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●被爆体験の継承 71

長崎は私の白衣生活の原点

木之下フジノさん

2018年12月16日(日)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

木之下フジノさん

■弟に背中を押されて

 私は昭和2年(1927年)10月15日生まれで、今年91歳になります。原爆が落とされた時、私は17歳、三菱長崎造船所の病院の看護学校の2年生でした。あの当時の、看護学校で一緒だったクラスメートはもうみんな亡くなってしまって、今は私一人。看護学校の生徒たちがどんな体験をしたか、そのことを話せるのも私だけになってしまいました。

 私の父は軍人でしたが、私が5歳か6歳の頃に既に亡くなっていました。残された母が一人で私たち7人の兄弟姉妹を育てて、暮らしていました。ただ、長兄は士官学校の学生の時に病死していて、私が看護学校に行く頃にはもういませんでした。次兄は兵隊としてニューギニアの戦地に出兵し、終戦後も還ってくることはありませんでした。最近になって分かったことですが、次兄はあの漫画家の水木しげるさんと同じ部隊にいたようなのです。三兄は特攻隊員として霞ケ浦飛行場にいましたが、出撃する前に終戦となり無事還ってくることができました。四兄も通信兵となって宇都宮にいましたが、彼も戦争が終わって無事帰還することができました。その下が私で、私の下には旧制の県立瓊浦(けいほ)中学校に行っている弟と、市立高等女学校生の妹がいました。

 私の弟は木之下登と言いまして、同じ京都に住んでいて、2年前に亡くなったのですが、彼も長崎で悲惨な被爆体験をした一人です。弟は当時学徒動員で三菱兵器製作所に通っていましたが、8月9日は昼夜二交代制勤務の非番の日になっていて飽ノ浦町の自宅で待機していました。そのお陰で一命を取り留めることができました。この日学校に登校していた級友や工場に動員されて人たちはほとんど亡くなり、瓊浦中学の学生と教職員は全校で400有余人が犠牲となりました。たまたま生き残ることになった弟は、生涯、原爆の悲惨さを語り、二度とあの悲劇を繰り返してはならないと訴えてきました。犠牲となった級友たちのために、生き残ることのできた弟が果たさなければならない使命だと思い続けてきたのです。

 その弟が亡くなる直前、私に向かって「あんた、何してんのや?」と言ったのです。それは、同じ長崎で、同じように被爆して、どうしてそのことをみんなに語り伝えようとしないのか、という問い詰めるような、最期の言葉でした。そのことがあって、私も、少しでも語り伝える機会があるのなら、私の体験してきたことをお話ししようと思うようになったわけです。

右から父、長兄、母の兄(伯父)、母
右から父、長兄、母の兄(伯父)、母
■三菱造船病院看護学校での実習中に閃光

 8月9日の朝、私たちは造船所のドッグの近くの工場内の診療所にいました。まだ看護学生でしたが本院から外に出て、実習のために診療所に赴いていたのです。実習とか勉強とかいっても、あの頃は毎日が空襲警報、空襲警報、避難、避難の繰り返しで、逃げたり、隠れたり、また出て行ったりと、なかなか落ち着いて勉強できるような状況ではありませんでした。

 8月9日の朝11時過ぎ、原爆が落とされた瞬間は、一瞬、何がどうなったのか分かりませんでした。何か周りの全体がぶゎーっとなっただけです。気が付いたら私は窓ガラスのようなものの下になっていました。隣にいたはずの先輩の3年生の人はどこにもいない。しばらくして、先輩は歩哨兵の入る箱のような建物のそばまで吹き飛ばされていて、その下になっているのを見つけました。

 それから、私たちの実習を担当されていた医師の先生から、「この中で一番大丈夫そうなのは木之下くんだから、本院まで伝令で走りなさい」と言われました。実習中だった私たち看護学生はみんな無事であることを伝えるためです。三菱造船所の中にはレールが敷かれていてその上を小さな汽車が走っているような、そんなとても広い工場です。それに長崎の街中が大変なことになっていて、あっちもこっちも煙が上がっているような状態でしたから、そんな中を一人で伝令として走るなんて本当は嫌でした。それでも仕方ない。私は頭に日赤の十字のついたハチマキをし、モンペ姿で、海岸に沿って「伝令、伝令」と大声を出して、泣きながら、ひた走りに走りました。対岸はもうメラメラと燃え上がっていました。街並みの上空には黒々とした異様な雲がむくむくと立ち昇っていました。トンネルを3つほど超えないと着くことができないほどの距離でした。

