ここに紹介する文章は、高木啓成さんが次男の高木英孝さんに語られた被爆と戦争の体験です。京都「被爆2世・3世の会」でテープ起こししてまとめさせていただきました。お話しされたのは2015年12月と2016年4月の2回、1929年(昭和4年)6月10日生まれの高木啓成さんが86歳の時でした。今もご健在です。
お話しされた時の語り口をできるだけ忠実に再現するよう心掛けました。
うちの家(家族)はその頃、
父と母と、長男、次男、長女、次女、三男、四男がわし(啓成)、五男、六男の10人家族やった
この間にまだきょうだいが3人おったが早ように亡くなっていて、生きてるだけで8人のきょうだいやった
長男も次男もわしのことを物凄く可愛がってくれた
わしが病気になった時には自転車に乗せて病院まで連れて行ってくれたりしてな
きょうだいでも年が離れていたこともあって
長男はマレーシアのジョホール水道で(シンガポールのゲバス)で戦死した。陸軍曹長やった
お父さんは勉強の好きな人でようできたらしい
学校の先生の資格もとったほどでな
わしら子どもに「勉強せえ、勉強せえ」とは言うとらんかった。でも「勉強するからには、大学まで行け」と言うとった
お父さんは苦労した人でな
百姓で、田んぼもようけ作ってるのに、人力車夫までやっとった
山も五つも六つもあった
マツタケのとれる山でみんなが欲しがった山や
あれをお父さんが残してくれてたら、わしらもホンマにもう少し助かったのに
山は売ってしもうとるからな
わしは勉強よりも牛の顔を見るのが好きな子やった
小学校を卒業する頃までは毎日牛と会うのを楽しみにしとった
学校から帰ったら、牛の方から喜んで来るぐらいやった
餌をもって牛に「回ってこい」言う合図したら、その通りに回って来とった
勉強なんか頭からする気はなかった
歴史だけは割と好きやったが
わしらの子ども時代いうたら剣道やろ、武道やろ。
棒切れで叩く、払う、受ける
相撲もな、投げられても投げられてもかかっていかにゃあいけんのや
今の時代の子どもやったら、可哀そうで、第一、親が許さんわな
今の時代やったら無理やわな。戦争中やからそれができた
今の時代とは比較はできんし、比較もしたらいかん
その頃は田舎でもコメはそんなに豊富には使えん(食べられん)かった
うちの家なんかは麦飯、麦とコメと半々ぐらい
じょうごの葉が3割〜4割ぐらい入っとった
山へ行ったら、じょうごの葉があるんや。木を切って、葉っぱを籠に詰めて、背負うて帰って、大きな釜で煮て、あくをとって、干して、それを食糧にしとったんや
その頃はサツマイモをよう食べたよ。サツマイモはもう嫌言うほど、ぞっとするぐらい
イモは芋づるまで残しておいて食べた。
イモの葉っぱももちろん
終戦近くなるとサツマイモもくえんになったな、欲しゅうても
戦争になったらそんなもんよ
軍の方へどんどんどんどん持っていかれるからな
日本は中国まで行っとったじゃろ、中国へも食糧をどんどん送っとるやろ、輸送船が沈没されん限りは
だから食糧事情はものすごく大変じゃった
戦争の話、原爆の話、たくさん憶えとったけど、自然に忘れるわな
原爆が落とされた時、わしは16(歳)やったんや、あれから70年になるか、今年で
戦後70年が終わったからな、70年も経ったら随分忘れるわ
いろいろ聞かれても話したくない人もあるわなー
だけども原爆の恐ろしさということは伝えて欲しい
だからあんたらにな、いろんなことを、戦争のことを話しておくんや
わしらが小学校5〜6年生の頃にな、学校の文具売りにロシア人のガッツコーさんいう人がおってな、「日本は確実に負けます」と言うとったんよ
その頃のロシアは日本との友好国や、まさかロシアが裏切るようなことをするとは思いもよらんかったが
日本とロシアはな、友好条約結んでいて、仲良く戦争しないようにという約束ができとった
絶対ロシアとは戦争せんということになっとった
でも、すでに密かにアメリカのルーズベルトとロシアのスターリンの間に、日本に戦争仕掛けるように約束されとった
