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●被爆体験の継承 88

5日間だけの遅すぎた原爆症認定

佐伯 俊昭さん

2005年5月20日
原爆症認定集団訴訟の記録から

 佐伯俊昭さんは65歳の時喉頭がんを発症し、全摘手術。原爆被爆が原因であり原爆症認定申請するが厚生労働省は却下処分。5年後原爆症認定集団訴訟に参加して提訴。発声機能を失っていた佐伯さんは3時間を超える本人尋問をすべて筆談で答えぬく。一審勝訴。控訴審の途中で国は被爆者と世論に押されて原爆症認定審査基準を緩和。佐伯さんも遂に原爆症認定を勝ち取ることができた。しかしそれはこの世を去る5日前のこと。佐伯さんにとって命と引きかえの原爆症認定となった。

 裁判の資料と被爆者のたたかいを綴った傍聴記から、佐伯さんの被爆体験と原爆に負けなかった人生を紹介します。

2005年5月20日・大阪地裁 原爆症認定訴訟本人尋問の記録から

■広島商業中学の校庭で被爆−全身火傷

 私は1933年(昭和8年)1月24日生まれです。1945年(昭和20年)、広島で原爆に遭った時は12歳、広島商業中学校の1年生でした。

 あの日の朝は、学校の校庭にいました。学徒動員で建物疎開作業に行くため、校庭で整列していた時でした。ずっと後になって自分で調べたのですが、爆心地からの距離は1.7`ほどでした。学校は比治山橋の東詰めの近くにありました。1961年(昭和36年 )に私は被爆者健康手帳の交付を受けていますが、その時、手帳には被爆距離2.0`と書かれていました。これは私がそう言ったのではなく、県庁の職員の人が最初からそう書き込んでいたのです。 手帳をもらった時には距離のことなんかあまり気にもしていませんでした。

* * * * *

 原爆が落とされた時、マグネシウムをたいたような白昼光の、強烈な光を浴びました。次の瞬間、花火が爆発したような大音響に襲われ、それから物凄い爆風です。爆風で私は吹っ飛ばされてしまいました。木造2階建ての校舎が倒れてきて私はその下敷きになったのです。倒れた校舎の下から必死になって瓦礫を取り除き、なんとか脱出することができました。そして学校の裏山になる比治山に避難したのです。

 その日の私の服装は、上はランニング一枚、下は半ズボンにゲートルを巻いていました。避難してから少し落ち着いてみると、着ていたランニングやズボン、ゲートルから露出していた体の部分は全部火傷していました。顔も右半分は火傷、手も右手全体が火傷していました。肩のところから指の先までです。火傷したところは皮膚が焼けただれてぶら下がっていました。足もズボンとゲートルの間から出ていた膝の部分が火傷していました。今でも全身にケロイドが残っています。

 避難した比治山ではずっと屋外にいました。比治山には大勢の人が避難していました。比治山にいる時に雨に打たれたことも覚えています。

* * * * *

 私の家は広島市の中水主町にありました。今の平和公園から南方向です。原爆が落とされた時、自宅には母親と妹の二人がいました。私は夕方、薄暗くなってきた頃、比治山を降りて、家に帰るつもりで歩き始めました。歩いたのはいつも通学で歩いている経路でした。歩いている周囲の状況は悲惨なものでした。建物は全部倒れて、火事で燃えていました。人もたくさん倒れていました。道路の周りに何十人という焼死体が転がっていました。生きていながら瀕死の状態の人もたくさんありました。歩く途中、火事の熱でとにかく熱かったことを覚えています。あまりの熱さにとうとう家までは辿り着くことができませんでした。家までもう少しという所でしたが 、明治橋を渡ったすぐのあたりで立ち往生してしまいました。しかたなく歩いてきた経路をまた逆戻りして日赤病院まで行きました。

現在の明治橋東詰北側にある原爆慰霊碑
現在の明治橋東詰北側にある原爆慰霊碑

 日赤病院は玄関前も、病院の中も、人の入る余地がないぐらい、大勢の人でいっぱいでした。ひどいけがや火傷を負った人々であふれかえっていました。悪臭と小便のにおいが強烈だったことも覚えています。その夜はとうとう一睡もできませんでした。

