強い光、大きな音、キノコ雲、そして黒い雨私は昭和11年(1936年)4月8日の生まれです。生まれたのは両親が働いていた帝人紡績のある山口県でしたが、私が5歳の時に、広島県佐伯郡玖島村(現在は広島県廿日市市玖島)の字中村という所に家族みんなで帰り、そこで育ちました。広島の爆心地から西方へ約10`bほどの距離になります。原爆が落とされた時は9歳、当時の尋常小学校3年生でした。
家族は、父親が中国に出征中。母親がいて、私より2歳年上の兄、私、5歳下の弟(4歳)、そして1歳の弟の4人きょうだいでした。
8月6日の朝は小学校の2階にあった教室にいました。先生が教壇におられて、みんな起立して先生のお話しを聞こうとした瞬間、突然、強い光に襲われました。私は教室の東側の窓近くにいたので、とても眩しかったのを憶えています。次に大きな音がドーンと響きました。それから山の上の方にぐんぐん上がっていくキノコのような
雲を見たのも憶えています。色がピンク色であったり、それが灰色に変わったり、不思議なほどきれいな雲でした。その雲が後になって恐ろしいことになるなんて誰も想像できませんでした。
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先生に指示されて、子どもたち同士で手を取り合って運動場の傍に掘られていた防空壕に避難しました。あの頃の学校は広島市内中心部の小学校から集団疎開して来ていた子どもたちもたくさんいて、運動場も防空壕の中もいっぱいの人でした。不思議と子どもたちはみんな落ち着いていました。
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午前9時を回った頃から、「今日は家に帰りなさい」ということになり、友だちと一緒に我が家の方向に向かいました。空には飛行機が飛んでいて、それがとても恐くて恐くて、田圃の横の溝に入って、その中を這うようにして家に辿り着きました。
家に帰る途中、空から紙切れや何かの燃えかすのような物、焼け焦げた物がいっぱい降ってきて、それを両手で受けたことも憶えています。誰かがどこかで何かを燃やしているのかと思い、あまり気にせずに帰りました。
家に帰ると、前庭で母が麦こぎをしていて、すぐ下の弟もそれを手伝っていました。午後2時30分か3時頃になって、急に空が暗くなり、怪しくなってきました。慌てて麦こぎ作業を片付けましたが、たちまちものすごくきつい雨が降ってきました。黒っぽい雨でした。私はしばらく縁側にいて、「今日の雨はえらい黒いなあ」と思いながら、降りしきる雨に打たれて眺めていました。雨は夕方、午後の6時か7時頃ま
で降り続いたと思います。
その日のことでとても印象深く憶えていることがあります、私の家の近くに朝鮮から日本に来ていた人たちの5〜6軒の集落がありました。そこの一人のおじさんが子どもを連れて通りがかり、「今広島市内は火の海で、太田川に大勢の人が飛び込んで、大変なことになっている」と語って行ったことです。その時、私たちには何が起きているのかまったく分かりませんでした。
実は、原爆が落とされた日のことは辛うじて憶えているのですが、その後のことは、小学校4年生の1年間を終える頃までのことがまったく記憶にないのです。どうしてなのか原因が分かりません。どこでどう過ごしていたのか、学校でどんなことを勉強していたのか、何もかも記憶に残っていないのです。
ただその頃のことで一つ記憶に残っていることがあります、それは食べる物がなかったことです。ひもじいひもじい毎日が続き、それはそれは辛いことでした。まともにご飯を食べた記憶がほとんどありません。田圃のあぜ道に生えている雑草、アザミやスイッバ、イタドリなどに塩をかけて食べ、飢えをしのぐような日々であったことを忘れることができません。
飲み水は山から流れ出てくる小さな川の水をすくい取って飲んでいました。我が家に井戸が掘られたのはずーっと後年になってからのことです。お風呂屋や洗濯の水も近くの川の流れから引き込むようにしてその水を使っていました。
ある時、母親が私と2歳上の兄とを二人、子どもだけで母親の実家に行かせたことがあります。バスに乗って、それから山道を歩いて歩いて、自分の家からは相当な距離のある、母親の里です。朝出かけて、夕方着いて、晩ご飯とお風呂をもらって、その日はその家に一泊し、次の日は別の親戚で昼ご飯を食べさせてもらい、また歩いて歩いて、バスに乗ってやっと夕方我が家に帰ってきました。一度だけでしたが、あまりにひもじい思いをしている子どもたちに、なんとかちゃんとしたご飯を食べさせてやりたい、という母親の気持ちがそのようなことをさせたのだと思います。
父親がまだ復員しておらず、母親一人の手で4人の子どもを食べさせなければならない、極貧の生活だったのでした。
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父親は戦争が終わって2年ほどして中国から帰ってきました。戦争が終わっても中国に残されたままとなり、ブリキで煙突を作る作業のようなことをしてたいたのだと聞かされた憶えがあります。
戦後になって一番下に女の子が生まれました。5人目のきょうだいでした。
地元の中学を卒業して昭和27年(1952年)に集団就職で大阪に来ました。就職したのは紡績会社でした。
紡績会社には5年ほどいて退職し、一旦は地元に帰って、和裁を習ったりしていましたが、昭和34年(1959年)に再び、今度は親戚を頼って京都に来ました。様々な仕事をしながらそれ以降は京都での人生を歩むことになりました。そのころ京都では有名だったレストランでウェイトレスの仕事をしたり、水商売の仕事をしたこともありました。阪急電車が地下鉄工事をして河原町まで開通したのもこの頃だったように記憶しています。
