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●被爆体験の継承 50

洋輔(ようすけ)の声に押されて語り部となる

眞柳(まやなぎ)タケ子さん

2016年12月10日(土)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

眞柳さん

 京都府原爆被災者の会城陽支部の眞柳タケ子です。

 今年の夏も暑かったですね。1945年8月9日も暑い夏だったと聞いています。この年の8月6日午前8時15分に広島、8月9日午前11時2分に長崎に原子爆弾がアメリカのB29から落とされました。そして広島で14万人、長崎で7万人の人が亡くなりました。

 原爆が落とされた時私は1歳半でしたので記憶はまったくありません。私の母がまだ元気な頃話してくれた原爆の体験をこれからお話しいたします。

■母の被爆体験

 私の母は長崎市竹ノ久保町にある渕中学で保健婦の仕事をしていました。爆心地から1.4kmぐらいになります。私を身籠って安全に出産できるようにとの思いで私が生まれる5ヶ月前に惜しまれて退職していました。

 私は昭和19年(1944年)2月4日に生まれています。母が退職した後の後任の保健婦さんは原爆で即死されているのです。ですから母は、私を身籠って出産したおかげで母も私も生き延びることができた、これも何かの導きやと思うと、いつも話していました。

 その母は75歳の頃から入退院を繰り返すようになり、6年前90歳で亡くなりました。肺がんでした。母の話によると、原爆が落とされた頃は、長崎市稲佐町3丁目にあった木造一軒家の借家に、母と私と母の弟になる叔父との3人で暮らしていました。爆心地から1.8kmの距離です。

 父はその頃戦争で東南アジア方面に軍属で出かけていて留守でした。叔父は旧制中学の一年生でしたが、学徒動員のため学校の勉強なんか全然しなくて三菱兵器工場で兵器を作る仕事を手伝っていたらしいです。8月9日の朝は、たまたま稲佐警察署の手伝いに行っていたのだそうです。

* * * * *

 9日の朝、大伯父(母の伯父にあたる人)が我が家を訪ねて来ていて、これから3人で買い出しに行こうかという時でした。私に赤い靴を履かせようとしている時に、ピカッと、ドド―ンと落ちて来たのです。母が私に靴を履かせようとしていて、片方だけ履かせて、ドド―ンと来たのであわてて私をお腹に抱えるようにして土間に伏せたのだそうです。おかげで私は全然傷も何も負うことはなく、助かりました。

 ドド―ンと来た拍子に家の柱や窓ガラスが壊れて家はペチャンコになりました。母は必死で柱から抜け出して家から飛び出したそうです。母は背中の真ん中あたりに柱が落ちてきて怪我をし、7cmぐらいのケロイドが残っていました。

 その日たまたま外で布団を干していましたが、その布団は真っ黒焦げになったそうです。母はいつも言っていました。

 「私たちがあの時外に出ていたらあんな布団のごと真っ黒焦げになっとるばい。私やあんたはほんの何秒かの違いで助かったと。これはいつもご先祖様に手を合わせとったからばい。だからね、常にご先祖様に手を合わせんとだめばい」とね。私はまた始まったと思っていつも笑って聞いていましたけど、この年になると「そうかもしれんね」と思うようになっています。

 隣の人も家の下敷きになっていて「助けてー、助けてー」と言っていたのだそうです。母はなんとか助けてあげようと思いましたけど、柱の下敷きになっていて女の力ではどうしても助けることができません。母は私をおんぶして火の海の中を、倒れる人をよけながら稲佐警察署まで走っていきました。「隣の人がこんなことになっているから助けてくれー」と言って。「奥さんこんな危ない時になんで来たんや」と反対に怒られたそうです。「後から助けに行くから」と言われて、とりあえず来た道をまた引き返しました。隣の人は結局近所の男の人たちみんなに助けられて助かったのだそうです。

* * * * *

 その後母がこれから防空壕に入ろうと思った時、背後に若い男の人がいて、その男の人は飛行機の機銃で撃たれて亡くなったのだそうです。

 防空壕に入ろうとはしましたけど、もう暑くて、体が焼けて暑いのと、夏の暑さの両方とで我慢して外に出たままになっていました。防空壕の近くで私をおんぶしたままでいると、黒い雨が降ってきたのだそうです。その雨がとても気持ち良かったのだと、母はそのことをしきりに強調していました。

