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●被爆体験の継承 7

胎内の我が子と共に、私の被爆体験

小高美代子さん・澤井美千代さん

2013年4月22日(月)証言
京都「被爆2世・3世の会」で聞き取り、文章化

左:澤井美千代さん 右:小高美代子さん
左:澤井美千代さん 右:小高美代子さん

 原爆でね、何にも分らないままね、辛い思いして、たくさんの人達が亡くなっていったわけでしょ。泣くに泣けないままね。かわいそうだね、と思うのね。私はそのことを話してね、残していきたいのよ。

 そうでないと、あちらのね、仲間に入れないのよ。私はね死んだらあちらの仲間に入ることになっているのよ。ちゃんと名前も言ってあるから。しっかり話しておかないと、あちらへ行った時、「あんた何も話してないじゃないの」と言われそうだから。

 だからね、命のある限り話していきたいのよね。本当のことをね。私の口が開く間はね、話していこうと思ってるんですよ。

■8月6日広島前日まで

 私の一家は出身は山口県なんだけど、戦前朝鮮に渡って暮らしていてね、私は朝鮮の群山(くんさん)と言うところで、6人兄弟の末っ子として生まれたの。20歳で結婚するまでそこにいたの。昭和19年に軍人だった主人と結婚して、主人の配属されていた広島に行ったのよね。

 広島で最初は大手町にあったお米屋さんの2階をお借りして住むことになっていたんだけど、私は子どもの時から自分の家を離れたことのない人間だから、他人の家の2階なんてなんとなく落ち着かないのよね。そこでね、市役所のそば、国泰寺町という所で小さいけど一軒家を借りてくれて、そこに2ヶ月ほどいたかな。

 ところがね、ある時グラマン戦闘機が飛んできてね、爆弾落としたの。家の中のものみんなひっくりかえってね。それから近くの人が「一中がひどいことになっているよーって」言うの。行ってみると、運動場にこーんな大きな穴ができていてね。

 「危ないねえここも」ということになって、今度は比治山の近くに特別大きな家を借りてそちらに住むことになったの。そしたら今度は4月1日から主人が転属になってね。軍隊だから私にも知らされないどこかに赴任していったの。だから大きな家に住むのは私一人になっちゃって。

 夜にね、警戒警報が鳴るの、そしてね空襲警報になるの。その都度、お風呂の中に水張ってお茶わんや、鍋や釜を入れてね。綿入れの着物を着て、暑いのに、じっとしているの一晩中。心細くてね。

 空襲警報が解除になったら、またお茶わんをお風呂からあげてね。そんなことが嫌になってきたの。いやだなあ、と思ってね。みんながね「今度の戦争は百年戦争だって」いうのよ。こんなことがね100年も続いたらとんでもないと思ってね。

 もう嫌になってきてね、荷物も何もかもほったらかしにしてね、家に鍵かけて、我が家はもともと山口県出身なので、その山口県の身内のいる所に行っちゃったのよ。誰にも言わずに。

 山口県に帰ったらね、伯母さんが「よう来たねえ」と言って、「もう広島に帰りんさんなよ、ここだったら爆弾も落ちてこんからね」と言ってね、喜んでくれたけど。

 そこでは毎日毎日遊んでいるようなものだったけど、これがまた退屈で退屈で。映画一つ見るにも柳井という町までバスに乗っていかなきゃならないほどのところなの。話し相手もろくにないからね。

 また嫌になってね。それでまた広島に帰ることにしたの。その頃にはお腹の子が5ヶ月にはなっていたのよ。8月1日に広島に帰ってきて、広島駅に着いて最初に、駅近くの猿猴橋(えんこうばし)町にあった遠縁の、瀬川さんという家に立ち寄ったのよ。山口からお土産を預っていたからね。とにかく8月1日だからね、わざわざ原爆に遭いに帰ったようなものよ。

