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●被爆体験の継承 49

生きぬく父とともに

米倉慧司(けいじ)さん

お話し  米倉慧司さん
書いた人  北村喜代子さん

 米倉慧司さんは長く京都原水爆被災者懇談会の世話人を務められてきた被爆者です。

 2002年(平成14年)、ご自身の被爆体験を語られ、それを聞き取られた北村喜代子さんが文章にまとめられました。

 継承すべき被爆体験として紹介します。

■空気が全部燃える

 そのとき私は13歳、今の中学2年生です。学生の徴用で、軍事工場で飛行機の部品つくりをさせられていました。爆心地から西の方向へ約1.2キロ、中広航空という会社で、旋盤工として爆弾の部品作成に従事していました。

 8月6日の朝、仕事始めの朝会をしていました。空襲警報ではなく、(すぐ避難しなければならない)警戒警報(少しゆとりがある)中でした。

 8時15分、建物のなかでしたが、あたり一帯に電気がスパークしたような光を見たかと思うと、瞬間、空気が全部燃える!と感じました。工場の外壁が燃え上がり、光った方向に工場全体が傾き、次に私の身体は立ったまま後ろ向きに吹き飛ばされたところまでは覚えています。

 気がつくと、工場の建物の下敷きになっていました。

 「助けて、助けて」

 何回か叫びますが、回りに人の気配はありません。とても静かでした。どうにか一人で建物の下からぬけでます。先生の顔を見つけます。友だちが2人、壊れた建物の下敷きになっていました。木ぎれを探してきて、テコを応用して、先生と2人でやっとの思いで救い出しますが、2人はもう動く元気がありません。

 ピカドンと言われますが、音を聞いたという覚えは私にはありません。

 こわれた家の上を歩いて、夢中で福島川の河原まで逃げました。

 そこには、爆風で着ているものはふきとばされ、ちぎれた皮膚をぼろぎれのようにぶらさげた人がいっぱい。男、女の区別さえつきません。熱さから川に入ろうとし、そのままなくなっていきます。だるまのように流されていく人で川がいっばいになりました。

 たくさんの死んだ魚もいっしょに流されていきます。

 気がつくと、頭にこぶし大の傷ができ、何か踏んだのでしょう、土踏まずからこうにかけて裂傷を受けていました。

 その日は快晴でしたが、雨が降り始めます。黒い雨でした。私は拾ってきたトタンを被って、黒い雨をしのぎました。

■いがるように泣く妹

 2キロほど離れた所の家(横川町3丁目)に帰ります。家は粉々に砕け、それをまいたようになっていました。父は無事でした。父は翌日すぐに焼け跡に雨だけでもしのげるように小屋をつくります。母と3歳と7歳の2人の妹はどうなったのか。待ちますが帰ってきません。

 すぐ近くの三滝町の竹薮で、全身火傷をおった3人をさがしだし、家に連れ帰ったのは4日もしてからでした。3歳の妹に私が会えたときは、白いシーツのようなものに包まれていました。むごい姿を私たちに見させられないという、父の配慮でした。

 竹薮では、一本の竹が、爆風を受けた側は黒焦げに、反対側は緑の葉のままでした。

 一家は、広島市の郊外の焼けなかった親類の家にいきます。そこには同じような親類が集まってきていました。ここでは厄介はかけられないと思った父は、裏に一家が暮らしていける最低の小屋を作ります。

 すぐに母と妹の生きている身体に、蛆虫がわき始めます。ピンセットなどありません。竹を曲げて次々湧き出る蛆虫をとりました。

 「軍隊の宿舎に薬がある」と聞けば、6キロの道を痛い足をひきずって、歩いて求めにいきますが徒労に終わります。私の頭と足の傷も深刻でした。家族の傷を治す薬はなく、治療の仕方がありません。昔からよいと言われていた、番茶を煎じて、消毒薬の替わりにぬってやるしかありませんでした。

 妹の蒲団がべとべとになっていきます。それほどの膿が小さな身体からでてくるのです。その蒲団を捨てるわけにはいかず、川へ持っていって洗いました。

 食べるものといえばコウリャンしかありません。病人には大豆をつぶしてしぼった汁をのませるのがやっとでした。

 泣く元気もなくなっていた妹の、いがるような(しぼりだすような―広島の方言)声に、あわてて近よって見ると、蜂が肉を噛み、団子のようにしています。巣作りの時期に、蜂は動物の肉をこのように食べるのです。妹は手も足も硬直して動かせず、蜂をおいはらう力さえなくなっていました。

 妹のかなえと母は、並んで手をつないで寝ていました。ある日、急に手がはずれます。母が「かなえ 手はなした」といったのが妹の最期でした。8月6日から2ヶ月後でした。

 私は、7キロほどの道を父が働いていた宇品まで自転車をこいで知らせに行きました。父の顔を見て「かなえが・・・」といっただけで、あとは言葉になりません。

 2人の子の最期を見とどけるようにして、母は弱っていきます。胃癌でした。母が「広島の街を見ておきたい」といったのかどうか、父は大八車を借りてきて母を乗せ、お城や公園を見せて回ります。