 夏の暑さと体中熱く感じていた時でしたので、黒い雨は暑さを和らげる、とても気持ち良く感じられたのだと思います。黒い雨を体中いっぱいに浴びて濡れるにまかせたのだそうです。(この雨の話は詳しくは聞いていなくて、母の死後、棺に母の看護婦免許証を入れようとした時、私の最初のレポートの裏に母がメモ書きしていたものです)

* * * * *

 夜に入ってやっと防空壕に入りました。深夜12時頃炊き出しがあっておにぎり1個とタクアン2切れが配られたそうです。その日は昼も夜も何も食べていなかったので、このおにぎりがとてもおいしかったと言っていました。今、東日本大震災や熊本の大きな地震の様子を見てて、みんなあんなふうにして炊き出しに並んでいたのかなあと思いますね。

 でも今から思えば、怖いのはみんな焼け野原で炊き出ししてたことですよ。そこには黒い雨も降ったと思うのですよね。それをみんなおいしいおいしいと言って食べたのですから。今から考えたら本当に怖い話だと思います。

 母は、被爆した当日の頃は、落ちてきた爆弾は焼夷弾のえらいおおきなやつが落ちたんやな、と思っていたそうです。それでも怖かった。今までの爆弾とは違うな、とは感じていたようです。原子爆弾だと知ったのは何年も後になってのことだと言っていました。

■母の里、西彼杵郡(にしそのぎぐん)大島町へ避難

 防空壕に入って、疲れているのでウトウトはしそうになっても怖くて眠れなかったそうです。次の日(8月10日)の朝4時頃、母の兄になる伯父さんが、この人は広島県庁に勤めていた人ですけど、広島に原爆が落とされる前に長崎県庁に出張で来ていた人で、あちこちの防空壕を探し回って、やっと母と私を助けに来てくれたのだそうです。

 家が潰れてもうどうしようもないので、母と母の兄弟になる伯父さんが私を連れて、4人で母の実家に行くことになりました。母の実家は西彼杵郡(にしそのぎぐん)大島町という所でした。今は西海市になっています。

 実家に向かうには長崎市内の爆心地を通らないと行けません。稲佐橋を渡って、爆心地に近づくに連れ、折り重なって人間が亡くなっていました。人間だけでなく動物も、馬、犬、猫などが亡くなっていたそうです。川や水場、防火用水の傍では亡くなった人が群がるようになっていました。まだ生きている人も「水、水」と言って手を上げて歩いていました。服はボロボロで穴があき、体が見えていました。もう地獄そのものでした。

 人は水を飲んだらすぐに死ぬから絶対水をあげてはいけない、と言われていたのですが。水分をあげるのならガーゼか脱脂綿に水を浸して湿らせるだけにしなさいって、母は保健婦でしたのでそういうことをよく言っていました。

 爆心地に近づくに連れて死体が山のようになっている中を通り抜けて、亡くなった人を跨いだり、時には踏んだりもしながら、国鉄の線路に沿って道ノ尾駅まで歩いたそうです。7km位の距離は歩いたのではないでしょうか。

 道ノ尾駅までの途中、長崎医大生がふらつきながら歩いていたので、「一緒に歩こう」と声をかけたら、「もう歩けん、先に行って下さい」と言われました。それで叔父さん(母の弟)が袋からカンパンを出して手渡し、別れて先を急ぎました。母はその話をする時は辛いのか、「あの医大生は元気になってお医者さんになっとらすかね」と話していました。看護婦だった母は人を助けられなかったことを後悔しているようでした。

* * * * *

 道ノ尾駅からは汽車が走っていたので、そこからは汽車に乗って、諫早、大村、佐世保へと行きました。今だったら2時間30分程度で行ける所ですが、朝汽車に乗って佐世保に着いたのは夜の8時頃だったそうです。列車は途中で何度も止まって、何度も降ろされたりしたそうです。母や私たちが降ろされる代わりに、兵隊さんや役所の人たちが乗り込むのですね。長崎の救援のため、応援の人をどんどん送らなければならなかったからだそうです。

