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●被爆体験の継承 84

母と姉をかかえて1里半の道のりを避難

寺本 八重子さん

2020年9月10日(木)
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

寺本 八重子さん

■原爆が落とされた時

 私は大正15年(1926年)5月15日の生まれで今年94歳になりますんや。原爆が落ちた時は19歳ですよ。生まれたところは広島の向洋駅近くの堀越というところです。東洋工業の大きな工場と日本製鋼所のこれも大きな工場の丁度間ぐらいの所なんですけどね。

 原爆が落ちた日、私はたまたま家にいたんですが、お母さんは広島の街の建物疎開作業の勤労奉仕に行ってたんですよ。町内のもんがみんな大勢、道路を広げんならんから言うて、堀越からたくさん行ってたんですよ。私のお姉ちゃんはこの頃もう片付いて(結婚して)いましたけど、嫁ぎ先が同じ町内で、その嫁ぎ先の家の代表ということで、私のお母さんと一緒に建物疎開の作業に行ってたんですよ。

 この頃の私の家族は、お父さんとお母さんと、子どもは7人おったんですが、兄はもう戦死していて、姉が嫁いでいて、私が3人目。私の下に4人きょうだいがいて、3人が女、男の子は一人だけでした。私はこの頃日本製鋼所に勤めていて、会計係で給与計算なんかの仕事をしてました。日本製鋼所って室蘭に本社のある大きな会社でしたよ。

 原爆が落ちた時、私、最初は飛行機を見たんですよ。「ああ、飛行機が飛んでいるわ」と縁側から見てて、何か落ちるのも見ました。そしたら、突然、ピカーッと光って、ああ恐い!と思って、すぐに影に隠れたんです。お蔭で私は大した火傷も負うていないんです。近所でも、外におった人なんかみんな手足が真っ赤になって、火傷でドロドロになっていましたよ。

 家のガラスは全部割れていろんなところにグサグサと突き刺さっていました。外では、大勢の人が「痛いよー、痛いよー」と言しいながら逃げてと、帰ってくるようになりました。

■母と姉をかかえて避難

 原爆が落ちて少し落ち着いてから、「こりゃ、お母さんやお姉ちゃんはどこへ行っとるんやろな―」と心配になって、一人で探しに行くことにしたんです。探しには出掛けましたけど、どこにいるのかなかなか分かりません。ウロウロと的場町の方まで行って、やっと大正橋のあたりで見つけたんです。お姉ちゃんがお母さんをかかえるようにして、よろよろになりながら歩いていました。こりゃ私が二人を連れて家まで帰らんと野垂れ死にすると思ったから、それからは私一人がお母さんとお姉ちゃんの二人をかかえて堀越まで連れて帰ったんです。1里半(約6`b)ぐらいの距離やったと思います。今考えたら大人を二人もかかえて、ようあんだけの距離を帰ったもんやと思いますよ。そりゃあ必死でしたからね。私は今でも体の大きい方ですけど、あの頃はバレーボールの選手をやってて、鍛えていましたから、そのお蔭ですね。それにあの頃はみんな痩せていましたしねえ。

 でもお姉さんは体中火傷していて、その日のうちに亡くなってしまいました。

 お父さんはその日、勤め先の日本製鋼所に行っていて、ちょっとぐらいは火傷してました。妹たちも火傷をしながら、それでも家まで帰ってきました。

現在の大正橋西詰(広島市南区)
現在の大正橋西詰(広島市南区)

 たった一人の男の子だった弟は、原爆が落ちた時、広島市内の中学校に行ってましたんや。1年生か2年生でしたわ。宇品まで逃げて、そこから御用船みたいな船に乗せてもらって、瀬戸内海を渡って尾道まで行ってましたんや。「もうあかんやろうなあ」と家のもんはみんな言ってたんですが、兵隊さんのトラックに乗せてもらって尾道から帰ってきたんですよ。男の子は一人でしたから、「ああ生きてたんか」「よう生きててくれた」と、お母さんも、みんなも一緒に喜びあいましたよ。

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 お母さんはそれから1年は生きていましたけど、火傷や怪我から回復することなく亡くなりました。夏の頃は、ハエがいっぱい来て、くさいくさい、原爆で腐ったような臭いのする中で、とてともひどい状態手だったことを憶えていますよ。

■結婚、生涯を京都で

 結婚したのは昭和21年、広島で、私が20歳の時でした。女のきょうだいが下にいっぱい続いてましたので上の方を早よう出さないけん(結婚させないけん)というようなことでしたわ。相手の人は広島の西条の人で、兵隊に出ていて帰ってきた人でした。私の結婚の支度はお母さんが全部やってくれました。その後なんですよ、私の結婚を見届けるようにしてお母さんが亡くなったのは。

 結婚した後に、私の夫の妹の主人が京都で商売してはって、京都に来ないかと言われて、それで京都に来たんですよ。それ以来生涯を京都で暮らすことになりました。

 被爆者手帳は制度ができてすぐの頃に発行してもらっていますよ。

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 私は女学校に行ってる頃からバレーボールの選手をしていたんですよ。前衛のセンターで、トスを上げてもらってアタックするのが私の役目でした。あの頃身長も1b64aぐらいあって、女の人としては背の高い方で、体は鍛えられていましたからね。若い頃から運動はよくしていました。だからだと思うんですけど、あんまり病気らしい病気はせんと生きてこれました。原爆の後で体にはいくつも斑点ができていましたけど、そのうちに綺麗に治なおっていました。今お医者さんにはかかっていますけど、どこも悪いところはないか時々検査してもらっているぐらいですよ。

 ただ、20年前に腰の骨を骨折して、それからちゃんとは歩けんようになったんです。今もずっとコルセットしています。コルセットは何度も変えてきましたよ。時間が経つと体に合わんようになるんですね。コルセットしてなかったら歩けんもんですから、今ではいつも放さないようにしています。

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 私の主人は肺の病気で70歳で亡くなってしまいました。私の子どもは、長男と長女と二人いるんてどす。長男は今私と一緒に住んでいて、私の面倒を見とてくれているんですわ。長女の方は横浜にいます。息子には「あんたも『2世・3世の会』に入ったら」と言うんですけど、「ええ、ええ(嫌や嫌や)」と言うてますわ。

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 こんな私の原爆の話、京都に来てから人に話すと、「あんまり話すと自慢気に聞こえるよ」と言われたこともありましてね。でも私は「しゃべりますよ」と言って、思い出してはいろいろおしゃべりしてきましたよ。みんな原爆の恐ろしさは知らんでしょうからね。

 私も自分で手記を出したらええなと思いながら、もう90を超えましたからね、もうよう出しませんけどね。

 94歳まで長生きさせてもらいましたよ。ようここまで生きてきたと思いますよ、自分でもね。孫もいて、ひ孫も3人ほどいて、時々は横浜から元気な写真送ってくれていますよ。
                       (了)





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原爆投下時の広島市近郊地図

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