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●被爆体験の継承 70

被爆者の父を持って ― 広島から平和を

庄田政江(被爆2世)

父:塩井一雄の手記
長女:庄田政江の手記

塩井さん  私の父、塩井一雄は21才で徴兵され、フィリピン派遣の予定で広島の宇品港へ到着しました。しかし、輸送船が途中で次々と撃沈される状況の中、宇品港で待機している間に船舶整備兵に転属となり、金輪島整備工場にあった船舶修理部に配属となっていました。

 原爆が投下され、金輪島から広島市内に救援で入市して被爆。昭和38年に被爆者手帳を申請し交付されています。

 以下の、父:塩井一雄の手記と左の写真は広島死没者追悼平和祈念館に寄贈したものです。

■ 父(塩井一雄)の手記

 昭和20年6月頃より米軍戦闘機が毎日のように広島の上空を通過して呉の軍港基地ばかりを爆撃し、広島には一度も襲撃せずに皆が不思議に思っておりましたところ、突如昭和20年8月6日、8時15分頃アメリカ空軍機B-29により原子爆弾が広島中心部に投下されました。

 その瞬間ピカッと光り、ドカンと大きい音と共に強い爆風で私の身体も横転して何が何だか解らず下向きに伏せておりました。ふと空を見上げると真っ黒の煙がもくもくと吹き上がり燃え続けました。私は火薬庫が爆発したものと思い込んでいましたが、アメリカの新爆弾だと分かりこれで日本は負け戦だと思いました。

 私は原爆投下と同時に部隊長の命令により、市内の己斐地区の救護に出動し、各班ごと川辺にテントを張り野宿することになりました。広島は陸海軍の基地で燃料・食料倉庫なども多く、倉庫の米が炭のように燃え、缶詰がパンパンと音を立てながら燃えていました。広島の中心部4km四方は火の海となり10日間あまり燃え続きました。燃え盛る中、まず負傷者の救護に当たりました。負傷者は私の身体にすがりながら、暑いので「水を、水をくれ」と叫びながら多くの人が倒れていきました。また、顔や手足のない人、男女の区別もつかず焼けただれた白骨体の余りの無残さに驚きました。部隊数人が遺体を川辺に集め、一列に並べる日が10日余り続きました。

 家族の名前を呼びながら探し求める親子の悲しい姿が未だに目に浮かびます。最後に焼けて熱いので川に飛び込んだ人たちの遺体が橋桁に止まり水面に浮かぶ無残な姿を見ながら引き上げる毎日でした。また、引き取り手のない遺体を一定の場所に集め隊員達で火葬する毎日で、その数500人余りと思います。

 着のみ着のまま悲しい日々が4〜5日続きました。食べ物は各家の冷蔵庫内の物やにわとりなど探して食べました。死体の整理、道路・家屋の整備など一応終わり、その後原爆のことをピカドンと言うようになりました。9月20日に部隊は解散し、除隊復員しました。実家では父が「広島で被爆したからもうお前は死んだと思った。よくぞ元気で帰って来た」と泣いて喜んでくれました。今は本当に運が良かったなと感謝しております。

 今後は核兵器の廃止・世界人類の平和と安全・戦争犠牲者のご冥福を祈っております。ただ、残念に思うのはその頃の中隊名・班名・戦友の名簿がなく未だに不明のままで残念に思っております。その頃の戦友達が今はどうしているか分かりませんが、もし分かれば教えてください。
 お願いします。

 現在は子供3人と孫6人で、家内と共に元気で楽しい人生を送っております。今年元気で金婚式を迎えることが出来ました。



■ 父から私 そして子どもたちへ 庄田政江

 私の母方の父(祖父)塩井孝一は福井県三国で塩を扱う廻船問屋の息子として生まれました。しかし明治期の鉄道の普及と塩の専売制により廃業し、追われるように三国から大阪に移り住み、父子で大阪市住之江区北加賀屋にあった藤永田造船所で働き始めました。その為、祖父は学校にも行けず、生涯カタカナしか読み書きが出来ませんでした。戦前には祖父は従業員も雇って造船所の下請けをするまでになりました。私の父は縁あって祖父の鉄工所で働き始め造船技術を身につけました。

■地獄絵の中の救護活動

 1945年8月6日、私の父は陸軍船舶司令部、通称暁部隊の船舶兵として広島の金輪島にいました。他の大多数の若者は宇品から船でアジア各地に送られ、後方支援も乏しい中、餓死したり戦闘で亡くなったりしました。兵役に取られたとはいうものの、父は戦うこともないまま毎日防空壕を掘り様々な訓練をして過ごしていました。ドック入りした船を修理する為に待機しているのに1隻も船が戻ってこないので変だなとは思っても当時は口にすることなど出来ない状況でした。

