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●被爆体験の継承 35

夫の原爆症と裁判を支えて

丹羽万枝(かずえ)さん

2015年9月24日(木)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

 なにしろ被爆したのが6つの時でしてね、被爆してすぐに父親の遺骨を持って父親の里の呉市に行って、その後ずっと呉に住みついて育ったので、原爆のことといってもほとんど自分では覚えていないんですよ。呉は原爆とは関係なかったので周りでも原爆のこと話す人ほとんどありませんでしたからね。

 ですから、かすかに残っている私の記憶と、後々になっていろんな人からちょっとづつ聞かされたことだけが、私がお話しできることなんですよ。

■生まれ育った広島市小網(こあみ)町、天満(てんま)町

 私が生まれたのは広島市の小網町というところで、原爆が落とされた爆心地から西へ1キロメートルの方になりますかね。6歳の時までそこで暮らして、育ってたんですけど、原爆の落ちる間近になって、川(天満川)を挟んだ向かい側の天満町に引越ししたんです。あの頃、小網町の家のあった一帯が全部立ち退きになって、建物疎開というもので、家は壊されることになったので、すぐ近くの天満町に引っ越すことになったんですね。橋を渡って引っ越していったことは覚えているんです。

 私の家族は、父と母と、長男、次男、長女、三男、四男、そして私が末っ子でした。

 原爆の落ちた頃、長男は兵役についていて家にはいませんでした。次男は兵隊に行ってたんですけど、2〜3年前に病死でもう亡くなってました。長女は家からの通いで日本発送電中国支店という電力の会社(今の中国電力)に勤めてたんです。三男は兵隊ではないんですけどあの頃満州に行ってました。四男は当時の中学生でした。

 私は昭和14年4月20日の生まれで、原爆が落ちた時は6歳で、まだ小学校に上がる前。幼稚園にも行かず、毎日家に居たんですね。次男が亡くなってて、長男と三男は兵隊と満州に行ってたわけですから、あの頃我が家で一緒に住んでたのは5人やったわけです。

現在の天満川
現在の天満川
■猛火に追われて鉄橋の上を逃げる

 8月6日のあの日は、父親は仕事で外に出かけてて、長女も勤めに出ていて、中学生の四男も学徒動員で朝から出かけていたんです。家には私と母親だけが残ってたんです。

 近所のおばあさんがうちの家に孫を連れてきてはって、私が大切にしてた自分の市松人形をそのお孫さんに見せてあげようと思って、奥の部屋から持ってきて、玄関で見せている時。その時にピカッと来たんです。

 家は潰れてしまって、私らみんな生き埋めになったんです。母親はなんとか自分で立ち上がって、私の名前を必死で呼んでくれたみたいです。どこかで私の声がするんで、一生懸命探して、掘り起こしたと言ってましたね。たまたまうちに来ていた近所のおばあさんも孫を見失って、一生懸命さがしてはりましたけど、そこに私の父親が帰ってきて、「はよ逃げんならん」、「火が迫ってくるから」と言うので、そのまま逃げたんですわ。

 私が大切にしてた市松人形は誰かからもらったものやったんですけど、とても気にいっていてね、あの人形どこいったんやろと、いつまでも子ども心に思ってました。

 長女は勤め先で被爆してそのまま亡くなったんやと思います。何も分からないまま、遺体も遺骨も何も分からないままになってしまいました。学徒動員で出かけていた四男もどこで亡くなったのかも分からずじまい。長女と同じように遺体も遺骨も分からないままになったんです。

 父親はどこかに出かけていて、どこで被爆したのか知らないんですけど、母親と私のことが心配で一生懸命家に帰って来たんです。全身火傷でしたから爆心地に近い所にいたんだと思います。それでも我が家に帰り着いて。その時の格好は服もまともに着てないような、もうボロボロの格好でした。

 それから火に追われるようにして逃げたんですけど、私もどこをどうやって逃げたのかはっきりは覚えてないんです。後になって聞かされた話が多いんですけど、とにかく父親と母親と私が3人一緒に逃げたんです。川を渡って、また次の川も渡って逃げました。普通の橋じゃなくてね、路面電車専用の鉄橋のような橋を渡ったの覚えていますわ。枕木みたいのを踏みながらね、下の川が見えるような橋でした。私はまだ小さかったので「おぶって」と言うと、父親が「背中も全部火傷してるから無理や」と言って、母親もおんぶできないから、3人一緒に手をつないで鉄橋渡ったの覚えています。

参考写真 山手川鉄橋を渡る路面電車
参考写真 山手川鉄橋を渡る路面電車
■父の遺骨を抱いて呉市仁方(にがた)へ

 逃げた先は草津(広島市の西方向)というところでした。父親がそれまでいろいろとお世話してあげてた人があって、その知り合いの人のところをとりあえず頼ったんです。父親は全身火傷してましたからね、そんな人を家にあげたり、布団出して寝かせたりするの、その人も嫌やったでしょうけど、とにかく一晩そこで過ごさせてもらいました。

 草津の国民学校が救護所みたいになってて、講堂みたいなところに被爆した人みんながたくさん寝てはりました。父親も、薬も何もないので、そこへ行け言われて、7日の日からはそこに行くことになったんです。

 そこでは被爆で火傷した人に油が塗られてたんですけど、その油の匂いがものすごく臭くてね。人もどんどん亡くなっていくし、なんともいえない臭いでいっぱいになってましたね。その臭いと言うのが、いつまでも鼻についてね、大人になっても、昔は京都のここらあたりでも工場があって時々臭いがしてきてたんですけど、その工場の臭いを嗅ぐと、あの時の草津小学校の臭いを思い出してしまうほど、いつまでもいつまでも、その臭いの記憶が残って行きましたわ。