昭和41年(1966年)、30歳の時結婚しました。翌年第一子(長女)が生まれ、さらに4年後第二子(次女)を出産しました。
仕事の方は縁があって京都市内の染色会社に就職し、ここでは定年の60歳まで勤めることができました。さらにその後も別の会社で65歳まで勤めています。
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京都に来てから今日まで、原爆の熱線に遭ったこと、黒い雨を浴びたことは、誰にも話してきませんでした。
子ども頃からよく医者にかかっていました。特別重い病気に罹ったりしたわけではないのですが、いつも薬を飲んでいたような気がします。
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平成24年(2012年)、76歳になった頃から、頭部に瘡蓋ができたり、かゆみや湿疹が出るようになりました。年々この症状がひどくなり、平成28年(2016年)頃には全身に、足や背中にまで湿疹が出るようになり、かゆみに耐えかねて掻くものですから体中血だらけになるほどでした。いろいろな病院や医療機関を回りましたが、なかなか原因が分からず、診断も定まらず、きちんとした治療方法も見つかりませんでした。平成28年の2月に宇治の武田病院でやっと、これは結節性類天疱瘡という病気で難病だと診断を受けました。完治の見通しも薄いと言われていて、今も投薬治療を続けています。
平成25年(2013年)にはヘルニアを発症し、切除手術をしました。その2年後には背骨の折れていることが分かり50日間も入院をしました。さらに令和3年(2021年)には2度目のヘルニアを発症しました。今度は手術はせず、投薬と整骨医での治療を続けています。
白内障にも罹っています。白内障だと診断されたのは40歳過ぎの頃ですが、手術はせず、薬で治療を続けています。
平成28年(2016年)、80歳の時に肺気腫だと診断されました。それまでにも時々胸の痛みはあったのですが。
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私の母は100歳と2ヵ月まで生きました。明るく快活な人で長命でした。
父も85歳まで生きました。
私のきょうだいの一番上の兄は82歳で他界しています。
一番下の妹は20歳の時に交通事故で亡くなっています。
二人の弟は今も元気にやっています。
私の夫は3年半前、2018年8月20日に亡くなりました。肺炎でした。今は私一人で住んでいます。
子どもは二人恵まれました。二人とも元気にやっていたのですが、最近になって長女の方が子宮頸がんだと診断され、次女の方も乳がんではきないかと言われて、心配しています。孫は男と女一人ずついますが、コロナのためになかなか会うこともできないでいます。
私はこの年になるまで被爆者健康手帳がもらえるなど一度も考えたこともありませんでした。あれは広島の話、10`以上も離れた私が育った村など関係ないものと思ってきました。周りの人たちもそうでした。ところが去年(2021年)の夏、テレビや新聞のニュースで「黒い雨」の降った所の人にも被爆者手帳が渡されるような話
が知らされるようになりました。「黒い雨」は私の村にも降った、私もそれを浴びた。だったら私も手帳をもらえることになるのかしら、とにわかに考えるようになったのです。
知り合いの人たちにもいろいろ話した上で、去年の9月頃、とりあえず京都府の担当の所を訪ねて相談してみることにしました。その時は、京都府の担当の方も、「佐伯郡の玖島という所が対象となるのかならないのか、まだあまりハッキリとしたことは言われませんでした。やはり駄目なのかと、その時はすっかり諦めて帰ったのです。
ところが今年に入って1月、郷里の現在の廿日市を中心にいろいろなお世話をされている人などから、「玖島も対象になる。いろいろ準備して申請に備えていった方がいい」というアドバイスを受けるようになりました。実際に被爆者として認定された人もあるようでした。
被爆者の認定申請をすると言ってもその手続き書類は高齢の私にはとても複雑で容易ではありません。広島県と京都府とで書類も異なるような話を聞かされたこともあります。そこでたまたまあるきっかけから京都「被爆二世・三世の会」の平さんと知り合うことになり、その人にいろいろと申請のお手伝いをしてもらうことになりました。京都府の担当の方といろいろやりとりもありましたが、最終的には、今年の3月31日付をもって申請書類は完成、無事提出することができ、京都府に受理されました。
書類に不備はなく、京都府にも受理されたので、私はすぐにでも手帳は交付されるものと思っていました。ところが待てども待てども、手帳はなかなか交付されず、京都府の担当の方に尋ねてもなかなかハッキリとした返事はされませんでした。どこか不備があったのではないか、手帳交付されない事情ができたのではないかとなどとア
レコレ考えたり、不安な気持ちになったりもしました。
そんなところへ、8月8日、突然京都府から連絡があり、手帳交付の知らせが届きました。郵送で手帳が手元に着いたのは8月10日です。手帳申請の手続きをしてから4ヶ月半かかりました。
これまで私は原爆のこと、「黒い雨」のことなど、誰にも話さずに生きてきました。今は、私の体験はできるだけお話しして、多くの人に伝えておいた方がいいと思うようになっています。今の若い人たちは何も知らない、戦争の恐さを知りませんよね。原爆の被害は「黒い雨」となって、私が居た田舎のような所まで被害は及んでいたのですから。食べ物がなくて悲しいほどひもじい思いをしたことなども。ウクライナのことを見ていると涙が出てきます。戦争は絶対にイヤ! 核も絶対にダメ!
以上