長崎県地図


 佐世保について親戚があったものですからそこで一泊しています。親戚の家でお風呂に入ったら、髪の毛から木くずやガラスやらがパラパラと落ちてきたそうです。母はそれまで背中が切れているのを知らなくて、痛みがあるのでおかしいなと思って服を脱いでみると血がにじんでいました。そこで初めて背中の怪我を知ったのだそうです。

 あくる日の朝、佐世保から、今は西海橋がかかっていますけどあの辺りを大田和まで歩いて、そこからは漁師さんから船を借りて乗せてもらい、やっと大島町の母の里に帰り着いたのだそうです。今そこには橋(大島大橋)がかかり便利になっています。

■何度も爆心地を通り抜けて

 母は里に帰ってから後も何度も長崎市内に行っています。私をおぶって、母の妹(私の叔母)を連れてね。父が南方に行っていていつ帰ってくるか分らないので、「みんな死んでしまった」と思われたら困るので何度も長崎に行ったそうです。佐世保と長崎の間を往復して、その都度爆心地を何度も通ったわけです。何度目かに行った時、父の行きつけの散髪屋さんと出遭って、事情を話して、父が帰ってきたら消息を伝えてもらうようお願いして、それからやっと少しは落ち着いたようです。

 被爆して1週間から6ヶ月ぐらいの間は下痢、発熱、血便、血尿、脱毛などが続き、母は髪の毛が生えてくるのだろうかと心配したそうですが、1年後には生えてきたようでした。体は手当をして良くなりました。「物のない時代と夏のことなので、傷が化膿して治療するのも苦労したよ」と語っていました。

* * * * *

 父は戦争が終わって1年半後に戦地から帰ってきました。戦地では偉い兵隊さんの車の運転をする軍属だったそうです。当時運転免許証を持っている人は少なかったのでしょう。父はお酒が好きな人でしたから、あの当時メチルアルコールを飲んでいたようで、眼を患っていました。若い頃はそれほど飲んではいなかったけど、年と共に量が増えて、眼は開いているけど見えにくい、極端に視力が落ちていました。それでも車の運転はしていましたけど。

 父は夜中によくうなされていました。戦地の夢をみていたのでしょう。けれども戦争の話は家族にもまったく話さないで亡くなりました。

■病弱だった子どもの頃の私

 ここからは私の話になります。

 私は小学生の頃は体が弱くて、風邪をひいたりするとすぐに熱を出して引きつけも起こして、毎月、月の内1日〜2日は学校を休んでいました。自慢じゃありませんけど、皆勤賞なんかもらったことがありません。友だちが皆勤賞もらうのを羨ましくみていました。高学年になると立ったままで朝礼などしますけど、それが苦痛でした。長時間立っておられないのですよ。倒れてしまうのです。倒れない時は座り込んでしまいました。そんな状態ですから、私どうしてこんなに体弱いんだろうといつも思っていました。偏食がきつかったのでそれでかなと思ったりもして。

 まさか自分が被爆者だとは知りませんでした。中学生になってからある日、母が一緒に保健所に行こうと言って、初めて私の被爆者手帳を見せてくれたのです。その時初めて自分が被爆者だということを知りました。学校の先生には「保健所に健康診断に行くからと言えば分ってくれているから」ということで、先生には話してあったようです。

 原爆が落とされて焼け出されて、何もなくなって、外に出してあったものも全部持っていかれて、残ったものは仏様だけでした。ですから家は貧乏でした。貧乏でしたけど母は子どもの教育には熱心で参観日や家庭訪問にも一生懸命で、その時に学校の先生に私の被爆のことも話していたのだと思います。

 それでも被爆者だから体が弱いのだと思ったことはなかったのです。ただ、私の体は学校のみんなと同じではなく、異常やなとは思い続けていました。

* * * * *

 父の仕事の関係で平戸の南部の方に引っ越ししました。そこでは家から学校までの距離が4kmほどもあって毎日歩いて通いました。それが良かったのでないかと思います。田舎の人たちにも親切にしてもらってコミュニケーションもよくて。空気が良かったのでしょうね。人づきあいもよくて、引っ越した先が私にあっていたのだと思います。それから健康になっていきました。