 「慧ちゃんありがとう、お父さんを大事にしてあげてね」

 と言って、母は亡くなりました。被爆から3年後、47歳でした。

* * * * *

 8月6日以前の私はどうだったか。敵機が飛来すると、防空壕に避難するよう指導されていたのに、爆弾の落ちる音、高射砲弾の作裂音、弾のとぶ音をきいてみたくもあり、恐ろしいもの見たさで、高いところに登って眺めているという、大人はやらないことをやってみる元気な男の子でした。

 そんな13歳の少年が、地獄を見たのです。

 40人ほどの私のクラスのなかで助かったのは私一人でした。頭と足の傷、それも外傷ですみ、命が助かったことは奇跡でした。

 1200度の熱を、爆心地から1.2キロの所でうけたのに、これだけで終わったのは、光を浴びたのが部屋のなかであったこと、黒い雨をトタンでふせいだことによると思います。

■たくさんの「死」を見て

 当時、日本中の都会では、爆撃を受けたとき、類焼を少しでも防ぐために、道をはさんで両側の家を壊しました。中学生の徴用は、軍事工場で働くだけでなく、そんな仕事までさせられました。道路に沿って家に縄をかけ、縄の先をもって、勢いよくひっぱり、一気に家を倒し壊すのです。人力だけで、順番に、家並み全部を。

 女学生まで女子艇身隊として、その仕事をさせられました。

 8月6日の朝、爆心地近くでその仕事を始めようとしたとき、彼、彼女たちの命は一瞬で奪われました。中学生・女学生が束になって死んでいきました。

 自分たちを育ててくれた、愛する街を自分たち自らが破壊する。過酷な労働にくわえて、非人間的なことをやらされ、その仕事のためになくなっていった彼、彼女たち、そのご家族の方の気持ちをおしはかると、ほんとにつらくなります。

 女子学生のなかに、私の同い年のいとこがいました。叔父たちは、いとこを何日も探し回りますが、彼女の生きていた証は何も見つからずじまいでした。

 1999年、NHKの番組に、彼女の父・私からは叔父が請われて出演しています。90歳近い父親が58年もたった今も変わらない、失った13歳の娘への想いを淡々と話していました。若い将来のある青年たちの命がこのように奪われた事実を語り、原爆の恐ろしさ、平和のだいじさをしみじみ訴える番組でした。

動員学徒慰霊塔(平和公園)
動員学徒慰霊塔(平和公園)

 もう一人、母の妹の夫のこと。彼は終戦後広島に帰ってきて、所用で広島の街を自転車で走ります。先ず髪の毛が、握っただけで束になって抜け初め、すぐ床につき、今から言うと、原爆病の症状がでて、一ヵ月後になくなります。顔はじめ身体のどこにも傷らしいものはない、表面はきれいな身体のままでした。若い妻と成長ざかりの子を遺しての死でした。

 これも日本中で、空襲のとき逃げこむ場として防空壕を作りましたが、何の役にもたちませんでした。

 爆風でつぶされた防空壕が、死んだ人の置き場になり、山ができます。夏ですからすぐ腐ります。焼いてしまわずにはおられず、近くの人が焼きました。人を人と思う心をなくして、仕事を続けました。

 せめて亡き骸をみとどけたいと探している、身内の人の想いは分かっていたはずですが、待てなかったのです。だいじに思う人と最期のお別れをすることなく、たくさんの人が葬られていきました。

■生きぬく

 父はたいへんな困難にであい、うちのめされても、かえってそれをバネにしてまた強くなろうとする人でした。生き地獄のなかを生き残った自分たちは、強く生きようとしました。

 父は「次はあの人が死ぬ番や」と、言われるのを聞きます。言っているのが被爆者です。

 私自身、だいじにしてくれている叔母が「次は慧司や」といっているのを聞いてしまったことを忘れることはできません。

 みんなが被傷者なのに。

 人の死を人間らしい気持ちで見、話す心の余裕を失っていたのも事実です。

 そのときのことを思い出して、父は言っていました。

 「『死』は次は誰の番、自分かもしれない、家族のために死ぬわけにいかない。自分は死にたくない。いろんな思いが言わせたのだろう。 住まいのこともあるが、きょう食べるものがないことが『死』につながっていた。それが恐怖だった。そんなことが人をこんなにおいこんだのではないか」

 当時小学生は学童疎開をしました。学童疎開していた子たちが、次々帰ってきます。

 私の家では、父母がかわいい子は手放したくないと、妹を学童疎開させませんでした。自分たちの思いで、娘を死なせてしまった。帰ってきた元気なよその子を見ると、父母は腹が立ったそうです。「他人には言えない親の気持ちだった」「次は・・・という人と自分も同じだった」と言っていました。