 そして、6日の朝一発の原子爆弾が落とされた瞬間、外に出るなり爆風と共に吹き飛ばされ地面に叩きつけられました。そして何も分からない状況ですぐさま広島市内に救援に駆けつけました。広島市内は一帯が焼け野原で黒焦げの屍体が折重なり男女の区別もつかない状態でした。体が小さいから子供だなと分かる程度で炭化した遺体があちこちに転がっていました。水を求めて防火用水槽で息絶えた人達が重なり、生き延びた人も全身に火傷をおい、あたりには異様な悪臭が漂い地獄絵さながらの恐ろしい光景でした。炎の中から”助けて!”と声が聞こえたら安全な場所に移し助けました。また、遺体を見つけては頑丈そうな扉の上に乗せ指定の場所まで運んで荼毘に付しました。川には熱さに耐えきれず飛び込んで亡くなった無数の遺体が膨れてプカプカ浮いていましたので、川に入って岸に並べる作業が続きました。

 作業中、父は軍服を着て帽子をかぶり、手袋をはめ、長袖シャツに長ズボンという姿で死ぬほどの熱気の中で救援活動を必死でしていました。この全身を隠す服装とみかんの缶詰や冷蔵庫の物を食べたのが放射能から身を守ったのだと思います。米は炭化していて食べることができなかったそうです。

 以上は私が子供の頃から繰り返し父から聞いた内容です。あまりにも強烈な体験で詳細なことは記憶していないようでした。

■多重がんに斃れる

 父は、広島から大阪に戻り、祖父の鉄工所で働き始め、母と結婚して婿養子となり事業を引き継ぎました。子供の頃何度か華やかな進水式を見に連れて行ってもらった思い出があります。造船が廃れてからは四日市石油コンビナートやビールの配管工事など出張が多くなりました。

 昭和37年頃、父がトイレで急に倒れた事があり、また母がテレビの番組で救援活動した兵隊が放射能被ばくによって癌で亡くなったという事実を知って、被爆者手帳を申請する事になりました。軍隊にいたのと戦後から年数もまだ浅かったので簡単に手帳をもらう事が出来たようです。しかし、50代で胃がん手術、70代で胆嚢がん手術、86歳で肺がんになり最後は手術も出来ず余命1年と言われました。好きなように過ごして良いという事で入院から2ヶ月して家に連れて帰り、5日目に急変して2010年10月に亡くなりました。

 2011年の原発事故を知らずに亡くなったのはせめてもの慰めかなと思います。実は原発の配管工事の仕事依頼が来たことがあり、温和な父が「俺は被爆者や、いくら工賃が良くてもそんな仕事できるか」って怒ったことがあったので・・・・高齢なので癌で死んでも当たり前と言われるかもしれませんが、多重がんを患ったことから、私は晩発性の放射能被ばくが原因だと思っています。ただ、普段は健康そうで特に体が弱いという様子ではありませんでした。

 子供は3人で私が長女ですが、みんな至って健康なのは被ばくしたのが父親だったのが幸いしたのかもしれません。

■二人の子に継がれる父の思い

 私は結婚して子供を二人産みましたが健康なので放射能の影響は全く無いようです。父を40年間診察してくださった村田三郎先生(注1)によると二世でも病気になる人はいるからがん検診はするようにと言われました。二人の子供にはおじいちゃんが被爆者だと教えてきました。そのせいか、映像作家の息子は3.11の原発事故後、放射能の恐怖を警告するために”BLIND” という自主作品を家族や友人の支援で製作し英語の字幕もつけて世に出しました。今も5分間の映像をYouTubeで見ることができます。原発事故から5年後の東京では防護マスクをつけて外出しなければならなくなると警告を発したのです。

 また、娘はJICAからガーナに派遣され、学生に日本語や日本文化を教えていました。任期中、友人と協力して広島から写真を取り寄せて何校かで広島原爆展をしたようです。

 小学生の頃にはアニメ「はだしのゲン」を見に連れて行きました。燃え盛る炎の下敷きになって弟が死ぬ場面では目頭を押さえて泣いたので、「お母さん大丈夫?」と二人が心配そうな顔をしていました。その後、中沢啓治さんの講演では、「20年間原爆という文字から逃げてきた。が、気が付いたらみんなの記憶から消えかけている。これではいけないと漫画で描いて残さなければと辛い気持ちを振り切って描き始めた。そして原爆投下はその威力と効果を試すための人体実験だったと思う。」と言われたのが強烈でした。

 9月には確かに米国戦略爆撃調査団があらゆる方面からの科学的な調査をするために広島に送られてきたことからも否定は出来ないと思います。カメラマンも大量のフィルムを携えてやって来たのですから・・・皮肉なことに資料館の写真や映像の殆どは米国立公文書記録から機密指定がはずれたものが展示されている訳ですから。

 こうして血の滲むような気持ちで描かれた名作も、一昨年は保護者の表現が過激すぎるという訴えから松江市の学校図書館の本棚から外され物議を醸しました。私も署名しましたが、多くの反対署名が集まり「はだしのゲン」は書棚に戻されました。中沢さんは2012年に体調を崩されて父と同じ肺がんで亡くなられました。(合掌)もし存命でこの事態を知ったらどう思われたことでしょう?