 ただ今から思っても異常だったのは、生理が普通ではありませんでした。ものすごくきつかったのです。期間も長く、前後は腰痛がひどかったのです。私が被爆者であることをもっと早く知っていれば、後になって子どもを失くさなくてもよかったのではないかなと思っています。その時には何も気付きませんでしたけど。

■長男洋輔(ようすけ)のこと

 その後お見合いをして主人と結婚して、主人の仕事の関係で京都の舞鶴で暮らすことになりました。結婚してすぐに妊娠して赤ちゃんが、男の子が生まれました。昭和41年(1966年)6月24日でした。

 生まれた子は体重3640gで普通だったのですが、生まれてすぐにオギャーと一度だけ泣いて、その後は泣かなかったのです。泣こうとしたらガァーッと、頭から顔から体中が真っ黒になって、チアノーゼなんです。心臓が悪かったのです。舞鶴病院で出産したのですけど、即、保育器に入れられて。私はまさか自分の子がそんなことになっているとは知らないものですから、「あれっ?一回だけ泣いて、その後泣かないな」と不思議に思っていました。まさか自分の子が心臓病だなんて思いもしなかったのです。

 名前は洋輔(ようすけ)とつけました。退院する一週間前に主人が見舞いに来てくれたのですけど、子どもが保育器の中に入っているものですから、「あれ、生まれた子はみんなこの中に入るのかな」と思ったらしいです。お医者さんから実はお宅のお子さんは心臓が悪い(先天性心臓病)と言われて、初めて聞いてびっくりしたのです。心臓は4つの部屋があるのに、洋輔には2つしかなく、要するに奇形でした。きれいな血も汚い血も混じってしまう大変な病気でした。私はそれまで自分が被爆者だということを気にしていなかったのですが、この時ばかりは被爆者であることを思い知らされました。

 私が退院する時も洋輔は病院に預けたままになりました。半月ぐらいは元気でおられるのですが、保育器から出て風邪をひいたりするとまたチアノーゼが出て保育器に入って、そんなことの繰り返しで何度も危篤状態に陥り大変でした。

 洋輔は生まれて5ヶ月目になる11月21日に亡くなりました。それは主人の誕生日でした。主人はお通夜の時男泣きに泣きました。せっかく男の子が生まれたのに、まさか俺の誕生日に亡くなるなんて・・・、と言って。それを聞いていた私も涙を堪えることができなくて、ああっすまないことをしたと思いました。その時、私は本気で死にたいと思いました。何度も何度も汽車の踏切の線路の前に立ちました。こんな悲しい思いをしたくないと思いましてね。そのことは一度も主人には話してきませんでした。私が語り部をするようになって初めて主人もそのことを知ったのです。

* * * * *

 毎日毎日涙が出て、どうしてこんな悔しい思いをしなければならないのかと思い続けていました。やっぱりこれは原爆の被害なのだと思わざるを得なくなりました。私の親戚にも主人の親戚にも心臓病の人はいませんでしたから。そう思った途端、私は思い返したのです。洋輔の顔を思い出しましてね。ああ、これは、洋輔が「お母ちゃん、訴えてくれ!」と言っているのだと思いました。それで、私はいつかこれは絶対にみんなの前で訴えなければならないと思うようになったのです。

 そういうふうに私の考えは変わりました。洋輔の亡くなった直後は死にたいと思って本当に線路の傍に何度も立ちました。そう思いながら涙をふきながら家に帰ったりしていました。そんな状態でしたけど、その思いが変わりました。ああ、これは、洋輔が「戦争に遭うとこんな目に遭うのや、ということを誰かに訴えないとあかん」と言っているのだと思うようになったわけです。

 二人目の出産の時は本当に迷いましたが、主人や近所の先輩、友人などに励まされて女の子を出産し、その後3人目の女の子にも恵まれました。次女には男の子が誕生していますが、その誕生日が3月5日で私の父の命日にあたります。父や洋輔が孫を見守ってくれているような不思議な縁を感じています。そういうこともありましたので私はこれまでに3度、四国八十八ヶ所霊場を完全なお遍路さんの形で巡礼してきました。