 それで瀬川のおばあちゃんのところに行ったら、「2階に来てみんさい」というので上がると、なんと私の荷物がいっぱいあるのよ。私がいつ帰ってくるかも分らないから、比治山で借家していた家の大家さんがどうしましょうと言うので、しようがないから、荷物はみんな猿猴橋の瀬川さんの家に運び込んでくれていたのよ。だから、8月1日のその晩からそこで、瀬川さんの2階で寝起きするようになってしまってね。

 瀬川さんの家は金物屋をやってたんだけど、私の父親の従兄弟の梅木さんという人が婿養子にいってた家なの。そういう縁でお世話になったのね。

 瀬川さんには60歳ぐらいのおばあちゃんがいて、そのもらい娘だけど一人娘の花子さんと梅木さんが結婚していたの。夫婦には3人子供がいて、一番上の利江(としえ)さんはあの時19歳、肺結核になっていて家で静養していたの。次のさとよさんが17歳ぐらいで広島女学院の生徒、三番目が当時4歳の紀伸(としのぶ)ちゃんだった。みんな一緒に住んでいて、私も含めると7人居たの。

■その時の臨死体験

 今でもはっきりと覚えてるけど、8月5日の夜、午後7時頃かな、警戒警報の発令が出て、その後空襲警報も発令されて、私ね「おばあちゃん、今度は来そうね」と言ったの。おばあちゃんは「あんた、嫌な事言わないでよ」と言ってたけど、私は本当に空襲が来そうな気がしてしようがなかったの。

 だから、お腹の子のためのおむつなんか、いろいろ必要なものをリュックに入れていたりしたわ。主人が軍人だったので、軍刀とか、長靴など、管理しておかなきゃならないものなんかも一つにまとめたりしてね。

 それで8月6日の朝8時頃になって、私は私だけのご飯を用意してたんだけど、2合ぐらいのお米を持ってきて洗おうと思って、土間の先にある流しでお米を研いでいたの。おばあちゃんが「美代子さん、あんたは苦労がないから何も知らんのやろけどねえ、今普通の人はお米もなくなっちゃって、買うにもだいぶかかるのよ。今お米一升20円もするよ」とか言っていた。「ああ、そうなの」って返事しながら、お米を研いでいたの。

 その時突然ピカッと来たの。物凄い閃光!とにかくカミナリとかイナヅマなんてものじゃない。

 おばあちゃんは茶の間にいたんだけど、光った瞬間、「としのぶー!」と孫の名前を叫んだの。その声はいまだに頭の中に残っているのね。

 その後はね、全然なんにも分らんことになってね。どんなだっかと言うとね、こーんな大きな土管のようなもの、どこまでもずーっと続いていて、中は真っ暗なのね。その中を私が泣きながら歩いているの。「死にたくなーい、死にたくなーい」と言ってね。大きな声で泣いてね。その内、しばらくするとね、先の方にパァーッとすっごいオレンジ色の光がさしてきて、それを見たとき、「ああっ助かった、私は生きとる!」と思ったね。あれは生死の境だったんだろうね。

 私の母がね、息子が二人も戦地に行ってたので、よくお百度を踏んでいたのね。それを知っていたから、ああ、お母さんが私を助けてくれたんだなぁー、と思ってね。その時、「おかあさん有難う」と思ったわ。

 それから気付いて立ち上がったらね。今、どこにいるんだろうと思ってね、よく見てみると、猿猴橋商店街の私がいた瀬川金物店の隣が薬局で、反対の隣が時計・眼鏡屋さんだったんだけど、その時計・眼鏡屋さんの3階の庭のような所に立っていたの。

 下駄を履いたまま、お米を研いでいた恰好のままで立ってたのよ。3階といっても建物はもう2階ぐらいの高さまで崩れていたけどね。「何があったんだろう」としばらくは茫然としていたのよ。

 瀬川さんの家はもう完全に潰れてしまっていてね。

 この時、瀬川さんの家には、肺結核で寝たままの利江さんと、4歳の紀伸ちゃんと、おばあちゃんがいたの。みんな壊れた家の下敷きになっているのよ。おじさんは国鉄の勤めで出たままだったし、おばさんの花子さんもこの日は勤労奉仕で出かけていたし、次女のさとよさんも女学院に行ってて家にはいなかった。後で血まみれになって帰って来たけどね。