だから日本の敗戦はもう決まっとったんや
ガツコーさんは、戦争を避けるために言うとったんかもしれん
わしらの時代は「戦争に負ける」言うたら絶対にいかんことやった
校長先生が川尻の講堂に全員を集めてな、「ロシア人のガツコーさんが日本は戦争に負ける言うとるけど、ハチマキとフンドシを締め直してがんばろー」と言うとった。
川尻のような田舎でも空襲の訓練をしとった
「空襲―」と言ったら、とっととっとと川尻の神社まで走って、もっと走れ!と言われて、爆弾が落ちるぞーと言われて
田舎に爆弾が落とされることはなかったと思うけど
水も手動で、当番で、神社のところでくみ上げて、学校やら、いろんな所で水がいるやろ、交代でしんどい思いをした
田舎の婦人会でもな、大日本婦人会言うて、村長の奥さんなんかが会長になって、「前へ進め!」「止まれ!」と、教練みたいなこと、全部婦人会でやりよったよ
一億火の玉になって勝たないかんと言って。
わしが一番嫌やったのは、夜、灯りが外に漏れんように、電灯の周りに布を巻いていたことやな、どの家もそうしてたけど
白壁なんかも墨を塗ったりな、爆撃されんように
わしは15歳の時、東洋工業に就職することになった
わしらの頃は男手が少ないから、何でもかんでも簡単に採用されたんよ
わしは東洋工業に就職する時、生まれて初めて汽車に乗ったんよ
一人で三川駅から乗ったんや
あの時、お父さんは全然見送りもしてくれんかった
あの頃はそれで当り前じゃと思ったよ
財布も持たされんで、小さいがま口みたいなもの一つで
だけどそれでむしろお金のありがたさが分かったような気がする
お父さんも苦労しとるからなあ
今の時代やったら、お父さんも東洋工業まで一緒に行って、「うちの息子をよろしく頼みます」と言うわな
あの頃はそんなどころじゃないわな、戦争で
広島駅に着いて、近くにいる人に、「東洋工業のある『むかいよう』(向洋)へ行くのはどちらでしょうか?」と聞いたんよ
親切な人が「それは『むかいなだ』と言うんですよ」と教えてくれて、乗り場まで誘うてくれちゃったんじゃ
人に聞きもって行くのも一つのためになったんやと思うたよ
あの頃東洋工業は軍需工場やからな
「米英撃滅、鬼畜米英」と言うとった
東洋工業は向洋駅からずーっとずーっと長い工場よ
工場の中は行っても行ってもまだ行き着かんほどじゃった
初めて入った時は、どんなとこかいなと思うたな
地下でドーン、ドーンと音がしよる
作った銃を試射する音かと思ったな
電波探知機とか、何とかたくさん作っとったはずなんや
東洋工業に入って最初は勉強ばかりやったな
わしら小学校でローマ字も習ろうとらんじゃろ
東洋工業に入ったら、エンジンのことを覚えるためにな、どうしてもローマ字が必要なんよ
それで、ずーっとローマ字の勉強も教えてもろうたよ
工場に入っても勉強してることの方が多かったな
わしが一番印象に残っているのは
トイレに入っている時な、今爆弾でも落ちてきたら、トイレの中で死なんならんのじゃな、とトイレに入る度に思うとった
東洋工業の創立記念日にはな、会社はふんばってようしてくれたよ
紅白の餅も配られて、そりゃあ美味しかった
餅もたくさん、ミカンもたくさん、それと牡蠣飯
お米を従業員に食べさせようにもそれがないので牡蠣
米は戦地に送らにゃあいけんから米がないわけよ
東洋工業から休みをとって田舎に里帰りする時は、3日なら3日分の大豆何合かを会社から持って帰らせよったよ。
割と待遇はよかったよ
東洋工業では寮長さんがいて、それは軍隊を出たような人や、大先輩やった
けどその人たちがみんな優しかったな
絶対暴力なんか振るわれることはなかった
原爆が落とされる何ヶ月前か、B24が飛んできてな
アメリカも命がけや飛行兵は、そりゃあ戦争やから
3機編隊で広島市の上空を飛んできたんや
宇品には陸軍の船舶部隊、呉には海軍、呉も軍需工場、軍港やったからな
水兵さんがようけおったわ
