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●被爆体験の継承 92

三佐尾 高行(みさおたかゆき)さんに捧げる

核兵器禁止条約発効の報しらせ

2021年5月15日 吉田妙子(被爆二世)

 1990年1月21日、一人の被爆者が急逝しました。50歳の若さ、急性心不全でした。彼の名前は三佐尾高行さん、1964年 にできた京都原水爆被災者懇談会の最初の事務局長でした。

在りし日の三佐尾高行さん(1989年)
在りし日の三佐尾高行さん(1989年)

 私と三佐尾さんとの出会いは、1969年、私が大学1回生のとき、学園祭で「原爆パネル展」をするため、先輩に連れられて、当時、高島屋の裏にあった労働会館にパネルを借りに行った時でした。「私の父も広島で被爆しています」というと、「それなら被爆者懇談会に入らないか」と誘われました。そして、学生時代の4年間、「懇談会のつどい」に親御さんに連れられて来る子どもたちの遊び相手になったり、そのころから広島や東京で開催されていた二世交流会に参加したりしていました。


 50年も前のことです。当時、懇談会に集まられる被爆者のみなさんは、30代、40代が中心ではなかったでしょうか?だからこそ、「働き盛りのはずなのに、しんどくて思うように働けない」「収入が少ない上に、医療費などがかかり、生活が苦しい」「子どもたちの将来も心配」・・・そのような切実な思いが、激しい言葉となって京都府や京都市の担当者にぶつけられました。「懇談会のつどい」の会場が、まるで団体交渉のような雰囲気だったのを覚えています。代表の故永原誠さん(立命館大学教授)は、そんな被爆者の気持ちに寄りそいながら、いつも諭すように府や市の担当者に実情を説いておられました。


 当時の「懇談会のつどい」は、原水協理事長の細井友晋さん(立本寺管長)、理事の福岡精道さん(清水寺教学部長)のお力添えがあったのでしょう、清水寺や聖護院、光明寺など京都の有名寺院を会場に、年1回から2回、まる一日、ひらかれていました。民医連のスタッフによる健康相談コーナーもありました。蜷川京都府知事が会場にあいさつに来られるなど、京都府、京都市が被爆地広島、長崎から遠く離れているにもかかわらず、真剣に被爆者施策にとりくんでいたように思います。健康診断、公営住宅の優先入居、市バスの割引、人間ドッグの実施など、一つひとつが交渉の中で実現していったのが当時の懇談会のニュースでわかります。


 この懇談会ニュースをまとめていたのが、三佐尾高行さんでした。懇談会創立に尽力され、世話人として熱心に活動されたお母さん(故三佐尾こまさん)を助け、1973年からは事務局長として、被爆者の相談活動や署名・募金活動、被爆体験の語り部などにかかわってこられました。切実な要求にもとづく府・市交渉、その成果を知らせるニュースの発行・・・そんな懇談会の地道な活動が、被爆者のみなさんの心をつかみ、結束を強めていったように思います。当時原水協の事務局長をしておられた西沢昭三さんが彼をしっかりフォローされていました。西沢さんの「ミサオ君」「ミサオ君」と言っておられた声が今も耳に残っています。


 彼は、1939年5月、広島市翠町に生まれています。
 「よく晴れた雲一つない日でした。6歳のとき、爆心地から2.3キロの地点で被爆しました。家の前で遊んでいたときです。ピカッと光り、いやな臭いのする土煙が一面に空から降ってきました。爆風で飛ばされたのでしょう、どれぐらいたったか、気がついたときは、3軒ほど先の家の防空壕でした。顔が真っ黒で、火傷で皮ふ が指先から垂れ下がった人、人・・・。ガラスなどの破片で怪我をし、血だらけの人、全裸に近い状態で避難する人の行列が夕方まで続きました。それを防空壕から見ていました。爆心地の近くに叔父を捜しに祖母と行きました。一面焼け野原となった市街地、川には全裸で茶褐色、そしてパンパンにふくれ、これが人間の姿か、と思われるような無残な姿、満潮時には波打ち際に、川一面にわたって、悪臭をたてて、漂っていました。・・・」(『京の語り部』から)


 彼は、小さいときから心臓が悪く、さまざまな病気をかかえ、お母さんの手厚い庇護のもと、大きくなったと聞いています。コーヒーやカメラ、焼き物、絵画などに造詣が深く、優雅な趣味をもっておられましたが、何か寂しいところがある人でした。満身創痍の身体、病気とのたたかいが、青春時代や働き盛りの頃の彼に、家庭をもつという普通の生活をさせなかったのでは・・・。一発の原爆が一人の人間の人生を変えた、三佐尾さんのことを思い出すといつもそんなことを思います。


