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●被爆体験の継承 98

あの日の一部始終を生涯忘れることはない

蜍エ 晧子(やなぎばし てるこ)さん

2020年9月2日(水)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

■広島市台屋町

 私は1937年(昭和12年)10月16日の生まれなんです。昭和12年というと盧溝橋事件、本格的な日中戦争の始まった年ですね。生まれた所は広島市内の山口町という所らしいのですが、その後引っ越ししてて、原爆に遭ったのは台屋町という所でした。台屋町という地名は今はなくなっていますが、広島駅近くの駅前橋と京橋の中間あたりの所でした。今の地名で言うと京橋町と的場町1丁目がかっての台屋町になるようです。

 私の家族は、父親、母親、2歳年上の兄、私、4歳下の弟、そしてまだ赤ちゃんだった妹の6人家族でした。でもその頃父は北支に行って仕事をしていて、実際に一緒に住んでいたのは母と私たちきょうだいの5人でした。戦後になってもう一人妹ができてきょうだいは6人になりましたけど。最後の妹は被爆二世ということになりますね。

 私たちの家には母の妹になる叔母さんたち一家も一緒に住んでいたんですよ。叔母さんたちは東京に住んでたんですが、東京は始終空襲があって大変だというので、一家で広島の私の家に身を寄せていたんです。叔母さんの家族もうちと同じように4人子どもがいて大人数でしたね。私たちは大家族でしたから家も広かったんですよ。表通りから裏の通りまでの間が全部うちの家で、トイレもお客さん用と家族用と二つあったりしてね。

■一部始終を憶えている閃光と爆風の瞬間

 原爆に遭ったのは私が満7歳の時、小学校2年生でした。学校へ向かっている途中でのことでした。私たちの学校は段原小学校で、家からは随分遠くにありました。空襲があったりすると危ないからだったと思いますが、遠い学校まで行かくなくてもいいように、近くのお寺が学校代わりになっていて、そこへ通っていたんです。

 8時15分。あの時のことは全部覚えていますよ。一部始終忘れたことがありません。何でも物忘れがひどくなっているのに、あの時のことだけは忘れることができないんですね。私のうちの先隣りにしげこちゃんという同い年の子がいて、その子がその日は妹さんを連れて学校へ行くんだというので、じゃあ私もと言って4歳下の弟を連れて、ずらーっと4人道路に並んで歩いていたんですよ。私、前の日に何かあったのを思い出して、それを伝えたくて「あのねぇ」と言って道路の上に座ったんですよ。その瞬間、ピカッと光って、ドーンと来たんです。

 爆心地から1.5`でした。吹き飛ばれさて気を失ったんだと思います。気がついたら履いていた靴が無くなっている。今みたいに立派な鞄じゃないけど勉強道具の入ってた袋も、持っていたものが何もかも無くなってるんですよ。母がせっかく銘仙の着物をくずして新調してくれたモンペもビリビリになっていてとても情けなく思ったことも憶えていますよ。

 服もボロボロになっていて、体のあちこちに火傷をしてました。モンペを履いていたはずなんだけど足もチョロチョロといっぱい火傷をしてましたね。皮膚が垂れ下がるようなそんなひどい火傷じゃなかったけど、水ぶくれにもならなくて、火傷した箇所はみんな赤身が出ていました。

 しげこちゃんはどこにもいなくなっている。ものすごくしっかりした子だったからすぐに家に帰ったんだと思いますけど。そこには弟だけが立って泣いていたんです。その弟の手を引いて家に帰ろうとしたら、先に学校に行ってた2歳上の兄が私らを見つけて、兄が弟の手を引いて家に向かったんですよ。兄はその時、学校代わりのお寺の中にいたらしいんです。兄がさっさと弟を連れて帰ったものですから、私はそこに置いてきぼりのようになってしまいました。

 一人になって家に帰ろうと思ったら、靴がなくなっていて裸足なんですよ。街は家などがそこら中で倒れていて、小さな釘がいっぱい出ている板の上を歩かないと通りにも出ていけないんですよ。どうしようかと暫く立ったまま考えていましたけど、結局どうしようもないから、小さな釘の上を踏んで家まで帰ったんですよ。

