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●被爆体験の継承 9

“核爆弾”被爆体験記

小笠原長四郎さん

2013年8月6日 第25回乙訓「非核・平和の鐘をつくつどい」(於:光明寺)でのお話
小笠原さんのお話と原稿を組み合わせて京都「被爆2世・3世の会」が成文化

小笠原さん
■工業専門学校から三菱電機長崎製作所への学徒動員

 私もそう先は長くは無さそうな齢になり、年金でありがたい毎日を送らせて頂いている身としては、何となく申し訳ないような気分のところに、旧知の米重さんから被爆体験の話をしてみないかと依頼がありました。世の中に少しでも役に立つならと、お受けしたような次第です。

 私が被爆したのは長崎市片渕町4丁目にあった長崎高等商業学校(現在の長崎大学経済学部)においてでした。学徒動員で学生の居なくなった校舎二階の、北側に面した廊下を隔てた教室内でした。自宅はその少し南、片渕町2丁目にありました。

 対米英戦争開戦から4年経っていて、戦況は次第に厳しさを増し、健康な若者はすべて戦力として動員され、学生も学業は中断、文系は直接兵力として軍隊へ、理系は軍需工場で働いていた頃です。

 熊本工業専門学校に在籍していた私は、電気工学科2年に進学すると間もなく、三菱電機長崎製作所に動員され、設計課に配属されました。三菱電機の設計課は上記の長崎高商の校舎に疎開しており、私は自宅から通勤することになりました。同窓の約20名は旧市内の大きな料亭を接収した寮からの通勤でした。

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 その頃の戦況は益々悪化し、ある日の昼間、空襲警報が出されてしばらくするとゆったりとした爆音が聞こえてきました。申し訳程度の小さな手作りの防空壕のある庭へ出て空を見上げてみたら、頭の真上をB29が北東から西南へ、三菱造船所の方向へゆったりと飛行していました。

 次の瞬間飛行機の胴体が左右に開き、十個程度の爆弾がバラバラとばら撒かれ、落下していくのが見えました。数秒後、爆裂音が遠くに聞こえましたが、爆弾は造船所の心臓部ともいうべき機械工場に命中したとの事でした。その時の爆撃によって長崎造船所は機能停止するほどの被害だったようです。

 工場は飽の浦の、当時の総合事務所の南に海岸沿いに隣接し、工場の西、山側は道路を隔てて民家の密集する場所であったのですが、爆弾は民家には一つも落下せず、すべて工場へ命中しており、後日、米軍の技術の優秀さに感嘆したものでした。現在の総合事務所は岩瀬道町(=私の生誕地)の丘の上に建っています。

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 長崎高等商業学校=長崎高商は、当時文明開化の余韻が残る国内有数の都市であった長崎に、東京、神戸に次いで明治38年に開校された名門高商の一つでした。校舎は木造二階建て、中庭を囲む正方形、中庭側に教室、外側を囲むように幅2m程の廊下が通じる重厚な建造物でした。

 ガラス窓は上下移動式で、頑丈な窓枠内に仕込まれたオモリと上部の滑車を介してロープでつながり、任意の高さで停止できる構造でした。

長崎の彩色絵葉書


 三菱電機は少し前に名古屋製作所が爆撃されて機能停止し、その分を長崎製作所で作るために、設計図を長崎流に書き換えねばならず、私達の動員での仕事は、コピー機の無い時代、製図板の前で鉛筆で書き換える作業でした。

 職場には中学時代の同窓で野球部をやっていた高島君のお兄さんや(私は陸上部だった)、小学校時代に住んでいた立山町内の近所の同年輩の若者も居て、気苦労の無い毎日でした。高商の学生の居ない教室は間仕切りを撤去して、3教室ほどが一部屋になっていました。