■国立広島死没者追悼平和祈念館

 13年前、私は父が元気な間に二人だけで広島に行こうと思い立ちました。資料館を2時間かけてゆっくり見ましたが、中でも暁部隊が警察よりも早く救援に駆けつけたという展示の場所で父は当時のことを思い出したのかじっと見つめていました。外の記念碑の前では長い間、手を合わせ熱心に拝んでいたので写真を撮りました。

外の記念碑の前では長い間、手を合わせ熱心に拝んでいた父


 この数年後、死没者追悼平和祈念館が完成しました。父は私の勧めで手記を祈念館に納めていました。私の娘が修学旅行で広島に行く時に、父に頼んで書いてもらった文章をもとにしたようです。私はそれを遺言と思って大事にしまっていました。核兵器の禁止や世界平和など日常では聞いたことのない言葉が書かれていて、父はこんな事思っていたんだと・・・・それで父が亡くなって少しして私は軍服を着て写真館で撮った父の写真と住吉大社で撮った母との結婚式の写真を祈念館に送り死没者としての手続きをしました。翌年5月私は母と妹とで父の写真を持って祈念館を訪れて、資料を検索してその二枚の写真を確認し、登録済みの上記の手記も読みました。

■3.11と平和記念式典への参列

 2011年8月6日には家族を代表して記念式典に参加しました。父の名前がリストに加えられる被爆者遺族にとっては厳かな式典です。式典当日の朝は公園のあちこちで子供たちが花を手渡していて、私も可愛いガールスカウトの子から菊を受け取りました。ただ、ショックだったのは朝早くから沢山の右翼の街宣車が公園を騒々しく走り周っていたので、私はその無神経さに腹が立ち、またそれを放置している現状を情けなく思いました。海外の代表や菅直人首相の列席の下、式典は終わりました。広島市長のメッセージは原発事故の後の割には弱い内容という印象で期待はずれでした。

 式典が終わるとすぐに核兵器と原発反対の”ピースウォーク”に参加しました。広島と長崎で被爆者は無残な死に方をし、生き残った者も被爆者として差別を受けて暮らしてきたのに、今また原発事故で放射能が撒き散らされているなんて私には許しがたいことです。3.11以降、被爆者を父に持った娘として核兵器反対、原発反対の活動をするのが私の使命と感じています。

■通訳案内士の仕事を通して

 私は子供の頃から原爆の恐ろしさを解っていたのと英語が好きだったので通訳ガイドになって広島や長崎のことを説明したいと思っていました。20数年前に国家試験に合格し、徐々に仕事をこなして世界各国から訪れる方を近畿を中心に広島や西日本を案内し現在に至っています。

 広島や長崎でガイドする時は軍服姿の父と結婚式の写真を見せながら説明するので、殆どの人は熱心に聞いてくださって、中には涙ぐむ女性もおられます。語り部の方の通訳をする時も情景が浮かぶととウッときそうになりましたが、伝えなければと思って我慢したこともあります。永年、被団協の理事長をされている坪井直さんは20名足らずのシンガポールの特別学級の子どもたちの前で身振り手振りで背中が燃えているのも知らずにおばさんに声をかけたことなど熱心にお話をしてくださいました。

坪井直さんと私 平和祈念館にて
坪井直さんと私 平和祈念館にて

 もう一人の語り部の明るくてダンディな松島圭次郎さんは流暢な英語で、最初に戦争でアジア諸国を悲惨な目にあわせて申し訳ないと謝ってから話を始められました。お話が終わると学生がそばに寄って握手を求め写真を撮ったりするのには嬉しそうに応じておられました。昨年体調を崩されたとの記事を偶然見て心配していましたが、惜しいことに敗血症で11月に亡くなられたようです。(合掌)広島のデータベースでお名前を検索したら資料があります。

 また、宇治に住まれている米澤さんには本を出版された時、お話を聞く機会がありました。母親と満員電車に乗って広島に行く途中、原爆が投下され子どもで背が低かったのが幸いして周りの大人に守られるような形で奇跡的に命は助かったと仰っていました。(注2)高齢にもかかわらず、現在も語り部を続け原発反対などの活動もされています。