■府中町の疎開先に避難

 家にいた母は閃光が走った瞬間赤ちゃんだった妹を抱いてその場にすくんでしまったようです。その上に箪笥が倒れてきて、その下敷きになりましたけど、なんとか自力で這い出したみたいです。不思議と怪我はありませんでした。叔母さんはピカッと光った瞬間に立ち上がって頭をどこかにぶつけたらしく、頭から血がダラダラと出ていたようです。

 私の家は子どもがたくさんいて、家も広いから、何かが起こった時に助っ人になってもらおうと、家族以外の人に一人2階を貸していたんですよ。女性でしたけどね。その人はいきなり玄関まで走って逃げたらしいんです。そしたら玄関の塀に埋まってしまって、生き埋めのようになってしまったんです。助けてくれるはずの人が逆に助けられなければならない立場になって、「助けてー、助けてー」と呼ぶんです。母はその人を助けなければならなくなって、一生懸命掘り出そうとしたらしいんです。最後に足の部分だけが残ってしまいましたけど、後は自力で這い上がることができるところまでやりました。

 その内に頭から血を流し続けている東京の叔母が、「火がそこまで来ているから早く逃げなきゃ」と言い出して、火が回り始めていたんです。叔母に促されて一家は我が家を後にして逃げて行くことになりました。台屋町の家はそれから全部燃えてしまったそうです。2階建てのなかなか立派な家だったんですけどね。

* * * * *

 私の家では府中町にも一軒家を借りていたんです。万一の時に備えて疎開のために借りていた家です。あの時、家族みんな府中に借りていた家にいたらよかったんですよ。でも広島には大きな空襲はなかったし、やっぱり広島市内の方が便利がいいから、台屋町の家に帰っていたんですね。府中にいれば原爆に遭わずにすんだのに。

 私が台屋町の家に帰り着くと、母は、「一人でも府中の家まで行っていなさい」と私に言ったんです。「一人で行きなさい」と言われても、私もまだはっきりと道を覚えていたわけではないので、家の外でしばらく立っていたんです。そしたらね、中学生ぐらいの知らないお兄ちゃんが弟を連れて通りかかってね、「どこに行くの?」と尋ねてく れたんです。「府中まで」と言ったら、そしたら「ついておいで」と言って、一緒に府中まで連れて行ってくれたんです。そして二宮神社のある所まで連れて行ってくれて、「後はこの辺りのお店の人に聞いて行きなさい」と言って別れたんです。優しいお兄ちゃんでしたね。後は私一人でも分かる所でした。

 近くのお店まで行ったら、お店の人が「ちょっと待ってなさい」と言って、こんな大きなおにぎりを作ってくれたんですよ。でもその時は全然食べたいと思わなくて、ただおにぎりを持っているだけでしたけどね。お店の人から「おうちはどこなの?」と聞かれたので、「山田町のどこそこ」と言うと、行き先を丁寧に教えてくれました。後は一人でも疎開先の家に辿り着くことができました。時間はお昼を過ぎた頃だったように思います。

 それから、疎開先の家の表に立って、一人で淋しく何時間も家族が来るのを待っていたんです。表で待っている間に、すごい火傷をした、ぼろ切れみたいになった人がいっぱいゾロゾロゾロゾロ通って行ったんですよ。

 夕方になってから、まだ赤ん坊だった妹を抱いた兄や、母、弟がやっと府中の家に辿り着きました。みんながゾロゾロ帰ってきてやっと賑やかになりました。先に妹を抱いて出発していた兄は、最初から府中に向かえばいいのに、どうしてなのか、広島駅北東の東練兵場に行っていたらしいんですよ。そのことを人伝に聞いた母が、兄と妹を探しに東練兵場をずっーっと探し回ったらしいんです。そんなことがあって、みんなかなり遅くなってから府中町の疎開先に来ることになったようです。

 赤ん坊だったその時の妹はもう生き絶え絶えでした。母がおっぱいを飲ませたのも悪かったのかもしれませんけどね。その頃は医者に行っても薬もないし、医者も匙を投げて「もう助からない」と言われたんです。でも母は妹をそのままにしておくわけにはいかなくて、母は漢方の勉強もしていた人でしたから、ゲンノショウコとハブ草を煎じて、お箸でしずくを妹の口の中に入れてやって、助けたんですよ。その妹は今も元気に生きていますよ。