■火傷の激痛とひどい倦怠感

 翌日の8月7日、私はもう一度自宅へと向かいました。しかし自宅は完全に燃え尽きていました。残っていたのは瓦礫だけでした。後になって分かったことですが、母親と妹は自宅で爆死していました。それからその日は学校に帰ることにしました。途中、のどが渇いて、焼け跡の破れた水道管から出ていた水を飲みました。何度も何度も飲みました。学校に戻ってみると、学校から南方向にあった専売公社に救援センターができたと聞きましたので、そこに治療を受けに行きました。

 それから更に、私の友人を探しに雑魚場町付近まで行きました。小学校の時の友人です。数日前に友人は雑魚場町付近に建物 疎開作業に行くと聞いていたからです。しかし雑魚場町一帯も燃え 尽きていて瓦礫しかありませんでした。友人と会うこともできませんでした。やむを得ないので私はその日もう一度学校に戻ることにしました。

* * * * *

 それからの私は、体中の怪我と火傷のために全身の痛みが激しく、ほとんど寝たきりのような状態になってしまいました。気力をふりしぼって辛うじて歩けたのはトイレと食事の配給を受ける時だけでした。火傷した箇所の治療といっても、それは油を塗るだけたでした。体の露出している部分に物が当たったりすると激痛が走りました。火傷の痛みに加えて、体がとにかくだるくてしようがない症状にも襲われてきました。そのために寝たきりの状態が何日も続きました。

 私の家族は空襲でばらばらになった時には、広島市郊外の可部というところにある二宮さんという家に避難することになっていました。学校の校庭で体を動かせない状態になっているので、誰かが迎えに来てくれると思っていました。子どもを探しに来た父親と似ているような姿の人を見つけては、「お父さん」と呼びかけたり、叫んだりしていました。そんなことを繰り返しながら、父親が探しに来てくれないか、迎えに来てくれないかと待ち続けていました。

* * * * *

 8月10日頃になって、突然父親が迎えに来てくれました。私は大八車に乗せられて、父親含めて大人4人がかりで横川駅まで運ばれました。運ばれていく途中、現在の原爆ドーム跡で休憩をとりま した。当時の産業奨励館です。一帯も完全な焼け野原でした。横川駅まで着き、そこからは車で可部の二宮さんの家まで運ばれました。

被爆直後の原爆ドームの遠景写真
■初期に発症した原爆症の数々

 二宮さんの家には8月16日まで、約一週間いました。その後は可部にあった陸軍病院に入院することになりました。とにかく火傷の化膿がひどくて、それの治療のために入院したのです。

 入院はしましたけど、化膿は止まらず、まったく治りませんでした。このため、入院して一ヶ月ほど経った頃、医師から右腕の切断を勧められたこともありました。入院中はまったくの寝たきり状態で、トイレにも自分一人ではいけない状態になっていました。

 可部の陸軍病院にはその年(昭和20年)の10月末まで入院していました。退院した後も寝たきり状態はずっと変わらず、そんな状態が翌年(昭和21年)の5月頃まで続きました。

* * * * *

 火傷以外には、被爆してからは歯茎から出血することもありました。初めて歯茎からの出血に気付いたのは陸軍病院に入院してからです。左手で口を拭いたり、うがいをしていて血が混じっているのに気付いたのです。出血が多い時も少ない時もありましたけど、約1年ぐらいは続きました。

 被爆した直後には激しい下痢にも襲われました。最初は、水のような下痢でした。それが1週間ぐらい続いて、その後は軟便となり、お腹が悪い状態が続きました。半年ぐらいは続いたと思います。

 体を動かすことができないのは火傷の激痛だけではなく、ひどい倦怠感に襲われたことも原因でした。この倦怠感はその後もずっと続き、今に至るもその症状は変わりません。私は小学生の頃は学校も無欠席で元気な子どもだったのですが、被爆を境に私の体はとんでもなく健康を損なうことになってしまいました。