 職場では爆弾や焼夷弾の被害をできるだけ少なくするよう、指揮命令系統が組織されていて、敵機の様子を監視する役目の人もいたようでした。

■私の誕生日の日の被爆体験

 8月9日は実は私の21歳の誕生日でした。当日は、雲は多いが晴天で、11時頃から警戒警報が出され、やがて空襲警報に替わり、何となく忙しない雰囲気の中にありました。監視役からの「敵機が見える」の声に、次々と廊下の窓から空を見上げました。二人が並べる程の窓から私も空を見ると、かなり厚い雲の切れ目の青空に、白いものが浮かんでゆっくりと流れていました。

 「私にも見せて」と、製図板の3個ほど左で製図している同年輩の女性が窓際に来ました。私がその女性に場所を譲って、振り向き、廊下から室内に入った途端、周囲は強烈な光に照らされました。光は一色ではなく赤や青や黄色の3色に変化したように記憶しています。真っ昼間に照明弾、それもわざわざ変色する照明弾とは、変な事をするもんだと考えていたら、次に強烈な爆裂音で建物も激しく振動する程の轟音が襲ってきました。

 さぞかし大きな爆弾に違いないと感じましたが爆風が無いのも変だと考えていたら、さらに次の瞬間、強烈な爆風が背後から襲ってきました。高島さんの「伏せー」の声に、慌てて床に伏せ、いつも指示されている通りに両手で両目両耳を覆いました。

 風はとてつもなく強烈で、木造の建物がぎしぎしと軋む音と共に、揺れが次第に大きくなるのが分かりました。倒壊したらどうしよう、これで終わりかと観念しかけている内に揺れも収まり、一時の静寂の中「退避ー」の声で吾に返りました。

 立ち上がって周りを見ると、棚は倒れ書類は散乱、急いで廊下へ出てみたら、窓枠はすべて壁から外れて教室側の壁に当たって傾いていました。飛散したガラスを避けながら、傾斜した窓枠の下を通り抜け、階段を下りて横穴式の防空壕へと駆けつけました。集まった全員、何が起こったのかも分からず、不安顔で会話もありませんでした。

 北側の金毘羅山の方向からは間断なく落下物が舞い降りてきて、その都度「退避ー」の声で壕に逃げ込みました。やがて落下物の様子から、それは危険物ではない事が分かり、しばらく横穴の外で時を過ごしました。

 校舎の爆心側の屋外弓道場で空を監視していた人達は、爆風で山の木が大きくこちら側になびいて揺れて来るのを見た次の瞬間、気が付いたら弓道場の建屋の中に吹き飛ばされていたとのことでした。

 夕刻前になって帰宅する途中、小学校入学前くらいの男児の、裸の腹が黒焦げになっているのを眼にしましたが、核爆弾などの知識はまったく無いので、変だなと思った程度で帰宅しました。

 絶え間なくひらひらと舞い落ちていた落下物は、爆心地方面の激しい熱風に煽られて猛烈な上昇気流に持ち上げられたものだったと後日気付きました。

 被爆の数ヶ月前、同盟国ドイツが強烈な新型爆弾を開発したとのニュースを耳にしたことがあります。これで苦しい戦況も好転し有利になるかもなどと、些か安堵したことがありましたが、被爆当日の帰路、もしやこれでやられたのか?との思いが脳裏をかすめたのを記憶しています。

■我が家の被害

 家には母と弟がいましたが共に怪我はなく、散乱した家具を前に呆然自失の状態でした。我が家では誕生日にはいつもみつ豆がご馳走されていましたが、この日以来縁のないものになってしまいました。

 屋根は当時としては珍しいセメント瓦で、上下が噛み合わさってずれ落ちない構造になっていました。屋根の棟筋は爆心方向と直角で、爆心側の傾斜は強風に耐えて正常でしたが、風下側は爆風が下から巻き上げ、瓦はすべて棟側へ上がって重なっている状態でした。

 広島では黒い雨が降ったそうですが、長崎の私の家の方では幸いにも雨がなく晴天が続いたので雨の被害は被りませんでした。数日後屋根に上がって一枚一枚修復する作業を一人でやり遂げました。