 たとえ6日間でもね、私は世話になっていたんだから、私が何としてもみんなを助けなきゃいけないとその時思ったのね。「としのぶちゃーん、としのぶちゃーん」と呼んでたら、紀伸ちゃんがどこからかちょろちょろと出てきたの。「としのぶちゃーん、良かったねえ、今おばあちゃんたちを助けるから動かないでいてね」と言ってね。

 それから「としえさーん、としえさーん」と呼んだら、「お姉さーん」という声が聞こえる。「利江さん、隙間の穴から手を入れるから、この手にすがりなさい」と言って、手をつないで引っ張ったら、利江さんも出てきたのね。

 今度はおばあちゃん。おばあちゃんは大きな梁の下敷きになってて、「助けて―、助けて―」って呼んでるの。どこにいるんだろうと思って探してたら、こーんな大きな梁の下に居るのよ。これは私一人では助けられないだろうなあと思ってね。

 この時、まさか原爆が落ちたなんて思ってないから、この家に爆弾が落ちたんだろうと思ってるから、うちだけがやられてると思ってるから、外に出て「瀬川のおばあちゃんが下敷きで大変、誰か助けて下さーい」と言ったら誰かは助けてくれると思って、外へ飛び出してみたの。瀬川さんは古くから金物店をやってる老舗の店だから、みんなよく知ってて、誰かは助けてくれるはずと思ったのよ。

■みんなを救出して中山村へ

 それで外に出てみると、さあ、そしたら、大変な事が目に入ってきた。八丁堀の方面から大勢の人がどんどん歩いてくるのよ。みんな両手を前に突き出して、歩いてくるの。手を降ろしたらくっついてしまうからね。顔はお地蔵さんみたいに腫れて、焼けただれて、一体誰なのか全然分らないほど。着るものはみんな焼け爛れていて、大人から小さな子供までみんな同じようなことになってね。口も聞けずに、声も出せなくてね、みんな黙ーって歩いてくるの。

 「なんなのこれは」と思って、私それをじーっと見ていた。これが生き地獄でなくてなんだろう、と思ってね。

* * * * *

 その時、比較的元気そうな兵隊さんが3人通りがかったのね。私は、「兵隊さーん、おばあちゃんが下敷きで大変なの、助けてーっ」と声をかけて、助けを求めた。そしたら「ばかやろー、広島中みんな大変なことになってるんだ。人を助けることなんてできるか!」と言って行ってしまった。この時は、他人はあてにできないねー、とつくづく思ったわ。

 とにかくおばあちゃんを助けなきゃいけないので、どうしたらいいかと、あっち行ったり、こっち行ったりしていたのよ。その内にね、紀伸ちゃんの木でできたバスのおもちゃが倒れた柱の下になっているのを見つけてね、「そうか、下は土だ。この土を何かで掘れば、梁を動かさなくてもおばあちゃんは助けられるじゃないの」と思ったの。それからおばあちゃんの倒れている横のあたりの土を一生懸命手で掘りかえしたの。

 私は手が小さいのかね、何度やっても出てこれない。「おばあちゃん我慢してね、もうちょっとだから頑張ってね」と言いながら掘り返したのよ。そうやってとうとう助け出すことができたの。

* * * * *

 さあみんなで逃げようということになってね。その頃はね、田舎のお百姓さんとね、何かあった時は訪ねて助けてもらう約束なんかもしていたのね。瀬川さんの家は広島郊外の中山村にあるお百姓さんと約束していて、そこへ行くことになったの。

 私は、逃げるといっても運んだり、持ちださないといけないものがあるので、とりあえず、おばあちゃん達3人は先に避難させて、私は自分の持ち物を捜して、後でみんなを追いかけて中山村に向かうことにしたの。

 私は2階に住んでいたおかげで、2階のものは壊れずにちゃんと残ってた。1階は潰れてしまってたけどね。おむつの入ったリュックに、配給のたばこや糸や針なんかも入れて、それを背負って、水筒と双眼鏡も持って、中山村に向かったのよ。途中で水筒には壊れた水道管から出ている水を入れてね。