■原爆ぶらぶら病とたたかい続け、最後は喉頭がんを発症

 戦後、学校制度が変って6.3.3制度となり、広島商業中学校はなくなり、私は三原中学へ編入学しました。その後、高校へ進学、大学へと進学しました。大学卒業後証券会社に就職し、1963年(昭和38年)まで勤めました。昭和38年に会社が合併してなくなり、その後は自動車会社のディラーに25年間勤めるなどしてきました。最終的に仕事を退職したのは1998年(平成10年)、65歳の時です。

 会社勤務をしていた頃も倦怠感に襲われ続け、体の疲れがひどく 、仕事が長続きしない状態が続いていました。何度も何度も休憩をとりながらでないと仕事を続けられませんでした。40歳頃に肝炎や糖尿も患いました。

 40歳を超える頃から体のだるさ、疲れは年を追うごとにひどくなり、10年ほど前からは、週1回の点滴、3年ほど前からは毎日点滴を必要とするほどになりました。点滴をしなかったら極度の疲れを感じて、食欲もなくなってしまうほどでした。

* * * * *

 1998年(平成10年)、私は喉頭腫瘍を発症しました。7月から3ヶ月間放射線治療を行いました。その年の11月には原爆症認定申請も行っています。放射線治療で一度は治ったと思ったのですが、退院後、再発しているのが見つかり、今度は腫瘍の摘出手術をせざるを得なくなりました。翌年の1999年(平成11年)5 月、喉頭の全摘手術を行いました。腫瘍以外にも左側のリンパ節も 摘出しています。手術後は現在、3ヶ月に1回の割合で定期的に通院も続けています。

* * * * *

 以上が私の被爆した時の状況と、戦後の健康障害の履歴、そして喉頭がん発症と治療、手術の経緯です。

 最後に裁判官に行っておきたいこととして次のように申し述べます。

 被爆60年過ぎても、私のような人々が他にも大勢いることを聞きます。戦争は罪悪ですが、(そのことは)裁判官には分かっています。正当な判決をお願いします。

『〔原爆症裁判傍聴日誌〕にんげんをかえせ』
長谷川千秋/著(かもがわ出版)より

■がんばった!筆談で3時間3分の本人尋問 − 2005年

 2005年(平成17年)5月20日、大阪地裁。ここでも、原爆症認定申請を却下された被爆者たちが、国を相手に、体を張ってたたかっていた。「戦後の自ら受けた苦しみを国に認めさせることにより、自分たちと同じ苦しみを世界中の誰にも再び味あわせることのないように願って、核兵器のない世界をつくる礎となろうとする」(原告告訴状から)強い意志に基づくたたかいだ。

 前回から個別原告の証拠調べに入った近畿の裁判は、第13回のこの日、202号法廷で、大阪市の佐伯俊昭さん(72)と兵庫県篠山市の深谷日出子さん(78)=いずれも広島の被爆者=に対する尋問が行われた。

 本人尋問は1人約1時間半(原告側主尋問、被告側反対尋問、裁判官尋問合わせ)の割り振りとされてきたが、この日の一人目、佐伯さんは、午前から昼食休憩をはさんで午後に及ぶ異例の長さとなった。佐伯さんは1999年、喉頭腫瘍摘出手術を行った結果、発 声が不能となり、筆談で尋問に答えることになったからだ。午前10時30分、開廷。宣誓書代読の後、原告側弁護団から大槻倫子弁護士が質問に立つ。証言台の前に座った佐伯さんの横には中森俊久弁護士がつく。「あなたは認定申請時の健康診断個人票には『爆心地から2`で被爆』とあったが、今回の申し立てで1.7`としたのは、地図で分かったからか?」と大槻弁護士。佐伯さんがうなずきながらメモにペンを走らせる。「はい、そうです」と中森弁護士 がメモの答えを読み上げる。「原爆投下の瞬間はどんなだったか?」。こうなると、質問は短くても、佐伯さんは具体的に答えるために、必死にメモしていかなくてはならない。中森弁護士が書き上げ られる前から少しずつ読んでいく。「・・・目が、マグネシウムをたくような白昼光だった。・・・次の瞬間、・・・花火が爆発したような・・・大音響が発生しました」。被告側代理人が、どんなメモをしているのか、様子をさぐるように佐伯さんのそばに近寄ってのぞきこむ。