低空でグワーッときて、写真撮って、原爆の後でどれだけ効果があったか調べるためだと思うよ
一発バァッと火の手が上がって、飛行機が避けたような音がして、バァーッと墜落した
宇品の部隊が撃ち落としたんや、高射砲で
「おい、宇品の方に墜落したぞー」と言ってみんな喜んだよ
敵じゃからな
墜落した敵機のアメリカ兵は捕虜になった
その捕虜さんも原爆で亡くなったと思うよ
それからまた1ヶ月ぐらいしてから
敵の飛行機が宣伝ビラを、カルタみたいなものを何万枚もバァーッとばら撒いた
それをワシらに読ませようと思ったんじゃろな
「東京、大阪焼け野原、疎開するなら広島へ」とか書いてあった
嘘かほんまか知らんがそう書いてあった
原爆の効果を上げるために書いたのかもしれんけど
昭和20年8月6日の朝やな
警戒警報が鳴って、空襲警報になって、それから空襲警報は解除になって、警戒警報も解除になったんで、みんな安心してたな
朝8時丁度に、東洋工業の朝礼が始まるのや
みんな軍隊式や
東洋工業の職場にも陸軍の将校が必ず指導に来とるんや
8時にラジオ体操が始まるんや
♪晴れたよ富士の嶺・・・、朝だ夜明けだ輝く希望、
日本良い国仰げよ天地、曲げよ伸ばせよ我が腕、
振るえよ産業日本の力、起こせよ・・・。
ラジオ体操が終わったら工場の作業部長が話をしはるわけや
朝礼が終わったら、「各人、作業配置につけー」、命令やで全部
それで現場の配置につくわけや
それから5分もせん間に、おかしいなあ、トラックのエンジンのような音が聞こえたんや
そこへ、ピカァーッと、建屋の中で、目の眩むような、夜中に稲妻が走ったような、あれよりもっと強い光が走ったんじゃ
そこへドーンと来たんや、それからグラグラっとなって
帽子は10bぐらいとんどった
工場の屋根はスレートのような、コンクリートで固めた波板のようなものじゃったけど、全部吹っ飛んでしもうた
「みんなすぐ避難せよー」という命令があって、何でもかんでもみんな命令やからな
みんなダァーッと門を出て、どんどんどんどん近くの山へ登って逃げたんや
とにかく工場にそのまま居ったら殺される思うて
今はその山は潰されてないけど、その頃は向洋の近くに山があったんよ
みんな裸足になってたよ
帽子がどこにいったも分からん、靴のことも考える暇がなかった
山に上がったら、山の上から広島の街が全部見えるわけよ
火の手があがって広島の街がグワーッと燃えてくるわけや
宇品の方からバァーッと燃えてきよる
どんどんどんどん火が回ってな
原爆ちゅうもんを山から見た時には
新聞紙、色紙、銀紙、金紙みたいなものがダァーッと舞ったようで、原爆の雲の中からバンバンバンバン無数の紙切れがギラギラ風に乗って吹き飛ばされてきたような感じがしたな
山には1時間か2時間はいたように思うよ
それから「もう大丈夫や、敵機も逃げたから、各人現場の配置につくため下山せえ、山から降りい」という命令や
全部命令式やからの
その時は、こりゃもう現場には帰りたくない思うたな、ほんまは
帰ったらまた爆撃機が来るやろ思うて
けど命令やからしようがない、みんな帰ったんや
もちろん工場長がいの一番に帰ってたけどな
山から下りて、東洋工業に帰るまでに見た風景言うたらな、
物凄い大勢の人が、顔が大きゅう膨れてな、歩いて逃げていくんじゃ
玉ねぎやトマトの皮をずるーッと剥いたような、着物は焼けとる、みんな
体が焼けて、プワーッとこんな大きな水ぶくれになって、顔見ても誰か分からんぐらいなんじゃ
みんな焼けるんじゃけぇ、皮膚が、服を着とっても自分で脱がれんのじゃ
顔が腫れて誰かわからんのじゃ、口はしっかり喋れるんじゃが
誰が誰かもう識別できんかった
そんな人がいっぱい、大洲町の方からざぁ―っと歩いて来とった
お祭りの時、人がようけい出て身動きがとれんことがあるが、あんな具合や
たくさんの人がざぁーっと、広島市内から国道沿いに呉の方に向かってな、ずーっと逃げのびていった
もうほんま、お化けよ、お化けみたいな恰好で
もう地獄、地獄さながらじゃった