 水筒持ってると、蟻がたかるように人が「水を下さい、水を下さい」と言って寄ってくるの。私は水をあげることは惜しくはないけど、あんな大けがをしたり、火傷したりした人にお水を飲ましたりしたら、いっぺんに亡くなってしまう、と教えられていたから、あげることはできない。

 16歳ぐらいの女学生からも「水を下さい」とせがまれたけどね。「ごめんね」と言って、「いま水を飲んだら、あなたがダメになるよ。あなたもどこかで家族と待ち合わせているんでしょう。せめてお父さん、お母さんに会ってから、頑張ってからね」と言って、水をあげないできたのよ。

 今でも忘れることができないね、とても後悔してるのよ。「あれが私がお水を飲ましてあげられる最後の機会だったんじゃないだろうか」、「あの子はあれから10分も生きることはできなかったんじゃないだろうか」と思ってね。本当に、大きな罪を作ったなあと今でも思っている。

* * * * *

 中山村まで逃げる途中、細い農道を歩いてたの。そしたら黒い雨が降ってきてね。丁度その農道に雨宿りできる小屋があって、黒い雨を避けることができたの。コールタールを薄めたような雨で、30分位だったかなあ、降ったのは。

 後で聞いたんだけど、そんな所に小屋なんて無いってみんな言うのよ。そんなはずはなくて確かに小屋はあって雨宿りしたのに。だから私は神様、仏様に守られたのかなとも思ったわ。黒い雨にも打たれずにすんだからね。

* * * * *

 中山村に着いたらね、農家の中に、広島から避難してきた人達が大勢、みんなゴロゴロ寝ていて、横になってるのよ。もう死ぬ前の人もたくさんいたと思う。

 私も大変なことをして、大変な中を逃げてきたんだから、あちこち怪我もしているはずなのに、ああいう時はね、痛くもかゆくも感じていないのね。お勝手でね、農家の人達2人〜3人が救護のためにご飯を炊いているんだけど、それを手伝おうと思ってね、洋服をパット脱いで、下着のシュミーズだけになったら、周りの人がみんな「奥さん大変、あんたの背中、上から下まで真っ赤になってるよ」というのよ。怪我をして、そこら中から血が出て、暑い時だから乾いてしまって、背中に張り付いていたらしいの。もう傷だらけだったらしい。

 戦争が終わって5年ぐらい後まではね、体に触るとチクット痛みが走ってね、ガラスがあちこち刺さったままになっていたんだと思う。 瀬川のおばさんの花子さんはね、後で焼け爛れて中山村まで帰って来たよ。帰ってきたけどね1週間も持たなかったね。

■地獄の広島を抜けて五日市へ

 瀬川さんの家族は、何かあった時には中山村の農家と約束されていたんだろうけど、私は家族じゃないからね。私まで平気でお世話かけ続けるわけにもいかないしね。その内、主人が懇意にしていた東洋工業の重役さんから、「是非五日市にある私の家に来なさい」と言われて、五日市に行くことにしたの。

 主人は広島にいる時、東洋工業の監督官をやってたのね。そういう関係で東洋工業の重役さん達と知り合いになっていて、「私に何かあったら頼む」と言われていたらしいの。それで、東洋工業の重役さんから、五日市にある家に来るように言われたの。

 2日後の、8月8日だけど、中山村から帰って、広島の街を通って、五日市に行くことにしたの。

 広島駅のあたりまで辿りつくと、6日に逃げた時と今度帰って来た時とでは広島の街は一変していて、もう死体の山だったわ。あっちにもこっちにも死体が積んであってね。広島の街は、もう死体の山で、あるのは死体だけ、それ以外何もない。広場みたいなところに200体ぐらいの死体の山があってね、それにガソリンをぶっかけて焼いているの。

 私が歩いているそばには、それほど広くない道幅の両側にずーっと死体が並べられてるの。死体はきれいなままのものもあれば、もうどこがどこだか分らなくなってしまったものもあったわ。五つぐらいほど重ねて置かれている死体もあれば、中には頭だけ他人のお尻の下に突っ込んで死んでいる人もあった。助かりたい一心だったんだなあ、と思ったわ。