 34歳で京都原水爆被災者懇談会の事務局長になってからも、35歳と45歳のとき、2回の心臓の大手術をうけました。休職しながらも、また復帰する、そういう健康状態でした。当時、彼が事務所に来たり来なかったりの日があり、「なまくらな人やなあ」という印象を持った人さえいたくらいです。非常にプライドが高く、自分からしんどいなんて、口がさけても言わない人でしたから、今から思うと他人にはわからない、大変な状態の日もあったのではないかと推測します。

1973年10月1日京都原水爆被災者懇談会世話人会が蜷川知事に出馬要請
1973年10月1日
京都原水爆被災者懇談会世話人会が蜷川知事に出馬要請

 被爆者懇談会ニュースの綴りをお借りし、三佐尾さんの言葉、生の声がないかと読み返してみたのですが、毎回の総会や「つどい」 、府・市との交渉、アンケート結果などが、彼らしく、きっちりまとめて書かれているのですが、彼自身の思いを吐露したようなものは、次の数行しか見つかりませんでした。

 1988年9月30日の被爆者懇談会ニュース、bX3の最後に こうありました。「全快して以来、体力の続くかぎり、毎年平和行進に参加しようと決意してから3度目の平和行進。綾部から京都市まで、7月2日から9日までの1週間、事務局長の三佐尾が参加しました。出発の日には、綾部在住の被爆者が激励に来て下さり、本当にうれしい出発でした」


 実際に、彼は、2回目の大手術のあと、47歳から亡くなる前の年、50歳の夏まで4年間連続で、暑い夏の京都府内平和行進の通し行進者になっていました。

 そして、亡くなる4日前からは連日、「非核の政府を求める京都の会総会」や「被爆45周年に被爆者援護法を実現する京都の会結成総会」に参加、1月20日には「被爆45周年被爆者援護法実現 全国決起集会」に日帰りで出席するため、4人の会員とともに広島を訪れています。


 いっしょに集会に参加した故丸岡文麿さんによると、当日のようすはこうでした。

 「広島駅のホームに下りた時、彼は胸を押さえて立ったままだった。声をかけたら『胸が苦しい』と息を吐き、顔から血が引いていった。『無理だ。このまま引き返そう』と言ったら『一緒に来た人 たちに迷惑をかけるから黙っていてほしい』とあえぎながら言った。10歩歩いては立ち止まり、また10歩歩いては立ち止まりながら、平和公園の国際会議場に着いた。大会の3時間、1200人で盛り上がった会場を、彼は静かにニッコリ眺めていた。彼の横顔は満足感に溢れていて、やっぱり会場まで来てよかったと思った。帰りの汽車で並んで座って『今年は忙しくなるな。語り部をどんどんやっていこう』と話し合った。京都駅に着いた時には、もはや歩ける状態ではなかった。彼は『迷惑をかけるので、皆に帰るよう言って欲しい』と言い、救急車を呼ぼうとしたが、『やめてくれ』と、40分かかって改札を出た。『家に帰る』という彼を怒鳴りつけ、迎えに来ていた妻の車で病院に連れて行った。病院の玄関を入る時、歩けない彼の冷たい手首を握ったら、脈拍が途切れているのを感じた。診察室のベッドに横たわる彼は、『今日はほんとうにありがとうございました。助かりました。奥さんによろしく』と言って手を振って別れたが、翌日の夜、彼の死去の報を受けた」

 人に隠して無理を重ねていた三佐尾さんの心中には、被爆45年を迎えて、今年こそ援護法を制定させたいという強い決意があったに違いありません。当時のことを永原誠さんは、「あのとき、彼は、前の年に参議院で被爆者援護法が可決されたことをずいぶん喜んでいて、衆議院で通れば実現する展望ができてきた。今度は援護法を可決する衆議院を誕生させたい、来たるべき総選挙が決戦場だと胸をはずませていた」とおっしゃっていました。いつもクールであまり心のうちを表さない三佐尾さんが、被爆者の、そして自分や家族の長年の悲願を何としても実らせようと、文字通り、命をかけて「被爆45周年被爆者援護法実現全国決起集会」に参加された、そう思うと胸がしめつけられます。


 今年1月22日、遂に「核兵器禁止条約」が発効しました。核保有国が参加しなくても、この条約の発効で、核兵器は国際法に違反する「非人道的兵器」としての烙印を押され、核兵器を持つことを正当化できなくなる時代が来ました。

 私は、唯一の戦争被爆国である日本政府がこの条約に背を向け ていることを本当に情けなく思っています。日本政府に条約に署名・批准することを求める新しい署名運動がスタートしていますが、 いちばんの近道は、核兵器禁止条約に参加する政府を一日も早く実現すること、そうですよね、三佐尾さん。

                       (了)





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三佐尾高行さんが事務局長時代の懇談会ニュース

三佐尾高行さんの略歴

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