■語り部となる

 今は私も幸せな日々を送ることができるようになりましたけど、しかし長男洋輔を失ったことで、「これは私に与えられた課題だ」と思うことに変わりはありませんでした。「私のような悲しみを繰り返してはいけない、こんな悲しみをみんなにさせてはいけない」と思い続け、たまたまイラク戦争が始まった時に、これはいい機会だと思って語り部になることを決めました。

 私は原爆の落とされた時が1歳と半年ですから戦争や原爆の記憶は何もありません。ですから母に聞いて、それをテープに録音して、テープから文字に書き起こして、それで語り部を始めていったのです。語り部を始めた最初の頃、私が母の話を書き止めた文書はわずか2枚程度でした。それを見た母が、母の看護婦の免許証の裏側にいろいろと被爆の体験を追加して書き加えていました。母の葬式の時になってその免許証を発見し、いまも宝物のようにして大切にしています。

 原爆の恐ろしさだけでなく、「原爆は被爆当事者だけで終わらない」ということも知って欲しいと思って語っています。二世、三世まで肉体的、精神的にも影響を及ぼすのですから。

■戦争を止めさせることを願って訴え続ける

 今もいろいろと核実験とか戦争とか民族紛争とか絶えないのでもうこれはアカンなと思っています。戦争と言うのは心の持ち方で変えられるじゃないですか。戦争止めようと思えば止めることができると思うのですよ。相手のあることですから話し合いで何とか解決して欲しいと思っています。どんなことがあろうとも戦争だけは絶対にやってはいけないと思います。戦争は人災です。天災は止められないけれど人災は絶対に止められると思います。止めて欲しいと願っています。特に学生さんたち若い人たちには強くお願いしたいです。

 私たちのような被爆者がこうして訴えていますけれど、他にも悲惨な被爆体験をされた方はあると思うのですよね。いろいろな事情から話すことができない人もいるでしょうけど、できるだけ被爆の体験、戦争の体験を話して欲しいと思っています。

 今度オバマ大統領が広島に来られて、謝罪はなかったけれど被爆者の人とハグをされました。あれだけでも良かったのではないかと私は思っています。これまでの歴代大統領は一度も来られなかったけれど、広島に来て、被爆者とハグをされただけでも一歩前進だと思っています。全世界の大統領やらそういう人たちに広島、長崎に来て欲しいし、ゆくゆくは本当に謝罪して欲しいと思っています。その道のりは遠いかもしれないけれど、私たちが亡くなった後でもいいから謝罪して欲しいと思っています。

■『ようすけ君の夢』のこと

 絵本になっています『ようすけ君の夢』のことを説明させて下さい。私が佛教大学に語り部で行ったときのこと、2回目の語り部で、レポート用紙でたったの2枚の原稿でしたが、学生さんが感動して下さり、「何か残したい」と言って下さったのです。私は、大きい紙芝居を作っていただきたいと思ってお願いしたのですが、立派な絵本を作って下さいました。

 私の洋輔は5ヶ月で亡くなりましたが、絵本では小学生として出てきます。そのようすけ君の絵が亡くなった洋輔の顔に似ているのでびっくりしました。特に目がそっくりなのです。絵を書いてくれた方は写真も何も見ていないんです。「顔がなかなか描けずに大変だったけど、書きだしたらすーっと描けたよ」と話しておられました。

 この絵本には親子三代が関わっているのです。語りは、私の母の上村吉と私真柳タケ子、英訳が私の次女の真柳美紀です。母は「私が亡くなっても、この絵本はずっと残っていく」と言って喜んでいました。機会がありましたら是非一度ご覧いただきたいと思います。

『ようすけ君の夢』平和への思いをこめて被爆者と学生たちがつくった絵本 『ようすけ君の夢』

平和への思いをこめて
被爆者と学生たちがつくった絵本

語り     上村吉・真柳タケ子
文      佛教大学黒岩ゼミ
絵      田中愛・堀越裕希美
英訳・仏訳付き
発行     クリエイツかもがわ(2006年)
発売     かもがわ出版 定価1300円+税



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