 死体の山を見て、はじめはウヮ―って思ったけど、その内にね、平気で見ていられるようになるのね。人間って恐ろしいものだと思ったわ。自分で自分が本当に怖くなったわ。

 広島駅のあたりから広島の街を見るとね、もうみんな焼けていてね、一望千里だったわ。建物で残っているのは福屋と中国新聞社だけぐらいかね。「あれが福屋よ」とか、「これは中国新聞かな」とか聞きながら歩いていたね。「何か分らんけれども、ややこしい爆弾が落ちた」と書いた紙が死体のそばにおいてあったりもしたね。

* * * * *

 乗り物なんて何もないからとにかく歩いて、己斐(こい)の駅まで向かったの。

 広島の街には橋がたくさんあるのよ。その橋を、あっちに向いて歩く列、こっちに向かって歩いてくる列がすれ違いながら進んでいるの。その時にね、ウワ―ッとものすごい泣き声が、橋の真ん中で起こったの。何なんだと思って後を振り返ったらね、向こうに向かって歩いている娘さんとね、あっちから歩いてきたお母さんとがね、丁度、橋の上の真ん中で出会ってね、抱き合っているの。「良かったねー、どんなに嬉しかっただろうね」と思ったね。

 己斐の駅の近くに行くとね、歩いているみんなが立ち止まって見ているところがあったの。何なんだろうなあ、と思って見てみると、小学校6年ぐらいの男の子がね、一人で倒れかかかった家を必死になって支えて、倒れないようにしようとしているのよ。支えようといったってもう限度があるのは分っているのよ。みんなそれを見てるけど、今みたいに機械があるわけではないしね。「頑張れよ」と言うだけなのね。「頑張れよ」と言うだけで、助けたりしないで自分は電車に乗るのね、みんな。私もだったけどね。

 そんな一つひとつがみんな罪を作ってきたような気がするのね。可哀想だなあと思うけど、そんなことがあっちこっちにあったんですよ。

* * * * *

 己斐の駅からはやっと電車が動いていたので、それに乗って五日市に向かったの。辿りついた五日市の家は立派な家でね。建てたばかりの家のようだったけど。その五日市の家では6畳ぐらいの部屋を貸してもらってしばらく住むことにしたのよ。

 五日市にいる頃、被爆者には配給があるから、というので行ってみると娘さんがいて、女学校3年生ぐらいの娘さんかな、泣いてるの。「どうしたの?」と聞いてみると、「私お母さんがいないんです」って言うのよ。いないから毎日広島の街まで行ってお母さんをさがしているんですって。原爆が落ちてもう数日も経っているから、死体もまともに触れないような大変な状態になってるんだけど、その死体を一つひとつ見て、ひっくりかえして見て、探しているんですと。これから燃やされそうな死体には、「火をつけるのを待って」と言って探しているのよ。それでもお母さんが見つからないんです、というのよ。可哀想だなあ、と思ってね。これから一番お母さんが欲しい時なのにね。

 死体を焼く臭いがね、10月半ば頃まで、五日市に居ても毎日夕方になると臭ってきていたの。来る日も来る日も。電車の中でも臭っていたね。

 それからね、この頃ちょっと指を切っただけで血が出続ける、止まらないようになってね。おかしいなあと思っていると、今度は髪が抜けるのね。それが後になって原爆病、急性症状だったのだと知ったのね。それでも、若かったからでしょうね、その内だんだんと治っていったけど。

■山口県で父母と再会、出産

 そうこうしている内にね、広島の人達はボチボチ住む所を建て始めたりしだすのよね。ところが私には行くことろがないのよ。主人もいないし。朝鮮に帰ることもできないしね。しばらく五日市でお世話になっていたけど、このままいてもしようがないし、臨月も近づいてきてね。

 それから戦争に負けてアメリカ人が来ることになって、アメリカ人が来るから婦女子は逃げて下さいって、お達しのようなものも来てね。しようがないから10月も半ば頃山口県へ帰ることにしたの。

