ロゴ4 ロゴ ロゴ2
ロゴ00

●被爆体験の継承 4

私の被爆体験

小野 忠熈(おの ただひろ)さん

2013年3月26日(火)聞き取り
京都「被爆2世・3世の会」で聞き取り、文章化

小野 忠熈さん・貞子さんご夫妻
小野 忠熈さん・貞子さんご夫妻
■生い立ち

 私は、大正9年(1920年)1月1日生まれ、今年93歳になる広島での入市被爆者です。香川県の生まれですが、大正末期の経済不況で父の事業が傾き、坂出(さかいで)の田畑や家屋敷などを売り、5歳のとき、父の恩師の紹介で祖母と両親や妹と広島県世羅(せら)郡の東村(現在は世羅郡世羅町)に移り住みました。絵を描くのが好きな身体の弱い少年でした。

 「絵描きになりたい」と美術学校の受験をめざしていた頃、結核を発症しました。東京の武蔵野美術学校に合格しましたが、将来の生活を心配した家族らの反対で入学を断念、一時は人生に絶望し、肺と心を病むほどに悩みました。

 入退院を繰り返しながら、療養生活を続けていた頃、主治医の紹介で甲山キリスト教会に赴任してきた中八郎牧師との出会いが人生の大きな転機となりました。

 自分が悠久無限の大きな自然力に生かされていること、「今」やるべきことに全力をそそぐことの大切さに気づき、健康になることに専念しているうちに、「地理と歴史」の教師になろうと思うようになり、奈落のどん底から這い上がることができました。

■戦争末期

 京都の立命館大学に在学中に、身体が弱かった私にも赤紙が来ました。昭和19年3月、丙種合格の私も陸軍二等兵として、郷里香川の丸亀陸軍歩兵連隊に入営しました。

 その頃、身体の弱い者から戦線に送られていましたので、絶対に生きては帰れないと覚悟していました。生きて帰ることをあきらめ、率先して訓練を受けるうちに身体が幾分丈夫になり、熱も出なくなりました。

 3ヶ月間いて一時帰郷となり、1週間後に再招集されるとのことでしたので、毎日、明日来るか、明日来るかと待ちながら暮らしていました。その頃、県立世羅中学校の恩師から故郷の中学校の非常勤講師になってほしいと要請され、世羅へ帰ってきました。戦争末期、25歳のときでした。

 世羅中学校では、先輩の先生方は学徒動員の上級生を引率して、呉の海軍工廠や尾道の造船所に泊まり込んでいました。若い私たち教員は、下級生をつれて出征軍人の家など、農家の勤労奉仕に明け暮れていました。学校では、毎朝、授業前に職員会議が行なわれていました。

■8月6日

 昭和20年(1945年)、8月6日の朝、職員会議をしていたとき、「ドーン」という音と振動が校内に走り、身体が揺れました。近くの石切場の発破音だろうと思いました。会議はいったんストップしましたが、その後、続けられたことを覚えています。よく晴れた日でした。

 夕方、生徒たちの寄宿舎として寄託していた修善院というお寺に帰ると、知り合いの娘さんが広島市内から血みどろになって帰ってきました。広島に爆弾が落ちた、ひどいことが起こったらしいという噂が広がりました。

 その日かあくる日のうちに、消防団、在郷軍人会、青年団の人たちが、各戸から梅干しやいろんな物資を集めて、広島市内にトラックで救援にむかいました。

 1日、2日して救援から帰ってくる人のなかには、身体の調子が悪いと不可解な症状を訴える人もいました。当時、爆弾の名前を知りませんでしたが、みんな、ピカドンとか特殊爆弾とか言っていました。

■広島市内へ

 知人から父に「あなたのところの娘さんが日赤病院にいる」という電話連絡があり、父が私に妹の智恵子を助けに行けと言いました。妹は従軍看護研修生として広島市内の日赤病院に勤務していました。

 8月8日、国民服を着て、ゲートルをまき、鉄かぶとを背中に負い、世羅中学の教え子から託された茹卵(ゆでたまご)と母がつくった沢山の焼きむすびを入れた雑嚢(ざつのう)を腰につけ、出かけました。

 三川駅まで自転車で行き、福塩(ふくえん)線でいったん北にあがり、三次駅で乗り換え、芸備(げいび)線で広島に入りました。

 列車の窓から見える民家では、昼日中から蚊帳をつっているのが見えました。身体を動かせない被爆者にハエがたかり、ウジがわくのを防いでいたのだということを後になって知りました。道路には、竹や棒切れをささえに、疲れ切って三次方面に向かってふらふらと歩いていく婦人や中学生、女の子など被災者の姿が見えました。