その大勢の人がわしらの東洋工業の中にも入ってきて
一番可哀そうだったのは子どもやな、もう無茶苦茶で
水ぶくれしとるんや
水が溜まってな、ちゃぷんちゃぷんするような
男の子でも女の子でも、着とるものもありゃせんので、焼けてしもうて
子どもは可哀そうやったなー
わしらはどうでもええけど、子どもが可哀そうやった
原爆は誰かれ区別なく子どもでも苦しませるからな
それを見たら、今度はワシらの番かな、とみんな言うとったよ
火傷だけは嫌じゃなあ思うたよ
わしらの東洋工業のグランドにもずいぶん人が入ってきて
薬はないけぇ、ガーゼに天ぷら油をつけてな、それを貼っとった
その内ガーゼも足らんようになって、油だけになった
天ぷら油は臭いんじゃ
その時の臭いと、後に家に帰って天ぷら食べる時の臭いが重なってな、1〜2年は天ぷら食べるのに抵抗があったよ
昼前頃には婦人会の人らが出てきて、あの人らも涙ぐみながら
わしらにな「ご苦労様、ご苦労様」言うて
ジャガイモを蒸して、塩をふって
あれはほっぺが死ぬほど美味しかった
あれは今でも忘れんな
あの時のことを考えたら、食べ物は大事にせないかんなと思うてな
東洋工業には下新さんという軍医さんがいてな
わしらにようご飯も食べさせてくれたいい人じゃった
この下新さんとか、東洋工業に入って2年か3年経った人や、先輩らはみな広島市内の建物疎開作業に行っとったんよ
わしらみたいな入って1年しかならんものは、幸いにも使いものにならん思われて、建物疎開には行っとらんかった
建物疎開作業言うたら、空襲で街が全部焼けてしまわんよう、家を解体してしまうことや
京都の五条通りみたいに、あれもそうやな
真夏の作業やからな、肌は焼けるわな
服から焼けるんじゃから
夕方になって、その人らが帰ってきちゃったら、皮が剥けて、見らりゃあせん顔で、誰が誰が分からんのや
それで防諜番号言うてな、それでやっと分かるほどやった
帰ってきた人らを、みんながガーゼを巻いて天ぷら油つけてあげたよ
広島の市内に行ってた人らは、自分の“生きちゃる”という強い意思で帰ってきた人ばっかりやったと思うが、帰ってはきたものの、おそらくほとんどその後亡くなったと思うよ
その晩かなんか、ようけいの人が死んだからな
東洋工業も従業員がようけ死んどるわけや
原爆が落ちて何日目からやったか忘れたけど、東洋工業のグランドに穴を掘ってな、たくさんの薪を集めてきて、油も用意されて、たくさんの亡くなった人を燃やしたんや
広島市内の死骸を焼かにゃあいかんやろ
亡くなった人の住所の分かっとる人は、その人たちの家族や親戚なんかをよんで、数珠持ってな、その前で焼いたんや
従業員の故郷といっても結構向洋とか海田(かいた)とか近くの人が多かったからな
どんどんどんどん焼かんならんのじゃ
臭いんじゃそれが
魚を焼いたような、魚が腐ったような臭い
それを何人も何人も焼かんならんのや
広島市の方も誰ということなく、亡くなったらもうすぐ処分せなあかんやろ
あれには、ほんまにみんな泣けたな
それから何日か経って、わしらも東洋工業から出ていくことになったんや
許可が出てな、命令やから
あんだけやられたらもう工場は動かんけえな
みな殺したら日本の損やと思うから、帰したんと思うよ
もう危ないから、従業員を殺したらいかんから
向洋の駅から広島行の汽車に乗ったけど、広島駅は潰れとる言うことは分からんけえ、途中でな汽車が止まるわけや
広島駅と向洋駅の中間ぐらいの橋の上か何かやった
こりゃ汽車が動かんけぇ、みんな歩かなしようがない言うてな
みんな芸備線の矢賀まで歩いた
わしらは幸いにもどこも怪我しとらんかったから、矢賀の駅まで歩いたが
長い時間歩いて、もう歩くのはしんどかった
けが人を広島から三次まで送らにゃあいけんので、矢賀からは汽車が折り返しで動いとったんよ
矢賀で今度は三次行の汽車に乗ってな、三川駅で降りて、川尻のうちの村まで帰ったんや
矢賀の駅で次に来る汽車を待っとったら、子どもが「お母さん、いつ、どこの親戚に行くの?」ともう意識ももうろうとしながら喋っとった
