保市の家まで帰りました。

 江戸が坂になぜかトマトが一つ落ちていたのです。前の晩から飲まず食わずでした。トマトは一つだけ小石にまみれていましたが、養老水公園がすぐ近くですから ― そのころきれいな水が湧いていました。そこで洗い、小石を取って食べました。

 今でも思い出すのですが、身体の隅々まで力が蘇ったような感じで、こんなおいしいもの ― 食い物の恨みは一生つきまとうらしいですが ― 私は恨みではなくありがたさを今でも覚えています。

 今は食べ物が豊富でスーパーに行くと、食べ物がきらびやかにならんでいます。ありがたいと思うのですが、ありがたいとか幸せの感度が鈍くなっているかもしれません。あのトマトの味は、世の中にこんなにうまいものがあったのかと感じました。

■亡くなった被爆者に語れるように

 うまくまとめることができませんが、私はこうしてお話しできたということがささやかでも被爆者の勤めを果たすことができるのではないかと思っています。

 朝日新聞に「惜別」という欄があり、それに一月ほど前に癌で亡くなった二級後輩のことが載っていました。被爆者の会の代表委員をやっていて、元社会科の先生でした。学徒動員先の工場で被爆されたのです。私とは科も違い、学年も違うので面識はないのですが、その人の言葉に「私が死んで原爆で死んだ人に会って、あなたは今まで生きて何をしたのかと聞かれた時に、こんなことをしたと言いたい。」その言葉を支えに被爆者の団体の50年史をまとめられました。

 そして原爆症認定集団訴訟にずっとかかわってこられました。その人のことを新聞で読んでえらいなあと思うとともに、自分はどうなのかと今までこの年まで生きながらえてきたことをただ感謝だけしているのではいけないのでないかと恥じました。私は優柔不断というか、積極的な人間でないのでその人のようにはできませんけれども、こうしてお話させていただくことができたということがささやかでも勤めを果たすことができたのではなかったかと思っています。

 今日はほんとうにありがとうございました。



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