 広島駅に入る前、車窓から、ビール工場のある低地帯の池に蓮の葉がしげっていて、爆弾の影響でしょうか、褐色の斑点がいっぱいついているのが見えました。

■焼け跡

 広島駅は構内の天井の壁も落ちていて、駅の玄関から広島湾に浮かぶ三角形の似島(にのしま)が見えました。焼け跡は一面瓦礫の原で、電信柱が炎をあげて燃えていました。ところどころに鉄筋コンクリートの広島文理科大学や福屋百貨店などのビルの残骸、橋が見えるだけでした。

 負傷した人をのせた担架が行き来していました。皮膚が焼けて垂れ下がり、衣服が溶け落ちた人々が、苦しそうにうずくまっているところもありました。だれも声を出さず、何も音がしない、バリバリと電信柱の燃える音が聞こえました。

 道路には燃えこげた電線が落下していて歩きにくいため、家の焼けた跡の瓦や土、灰のあるところを歩きました。視野も広く、駅から日赤まで最短距離で行けました。死体にトタンをかけたのがころがっていました。いたるところに死んだ人をとりのぞいた跡の土が黄黒く、点々と残っていました。

■妹と会う

 やっとたどりついた日赤病院の前の広場には、避難してきた市民や兵隊がいました。上半身がどろどろの背中にはウジが動いていました。頭や顔にウジがいるのにそれをとろうともせず、うずくまっている人もいました。廊下は手当を待っている人で足の踏み場もない状態でした。私は人を踏まないように進みました。病院の2階の病室で妹に会えました。

 妹は、木造の寄宿舎がつぶれて、落ちた天井裏から這い出して助かったそうです。ガラスの破片が体中に刺さっていました。かかっていた赤痢が治ったばかりでしたが、動ける者はみんな介護せよとのことで、看護にあたっていました。持って来た茹卵と焼きにぎりを皆さんに配ると大変喜んでくれました。妹にはかわいそうでしたが、「がんばってやれ」というのが精一杯で、連れて帰ることはできませんでした。

■帰り道

 その帰り道、日赤から電車道を紙屋町に向けて歩きました。紙屋町の交叉点に行く途中、鉄筋コンクリート造りの銀行があり、玄関付近の石壁に人の影が残っていました。焼けた市街地の水道の蛇口から水がふいていて、そこへ死体が集まっていました。赤ん坊や白骨の死体があり、半焼けになった小さい子どもがころがっていました。

 床が焼け落ちた路面電車は、骨組みだけになっていて、床下には焼けた乗客の灰と灰白色の骨が集まって、低い小山のようになっていました。このあたりにも人間の大きさの黄黒い脂の跡がそこかしこにありました。

 板きれに焼けて炭になった木ぎれで、住所と氏名を書いた急作りの伝言板があちこちにありました。崩れたお寺の壁にも書かれていました。死臭や荼毘(だび)に付す異様な臭いが風向きによって漂ってきました。荼毘の煙が立ちのぼる、あの被爆後の夕方の広島の光景は、今でもはっきりと脳裏に焼き付いています。

■妹を迎えに

 8月25日、日赤の引き締めがとれ、妹を迎えに行きました。妹の話では尾道廻りだったそうですが、私にはこの日の記憶がまったく欠落しています。帰りは夜になってしまい、尾道の駅前のポストのそばで野宿したそうです。妹は取り残りのガラスの破片が刺さったまま、シラミがいっぱいの身体で帰ってきたようです。

■結婚

 立命館大学卒業後は、広島県立世羅中学(後に世羅高等学校)の教諭となり、昭和21年(1946年)5月に井上貞子と結婚しました。妻は大阪生まれの大阪育ちです。

 昭和20年3月11日の大阪大空襲の最中、最終の疎開列車に乗り、その夜、父の故郷である私の隣り村の西大田に疎開してきていました。大阪での激しい大空襲を体験したことから、非人道的で悲惨な戦争が心の底に刻み込まれ、このことが今日も続く妻の平和運動の原点になったのだと思います。

■被爆者手帳

 それから随分後のことです。山口大学で、弥生時代の「高地性集落」の遺跡の分布や立地と発掘調査など「考古地理学」という新しい分野の研究にとりくんでいた頃のことです。妹の智恵子から「兄さんは、私のために入市被爆したんだから、被爆者手帳をもらってください。」という電話がありました。