■逃げる時に見た光景、怪我、火傷

 台屋町の家から府中に向けて逃げる時、駅前橋を通っていかなければならないんです。私はちょっとでも下を見たらぞっとして橋など渡れない性格だったんですけど、でもその時だけは気が立っていたのか、下の川は丸見えだったのに、すーっと、すーっと渡れたんです。気が立っていたら普段恐いものでも恐くないんだなあと思いましたね。その駅前橋はけっこう広い橋でしたけど、両方の欄干がもう地獄の火みたいにぼうぼうと 燃えていたんですよ。

 母は逃げていく途中で布団だけはいると思って、布団を持って逃げ出していたんですよ。そうしたら橋の上で誰かに布団にしがみつかれて、布団を橋の下に落としてくれって言う人でいるんですよ。母の布団にしがみついて放さないんです。母は仕方ないから布団をその場において逃げてきたそうです。逃げる途中、電信柱かと思ったらそれは真っ黒になって焼け死んだ人の姿だった、そんなこともあったそうです。

* * * * *

 原爆が落とされたその日、弟の足の膝はザクロのようにザクッと割れてました。兄も手がザクロのようになってましたね。でも怪我はそれだけで、火傷は全然してなかったんですよ。私は全身のアチコチに火傷をしました。兄も弟もほとんど同じような場所にいて原爆の閃光を浴びたのにどうしてこう違うのか、と思いましたね。私は占いで言われる九紫火星の年の生まれなんですが、そのお陰か、巡り合わせだったのか、体のあちこちが火傷だらけになっていたんです。でも不思議なもんでね。普通だとちょっと火傷しただけでも痛いもんでしょ。体のあちこちに火傷しててもあまり痛いとは思わなかったんですよ。普段の火傷した時の痛さは感じなかったですね。神経が麻痺してたのか。あの頃道路の舗装なんかないから足なんかみんな皮がむけてしまってボロボロになっていたけど、そのままで歩いていましたね。

 今はもう火傷の痕も大分薄くなってますが、それでもああこれは火傷の痕、これもそう、というのがアチコチに残ってますよ。火傷が治っていく時に痛くて痛くて大変だったという記憶はあまりなくて、きっと母が一生懸命治療してくれたからだろうと思っていますけど。

* * * * *

 父は北支で仕事をしていたんですよ。向こうで鉄工所を大きくやってたらしいんです。広島に原爆が落とされたというのを聞いて、財産のことなんか考えていたら帰れなくなると思ったらしく、すぐに引き揚げてきたんですよ。あの時はまごまごしていたら帰れなくなったらしいんですね。ぱっと帰ってきて、今でいうクラッカーをね、缶にいっぱい入ったものをお土産に持って帰ってくれて、私らは食べ物に不自由していましたからそれがおいしくてパクパク食べたんですよ。

 父はそんなに大きな爆弾が落ちたんなら家族はみんな生きていないと思って、「骨を拾いに帰ったんだ」と言っていましたね。私はひょうきん者だったから「身も付いていてよかったね」と言ったのを覚えていますよ。

 これで府中町の疎開先に親子6人がみんな揃ったわけです。

■疔(ちょう)・癬(よう)に苦しんだ母の体験

 母は元々が丈夫な人ではなかったのですが、原爆に遭ってから、疔(ちょう)だとか癬(よう)だとかが体中にいっぱいできるようになって、免疫力が下がってきているからだと思うんですけど、それがもう痛くて痛くて、夜中に涙を流しながら蚊帳の外を歩いていたんですよ。あちこちにおできができてね、それがなかなか治らなくて、やっと治ったと思ったらすぐまた別のところにできるんですよ。結局は薬がないから医者も助けようがないし、手立てがなかったわけですよ。

 母は66歳で亡くなっています。疔(ちょう)とか癬(よう)がアチコチにできて、顎なんかこんなに腫れてね。膿を出すにはヨモギがいいということを自分で勉強して、ヨモギを採ってきて洗って新聞紙に包んで七輪の下に入れて、それを疔(ちょう)や癬(よう)に当てて、今みたいにいい薬はないから大変だったろうと思いますけど。涙が出るほど痛かったらしいんです。

 母は何か食べ物があったら自分はあまり食べないで子どもたちに食べさせてね。そういう親でしたからね、免疫力も何もつかないはずですよね。私の家には田舎に親戚と言うものがなかったので、あの頃食べ物には徹底的に不自由したみたいですよ。