 本院に着いてみると本院はもうガラガラでした。本院の人たちは医師も職員も、患者もみんな本院の防空壕に入っていました。私もまだ半分子どものような年齢でしたから、本院に辿り着いた途端に涙が出てきて泣いてしまいました。そこに本院のお医者さんが出てきて、その日は本院に合流するように言われました。

三菱病院浦上分院(小川虎彦氏撮影:長崎原爆資料館所蔵)
三菱病院浦上分院
(小川虎彦氏撮影:長崎原爆資料館所蔵)
■母と妹

 母はこの日田舎に食糧を求めて出かけていましたが、午後4時頃、よれよれになって家まで帰ってきたようです。妹の方は学校で負傷し、憲兵隊の処で保護されているという知らせが夕方になって我が家に届けられました。母は、私のことを心配してあちこち探し回り、私のいる本院の防空壕まで探しに来てくれました。妹の消息もその時母から聞かされました。そこで私と三菱電機に勤めていた従兄弟の二人で保護されている妹を迎えに行くことになりました。妹が保護されていた場所は6`も離れた西山の水源地近くでした。妹は破壊された校舎の2階から飛び降りて、顎や右脚に怪我を負い、たくさんのガラス片を浴びて、火傷もしていました。その日の夜は長崎の街は燃え上がっていました。その上に、アメリカ軍の飛行機が照明弾を投下してそこら中がアー、パアーと明るく光っていました。私たちはその夜はとても自宅まで帰ることはできず、防空壕で一夜を明かしました。

 翌日10日の朝早く我が家に向かいました。家に向かうには浦上川にかかる稲佐橋を渡らなければならないのですが、この時とても橋の上を歩いて渡れるような状況ではなく、仕方なく川の中に入って川底を歩くしかありませんでした。稲佐橋のあたりは川と海とが一緒になっているところで、潮が満ちている時は死体が川いっぱい浮いていました。潮が引くのを待って、私の胸のあたりまでの水位になってから、従兄弟が私の手を引っ張って、妹を背中に背負って、ようやく川を渡りました。夜が白々と明ける頃でした。

 稲佐橋の近くに大洋漁業という会社の工場がありました。イワシを缶詰めにしたトマトサーディンを製造している工場でしたが、原爆の火災でたくさんの缶詰めがはじけて、ポーンポーンと空に飛んでいました。その缶詰めを、行方不明になった子どもたちを探し回っているはずの親たちが争って拾っている有り様でした。そんな情景が、何故か強く記憶に残っているのです。

■泣きながらやった救護活動

 三菱長崎造船所の病院は本院に看護学校があって、長崎市内のあちこちの三菱関係の工場や事業所に診療所を持っていましたが、これらの診療所もほとんどが破壊されてしまいました。長崎医科大学も原爆にやられてしまい、医学部もそこにあった看護学校もなくなっていました。そこで、私たち看護学校の生徒も、1年生を除いて2年〜3年生は全員が集められて、長崎市内の被災した現場の中に入って看護をやることになりました。看護学生4〜5人づつで一つの班を作って、それぞれに担当医師がついて、市内の診療所に救援と看護に向かったのです。三菱兵器工場の後とか、浦上天主堂の下とか、あちこちの診療所を回っていきました。看護といっても、私たちはまだ勉強中の身でしたから、よく分からないこともたくさんあったのですけれど。

* * * * *

 どこの収容所や救護所でも、原爆にやられたたくさんの人がそこら中に並べられていて、兵隊さんがまだ生きている人、もう亡くなっている人と分けていくのです。私たちはそのまだ生きている人たちを何とかしてあげたいという一心で看護をやりました。