■運命だと片付けられない辛い体験

 後日、当時のことを思い出してみると、お腹を黒焦げにしたあの子はどうなっただろうか、恐らくそう長くは生きられなかったに違いないと思います。それにしても、校舎の窓から私に替わって窓を見上げたあの女性は?と考えると、何ともやりきれない思いでいっぱいになります。

 画家の平山郁夫氏が広島で被爆されたのは、屋外で落下傘を見て、友人にあれを教えてあげようと思い、屋内に入った瞬間だったと述べられています。私の場合、同年輩の彼女の「見せて」が無ければ、珍しいもの見たさで私の方が真正面から爆発の瞬間を見、完璧に被爆していたに違いありません。

 当時、どさくさの中で彼女の事を思いやる余裕もありませんでしたが、後年その事を思いついて以来、私の身代わりとなって被爆した彼女に対して何とも申し訳ないとの思いが強くなり、そのことが脳裏をかすめない日はないようになりました。私の方は今日まで五体満足、何ともなく生きてこれたのですから。運命として片付けることの出来ない辛い経験でした。

* * * * *

 被爆数日後、職場にはなすべき仕事は無く、爆心地の後片付けに行くことになりました。三菱電機は浦上方面にも作業所がありました。片渕から長崎駅の方へ差し掛かると、被害の大きさは急に激しくなり、その凄さ、無残さを眼のあたりにしました。アメリカに対する敵愾心を痛烈に感じた事を覚えています。

■“核”の凄まじさ

 最後に核の凄まじさについて一言言わせて下さい。

 私は原子爆弾と言うのは嫌いで“核爆弾”と言っています。同じように原子力発電と言うのも嫌いで“核発電”と言っています。核と原子とは違うのですから。

 かって在職中に必要に迫られて学んだ化学の大学受験参考書に拠れば、原子の中心にあって、中間子の作用で強力に結合されている核は、核だけを集めて1立方センチにすると、その質量は6千万トンになるとの事です。水と比較すると、水は1立方mで1トン(浴槽の2倍ほどだそうですが)、100m四方に並べると1万トン、これを6千万トンにするには6千mも積み上げねばならない。それは富士山の上に愛宕山と比叡山を積み重ねたより、もっと高くなります。

 アインシュタインによれば質量はエネルギーであるとの事ですから、核がいかに大きなエネルギーを持っているかは感覚的にも想像できます。

 ウランは原子番号が92なので、その中心にそれぞれ92個の陽子と中性子が中間子を介して強力に結合し、大きなエネルギーを貯えています。核爆弾、核発電はその核を破壊して結合エネルギーを取り出しますが、破壊した核の後始末の技術は未だ開発されていないのです。

 私の未熟な想像に拠れば、大きなエネルギーを取り出した後始末には、それ相応のエネルギーが要るのではあるまいか思います。とすると事実上修復は不可能ということになります。破壊された核は、様々な有害な放射線を出す、地球の有史以来地球上に存在しなかった手に負えない異物なのです。

小笠原さんのお話を聞いている人々


 化石燃料を燃やせば大気を汚染すると言いますが、燃えるとは、主として炭素の結合相手が水素から酸素に変わるだけのことで、炭酸ガスは出来るが炭素や酸素、水素原子はそのまま存在します。45億年の歴史を持つ地球はそれらを復旧する能力は持っていますが、突然人間が作った破壊物である核を復旧する能力は当分獲得できそうにないと思うのです。

 ちなみに、温室内に炭酸ガスを放出して作物の生育を助長する農業は既に行われていると聞きます。地球の大部分を覆う海洋も炭酸ガスの吸収体です。

 それに反して、このような核の異物を作るのは、当に「究極の自然破壊」とも言うべき、大自然に対する罪悪だと考えるわけです。破壊された核が出す強烈な放射線の被害に遭うのは、人間だけではありません。遺伝子で生命を繋ぐ地球上の生物全てが被害者である事を認識しなければなりません。

 核破壊は他の生命体を殺さないと生きていけない罪深い人間の、罪の上塗りをする行為です。

 人間は自然に対し謙虚に慎み深く生きるべきものと心得ます。



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