 私の兄は小学校に上がる前から病院通いを一日も欠かせないぐらい弱い子だったんです。毎日病院通いしていて。それで母は我が子を助けたい一心で自分なりに漢方のことを勉強していたんですよ。だから私たち子どもがちょっと下痢してお腹が痛いと言うとすぐに煎じ薬で助けてくれていました。

 東京から来ていた叔母さんたち一家も府中の家まで逃げてきて、しばらくは一緒に生活していましたけど、でもそんなに長くはいなくて、また東京に帰っていきました。でも、東京の家を空けていたら土地や何もかも全部盗られていたらしいんです。可哀想でしたね。ちゃんとした立派な家を持っていたのに。それからの叔母さんたちは東京で大変な思いをして必死で働いて暮らしたみたいですよ。

■断った最初の縁談

 戦争が終わってからは広島市内の東雲町に移り住むことになりました。東雲町574番地で、母は番地のことを「ごなし」と言っていました。そこは小学校に近かったんですが、私はお婆ちゃんの家に寝泊まりして、お婆ちゃんの家から学校に行っていたんですよ。

 私はお婆ちゃん子で、父方のお婆ちゃんですけど、18人も孫いる中で私が一番お婆ちゃんに似ていると言われてました。父の事務所が荒神橋の根元にあったんですよ。お婆ちゃんはその事務所に住んでいたんです。お婆ちゃんが淋しいからと言ったかどうか分かりませんが、私はそのお婆ちゃんの所へ寝泊まりして、わざわざ30分も時間をかけてそこから学校に通ってました。

 疎開先の府中町は割と空気もきれいだったんでしょうし、母は体の弱い人でしたけど、父は健康な人で、私は父親似だったから割と健康でいられましたね。私は原爆の影響をひくということはあまりなかったような気がします。火傷が治っていったらそれ以上の影響はありませんでした。性格も楽天的であまり思い悩まない方だからそれも良かったのかもしれません。

 比治山小学校から比治山女学校へと進み、卒業したのは比治山高校でした。私は勉強嫌いで勉強しない子だったから、女学校と高校が繋がる、中学の時から私立に入れておかないと、と親が思ったのかもしれません。高校卒業の後は洋裁学校へ2年間行かせてもらいました。短大へ行ったのと同じように20歳まで就学したことになります。

 洋裁学校を終えてからは歯医者さんに通って仕事をしていました。生け花も習っていたので、生け花の先生に「歯医者さんでアシスタントが必要なんだけど行かないか」と言われて勤めることにしたんです。

* * * * *

 歯医者さんに勤めるようになってすぐに縁談があったんですよ。お相手はエリザベト音大を出た人で、私は背の高い男性が好きなんだけど、その人はあまり高くはなかったけど、誠実そうなマジメな人でした。だから親も気に入ってくれて、お付き合いも始めて、もうお部屋を探したりまでしていたんですけどね。そしたら、彼のお母さんが、学校の先生だったらしいんですけど、「心配してたんだって、私が原爆に遭ってるからね、そのこと心配してるって」。お世話してくれた私の母の友だちなんですけど、その人に言ったって、伝わってきたんですよ。

 そのひとこと聞いたら私ピタッと彼とは会わなくなって、「そんな心配されてるんなら行きたくない」と思ってね。それまではずーっと一緒にアチコチ行ったりもしてたんだけど、もうピタッと会わないようにしてしまいました。もう電話がかかってきても何が来ても、全部私は会わないから、と言って断って。

 そういう後々までの影響がありますね、原爆には。自分でも心配なんですよ。

* * * * *

 私、それ以来あまり結婚願望はなかったんですよ。あまり行きたいとは思わなかった。原爆に遭っているから、というのもあったかもしけないですけど。元々願望がないから30回もお見合いしてね。全然行きたいとは思わないものだからみんな断って。この人なら行ってもいいかなと思う人があると向こうから何も言ってこないし、私は絶対行きたくないと思う人からは矢のような催促があったりしてね。楽天的だから気にしないと言っても、精神的には被爆の影響が根にあったと思いますよ。結婚したくないというのも。最初に破談になったことがあって、「ああそうか、やっぱりそういうふうに心配なものなんだ」という思いが身に沁みついていましたからね。