 一斗缶の中に亜鉛化でんぷんを入れて、それをよくかき混ぜて、火傷の背中にずーっと塗って歩いたり、負傷者の傷口にはウジ虫が湧くのですが、それを箒のような刷毛で掃くように取ったり。一つひとつ取っていたのではとても間に合わないのです。その時怪我や火傷をしている人たちは、ひーひーといって泣きました。痛いものですから。

 こちらでは寝かせられたまま亡くなっていく人がある、あちらでは「水くれー、水くれー」と言って呻く人がいる。私たちの班は、今でも覚えていますが深掘先生と言う産婦人科の開業のお医者さんが一緒に治療にあたっておられました。その先生からは「水やったらすぐ死ぬぞー」と言われていました。でももうすぐ死ぬのは分かっているものですから、そばにある水道管の壊れた所から水をすくってきて飲ませてあげました。先輩が横目で見ていて、叱られたりもしましたけど、どうせ亡くなるのは分かっているのだから、水をあげないのはとても可哀想だと思ったのです。

 体が焼けただれ人は裸になってしまっている人が多かったです。その頃の建物のカーテンは防空のために黒色にされていて、焼け残ったカーテンを引きちぎってきて、まるで褌のようにして被災者の体にとりあえず巻いてあげたりもしました。

 自分の足を引っ張る人がいるので、どうしたのかと見てみると、男の子が「お母ちゃん、お母ちゃん」と泣いています。見たらそばに息絶えた女の人が倒れていました。こんな時私たちはどうしたらいいのか分りませんでした。そうしたら一緒に救護しているお医者さんから「木之下くん、ある程度心に区切りをつけないと、一人ひとり聞いていたら先に進めないよ」と言われました。先生の言われる通りなのですが、なかなか容易に気持ちを切り替えることはできませんでした。

* * * * *

 私たちと同じような年頃の人も次々と亡くなっていきました。私たちはそれを見ながら、泣きながら看護をしていました。最初の頃は悲しくて泣きながらやっていましたが、それでもこれが今の現状やと思うと、次第に冷静さも取り戻していきました。

 食事は兵隊さんの持ってきてくれた豆ごはんのオニギリをかじりながら、水を飲んで喉を潤していました。一日の看護が終わると家に帰れる日もありましたけど、帰れない日もあり、そんな時は屋外で流れ星を見ながら泣く泣く眠りにつくこともありました。遺体となった人の横になって一緒に寝ることもしばしばでした。

 そのような看護活動が1週間ほど続きました。その内に長崎市内の小学校が臨時の救護所として整えられていき、たくさんの被害者が収容されていきました。亡くなった人たちが学校の教室や廊下にずらーっと並べられている情景なども頭の中にはっきりと残っていて、今でも忘れることができません。

新興善国民学校救護所(小川虎彦氏撮影:長崎原爆資料館所蔵)
新興善国民学校救護所
(小川虎彦氏撮影:長崎原爆資料館所蔵)

 私はその後の長い人生を最後まで看護師として勤めることになりました。17歳の時の、たくさんの被爆者の看護に携わった体験が私の原点となり、生涯白衣を着て人々に尽くすことになったのだと思っています。

■戦争が終わって

 原爆が落とされた時、私の家には母と私と弟と妹の4人暮らしでした。戦争が終わって2人の兄が帰ってきて家族は6人となり、2人の兄それぞれが結婚して家を出ていくまでは6人の暮らしが続きました。父のいない家族でしたが、3番目の兄が父代わりになって三菱造船で働きながら私たち家族をよく支えてくれたと思います。

 それでも暮らしは大変で、母も随分苦労をしました。母の実家が田舎の農家なので野菜や食べ物はいろいろ助けてもらっていましたが、それでも足りず、家に残されている着物などを持ち出して買い出しに行き、お米などに換えていました。ある時、母について買い出しにいったことがあります。その日はどういうわけが我が家にあった水牛の角を持ち出して、一軒一軒訪問して頼み込んでお金に換えようとしましたが、結局どこでも売れずに持ち帰ることになりました。母が可哀想で、私も悲しくて、泣きながら帰ったことを憶えています。