 当時12歳、比治山橋近くにあった県立広島商業学校の中学一年生だった佐伯さんは、家屋撤去の勤労奉仕に出かけるため、校庭に整列したとき、被爆した。全身に火傷を負い、皮膚がだらりと垂れ下がったこと、ケロイドが今も残っていること、爆心地により近い自宅にいた母と妹の被爆死、父も県庁で被爆、全身にガラス片を浴び、後に原爆症の認定患者になったが、急性白血病で亡くなったこと・・・。被爆の事実を答えていくだけで1時間かかった。両弁護士が役割を交代して、被爆後の体調の変化を中心にさらに筆談が続き、午後零時8分、昼食休憩に。

* * * * *

 午後1時半、再開。被告国側の反対尋問がこまごまとした事実関係を主に約40分。さらに原告側弁護士の補充質問と、田中健治裁判官の尋問があり、終了は2時55分。午前の部と合わせると3時間3分にも及ぶ筆談での質疑応答だった。佐伯さんはその間、一瞬たりとも気を抜くことがなかった。午前の部で説明した体の火傷に関連して、田中裁判官との間で「被爆当日は、上はランニング一枚だったのか、下は?」「ズボンとゲートルを巻いていた。火傷の跡 があります」などのやり取りがあり、西川知一郎裁判長が「ズボンにゲートルの絵が書けますか」と尋ねたとき、読み上げられた佐伯さんの答えに、傍聴席がどよめいた。「裁判長の許可があれば、上半身、裸になりましょうか」。西川裁判長は「それは結構です」と制したが、佐伯さんは文字通り、ケロイド姿をさらして体中で話したかったに違いない。裁判長に言われてズボンとゲートルの絵も懸命に書いた。筆談に追いやられることになった喉頭腫瘍の原因となる事情は、まさに被爆以外に考えられない(起因性)と、佐伯さんは原爆症認定を求めているのである。

 弁護士に促されて、裁判官への締めくくりのひと言。「被爆60年過ぎても、私のような人々が他にも大勢いる。戦争は罪悪だが、裁判官は分かっています。正当な判決をお願いします」。

 続いて、深谷さんへの尋問があって、この日は午後4時37分、閉廷。

■「筆談」の佐伯さんに認定書。でも遅すぎた ― 2008年

 「原爆にあい、戦後を必死に生きて原爆が原因の病気にかかり、 命の宣告を受けてから国を相手に裁判を起こす。原爆を許すことの出来ない人生をかけた裁判を起こす気力はいかばかりだったろうか。人生の最後の5日間にたたかいは間に合ったのかどうか。前のめりの素晴らしい人生、原爆に負けなかった人生を学ばせてもらったおもいがします。ありがとうございます。安らかにお眠り下さい」(京都原爆訴訟支援ネットのホームページ「掲示板」に寄せられた市民の声から)

 厚生労働省の新しい基準に基づく審査で原爆症と認定され、4月11日、入院先の病院で認定書を受け取った原爆症認定集団訴訟・近畿の第一陣9人の1人、佐伯俊昭さん(75)=大阪市=が、16日朝、亡くなった。「5日間だけの『認定』 間に合った でも遅すぎた」(毎日新聞4月17日付朝刊社会面)など新聞に大きく報じられた。

 佐伯さんは12歳のとき、広島の爆心地から約1.7`の中学校に建物撤去作業のため登校、校庭で整列中に被爆。吹き飛ばされて倒壊した校舎の下敷きとなった。長い被爆人生の始まりだった。様々な病に襲われ、1999年には喉頭がんで全摘手術を受け、発声できなくなった。98年に原爆症認定申請したが、99年に却下され、異議申し立ても通らず、2003年、集団訴訟のたたかいに参加したのだった。