 でも最後には、親の強いすすめもあって結婚したんですよ。相手は自衛隊の人で、私が27歳の時でした。夫となる人が北海道に配属されたので、結婚してすぐに北海道に行って暮らすことになったんです。28歳で長女を出産して、30歳で次女を出産しました。二人とも今札幌で暮らしています。

■きょうだいとわが子のこと

 夫との間にはいろいろ辛いこと、大変なことがいっぱいあって、44歳で離婚しました。洋裁の仕事をしたり、その後は保険の仕事をして生きてきました。62歳で退職しています。戦後に生まれた私の一番下の妹が結婚して京都にいて、熱心に「京都においで」と言うものですから、退職してすぐに京都に来たんです。そしたら、私が京都に来て間もなく妹は亡くなってしまったんですよ。私が20日間付き添いでお世話したんですけど、進行がとても早くてあっという間でしたね。妹は戦後生まれですから被爆二世ですよ。死因は未分化多形肉腫という癌でした。母親の被爆の影響を受けていると思いますよ。

* * * * *

 兄は77歳で亡くなりました。きょうだいの真ん中になる弟は事故で50歳で亡くなっています。私は今82歳ですけど、70歳まで生きるとは思ってなかったんですよ、原爆にも遭ってるし。そしたらこんなに間違って生きてしまった。

 私の長女は割と健康でね、夫の方に似てたから元気ですけど。次女の方がどっちかと言うと私に似てて、足の指が奇形なんですよ。生まれたらすぐに赤ちゃんの体見るでしょう、体は無事かなと思って。そしたら足の親指が親指の形をしていなくてね、手の指の形をしてたんですよ。足の親指って割と力を入れる所なんで大事な指なんですけど。可哀想でしたね。国立病院に連れていきましたらね、まだ赤ん坊の時だったので、もうちょっと大きくなってから手術でもしたら、と言われました。

 そういうこともあって被爆二世にも医療費の支援制度が欲しいと思って、ずっーと署名などにも協力してきましたよ。でもなかなか難しいようですね。下の子は可哀想ですよ。

■甲状腺機能低下症(橋本病)

私の今の健康状態は、実は甲状腺ホルモンがまったく出てこない状態で、ずーっとチラージンを飲んでいるんです。橋本病なんですよ、もう何十年も。

 何十年か前に、もう、しんどくてしんどくて、顔がこんなに腫れてね、食欲もないし、ただ寝たい、疲れて寝たいという感じになってきたんです。でも、かかりつけのお医者さんに行っても、分からない、病名がつけられないって言うんですよ。病気だと言われないんだから、私も我慢して頑張らなきゃと思ってね、私も融通利かない方だから、寝てればいいのに。それぐらいしんどい時もあったんですよ。

 ある日車運転しててね、信号で止まるでしょ、そしたら寝てしまうんですよ。その時前の車に追突してしまってね。追突された前の車の人がぱっと降りてきて、あちこち見てくれてね、いい人だったから良かったんですけど。それでこれは大きい病院に行かなきゃと思って、勤労者医療協議会札幌病院(勤医協札幌病院)に行ったんです。そしたらすぐに「橋本病だ」と診断されて。あの時はもう末期症状みたいなひどい状態でしたね。薬飲んでも半年ぐらいは体調が元に戻らなかったほどですからね。本当はずーっと前からこの病気にかかっていたらしいんですけど、症状がまだそれほどでもなかった頃もあったので。もっと早く大きな病院で診てもらっていたらと思いましたね。普通の血液検査では分からないらしんいです。大きな病院に行ったら、すぐに立派な橋本病だと言われて。

 この病気、チェルノブイリの原発事故でたくさんの子どもたちが発症しているでしょう。甲状腺やられているでしょう。あれですよ。これって原爆が原因で発症した病気だと思ったから、病院で原爆症認定申請もしてくれたんですよ。もっと早く申請していたら認定ももっと早く降りていたんでけど。何年分も損していることになりました。原爆症認定は今も3年に1回のペースで診断受けて、資料も提出して続けていますけど。

* * * * *

 私が京都に来たのは2001年(平成13年)の11月の終わりごろ、私が64歳の時でした。私を京都に呼んでくれた一番下の妹はすぐに亡くなってしまったので今は京都で独りで暮らしています。娘たちは二人とも札幌です。孫が4人、ひ孫が2人います。この子たちの成長が楽しみですね。
                               (了)



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