 数年前、私がオランダのご家族を資料館に案内した時は、ご主人がキノコ雲を指差して「これはあなたのお父さんがいた島だね」と教えて下さいました。こんなに大きく見えるくらい近かったのだなと改めて思いました。西館入ってすぐ左手に数枚展示されています。母たちと訪れた時もここまで大きく見えたとは知らなかったとみんなで見入ってしまいました。

 そのすぐそばに大きな一枚の写真があります。これが松重美人さんが6日午前11時頃に御幸橋で撮った貴重な写真です。(注3)軍の報道班だった松重さんは咄嗟にカメラを片手に飛び出し、あまりの悲惨さに撮って良いものか悩みながら、なみだでファイダーがかすむ状態でシャッターを切ったのです。それは橋の西詰にある巡査派出所の前で、二人の警官が何の油かわからないが、一斗缶をぶち抜いて火傷の皮膚に塗ってあげている写真です。

 また、その中に写っているセーラー服の女の子の河内光子さんの後日談は(注4)で検索すれば読めます。

 今、被爆者の高齢化が進み1世は80〜90代で2世も60代。これからもどんどん風化が進めば核戦争に至るかもしれない。海外の方は資料館内もマンハッタン計画のところで時間をとり、西館はさっと見る方が多い。どこまで事実を話すべきか?残念ながらその場の空気を読んで加減して説明すればその分伝わらない。世界が核爆弾というパンドラの箱を開けてしまった以上、どう蓋をするのか?それはこれからの大きな課題でもあります。

 私は広島に立つと「この死を無駄にしないでくれ!」という声をどうしても感じてしまいます。母と再度死没者祈念館を訪れた際、金輪島を検索すると上官や他の兵隊の方の証言を見ることが出来ました。上官の方がビデオでしっかり記憶した事を話されていたので母と「さすがやね。お父さんとは違うわ。」と顔を見合わせました。生前父に見せてあげていたらどんなに喜んだことか・・・一緒に救援活動した戦友に会いたがっていた父の手記を読むと本当に悔やまれます。

◆注1:村田三郎医師
 原発事故後の4月に人生初めてのデモに参加して「阪南中央病院」の幟を見つけ、どうしてこんな場所に病院名があるのか不思議で話しかけました。偶然にも村田先生だったので父が亡くなったことを報告して、病院関係者の方達と御堂筋を行進しました。後に先生や病院が被爆者診療だけでなく、原発労働者長尾さんの労災認定に尽力されたこと、樋口健二カメラマンとも旧知の仲であること、水俣病患者を治療した原田正純医師と交流があり、関西で患者さんの診療と支援などもされていることをについて知りました。

◆注2:「ぼくは満員電車で原爆を浴びた」
 11歳の少年が生きぬいたヒロシマ 小学館 語り/米澤鐡志 文/由井りょう子

◆注3:「なみだのファインダー:広島原爆被災カメラマン松重美人の1945.8.6の記録」
 ぎょうせい 松重美人・著

◆注4:中国新聞 ヒロシマ平和メディアセンター 原爆写真を追う 1945−2007年 <5>御幸橋の惨状
 その他参考になる資料

□「ヒロシマを生きのびて」 被爆医師の戦後史 あけび書房 肥田舜太郎著

□内部被曝の脅威」原爆から劣化ウランまで ちくま新書 肥田舜太郎 鎌仲ひとみ(ドキュメンタリー映画監督)

□「医師たちのヒロシマ」つむぎ出版 核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会 編

■後記:被爆者体験伝承者養成事業に挑戦

 この文章は2015年に通訳案内士の通信誌に掲載したものです。対象は所属する様々な言語の通訳案内士なので案内の参考にしてもらえるよう配慮して書いています。そして今回少し加筆しました。

 この後、孫娘も2人出来たこともあり、昨夏、広島の語り部伝承者になろうかなと思い立ち、今からでも遅くはないと今年から7期生として参加しています。すでに11名の語り部さんからお話を聞き、学習会も終え、来年からは特定の語り部さんと伝承者でグループを作り実学をしていきます。人生最後に相応しい仕事になるよう、語り部の方からしっかり引き継いで、次の世代に語っていければと考えています。将来は日本人だけでなく、外国人にも英語で語れるよう努力していきたいと思っています。

 被爆1世が90歳を超え伝承も困難になりつつある中、2世3世の活動が益々重要になって来ています。親の苦しみを間近で見て来た私達には特別の使命があるような気がします。キノコ雲の下で何が起きたのか、本当に知っている人は残り少なくなっているのが厳しい現実なのです。
                        2018年11月




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