 「次は・・・」といわれているのを聞いて、父は、何くそ、絶対死ぬもんか、生きて生きて、生きぬくぞと強い決意をしたといいます。もっというと、人に弱みを見せたらだめとも思いました。山の高い空気の薄い所へ登って、体を鍛えようとします。

* * * * *

 父は深い生活の知恵をもっていました。思いつきのよさには感心してしまいます。木を生きたまま柱にして家を建てました。電気はなく、カーバイドの灯でした。人糞で野菜を作ります。川で家鴨を育てます。こうして3年間暮らしました。

 どこからそんな「工夫」をあみだすのか、道具を次々創りました。長い板に15センチほどの釘をうちつけた、魚を獲る道具を作りました。ちょうど引き潮のときをねらって、それをもって、数キロある道を歩いて海へいきます。蛸・蟹・かれい・はぜなどが獲れました。

 干してあるのを見つけた人が、「ほしい、ほしい」といいます。あれを「餓鬼」というのでしょうか。父は躊躇なくあげました。

 もらった人は、小さな魚で人間らしさをとりもどしたのでしょうか。父はそんなふうにあれこれ言う人ではありませんでした。

 あとから考えると、直後は、放射能に汚染されたものを食べていたわけです。

 私はいつも父といっしょに働きました。

 こうして、私たち父と子はけんめいに生きのびました。

* * * * *

 父は「生きぬく」ことを、生きていく信条にしていました。

 晩年の父は登山の会を主催し、生き甲斐の一つにしていました。

 父は「慧 なごう生きんで(長生きしなさい)」といって93歳までがんばり、生きぬきました。

* * * * *

 母・二人の妹・たくさんの友だちを失い、たくさんの「死」を見てきた私も、父の信条をそのまま受け継ぎました。

* * * * *

 「戦争・被爆」は国がおこしたことですから、「国家補償は当然」と今なら考えます。亡くなった人を荼毘にふすことも行政がやることです。当時そんなことをだれも思いもつきませんでした。自分の力で、自分の命をもちこたえました。

* * * * *

 昔は逓信省、今はNTTと変わりますが、私はそこで技師として働きました。健康で働け、経済的に安定した生活を送ることができました。

 恋愛結婚をします。終戦後10数年経っていましたが、被傷者への理解がなく、偏見さえありました。妻は反対を恐れ、年とった両親の心配を思って、被傷者であることを隠しとおしました。

 元気そのものの3人の男の子に恵まれます。年月を経てから、つい妻が兄弟にもらしたとき、「知っていた、健康なよい子に恵まれ、ほんとによかった」といってもらえました「私はずっと応援していた」といってくださった人もありました。

 3人の子は個性的に育ち、はらはらすることも数々ありましたが、病気もせずそれぞれ成人しました。私は、息子たちが生き甲斐のある職業につけるよう梯子をかけ、世間並みのしあわせな道を自力で登れるよう心がけました。

 元気な孫もでき、その一人はこの4月からは小学校へ入学します。

 息子たちの家族と一緒に、年一回旅行するのが何よりの楽しみです。そして、家族みんなの健康を喜びあっています。

 私のすきな言葉は「日日是好日」。意味は、これまで体験した苦労を生かし、人間として生まれてきた生涯を一日一日工夫しながら、最高に楽しく、悔いのないよう余生を大切にしたいということです。

米倉さん

 横で、奥さんのマサエさんは次のように話されました。

 「私は京都で生まれ育ち、京都しか知らずに過ごしていたかもしれません。けれど、慧司さんと結婚して、広島・原爆について知り、真剣に向き合った。私も精いっぱい生きてきた。お舅さんからもたくさんのことを教えてもらった。

 慧司さんに私のできることは、『身体によいことは何でもする』こと。特に家族の『食』にいつも心がけた。慧司さんの2回の大手術ものりこえた。

 息子たちとも、小さいときから『広島・原爆』について折々語り合った。広島にも家族旅行した。息子たちは『お父さんは他の人が知らない、世界でも数少ない経験をし、そして現に生きている人の一人や』と言ってくれている」と。

■後  記

 米倉慧司さんは

 「私たちのような被爆者は、体験を後世に語り伝えていかなければならないと思っています。退職したことだし、原爆体験の語り部として若い人や子どもたちに語りにいこうと思うのですが、涙もろくて話せなくなるので・・・」

 とおっしゃいます。

 私(北村)に語ってくださっていて、苦しいところで泣かれます。もう苦しい思いをさせるのをやめてもらおうか、とも思いながら話させてしまいました。

  マサエさんはのぞきこんで、

 「お父さんは年取って、よけい涙もろうならはった。その話になるといつも泣かはるんや」と、ハンカチをそっとだしてあげておられました。 慧司さんが話してくださったこと、横からマサエさんも話してくださったことをもとに、北村がふくらませて書きました。



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