 国鉄で柳井の駅まで着いて、そこからバスで田舎の佐賀村に向かったけど、峠のてっぺんでバスが止まってしまってね。「すいません、みなさんバスが動かなくなったのでみんなで押して下さい」って言うけど、私お腹が大きいから押せないじゃない。バスを降りて、歩いていく人におばさんの家に伝言をたのんだの。

 そのまま峠で待ってたら、二人の男の人が迎えに来てくれたのね。来てくれたのは上から三番目の兄と従兄弟だったわ。兄達は道々「美代ちゃん、帰ったらびっくりするよ、嬉しいことが待ってるよ」と言いながら帰ったの。

 佐賀村の家に辿りついてみると、思いもかけず、朝鮮に居たはずの母が待ってたの。お母さんは「美代子さーん」と言って力一杯抱きしめてくれたわ。

 お母さんはね、私はもう死んでるとばっかり思っていたのね。「広島は誰も生きとらん」と聞いていたからね。朝鮮でも「広島はひどいことになったらしい」と伝えられていて、母は私のことを心配していてね。着物かなんかもみんな持ってね、闇舟でね、対馬のあたりを渡って、瀬戸内海の佐賀村につけてもらって帰っていたのよ。

 すぐに毒だみを飲め飲めと言われてね。お風呂では、おかあさんが一生懸命私の体を洗ってくれてね、「毒が早ようみんな下りればいいなあ」と言ってね。

 そうして年明けの1月8日に無事出産したの。

 私の父の方はね、朝鮮でかなりの財産も作っていたからね、そのために、すぐには帰れなかったらしいの。昭和20年の12月頃かな、父は帰ってきたの。

 あの日、広い庭の先に父を見つけた時、「あ、お父さんだ!」と言ったら、父は私の顔を見るなり、弁慶の仁王立ちになって、わあーっと泣いてね、「よう生きててくれたな」、「わしは財産を全部なくしたけど、お前が生きとってくれたらもう何も要らん」と言って泣いてたわ。有難かったね。

* * * * *

 私は原爆の後、中山村に逃げて、その後五日市に行って、そして山口県に帰って、それから主人が帰ってきてから東京に行ったのね。東京には20年位いて、その後京都に引っ越してきたの。考えてみたら、広島からはずっーと逃げていて、原爆から遠くに行くように遠くに行くようにされていたのね。そのお陰で原爆の毒が抜けていったんじゃないかと思うの。

 広島の人はみんな避難先から広島に帰ってくるじゃない。岡山だとか、倉敷だとかに避難した人も、広島の街の地下や土地の下に、家財や食器なんかを燃えないように埋めておいて、後で掘り返しに行っているのね。

 その時に土地に埋まっていたガスも一緒に出てきてたくさん吸ったりしてるのよ。それがたくさんの人に毒をまき散らしたりしているんだと思う。上から爆発してきた原爆もとんでもなかったけど、下から湧き上がってきた毒も大変なものだったんじゃないかと思うわ。

■原爆症認定集団訴訟

 もともとは私は健康で元気な方だったんだけど、でも、原爆に遭ってからはやっぱりおかしくなってね。倦怠感がひどくてね、原爆ぶらぶら病と言うんだそうだけど。京都に来た頃からは貧血もひどくなって、よく倒れることもあったの。平成8年(1996年)には慢性甲状腺炎による甲状腺機能低下症と診断されて、入院したり退院したりするようになったのよ。

 平成14年(2002年)に甲状腺機能低下症で原爆症認定を申請したけど、却下されてね、それで平成15年(2003年)に裁判に訴えることになったのね。原爆症認定集団訴訟の最初の原告団の一人になって、たくさんの人に応援してもらって、大阪地裁でも(平成18年/2006年)、高裁でも(平成20年/2008年)裁判に勝ったのよ。