現在の草津小学校
現在の草津小学校

 父親は草津の国民学校の救護所で2日ほど生きてて、8日の日に亡くなってしまいました。学校の運動場の広い所に穴掘ってね、そこへ死んだ人順番にずらーっと並べて焼かはったんです。母親が骨を拾う時に、「お父さんこっち向けに寝させたのに、頭が反対になってるわ」などと言ったの覚えてますけど、それだけたくさんの人を並べて焼いてたので、区別つかなくなって他の人の骨拾ってたのかもしれませんね。そんなこと言ってたの覚えてます。

 草津で父親の遺骨を箱に入れてもらって、それを持って父親の実家のあった呉に向かうことになったんです。母親と私の二人っきりになってしまって、着のみ着のままで、草津から汽車に乗って呉に向かったんです。呉が父親の実家ですし、里ですし、母親も自分の里へは父親の遺骨を持って帰れんもんやから。呉の仁方(にがた)という、やすりが名産の所なんです。父親の兄弟たちがいて、そこで厄介になることになったんです。

■戦争を生き残った3人兄弟と母

 戦後は父親の実家の呉で生活を始めたんですが、その内に三男の兄が満州から引き揚げてきて、それからは結局三男と母親と私との3人で暮らすようになったんです。三男は地元の銀行に勤め先を見つけて、母親と私とをずっとみてくれました。私たちは6人兄弟でしたけど、戦争で結局生き残ったのは長男の兄と三男の兄と私の3人だけになったんです。

 その後私は、呉で小学校に上がり、中学も卒業し、高校も出ました。高校卒業後すぐに長兄を頼って大阪に行き就職しました。4〜5年後に結婚して、その後すぐに今の京都の家に引越ししてきたんです。

 私の母親は73歳まで長生きし、最後も三男にみてもらって亡くなりました。

 母親を看取った三男は銀行を定年までは勤めたんですけど、肺がんや胃がんに罹ったりして結構早く亡くなってしまったんです。私は早くから親元を離れて就職したり結婚しましたけど、三男の嫁(私の義理の姉)の方は長く母親と一緒に暮らすことになったんですよ。母親の被爆の時のこともいろんな話を聞いてて、よく知ってました。「お義母さんがこんなこと言ってたよ」とか「あんな話してたよ」とか。幼い時だけの私の記憶なんかよりよっぽど詳しくて、私の話もこの義理の姉から聞いた話が結構多いんですよ。その義理の姉ももう亡くなりましてね、被爆のことを聞く人がもう誰もいなくなったんです。

 長男の兄は結構長生きしたんですが、それも7年前に亡くなって、ほんまに残ったのは私だけになりました。

■結婚の時求められた健康診断書

 私たちが結婚する時、私が被爆してること、主人はなんとも思っていなかったんですけど、主人のお母さんはそのことを物凄く嫌ってたんです。結婚する時、普通の病院じゃなくて、大学病院とかそんなところで検査してもらってちゃんと診断書持って来るようにって言われたんです。その頃私はまだそんなに大阪のこと詳しくないし、兄嫁に当たる人に連れてってもらって大阪医大やったかどこかにいって検査してもらって、診断書渡しましたけどね。主人は何も言いませんでしたけど。私もまだ若かったし、何も分からへん頃やったしね。

 その後も主人のお母さんは私が広島の出身やということ、ずっと近所にも周りにも隠すようにしてはったんです。実はお隣のおばあちゃんが広島出身の人で、そのことをお互いにずっと知らなかったんですけど、お義母さんが亡くなってから同郷だということが分かって、それからやっと故郷のことをよく話すようになったんですよ。

 結婚した時はなんともなかったんやと思いますけど、でも私は若い頃から心臓が良くなくて、ずっと京都の第一日赤にかかってきたんです。狭心症と言われてね。たまにしか発作は起こらなかったのやけど、病院まで薬貰いにいかなならんし、時間はかかるし、子どももいるし、大変やったんですね、それで心臓外科の先生に「この薬いつまで飲むんですか」って聞いたんです。そしたら「あんた200年も300年も生きへんやろな、生きてる間中飲んどったらええんや」って言われて、こらずっと飲んどらなあかんのかと、初めて知ったんです。

 人間ドックだけはずっと行くようにしてて、それから若いころから貧血もありましたけど、それ以外はまあまあ元気でした。

 ところが平成9年頃に耳の手術して、平成10年には乳がんの手術して、心臓の発作は一年に何回かしか起きてへんかったのに、ひと月に2〜3回も起きるようになって、先生からカテーテルせなあかん言われて入院したんです。それから腸から出血して、虚血性腸炎言われて、その時も入院して、全部で4回ぐらい入院したんです。

 その後はまあまあ元気でやってますけどね。今はひざが痛むんですよ。軟骨が減ってるって言われて、手術が一番早いって言われるんですけど、手術した人でも余計痛くなってる人もいますし、また1ヶ月も2ヶ月も入院したら歩けへんようになるんと違うかと思うと、もう一つ踏み切れへんでいます。

 被爆者手帳はいつとったのか記憶がないんですよ。京都に来てからだとは思いますけどね、若いころから持ってましたから。健康管理手当をもらうようになったのは記憶があるんですよ。和田クリニックで診察受けた時、そこの先生から手当もらえるようにとアドバイスしてもらって、医師の意見書も書いてもらったんです。

* * * * *

 京都原水爆被災者懇談会からは昔から総会やクリスマスパーティやいろんな行事の案内もらってましたけど、ずーっと行ってなかったんですよ。京友会にも入っていて、そっちも行ってなかったんです。ある時から初めて一人でクリスマスパーティに行くようになって、それ以来ですね、おつきあいは。



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