お母さんも声が出なかったようや
子どもの命はもう持たないようやったが、連れて帰らんわけにはいかんかったんやろな
他の子どもも泣いて泣いて、顔がもう分からんようになって
矢賀の駅から途中着く駅着く駅で、大日本婦人会の人ら、白い割烹着、あれを着てな
「ご苦労さんでした、ご苦労さんでした」言うて、たくさんの婦人会の人らがむすびを渡してくれた
むすびをもらって、もうほっぺが落ちるほど、涙が出るほど美味しかった
今、喋っていても涙が出るほど、ありがたかった
三次で福塩線に乗り換えて
備後三川がわしの故郷に一番近い駅や
その駅から歩いて帰ったわけや
田舎に帰ってからは安心じゃった
敵機が来て爆撃することもなかったから
その後、息子をいつ殺されるか分からん、こんな危ないところに置いとくわけにはいかんということで、父親が東洋工業へ退職願いを出してくれたんや
普通は簡単にはなかなか辞めさせてくれないから、病気だとか何とか理由をつけてうまくやってくれたのではないか
東洋工業はそれで終わりになった
京都にいた次兄の兄さんは、広島の焼け跡を見てからは、どうしてかわしを可愛がってくれるようになったんよ
戦争から帰ってきたころの兄さんは怖かったけど、姉さんと結婚してからはずーっと変わった。目茶苦茶優しゅうなった。もう月とスッポンのように
まだ広島が焼け野原の頃で、家なんかも全然建っていなかった頃、兄さんはわしを連れて広島の比治山に連れてって、旅館に泊まって、二人でご馳走食べて、美味しかった
あの時、あまりに怖かったのとショックでな、だいぶ脳を痛めたのか、忘れたこと多いな
月日が経つほど忘れるわ
ましてわしももう今度87(歳)やろ、あと3年したら90(歳)や
たくさんの子どもが死んどった、怪我もしとった
子どもが可哀そうで
戦争だけは何とかして避けて欲しかった
わしらの頃は戦争行って「無事に帰ってきてくれ」とは言われんかった、言うたらあかんかった
「死んで帰れと励まされ」
♪勝ってくるぞと勇ましく誓って故郷(くに)を出たからにゃ
手柄立てずに死なりょうか
進軍ラッパ聞くたびに瞼に浮かぶ母の顔
戦争行ってたくさんの人が死んだけど、死ぬ時はたくさんの人が「お父さん、お母さん」言うて死んどるわけや
「天皇陛下万歳」もたくさん言うとるのやろうけど、みんな「お父さん助けてくれー、お母さん助けてくれー」言うて死んどる
悲しいねー
何とかされなんだかな、と言うことやな。
こういう経験した話をしているとな
泣きとうなって必ず涙が出る
命が助かったのと、みんな可哀そうなことをしたというのとで
戦争は、どんなことでもやったらやり返される
またやられたらやり返す
その繰り返しにどうしてもなるからな
聞いたことがあるかもしれんが、曽我兄弟のお父さんが切り殺されて、30年経ってやっと、それでも果たせなんだ
わしらは何回も読んだけどな
結局、お父さんの仇をとってもまた自分もやられる、またやり返される
二度とああいう戦争はして欲しゅうない
みんながあんな苦しい怖い思いは、二度と後の人たちに味合わせたくない
昭和4年頃から戦後すぐの頃までの世代、年のいっている者はみんなひどい目におうとる
敗戦になってやれやれじゃった
「負けましておめでとう」じゃった
戦争が苦しかったからみんながそういう心じゃった
やれやれ戦争がやっと終わったかという
これからの時代、戦争になったらこれほど苦しいことになる、ということをみんなに伝えておかんといかん
みんなに戦争だけはしてはいかんということを教えるために
戦争を起こすのは政府やからな
何が何でも命を大事にするという人が総理になったり、本当に賢い人が総理になったら戦争はしないだろうけど
日本が早く戦争止めとけば、たくさんの命を失うことはなかった
長男も死ぬことはなかった
うちだけじゃなくて、ようけい死んどるわな
全国のお母さんがずいぶんそれで泣かされとる、息子を殺されて
戦争はお母さんを泣かせるんや
(了)