■京都へ

 被爆してからしばらくは体のだるさや不調が続いていました。体調が戻ってから、私は保健婦の資格をとり、伯父さんが小学校の教務をやっていた関係から、長崎市の磨屋(とぎや)小学校の養護教諭として勤めることになりました。学校の先生になったわけです。2年間、小学校の養護室で子どもたちの相手をしたり、お産の先生の代わりに1年生、2年生の子どもたちの受け持ちなどをしました。

 そして昭和23年(1948年)、21歳の時に私は思い切って京都に行くことにしたのです。母は悲しみましたけど、私も若かったので、いろいろ考えてのことでした。私の母方の親戚がお寺でしたから小さい頃からよくお寺に遊びに行っていました。その影響からだと思うのですが仏像などを観るのが大好きで、どうしても京都に行ってたくさんのお寺、たくさんの仏像に触れて見たかったのです。もう一つは、あの頃私に縁談が持ち上がっていて、それから逃げたかった思いもありました。京都では、私が信頼していた先生が京都大学の研究室におられたので、その先生を頼って行き、しばらくはその先生の下で助手のようなことをしていました。

 その後、本気で勉強するならきちんとした国立の病院に就職して勉強しなさいという助言をいただきました。幸いにも当時の国立宇多野療養所(現在の国立宇多野病院)の面接を受けて合格し、昭和26年(1951年)からそこで仕事をすることになりました。宇多野診療所(後の宇多野病院)にはその後長く勤めることになりました。

宇多野診療所の頃
宇多野診療所の頃
■被爆者としての検査

 三菱造船病院の看護学校にいた当時、主に教えを受けたのは堤先生という方でした。この先生は自分の意思で、自分の教え子たちのために、一人ひとりの原爆投下時の体験や行動を記録して書類にし、それをそれぞれの進路先に対して送り届け、検査を受けさせるよう依頼されていました。私が宇多野診療所に来た時、宇多野診療所には広島で同じように被爆された岡先生と言われる方がおられました。この岡先生との出会いがあって、私に京大病院で検査を受けるよう指示していただきました。検査の結果、白血球や赤血球が少ないと診断され、白血球は2000もないと言われました。

 私は原爆によって怪我や火傷はほとんどしていませんでした。また被爆直後にたくさんの人たちが発症した下痢や高熱、脱毛といった放射能被ばくの急性症状も経験していませんでした。しかし京大病院での検査結果から血液などに異常のあることが分かり、その後も検査は一年間続けることになりました。その内の3カ月間、一升瓶でおしっこを採って京大病院に運んで調べてもらったりもしました。とても辛い時でした。

 まだまだ被爆者に対する援護制度などない頃でしたが、京都の地では、原爆の影響を受けていると認められた最初の頃の一人ではなかったかと思います。今から思えば、原因がはっきり分からないままに体がしんどい日もありました。それでもまだ若かったので、特に気に留めることもなく乗り越えることができていたのだと思います。

■看護師としての人生

 昭和35年(1960年)、私に看護の幹部講習会を受講する機会が訪れました。当時としては看護婦として最高の勉強の機会だったと思います。京都からは国立病院、第一日赤、そして宇多野から私の3人が選ばれ、全国から53人集められた講習会でした。東京の看護協会に詰めて、1ヵ月間、徹底した勉強をすることができました。講習会では日野原重明先生の講義などもあり、あの時の教えがずっと後々まで生きていきました。この幹部講習を受けた人たちが、全国に帰って、それぞれの所で看護婦を指導していくわけです。そのお陰で、看護婦を指導する立場の資格を持つことができました。身分も厚生技官というものになっていました。国立ですから看護婦であっても技官なのですね。

* * * * *

 厚生省の職員として昇級試験を受けた時の思い出があります。初めて昇級試験を受けた時に論文筆記もあったのですが、私は「ベトナム戦争について」と題した論文を書いてしまいました。自分が長崎の被爆者であること、兄たちが戦死もしいていて戦争のつらい体験をしていること、そういう思いが強くて、そして当時ベトナム戦争が大きな問題になっている時でもありました。看護のこととは直接関係しないベトナム戦争のことを書きましたので、その時はひどく怒られ、試験は不合格になりました。でも2回目はちゃんとした論文を書いて合格しています。