一審勝訴の日 2006年5月12日 右から2人目が佐伯さん
一審勝訴の日 2006年5月12日 右から2人目が佐伯さん

 大阪地裁の法廷では「筆談」で3時間以上も尋問に応じ、毎日放送(MBS)のドキュメンタリー番組はじめケロイドの裸をテレビカメラにさらして被爆の実相を訴えてきた。2006年5月、大阪地裁で全面勝訴。なのに国の不当な控訴でたたかいは続いていた。今年に入って喉頭がんが再発、体調が急速に悪化し、認定証書交付も集中治療室でだった。これまで佐伯さんを支え、励まし続けてきた京都原水協事務局の被爆者相談員、田淵啓子さんは、認定交付の翌日、原告団長代行の広島の被爆者、木村民子さん(71)=大阪市=と一緒に病院にかけつけた。佐伯さんは寝たまま、しかし両手でしっかりと認定書を持った。田淵さんが「よかったね。おめでとう」と声をかけると、開いた両目から涙が流れ、体中を震わせたという。

 佐伯さんにとって、まさに命と引きかえの原爆症認定だった。

 厚生労働省は4月7日、疾病・障害認定審査会原子爆弾被爆者医療分科会の部会で、新認定基準に基づく初審査を行い、全国の集団訴訟原告16人を含む63人を原爆症と認定した。佐伯さんはこの中の一人だった。

 日本被団協と集団訴訟の原告、弁護団は同9日、厚労省との協議の中で、@これまでの被爆者切り捨て行政を反省し、被爆者に謝罪せよ。A原告全員の原爆症を認定せよ。B訴訟遂行に要した費用を解決金として支払え−と3点の具体的要求を出した。

 同省は、これに直接答えぬまま、同21日、引き続き審査会を開き、集団訴訟原告32人を含む86人を原爆症と認定した。新基準による認定者はこれで原告48人を含む149人となり、昨年度の認定数128人を一ヵ月で上回った。

 たしかに一歩前進である。だが、厚労省の今のやり方には、血の通った行政の姿勢がまるで感じられない。これまでの認定制度の誤りに対する反省の弁も、被爆者への謝罪の言葉もないからだ。忘れもしない。昨年12月12日、大阪高裁での近畿訴訟控訴審最終弁論で、被告国側代理人は「原告らはほとんど被曝していない」と繰り返し、「原因確率」に基づく審査方法に固執、「これ以上何が問題なのでしょうか」とまで開き直っていたのである。しかし、全国で繰り広げた305人の原告たちの命をかけた訴えが司法と世論を動かし、「原因確率」論は破たん、それを前提にした新たな審査方法となったのだ。「間違っていました。すみませんでした」とまず原告たちに頭を下げるのが最低限の常識というものではないか。

 近畿訴訟の第一陣では、佐伯さんと同じ初審査で、広島の被爆者、井上正巳さん(77)=兵庫県川西市=が皮膚がんで原爆症と認定されたが、兵庫県から認定書が4月14日、配達証明郵便で送られてきただけだった。続いて原告団長代行の木村民子さんの胃がんが原爆症と認定されたが、これも大阪府から4月25日午後、電話で連絡があり、翌日、認定書が速達で郵送されてきたのだった。

 井上さんも、木村さんも、素直には喜べない。「全員でないので心苦しい」と井上さん。木村さんも言う。「とても複雑な気持ちで受け取った。うれしいことはうれしいが、飛び跳ねるような気持ではない。まだ、他の仲間たちが認定されていないから」。思えば近畿訴訟の原告たちは、裁判で「勝つ人と負ける人がでたらどうしよう」と不安を抱きながらたたかってきた。それだけに大阪地裁で「全員勝訴」の喜びはひとしおだった。だが、厚労省は、原告たちに新たな「線引き」で再びつらい思いを強いつつあるのだ。305人の集団訴訟原告のうち3分の1程度は認定されない恐れがあるとされる新審査基準そのものが抱えた欠陥がそうさせているのである。

                     以降 略

筆談に使ったノートのコピー

3時間を超えた佐伯俊昭さんの筆談
3時間を超えた佐伯俊昭さんの筆談

病床の佐伯俊明さんに手渡された、命とひきかきえの原爆症認定証書 2008年4月12日
病床の佐伯俊明さんに手渡された、
命とひきかきえの原爆症認定証書 2008年4月12日




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