 昭和37年(1962年)、妹が3人の証人をそろえ、妻が山口市役所に手続きにでかけたのですが、「今頃になってなんで被爆者手帳が必要なのか。大学の先生ともあろうものが…」と突き返されました。

 長男は栄養失調で生後10日で亡くしていましたが、子どもたちは、当時、中学1年生、小学4年生と幼稚園児になっていました。出直して「父親が被爆者だということを、子どもたちが理解できるようになるまで待っていた」というとようやく受理してもらえました。

 (注)被爆者手帳の交付が始まったのは1957年、戦後12年経ってからのことです。

■山口と広島で

 山口には原爆で負傷した人たちがどんどん送り込まれ、被爆者の人口比が広島、長崎に次いで多いのが山口県です。山口市宮野に大学の宿舎がありましたが、そこは元山口陸軍病院だった所で、毎日次々に亡くなる被爆者を隣りの丘で焼いて埋めたそうです。そこにはその後、鎮魂碑が建てられました。

 山口県での被爆者支援の活動は、山口県原爆被爆者支援センター「ゆだ苑」が推進力になって取り組んでいましたが、一般の人たちの関心は薄くて冷たく、近所にわからないよう封筒も二重にしてくれというようなこともあったほど、被爆者であることを隠す人もいました。

 昭和49年(1974年)NHK広島放送局が公募した「市民が描いた原爆の絵」には3枚の絵を出品し、その後、「ゆだ苑」にも油絵をあわせて10数点を寄贈しました。

 昭和53年(1978年)広島大学に転勤しました。妻は広島市での最初のダイイン(倒れ込み)や今の「語り部」運動のきっかけにもなった、原爆孤老を訪問する活動などに積極的にたずさわりました。

■絵の道と京都

 昭和58年(1983年)広島大学を退官、「いつか絵描きになりたい」という幼い頃からの願いを実現するため、京都と大阪や奈良へ行くのに近く、画業に便利な京都府綴喜郡田辺町(現在の京田辺市)に転居してきました。

 時間と空間を超えた宇宙から自由な画境で描くことが私の絵画観の一つですが、平成15年(2003年)ルーブル美術館で開催された、「フランス・パリ・美の革命展 in ルーブル」ではグランプリを、同じ作品に日仏協会からはトリコロール芸術平和賞をいただきました。

 立命館大学国際平和ミュージアムにも油彩画を20点ほど寄贈しています。その披露として、平成18年(2006年)に「平和を築く小野今絵画展」が春季特別展として開かれました。京都原水爆被災者懇談会の機関紙「こんだんかい」の表紙づくりにも絵と短文で関わったことがあります。

■身体のこと

 現役時代にはあまり体に異変を感じたことはありませんでしたが、定年の頃から、虚血性心不全、続いて白血球減少症を発症しました。今は、造血機能障害や脊椎の多発性圧迫骨折と再発した慢性心不全の治療などをしながら、毎朝、保健のために私独特の体操をゆっくり1時間半かけてしています。

 私は、被爆者の中には、60歳前後から発症する人があることを、多くの人に知ってもらいたいと思います。

■核兵器のない世界へ

 私は、「すべての国の核兵器を捨てよう」「この世の地獄の戦争をとめよう」という手書きのゼッケンをつけて外出することがあります。国民平和行進が京田辺市を通るときには、いつも歓迎のメッセージを送っています。

 あの凄惨な現場を見た者の責務として、この世の地獄である戦争を阻止し、人類の至宝であり、この国の宝である日本国憲法、とりわけ9条は万策を尽くして守り抜かねばならぬと考えています。

 被爆二世・三世の皆さんがこうして私の話を聞いて下さることは、ほんとうに力強く、感謝の気持ちでいっぱいです。私たちは息子らが被爆二世であることをどう受けとめるかは、彼らにまかせてきましたが、「俺は定年退職したらやるぞ」と言っている子もおり、嬉しく思っています。

“ゼッケンに反戦の願い”2005年9月21日 毎日新聞に掲載された時
“ゼッケンに反戦の願い”
2005年9月21日 毎日新聞に掲載された時

京都原水爆被災者懇談会の会報『こんだんかい』の表紙を飾った小野先生の絵と短文(2009年4月1日/No.164)
京都原水爆被災者懇談会の会報『こんだんかい』の表紙を飾った
小野先生の絵と短文(2009年4月1日/No.164)
 

爆心地と広島市の地図

■バックナンバー

Copyright (c) 京都被爆2世3世の会 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system