* * * * *

 その後宇多野病院を退職してからも、いくつかの病院や職場を経験してきました。宇多野病院の後は、国立ではないけれど準公務員の人たちのためにあった鞍馬口病院の要請を受けて看護の仕事をしました。鞍馬口病院にも看護学校があって、全国から看護師になるための勉強する人たちが来ており、そういう人たちのための仕事でした。あの頃は鞍馬口病院では労働組合の活動がとても強くて、退勤時間にはどんなに患者さんが残されていてもみんな引き揚げてしまうのです。そのため役職の人たちだけが残って患者さんの世話をしなければなりませんでした。そんな思い出もあります。昭和42年か43年頃のことですね。

 それから武田病院でも仕事をしました。私にとって初めての民間の病院でした。そこでも准看学校があって、そこの実習生のための仕事でした。さらにその後は伏見区にある久野病院に勤めて、そこで定年を迎えました。定年になってやれやれと思っていたのですが、京都府の厚生労働部から嘱託として来てくれないかということになり、週3日ですが、京都府下の各病院の看護職員の雇用関係の実態を調査して記録する仕事をやることになりました。実際に通勤した所は西陣の職業安定所でした。看護師ではなく公務員としての事務仕事はどうしてもなじめなくて、その頃からコンピューターが導入されるようになって、それも分からなくて、2年ほどで退職しています。

 その後再び久野病院で総婦長として4年間仕事をし、最後は縁あって修学院病院で、一週間に一日勤務と言う顧問ではありましたが、看護部長を勤めあげることになりました。この年になるまで自分でも本当によくやってきたと思います。

■若い看護師さんたちに伝えたいこと

 私は若い看護師さんたちに常々言ってきたことがあります。

 看護にもいろいろあります。みなさんは今の進んだ看護というものを勉強していて、機械や薬やどんどん新しいものを使うようになっています。しかし、看護の「看」と言う文字は「手と目」で形作られています。「手で触り、目で見る」という意味です。そのようにして人を護まもるのです。その文字に込められた意味をよく考えるようにして欲しいのです。今は新しい機械を使った診察や治療、看護がどんどん進められていますが、昔の私たちは、原爆が落とされた時も、自分も一緒に血だらけになりながら、患者の人たちに直接触れて、自分の目で見て、涙を流しながら、なんとか命永らえるよう、健康な体を取り戻せるよう祈りながら、手を尽くしてきたのです。時代は変わっても、機械や技術は進歩しても、看護の一番大切な精神、心はいつまでも変わらない。そのことを忘れないで欲しいのです。

■命ある限り、被爆体験と平和を訴え続けていきたい

 白衣の生活を長く続けてくることはできましたが、私の体が万全であったわけではありません。平成10年(1998年)、71歳の時、脊柱管狭窄症と診断されて2回も手術を受けました。平成20年(2008年)、81歳の時には大腸がんを発症しこの時も摘出手術を行いました。その他にも様々な病気を抱え、今も治療や経過観察を続けている状態です。脊柱管狭窄症は完治せず、今も体の中にボルトが2本入ったままとなり、一生取り出すことはできなくなっています。そのため右足は半マヒとなり、補装具をつけないと立つことも、歩くこともできません。身体障害者3級の認定を受けているのです。

 今一人暮らしですが、一人では食事も作れない、掃除や洗濯などの家事もできない、お風呂にも入れません。それでも介護保険の介護認定は「要介護1」です。介護保険サービスを利用してヘルパーさんに来てもらっていますが、介護保険で利用できるサービスの範囲ではとてもまともな暮らしなどできないのです。

 被爆者援護法による介護手当の申請もしたいと予定していますが、なんとか高齢の被爆者がしっかりと暮らし続けていけるよう援護制度の充実が必要だと痛感しています。そしてできる限り生き抜いて、被爆の体験を若い人々に語り続け、核のない本当に平和な世界をこの目で見たいと願っています。
                       (了)




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