 国を相手に、何年にも渡った裁判は平成15年が大阪地裁の判決だった。あの日、藤原弁護士、尾藤弁護士、徳岡弁護士、久米弁護士、大河原弁護士、有馬弁護士等々30人からの応援団の弁護士さんの前で、裁判長から9人の原告の一人ひとりに「却下(国の処分を取り消す=原爆症を認定する)」という判決が言い渡されたの。一人ひとりの判決が言われる都度、弁護士さんの方が涙を流して喜んで下さった。

 私はその姿を見た時、いつも電車に乗って走り回り、手弁当で私達のために何年も頑張って下さったことを思い出し、一緒になって泣いたわ。今から思っても、私の89年の人生の大きな感謝の感動だったわ。

原爆症認定訴訟の頃のひとコマ
原爆症認定訴訟の頃のひとコマ

 大阪地裁で勝ったときね、よみうりテレビでニュース番組に出て下さいと言われてね、テレビで「今日、裁判でお勝ちになられた小高さん、おめでとうございます。大変でしたね。」と言われて、いろんなことを聞かれて話した時に、今でこそこんな風におおっぴらに話せるようになったけど、以前は自分の住んでいるところさえ、住民票の籍を移したりしてね、隠したりしていたこともあるんですよ、と言ったこともあったわ。

 戦争の後ね、ずーっと、被爆者だと言うと偏見の目で見られると思って、何の得にもならないから、絶対に言わないで過ごしていたのね。今でこそ大っぴらにしゃべっているけど。本当にいろんなことがあったよね。

 お陰で今はなーんにも怖いものなくなってしまったけど。

* * * * *

 最初の頃はねえ、原爆ってこれだけ大ごとになるとは思ってもいないもんねえ。戦争中爆弾で亡くなった人はたくさんいるんだけど、爆弾にあたった人は気の毒だなあ、私はあたらんでよかったなあ、と思っていた程度だもん。

 この子がねえ、高校生の時ねえ、日赤の先生から、こんなに悪い細胞は知らないって言われてねえ。その時は、何で細胞が悪いんだろうねえ、と思ってね。原爆が原因だなんて思いもしなかった。でも、ちっとも良くならない、何かにつけて病気になる、弱い。

 それからですよ、初めて原爆ってものを知ったのは。ああそうだったのか、というようなものよ。後になってね、原爆が怖いもんだと知った。本当に知らされなかったんだもの。

■胎内被爆の美千代さん

 お母さんのお腹の中で、5ヶ月の時に被爆しているでしょ。栄養をいっぱい取らなきゃいけない時に、口を開けているところへいっぱい毒が入ってきたんだから、体が弱いのよねえ、どうしても。細胞をどんどんどんどん作っている時に(毒を)吸ったでしょ。だから。

 目がね、網膜はく離じゃないけど、そこのところが、はがれちゃったら大変なんだけど、はがれる前に破けちゃったんですよ。それが破けて、ざぁーッと砂が飛んだように見えたんで、すぐに病院に走って、レーザーで手術してもらったんですよ。それからはね、どうしてもちゃんと見えないのよね。

 今の医学ではどうしようもないのね。いつも雲がかかっているような、影がかかっているような感じでね。見にくくてね。そういうこともあってか、目から来るのかもしれないけど、小さい時から疲れやすくてね。

 45歳の時に子宮頸ガンになって子宮取ったんですけど、その後もね、胸に影があるとかで京大病院にずっと入院していたんですけど。肺にね、影、島が映るんだといってね。自覚症状はなかったけど、分らない分らないと言っているうちに、影は消えてしまったらしいんだけど。

 私はね、麻酔にすごく弱いんですよね。効きすぎるというか。そんな体質もあります。

 白血球減少症という診断もされたことあるんですよ。今はね、一応正常の範囲なんだけど、正常範囲の一番少ない所でギリギリのところに来ているのね。もう少し下がると減少症になるところね。

 だからちょっと無理するとがたっとくるんですよ、無理が効かないんですよ。疲れてきたら、車のガス欠ってあるでしょう、あんな感じになるのね。時々そうなるのね。だからそうなる前にセーブしないと駄目なんですよ。

* * * * *

この地球上で、私たちが被爆者と言われる最後の世代になって欲しいと思っています。 以上

爆心地と広島市の地図

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